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国立能学堂訪問記 能とは何か

○つれづれ日誌-10月13日-国立能学堂訪問記 能とは何か


この10月11日、筆者は千駄ヶ谷の「国立能楽堂」を初めて訪問し、能を観劇いたしました。ある信者が、能楽堂で「能」(弁慶の安宅)を披露するので、見に来て欲しいとのお誘いを受けたからであります。


能楽(能・狂言)が、歌舞伎、人形浄瑠璃と並んで、代表的な日本の伝統演劇の一つであることは知っていましたが、何しろ本物の能舞台を見るのは初めてでしたので、興味と共に、はたして能が理解出来るのかどうか、心配でもありました。


歌舞伎や人形浄瑠璃はテレビなどで何度か見ていて、だいたいの基礎知識はありましたが、あの独特の仮面をかぶって演じる能だけはおよそ理解の範疇を越えるものでした。


そこで、今回実際の能を見た機会に、「能とは何か」、そして能が表現する幽玄(奥深く優雅なこと)の世界が、如何なる日本的情緒に由来するものなのか、またそれが「宗教的背景」を持っているのか否かについて考えて見ることにしました。今回は、肩の力を抜いて、軽い気持ちで読んで下さるようお願いいたします。



【能とは何か】


先ずはじめに、能の基本的知識をおさらいすることにいたします。


<能の起源>

能は、14世紀の足利義満の北山文化の時代に、神事芸術として生まれた「猿楽や田楽が起源」だと言われ、600年を越える歴史の中で独自の様式を磨き上げてきた日本の代表的な古典芸能であります。


能と狂言を含めて「能楽」と呼ばれ、謡い(地謡)と囃子(はやしー笛,小鼓,大鼓)を用い、謡いつつ舞う一種の「歌舞劇」であります。


能の前身である猿楽は、滑稽なしぐさや物まねから始まった芸能で、猿楽「能面」の起源は、寺社での法会の際に猿楽師が鬼の面をつけて悪魔払いを行ったことが能面の原型だと言われています。


猿楽の歌舞・演劇・物まね・曲芸などのうち、能は演劇や歌舞を引き継いで発達しました。一方、物まねや曲芸を引き継いだのが「狂言」で、能の合間に演じられるようになった風刺性の強い喜劇です。


即ち、能が歌舞劇として、人間の哀しみや怒り、懐旧の情や恋慕の想いなど人間の深く繊細な喜怒哀楽を描くのに対し、狂言は笑いの面を受持ち、科白劇(純粋にせりふとしぐさだけからなる劇)として洗練を重ねてきました。


能は観阿弥と世阿弥(1363~1443年)の父子が発展させ、特に世阿弥は能の脚本である「謡曲」を多数書き、能を理論的に説明した『風姿花伝』を著し能を大成しました。


<能について>

上記の通り、能は 室町時代につくられた歌舞演劇で、「面」と「美しい装束」を用い、専用の「能舞台」で上演される「歌舞劇」です。


また、必要最低限の舞台装置(面、扇、装束)しか用いない質素な芸術で、謡、囃子、舞によって成り立っています。


「能」は囃子(はやし)が流れ、そこで綺麗な装束、面をつけた主役(シテ) が、謡曲と共に扇を持ってゆっくり動く、というイメージです。


では何故面を付けて顔を隠したり、型通りの動きをしたりするのでしょうか。


面そのものの表情は変わりません。しかし、こ の面は話の場面によって悲しそうに見えたり喜んでいるように見えたりして、表情の見え方は、見た人の心の持ちようによって違っ てきます。つまり能は観客の想像力、即ち心で見るものだというのです。


ちなみに面は死人などの霊が主役に乗り移って舞う時に付け、現実の人間を演じるときには面は付けません。


そして能の演者が演じる役者にはいくつかの役割分担があり、美しい衣装と面を着けて舞う主役のことを「シテ」、シテの演技を引き立てる「ワキ」という役回りがあります。またワキの助演的役割の「ツレ」が地謡(コーラス)を受け持ちます。地謡は、情景や出来事、登場人物たちの心理などをナレーション的に描写するほか、ときにはシテやワキになりかわって、彼らのセリフを謡うこともあります。


また狂言の役者も能の中に登場し、土地の住人や、家来などに扮し、前後の場面をつないだり、筋書を進めたりする役で、「アイ」と呼ばれています。


<能の曲目>

能は、当時の有名な話を脚色したものが多く、現在の上演曲目(作品)はおよそ240曲位と言われています。


代表的な役柄には『源氏物語』『伊勢物語』などの古典文学に登場する優美な男女の霊、『平家物語』で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊、というように、「幽霊が多い」のが特徴です。


