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士師記 注解 注目の士師ーエフタとその娘

🔷聖書の知識82-士師記注解 注目の士師ーエフタとその娘


エフタは主に誓願を立てて言った、もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう(士師記11.30~31)


士師とは、ヨシュアの死後、サムエルの登場に至るまでの間、古代イスラエルを「裁いた人々」であり、また他民族の侵略を受けたイスラエルの民を救済する「指導者・軍人」であります。神はイスラエルを救うために士師を召命し、遣わされました。士師の時代は だいたいBC1400~1100頃のことと考えられると思われます。


ただ士師の支配地域は、一部の部族とその周辺に限定されている地方分権で、王政とは違い世襲制ではありませんでした。聖書に出てくる士師は全部で12人で、大士師と小士師に分けられ、前者は他民族からの圧迫から民を救う英雄であり、後者は共同体内の裁判人や仲裁者の役割を果たし、以下に述べる通りに区別されています、


大士師

オテニエル(3章7–11節)、エフド(3章12–30節)、バラク(4–5章)、デボラ(4–5章)、ギデオン(6章1節–8章32節)、エフタ(10章6節–12章7節)、サムソン(13–16章)


小士師

シャムガル(3章31節)、トラ(10章1–2節)、ヤイル(10章3–5節)、イブツァン(12章8–10節)、エロン(12章11–12節)、アブドン(12章13–15節)


士師たちの活動期間、オテニエルからサムソンまで、各士師の活動期間を合計すると、410年になりますが、重複している場合があり、実際は350年位になると考えられます。なお、デボラは士師の中で唯一の女性です。


【士師記概要】


この書物は、キリスト教においては歴史書に、またユダヤ教においては預言者に分類されます。この書物の原作者は、伝統的にサムエルであると信じられています。


全体としては、a.過去と未来について(1.1~3.6)、b.士師たちの活動の時代(3.7~16.31)、c.民の混乱(17~21章)、という構成になっています。


<時代背景>


ヨシュアの死後、イスラエルの各部族は各自の相続地を攻略していきますが、彼らは神の命令通りにカナン人たちを完全に滅ぼすことはせず、彼らとの共存の道を選びます。


み使いが現れ、申命記7章16節での宣言通り、カナン人たちが「罠となる」ことを告げられます。また、しばしば異教の民に征服され、士師記は「敗北と解放の書」であり、また「失望の書」でもあるといわれています。周辺民族からの圧迫に対して、中途半端な戦いしかできず、カナン人を完全に追い払うことができませんでした。従ってカナン人と関係を結ぶようになり、カナン人の偶像礼拝はそのまま残され、イスエル人はその影響を受け、背教の民となっていきます。


結果的に、神はカナン人をして、イスラエル人の信仰を糾弾するものとして利用されたというのです。即ち、民が不信仰に陥った時には、神はカナン人を裁きの器として用い、悔い改めた時には、カナン人の手から救い出されました。第2世代から第3世代への時代背景にあって、ヨシュアの死後にも神の奇跡を目撃した長老たちがいましたが(第2世代)、第3世代になると、民は自分勝手な歩みをするようになりました。この第3世代がどのように歩んでいったかが、士師記の時代背景となっています。次の聖句がこの時代を端的に言い表しています。


「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」(士師記17.6)


そしてこの時代は、次の王制に移行するための準備期間となっています。それにしてもイスラエルは周囲に数多の敵を抱えていました。地理的にも、宗教的にも厳しい環境の只中に立たされていたのです。


<繰り返されるパターン>


士師時代にくり返されるパターンがあります。


a.バアル礼拝に取り込まれていく「背信の段階」、b.異国人を用いての「裁きの段階」、c.主に助けを呼び求める「悔い改めの段階」、d.士師による「解放の段階」、がそれであります。 背信→裁き→悔い改め→解放、です。


国が崩壊する過程は、先ず霊的崩壊(偶像礼拝)が発端となり、次に道徳的崩壊 (不道徳)が始まり、最後に物理的崩壊(内戦)が到来します。 このパターンは、今の日本にも適用されるものであります。


<内外の敵に苛まされた理由>


士師記の時代の混乱の原因は明白です。この混乱時代の原因は、結局は神の戒めを守らなかったことにつきるでしょう。かつて神様はカナンに入ったときのためにこのように命じておられました。


「すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない」(申命記7.2~6)


