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大阪セミナー顛末記 神を知ることは知識の始め

◯つれづれ日誌(令和5年5月17日)-大阪セミナー顛末記ー神を知ることは知識の始め


イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(申命記6.4~5、マタイ22.37~40)


筆者はこの5月14日、15日、大阪で信徒が牧会するホームチャーチの礼拝説教、及び聖書セミナーの講師として招かれ、福音を語る機会がありました。主宰者のリクエストもあり、信仰の最も基本となる事柄、即ち、「神」について、「信仰とは何か」について、そして「救いとは何か」について、自らの体験を加味して語ると共に、聖書を学ぶことの意味、即ち聖書的霊性を相続することの意義を解説しました。


そこで今回は、このセミナーで語った骨子について簡潔にまとめてシェアし、もう一度信仰の原点を振り返りたいと思います。


【礼拝とは何か】


宣教師訓練センター所長であり宣教学博士である奥山実牧師は、「人間は神を礼拝するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と明言されました。 キリスト教では礼拝の意義について、一般的に3つの要素を指摘しています。即ち、神を礼拝すること、神の言葉を学ぶこと、そして信徒の交わりであり、これが「礼拝の三要素」です。


<神を礼拝すること>


私たちは何のために日曜日に礼拝(奉仕・サービス)に行くのでしょうか。それは他ならぬ神を礼拝するためであり、神の恵みを受けとるためであります。即ち、礼拝の本質は、天地を創造された全知全能にして唯一の父母なる神を礼拝し賛美し慰労すること、そして神の恵みに与ることに他なりません。これが礼拝の第一の意義であります。そしてキリスト教の礼拝の特徴は、 人間が神に奉仕する(礼拝する)というより、むしろ神が人間に奉仕する、仕えることを基本、出発点とするという点にあるというのです(徳善義和・百瀬文晃著『カトリックとプロテスタント』教文館P163)。


では礼拝すべ神は何処に居ましたまうのでしょうか。神は教会の中にいましたまい、家庭の中にいましたまい、そしてわが内にいましたまうというのです。祈りを捧げる祭壇はどこにあるのでしょうか。祭壇は教会にあり、家庭にあり、そして我が内にあるというのです。


内村鑑三は、大自然こそ最良の神殿だと言いましたが、確かに自然という神殿の中で、我が内なる祭壇に向かって捧げる祈りも立派な礼拝です。最近筆者は、早朝自宅近くにある公園のベンチに座って、自然という神殿の中で、我が本心の内なる祭壇の前で神に祈るのが楽しみになりました。



<神を知ることは知識のはじめ>


箴言1章7節に「神を知ることは知識のはじめ」とありますが、およそ洪水のように溢れる知識の中で、最も大切な知識こそ神についての知識だというのです。科学は自然を研究の対象にし、哲学は人間を研究の対象にしますが、神学は正に神を研究の対象にしています。「諸学は神学の侍女」と言われる所以です。


冒頭の申命記6章4節~5節はいわゆる「シェマ・イスラエル」(イスラエルよ、聞け)と呼ばれ、ユダヤ教の祈祷の中で一番重要な聖句であり、「 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」(申命記6.4)はユダヤ一神教のエッセンスを凝縮したものであります。


イスラエルではこの聖書箇所を、両親が子供に夜寝る前の言葉として教えるという伝統があり、ここに多くのノーベル賞授賞者を排出している秘訣があると言われています。イスラエルは世界人口の0.2%しかいないにもかかわらず、なんと20%ものノーベル賞授賞者を出していますが、これは小さい時から天地を創造された唯一の神を教え、その神を愛することの大切さを教えているからだというのです。


そしてイエス・キリストも、パリサイ人から「律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と聞かれた時、次のように答えられています。


「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(マタイ22.38~40)


