哀歌 註解 哀しみの歌
🔷聖書の知識100-哀歌の注解 ー哀しみの歌
ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。(哀歌1.1)
プロローグ
『哀歌』は、旧約聖書の中でも最も悲痛な書物の一つです。哀歌は、紀元前586年にバビロン捕囚の際、エルサレムが陥落し、神殿が破壊された悲劇を嘆く詩集です。次は冒頭の一句です。
「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった」(哀歌1.1)
ユダ王国は、預言者たちの警告にもかかわらず神に背き続けました。その結果、ネブカドネザル2世の軍隊がエルサレムを包囲し、神殿が焼き払われ、王族や民が捕囚として連行されるという国家的破局が起こりました。哀歌は、この出来事に直面した人々の涙の記録です。
【哀歌の概要】
哀歌の著者は伝統的には、涙の預言者として知られる エレミヤの作とされてきましたが、現代の聖書学では、著者はエレミヤ以外の無名の詩人が書いたという説もあります。ただ、預言者エレミヤが哀歌を書いたという説がユダヤ・キリスト教の伝統で、七十人訳聖書は前書きを付け、「イスラエルが捕囚に引かれて行き、エルサレムが荒廃した後、エレミヤは座して嘆き、エルサレムのために哀歌を詠んで、こう言った」と書かれています。
この書は、悲しみを否定しない、嘆きを隠さない、神に苦情を申し立てる、それでも神への希望を失わないという特徴を持っています。聖書はしばしば信仰や希望を語りますが、哀歌はまず「泣くこと」を許しています。
哀歌は、「信仰者は悲しんではならない」とは教えません。むしろ、「悲しみの中でも神に向かって叫べ」と教えます。そのため、戦争や災害、家族の死など大きな喪失を経験した人々によって、古代から現代まで読み継がれてきました。一言で言えば『哀歌』は、「すべてを失った人々が神の前で流した涙の詩集」です。そしてその中心には、「主の慈しみは尽きない」という、絶望の中でなお消えない希望があります。
<エルサレムの崩壊>
エルサレムは略奪され、神殿は破壊され、ユダの民はバビロンに連行されました。まさにエレミヤが預言した通りのことが起こった訳です。
「ああ、主は怒りを起し、黒雲をもってシオンの娘をおおわれた。主はイスラエルの栄光を天から地に投げ落し、その怒りの日に、おのれの足台を心にとめられなかった」(2.1)
また、その頃のエルサレムの悲惨な情景が描かれています。
「わが民の娘の滅びる時には情深い女たちさえも、手ずから自分の子どもを煮て、それを食物とした。主はその憤りをことごとく漏らし、激しい怒りをそそぎ、シオンに火を燃やして、その礎までも焼き払われた」(哀歌4.10~11)
<哀歌の内容>
哀歌は全5章からなり、1章は神の審判、シオンの荒廃と苦悩を謳い、荒廃したエルサレムを未亡人になぞらえて嘆く「かつて民に満ちていた町は、 どうして独り座しているのか」という有名な冒頭で始まります。
2章は神の怒り、神の裁きの厳しさを描くき、敵ではなく、神ご自身がエルサレムを打たれたのだという認識が語られます。
3章は苦難の中でなお希望を見いだそうとします。「主の慈しみは絶えることがなく、 その憐れみは尽きない。 それは朝ごとに新しい」(哀歌3.22~23)とあり、絶望の中の希望に満ちた言葉として知られています。
4章は陥落前の栄光と現在の悲惨さを対比し、シオンの過去と現在、惨状の理由を謳います。
5章は共同体全体の祈り(嘆きと訴え)で終わります。完全な解決は示されず、「主よ、われらをあなたに立ち返らせてください」という叫びが残されます。
これらの悲しみや苦難は、モーセが申命記28章で、不信仰がもたらす悲惨な結果を預言しており、ここに預言されている呪いが成就したとも言えるでしょう。神は、ご自身の約束通り、不信仰と不従順の罪を裁かれたというのです。神がエルサレムを裁かれるためにバビロンを用いられました。
「主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた」(哀歌2.17)
バビロン川の畔で(アーチャー・ハッカー)、バビロン捕囚(アントニオ・プッチネリー)
<希望のメッセージ>
しかし、過去を振り返るだけの悲しみの書ではなく、ここには、残れる者たちへのメッセージがあります。
「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」(哀歌3.21~22)
またそこには、罪がもたらす悲惨な結果を思い出させるためのメッセージであると共に、民を悔い改めに導き、神に立ち返れという希望のメッセージがあります。希望のない時代に、信仰を全うした人々の詩が、歴史を貫いて心の波動を伝えています。
「わざわいなるかな、われわれは罪を犯したものである。このために、われわれの心は衰え、これらの事のために、われわれの目はくらくなった。しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。あなたの、み位は世々絶えることがない。主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください」(哀歌5.15~21)
以上が哀歌の解説です。ある意味でエレミヤ書の続編とも言うべき本書は、文鮮明先生が日本留学の際に「可哀想な民族」について語られた言葉を想起させられます。
「先生が1941年に日本に留学するために、釜山に向けてソウル駅をたつ時、ソウル市内を眺めながら、かわいそうなこの民族に誰が責任を負うかを考えながら、たくさん涙を流しました」
次回はエゼキエル書の解説です。(了)