また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場します。 こうした霊や精霊などが人間の世界に現れ、私たちと交渉を持つというのです。 当に多神教の真骨頂です。


もちろん、現実に生きている人間が主人公の能もたくさんあり、白拍子のような芸能者、曾我兄弟、義経、弁慶などのヒーローが、さまざまなドラマを繰り広げます。


例えば、源義経(牛若丸)の伝説では、「安宅」「橋弁慶」「屋島」「船弁慶」と言う能が作られ、忠誠心や人間関係の機微、情緒を醸し出します。 このほか、別れ別れになった親子や夫婦の物語では市井の人々が主役となります。


こうして能楽のジャンルには、女・老人・直面(ひためん)・物狂(ものぐるい)・法師・修羅・神・鬼・唐事(からごと)などがあると言われています。


<能舞台・演技>

能舞台は普通の演劇の舞台に比べ奥行きが深く、舞台が客席に向かってせり出すように開放されており、本舞台と幕を結ぶ「橋掛」が付いているのが特徴で、全体的に簡素です。


橋掛は人物の登・退場の通路というだけでなく現実の世界とあの世をつなぐ橋にもなり、また、舞台に立体感を与える役割も果たしています。能の演技や演出は、こうした特殊な空間で演じることを前提に磨かれてきました。


能の演技は、「謡」と「所作」で成り立ち、謡は能独特のもので、所作は、特殊な姿勢(カマエ)を基本にし、移動は床に足の裏を付け、踵を挙げない歩き方(ハコビ)で行います。


しかし、どんなに地謡がすばらしくても、またシテの型が見事でも、観客が想像力を働かせなければ情景は浮き上がってきません。能は当に観客参加型の芸能なのです。


勿論、舞台上のすべてを完璧に理解することなど不可能だし、その必要もなく、美しい装束や面、切れのよい所作などを眺め、音楽に身を任せ、その日の自分の感性に触れるところだけを好きなように味わう、ある意味とても贅沢な芸能だとも言えるでしょう。


<能の流派>

上記の通り、能役者は、シテ方、ワキ方、囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方)、狂言方と役割が分かれており、それぞれに複数の流派があり、現在の流儀は以下の通りです。


シテ方→観世流・金春流・宝生流・金剛流・喜多流


ワキ方→宝生流・福王流・高安流


笛方→一噌流・森田流・藤田流


小鼓方→幸流・幸清流・大倉流・観世流


大鼓方→葛野流・高安流・大倉流・石井流・観世流


太鼓方→金春流・観世流


狂言方→大蔵流


<能の歴史>

さて、ここで能の歴史を要約しておきましょう。


奈良時代に大陸から輸入された散楽は、曲芸、軽業、奇術、歌舞などの雑多な芸能でしたが、平安時代には滑稽な物真似(ものまね)が主流となり、「猿楽」とよばれ、猿楽が時代を経て対話喜劇としての「狂言」と、まじめな歌舞劇の「能」に分化していきました。


一方、寺社の法会における呪師の演技を猿楽者が担当するようになり、また神が老翁(ろうおう)の姿で祝福を与える古来の芸能も、猿楽者が勤めるようになります。


鎌倉時代後半には、もともと寺に所属した猿楽の座が、能という新しい歌舞劇を上演するようになり、南北朝時代には、大和猿楽と近江猿楽が大きな存在となり、なかでも奈良の興福寺に属した大和猿楽四座が、今日の金春、金剛、宝生、観世の基になりました。(増田正造)


そうして観阿弥と、その長男の世阿弥父子の天才が出て、日本の文化に新たに演劇というジャンルを打ち立てました。


世阿弥の功績は、物真似本位、強さの主張の大和猿楽に、近江猿楽の歌舞の要素をアレンジし、幽玄(神秘的で優雅なこと)な美を中心に置いたこと、またメロディ主流だった大和猿楽の音楽に、リズム本位の曲舞(くせまい)の技法を導入したこと、大衆の興味を引く生き生きとした能を書いたことにあります。


この新しい芸能の京都進出を、1374年に将軍足利義満が見たことが、能楽紀元元年となりました。


将軍の後援と観阿弥父子の努力は、能の芸術性を飛躍的に高めました。近江猿楽の名手犬王道阿弥(いぬおうどうあみ)の唯美主義を吸収し、演劇性本位の大和猿楽の基盤のうえに、幽玄の情緒を中心とする詩劇としての能と、その理論を確立するに至りました。こうして能は室町幕府の正式の芸能「式楽」として扱われるようになります。


世阿弥は、今日「夢幻能(むげんのう)」とよばれる優れた演劇の完成と、数々の名曲の創作、そして、20数編に及ぶ『風姿花伝』『花鏡(かきょう)』などの演劇理論を残しました。