ちなみにこの第二のイエスの言葉「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」は、いわゆる「黄金律」と言われ、高等宗教はいずれもこれを重要な戒めとし、慈善奉仕活動の根拠となっています。即ち黄金律とは、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」という内容の道徳倫理で、逆に言えば、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」(白金律)と言うことになります。各宗教は次のように言っています。


「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ(孔子『論語』)


「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな」(ユダヤ教)


「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(ヒンズー教)


【信仰と救いの本質について】


ヘブル書には、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11.1) とありますが、筆者は、「信仰とは神を信じること、神を信じることを決断すること」と一応定義しておきます。つまり、「先ず神の国と神の義をもとめよ」という生活姿勢であります。


<信仰の本質とは>


では信仰の本質とは何でしょうか。信仰の本質は「神との回復」であると言えるでしょう。堕落とは神と断絶したこと、即ち神を見失ったことであり、従って復帰とは神と再結合することに他なりません。「神を知ることは知識の始め(箴言1.7)とある通りです。英語の「Religion」とは 再びつなぐこと、即ち神と再び結ばれることを意味しています。


<信仰の目的>


そして信仰の目的は何かというと、それは「救い」であります。人間は信仰を通じて救いを得なければならず、信仰は救いによって完結いたします。


では、救いとは何でしょうか。救いとは解放(自由)である、即ち、自分を束縛しているものからの解放であります。自分を束縛しているものとは、正に罪であり、自分自身(自我)であるというのです。つまり、救いとは罪と自分自身からの解放されて新生されることです。そしてその解放者こそキリストに他なりません。


熱心なクリスチャンだった台湾の李登輝元総統は、洗礼を受けるに当たって、聖書を読み尽くし、信じることを決断したと告白し、観音山での神秘体験のあと、著書の中で自我からの解放について語っています。「自分の体の中に、イエス・キリストが陣取り、その私は『私ではない私』なのです」と。


李登輝は長い間、自分自身の自己中心な自我に苦しみましたが、ようやく自我から解放される時がきました。あるとき、自分を拘束しているものが、他ならぬ自分自身であり、その自分(自我)から解放されることが真の自由であるという真理を悟りました。即ち、「自分でない自分」を見出だすこと、自我が一度死んでこそ、真の自分の復活があるという真理です。次の聖句が李登輝の回心聖句でした。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


<救いの道>


では如何にして人間は救われるのでしょうか。救いの道、救いに至る方法は、悔い改め・回心・新生(重生)であり、復活・永遠の命に至ることであります。即ち「悔い改めこそ救いの一丁目一番地」であり、アメリカにおけるリバイバルは例外なく悔い改めからと回心からまれました。そしてそれは、教会の礼拝・秘蹟(典礼)の中で保証されるというのです。教会が恩寵の施設と言われる所以です。


<神認識と神体験について>


さて筆者は、今まで二回の大きな神体験をいたしました。一回目は22才の時に出会った「本心の神」であり、二回目は70才で出会った「どん底の神」であります。


あの時、本心に内在する神と出会った筆者は、神は超越神であると同時に内在神であること、正に人間は神の家、聖霊の宮(1コリント6.19)であることを確信しました。その後、神についての認識は、導きの神、どん底の神、召命の神と変遷し、遂に恩寵の神という認識に至りました。


そして古稀にどん底で出会った神こそ、正に「聖書の神」であり、回心聖句は、ピリピ書3章8節「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」でした。


以上がこの度のセミナーで話した内容の骨子であります。


それにしても今回の福音の旅は、誰よりも筆者自身が神の恵みを受けることになりました。霊的によく耕され、牧会された人々であり、乾いた土に水が吸い込まれるようにとは、正にこのことでした。 目下荒野の試練の中に晒されているUCでありますが、このような純粋でたくましい信仰の群れ、正に「イスラエルの残れる者」に遭遇できたことを神に感謝しました。そして、このような群れがあちこちで生まれ、正に令和のリバイバルが勃興することを祈念いたします。(了)

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