しかるにヨシュアの死後は、「 イスラエルの人々はカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのうちに住んで、彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこに与えて、彼らの神々に仕えた。こうしてイスラエルの人々は主の前に悪を行い、自分たちの神、主を忘れて、バアルおよびアシラに仕えた」(士師記3.5~7)というものでした。


つまり、民族全体の信仰の柱となる指導者が存在せず、また信仰の中心も明確でなく、おのおの自分の目に正しいと見るところを行ったというのです。(士師記17.6)


上記で見たとおり、先住民族を駆逐できなかったことが禍根となりました。滅ぼさなくても追い出せばよかったのですが、 結局共存してしまい、その結果、先住民族の偶像礼拝に陥ってしまったり、 常にトラブルや戦いに巻き込まれることになりました。ちなみに、この先住民族の偶像礼拝というのは、大変おぞましいものでした。 考古学者たちのカナンの遺跡の発見によると、 そこではバアルにささげられた子どもの遺骸の壺が多数発見され、 またアシュタロテ神殿では性的な欲望を誘発するような、生々しい性器が置かれていたと言われています。


そこでは人柱の習慣や性的乱れなど不道徳が行なわれていました。 幼児を犠牲にしてその壁に塗りこめていたというのです。 考古学者たちは、「何故神はこれを放置されたのか、何故もっと早く滅ぼされなかったのか」 、と自問したということです。神様はこのようなおぞましいことからイスラエルを守るために、 彼らを徹底的に滅ぼすよう命じられたのではないかと思われます。


以下において、士師の内、よく知られた代表的な士師である「エフタ」、「サムソン」、「ギデオン」について見ておきたいと思います。


【エフタと娘の物語】


ギレアデの子である士師エフタが、自分の一人娘を神に捧げた物語はあまりにも有名です(10章~12章) 。エフタの誓いのために犠牲になったエフタの娘の物語は、多くの詩や小説、音楽の主題になりました。


<エフタ指揮官になる>


さてギレアデびとエフタは強い勇士であったが遊女の子で、エフタの父はギレアデであった」(11.1)とある通り、エフタは強い勇士でしたが、母は遊女でしたので、異母兄弟たちに追い出され、イスラエルの外にあるトブの地に逃げることになります。そこでエフタは一時アウトサイダーたちのリーダーになりました。いわばやくざ者の親分ですが、エフタには統率力があったのでしょう。しかしイスラエル人は神に背いて偽りの神々を崇拝し、ギレアデの地はアンモン人に侵入され、次の通り18年間苦しむことになりました。


「イスラエルの人々は再び主の前に悪を行い、バアルとアシタロテおよびスリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンびとの神々、ペリシテびとの神々に仕え、主を捨ててこれに仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りを発し、彼らをペリシテびとの手およびアンモンびとの手に売りわたされたので、彼らはその年イスラエルの人々をしえたげ悩ました。すなわち彼らはヨルダンの向こうのギレアデにあるアモリびとの地にいたすべてのイスラエルびとを十八年のあいだ悩ました」(士師記10.6~8)


そこでイスラエルの人々は「わたしたちは神を捨ててバアルに仕え、あなたに罪を犯しました」と言って悔い改め、神は顧みられました。アンモン人はイスラエルを攻めるためギレアデに陣を取り、イスラエルの人々はミヅパに陣を取りました。しかしイスラエルは戦いを統率するリーダーを必要とし、トブの地にいるエフタに白羽の矢が立てられたというのです。


「 アンモンの人々がイスラエルと戦ったとき、ギレアデの長老たちは行ってエフタをトブの地から連れてこようとして、エフタに言った、『きて、わたしたちの大将になってください。そうすればわたしたちはアンモンの人々と戦うことができます』」(11.5~6)


こうしてギレアデの長老たち(異母兄弟ら)は、アンモン人がイスラエルに対して戦闘を開始すると、かって自分たちが追い出したエフタに指揮官になってくれるよう請願しに来ました。エフタは戦闘後も彼らの頭となり続けるという条件の下に同意し、ミヅパの地で契約をしました。 神はエフタを士師として送られたというのです。


最初エフタは、領土を要求するアンモン王と交渉し、平和的和解の提案をしますが、アンモン王はこれを受け入れなかったので、「神の霊がエフタに臨み」(11.29)、戦闘が開始されることとなりました。


<エフタの誓願>


そしてエフタは、戦闘を開始する前に神に一つの誓約をしました。それは、もし神がアンモン人を打ち倒して下さるならば、戦場から自分の家に帰った時に、戦勝を祝って(最初に)戸口から迎えに来た者を、神に「燔祭の犠牲として捧げる」というものでした。