当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があり、世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させました。


世阿弥の後半生は悲劇的なものがありましたが、彼の方向づけは江戸時代に洗練され、能は現代に及ぶ不朽の生命を得ることになりました。


安土桃山時代、豊臣秀吉は大の能のマニアで、自身金春流を舞うほか、配当米を定めて能を保護しました。また徳川家康も幼少から観世流の能に親しんだと言われ、5代将軍綱吉などは熱狂的に能を演じました。明治以降、現代に至るまで、能は日本の伝統演芸文化を中心的に担ってきました。


また、『アダムとイブ』『ノアの箱舟』など「切支丹能」と呼ばれる演目もあり、布教の手段としての能の利用もあったと伝えられています。


【能の世界】


さて上記の通り、能についての基礎知識を記しましたが、締めくくりに、能は何を表現する歌舞なのか、能は何故日本の中心的な伝統芸能になり得たのか、つまり、「能の本質とは何か」について筆者の見解を述べたいと思います。


<日本的美意識>

今回の国立能楽堂での舞謡会では、弁慶の勧進帳の「安宅」、鬼神退治の「紅葉狩」、中国の「楊貴妃」の三つの能舞台を観ることになりました。笛、鼓、謡の三つの調べにのっての舞と謡でしたが、筆者は目を皿のようにして観劇し、一体何が魅力で、どこに面白さがあるかを探しました。そしてこの初めての観劇に際して得た感想は次のようです。


先ず、これは母性国家日本ならではの「日本的美意識」、即ち「幽玄」の世界を、能という独特の形式で表現したものであるということです。


日本的美意識には、「侘び」や「寂び」の他、粋(いき)、粋(すい)、雅(みやび)、あはれ、風情などの言葉が表す独特の感性がありますが、能が表現する美はなんと言っても「幽玄」であると思われます。世阿弥は幽玄について、次のように語っています。


「ただ、言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを達人とは申すべき」(風姿花伝岩 波文庫P10)


<幽玄>

「幽玄」とは、日本の典型的な美意識で、数多くの日本文化に影響を与えた最も重要な美の概念であります。幽玄は「神秘的」であり、奥深く味わい深い感性を指します。


幽玄とは目に見えるものではなく、目に見えない深い世界の領域から醸し出される美であり、知るものではなく感じるものであり、精神的、哲学的思想の概念でもあります。


そのため「幽玄」という美の感覚を言葉で伝えるのは難しく、実際にその奥深い味わいを体験したものにしか感じる事ができない感覚的な美の領域になります。一般的に「静寂さや神秘的な趣きの中で感じる心の動き」を指す事が多い美的概念です。


鎌倉時代に記された「方丈記」には「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」と論じられており「幽玄」は姿形で表すことができない余情であると表現しています。


そしてこれを具体的な芸術の中で表現したのが世阿弥によって大成された「能(幽玄能)」となります。


世阿弥は、静寂で神秘的な深い趣があり、優美で奥行きのある目に見えない「何か」を能の世界で表現しています。つまり、幽玄は極めて宗教的感性に富んだ言葉と言えるでしょう。


次に能のモチーフには「惻隠の情」(そくいん)があります。惻隠の情とは、他人を痛み、人をあわれみ悲しむ心であります。惻隠の心は誰にもあり、それを拡充していけば、孔子の理想とする「仁」やキリスト教の「愛」につながるというものです。


これを端的に表したのが、能劇「安宅」であり、関所守の富樫は、源義経 一行と知りながら、わざと弁慶らを通しました。これが惻隠の情で、これも日本的美意識と言えるでしょう。


そして世阿弥は「秘すれば花」という「秘める美」を語りました。


「秘する花を知ること。『秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず』となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。(風姿花伝岩 波文庫P103)


世阿弥は、芸能のもっとも大切な勘所、一世一代の見せ所のようなものを「花」と表現し、「花」は開けっぴろげにするものではなく、自分の中に秘めて、最後までとっておくものだとしています。


それでこそ、最後に花が明らかになることによって人々は意外性や驚きを感じ、花が花として生きるというのです。


このように能は、幽玄や惻隠の情や秘めたる花などに象徴される「日本的美意識を表現する歌舞」と言えるでしょう。そしてこれらの日本的美意識の源泉には、自然を崇め、先祖を尊び、清浄を好むという「日本的霊性」があると思われます。


もともと能の前身である猿楽は、寺社に属し、寺社の法会で舞が奉納されたことから始まったのであり、従って能は、宗教や日本的霊性につながる歌舞ということになります。またこのこと故に、能が今なお国民から支持され、日本の伝統芸能として命脈を保っている理由だと思われます。


以上が国立能楽堂を訪問しての感想でした。(了)