「エフタは主に誓願を立てて言った、もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」(士師記11.30~31)


ヤハウェはエフタの請願を聴き届けられ、アンモン人に勝利しました。


エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされた」(11.32)


戦に勝ったエフタは、ミツパにある自分の家に帰りますが、なんと最初に躍りながら出迎えたのは「自分の一人娘」だったというのです。


やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった」(11.34)


エフタは彼女を見ると、衣を裂いて「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった」(11.35)と絶句したというのです。エフタには彼女以外に子がいなかったので、彼は衣を引き裂いて嘆きましたが、後の祭りです。こうしてエフタの一人娘が、神との約束通り犠牲の燔祭に捧げられることになりました。


<エフタの娘の見上げた信仰ー主に捧げられた女性>


しかし、けなげにもエフタの娘は、神への誓約を果たすよう父エフタを促しました。


「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」(11.37)


そこで娘は、自分が処女であることを嘆くために2ヶ月間の猶予を申し出ます。エフタはそれを承諾し、彼女は友人と山々をゆきめぐり、自分の処女であること、妻にも母にもなれないことを嘆きました。


「 娘はまた父に言った、『どうぞ、この事をわたしにさせてください。すなわち二か月の間わたしをゆるし、友だちと一緒に行って、山々をゆきめぐり、わたしの処女であることを嘆かせてください』。 エフタは『行きなさい』と言って、彼女を二か月の間、出してやった。彼女は友だちと一緒に行って、山の上で自分の処女であることを嘆いた」(11.37~38)


こうして二か月の後、娘は父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女を「燔祭」として捧げました(11.39)。


ではエフタの誓った燔祭とは何でしょうか。キリスト教教派の中には、これを文字通り「犠牲の供え物」と解釈し、エフタは娘を生贄に捧げるという浅はかな「愚かな誓い」をしたとエフタを批判することがあります。しかし、ここでいう燔祭とは人間を全焼の供え物(人身御供)とすることではなく、「神への献身の象徴的表現」、即ち、神への奉仕のために幕屋(神殿)で仕える巫女として捧げることを表していると解釈すべきだと思われます。その意味でエフタは誓願どおり娘を神に捧げたのであり、ヘブル書11章32節でもエフタを立派な信仰の戦士に列しています。


つまり、このエフタの誓願は、1サムエル記1章11節に出てくる「ハンナの誓い」と同趣旨で、ハンナの誓いは「我が子サムエルを主の宮で仕えるものとして差し出すこと」でした。不妊のハンナは神に誓ってこう言いました。


「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」(1サムエル記1.11)


ついに主が彼女を顧みられたので、ハンナは、男の子サムエルを産み、その名をサムエルと名づけました。そしてハンナは主の宮に上がり、誓い通り神殿に仕える者として祭司エリにサムエルを差し出しました(1.28)。


士師記11章40節に、「彼女はついに男を知らなかった」とあり、娘はその後も処女として(主の宮で仕えて)生き続けていることを暗示しています。この物語には、神への誓願、娘を思う父親の愛情、父親を思う娘の信仰が美しく描かれ、多くの文学や音楽の主題として取り上げられました。その後イスラエルの娘たちは、エフタの娘を想起するために、年に4日間、エフタの娘のための「嘆きの歌」をうたうことが伝統となりました。


これによって年々イスラエルの娘たちは行って、年に四日ほどギレアデびとエフタの娘のために嘆くことがイスラエルのならわしとなった」(11.40)


【サムソン】


サムソンの話しも、何度もミュージカルやオペラで上演される有名な物語です。筆者もかってラスベガスで、サムソンとデリラのミュージカルを見たことがあります。 (士師記13章〜16章)


<ナジル人サムソン>


イスラエルの民がペリシテ人に支配され、苦しめられていたころ、ダン族の男マノアの妻に主の使いがあらわれます。彼女は不妊でしたが、子供が生まれることが告げられ、その子が誕生する以前からすでに神にささげられた「ナジル人」であるため次のことを守るよう告げられました。


「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。それであなたは気をつけて、ぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神にささげられた『ナジルびと』です。彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」(士師記13.3~5)


これが「ナジル人の誓願」であり、こうして生まれた男の子がサムソンでした。


ちなみにナジル人とは、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、「特別な誓約」を神に捧げた者のことで、ヘブライ語で「聖別された者」を意味します。民数記6章1節~8節に3つの規定が存在し、ありとあらゆる酒類葡を口にしてはならないこと、髪を切ってはいけないこと、そして死者に近づいてはいけないこと、が定められています。 サムエルや洗礼ヨハネもナジル人だったと言われています。


<サムソンの武勇伝>


以下は、サムソンの武勇伝です。


サムソンは長じた後、あるペリシテ人の女性を妻に望み、彼女の住むティムナに向かいますが、その途上、主の霊がサムソンに降り、目の前に現れたライオンを素手で子山羊を裂くように裂いたといいます。


ティムナの女との宴席で、ペリシテたちとの謎かけの約束後、サムソンに主の霊が下って、アシュケロンで30人のペリシテ人を殺害してその衣を奪い、謎を解いたペリシテ人たちに渡しました。ティムナの女の父はこの一件の後、娘をほかの男性に与えました。サムソンはこれを聞いて、300匹のジャッカルの尾を結んで、それぞれに一つずつ松明をむすびつけ、畑などペリシテ人の土地を焼き払いました。


ペリシテ人は陣をしいてサムソンの引渡しを求め、ユダヤ人はこれに応じました。ペリシテ人はサムソンを縛り上げて連行しましたが、途中で主の霊が降ると縄が切れて縄目が落ち、サムソンは驢馬のあごの骨をふるってペリシテ人1000人を打ち殺しました。


こうしてサムソンは二十年間、士師としてイスラエルを裁きました。


<デリラ、サムソンを誘惑する>


その後、サムソンはソレクの谷に住むデリラという女性を愛するようになったため、ペリシテ人はデリラを利用してサムソンの力の秘密を探ろうとしました。サムソンはなかなか秘密を教えませんでしたが、遂に頭にかみそりをあててはいけないという秘密をデリラに話してしまいます。


「彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」(士師記16.17)



デリラの密告によってサムソンは頭をそられて力を失い、ペリシテ人の手に落ちました。彼は両眼をえぐり出されてガザの牢で粉をひかされるようになりました。


ある時、ペリシテ人は集まって神ダゴンに感謝する祝宴を催し、屋根の上には3000人程の見物人がいて、獄屋からサムソンを引き出して見世物にしました。しかしサムソンは神(主)に祈って力を取り戻し、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言い、二本の柱を倒して建物を倒壊させ、多くのペリシテ人を道連れにして死んだというのです。このとき道連れにしたペリシテ人はそれまでサムソンが殺した人数よりも多かったとい言われています。


【ギデオン】


ギデオンも士師の中では人気のある人物です。ギデオンとは「破壊者」の意味で、「強力な戦士」を指します。 (士師記6章~8章)


士師記における一連のパターンがそうであるように、イスラエル人はカナン人に対するデボラの勝利がもたらした40年間の平和の後に再び神(ヤハウェ)に背信し、神は近隣諸国のミディアン人とアマレク人による攻撃を容認しました。


神はイスラエルの偶像礼拝を非難し、イスラエル人を解放するために、マナセ族の中でも目立たない一族から一人の若者「ギデオン」を選び出しました。神の命令によって、ギデオンは都市にある異国の神バアルのための祭壇と、その傍らにある女神アシェラの像を破壊しました。 特に、わずか300名で数万のミデヤンの軍勢を破った戦いは有名で、ヘブル書でも信仰の勇者として紹介されています。


以下、ギデオンの召命は次の通り行われました。(ギデオンの召命の場面を聖書から引用しておきます)


「時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、主の使は彼に現れて言った、『大勇士よ、主はあなたと共におられます』」


「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」


「ギデオンは主に言った、『ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです』」


「主は言われた、『しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」


「ギデオンはまた主に言った、『わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください』」(以上、士師記6.11~17)


こうしてギデオンは何度も躊躇し断った末、神から「しるし」を見せられ、ギデオンは神の召命を受け入れました。なお、聖書の頒布事業を行っているギデオン協会(一般財団法人日本国際ギデオン協会)は士師ギデオンからとって命名されました。


以上、士師記の概要を見て参りました。士師記はカナンに入植したイスラエルが、内外の敵と士師を立てて戦った物語でした。そして次のサムエルから始まる王国に至る橋渡しのような位置付けにあります。次回は王国(サムエル記)の前に挿入されている「ルツ記」を解説致します。(了)




上記絵画:エフタを出迎える娘(ギュスターヴ・ドレ画)、サムソンとデリラ(ヴァン・ダイク画)

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