◯つれづれ日誌(令和4年12月7日)ー安倍事件に見る一神教と多神教の相克 世俗的ヒューマニズムの弊害
地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである(マタイ10.34)
前回のつれづれ日誌で、ジャーナリストの福田ますみ氏が、この度の旧統一教会(以下、「UC」と呼ぶ)叩きの背後にスパイ防止法制定など反共を掲げるUCを潰そうとする「左翼という黒幕」がいることを指摘した月間Hanada1月号の記事を論評しました。つまり、UC
がここまで叩かれるのは、反共をはっきり標榜する宗教団体であるからであるというのです。
かって筆者は、この安倍事件に端を発するUC問題の本質は、先ず「有神論と無神論との戦い」であり、次に「一神教と多神教との相克である」と意義付けました(つれづれ日誌令和4年10月12 思想的視点から安倍事件問題を考える)。この福田氏の「左翼という黒幕」の指摘を言い替えれば、まさに「有神論(宗教)と無神論(共産主義)との戦いである」ということになります。何故なら、共産主義の本質が神を否定するところにあるからです。
そして今回は、もう一つの戦い、即ち「一神教と多神教の相克」について考察したいと思います。実は、現下のUC叩きの思想的背景には、UCが有する一神教の思想と、「世俗的ヒューマニズム」によって蝕まれた日本的多神教、即ち、甘いヒューマニズムの蔓延があるというのです。
【世俗的ヒューマニズムの蔓延】
2022年11月12日に韓国で行われた『希望前進カンファレンス』に提出された宗教学者で新宗教研究センター創設者のマッシモ・イントロヴィニエ氏の論文には、筆者が考えていたことと瓜二つの指摘があり、正に「我が意を得たり」の感がありました。
即ち、「日本における統一教会危機―信教の自由に対する三つの敵」と題するマッシモ・イントロヴィニエ氏論文の一節には、「日本の一部メディアや弁護士たちの動機は、知名度のあるすべての宗教に対して洗脳の非難を行い、『国際的な世俗的人本主義のイデオロギー』を日本に拡散しようとしているのである」とありました。また「世俗的ヒューマニズムは欧米の多くのメディア、大学、出版社を支配している」とも指摘しています。つまり、現下のUC叩きの背後には、もう一つの黒幕である「世俗的ヒューマニズム」があるというのです。
かって久保木修己元UC会長が「甘いヒューマニズムが日本を滅ぼす」と題して全国を講演され警鐘をならされましたが、この「甘いヒューマニズム」こそ、上記の「世俗的ヒューマニズム」に他なりません。
<世俗的ヒューマニズムとは>
ちなみに、「ヒューマニズム」とは、人間中心、人間尊重の思想で、16世紀のルネサンス時代に登場し、中世カトリックの神絶対中心の世界観に対して、人間そのものの美しさや価値を見いだし、抑圧された人間性の復権を目指しました。そして、このヒューマニズムは、大きく「キリスト教的ヒューマニズム」と「世俗的ヒューマニニズム」に分類され、キリスト教ヒューマニズムはキリスト教そのものを否定したわけではなく、カトリック教会の権威主義や形式主義、抑圧された人間性からの解放を目指したものです。
一方、「世俗的ヒューマニズム」(世俗的人本主義)とは、超自然的存在(神)を否定し、人間的な理性・倫理・正義を信奉する「無神論的ヒューマニズム」思想で、「神への信仰がなくとも人は道徳的たり得る」とする立場の総称で、20世紀初頭に生まれました。従って、信仰を核とするキリスト教的ヒューマニズムと区別されます。
即ち、世俗的ヒューマニズムは人間中心の思想であり、神の代わりに人間を最高の価値として考える「人間中心の思想」であるというのです。そしてその思想の上に立つ民主主義は、神を否定し、人間性を社会的な基本的人権として捉え、すべての人は自由で平等であるという相対的価値を前提に成り立っているというのです。従って、世俗的ヒューマニズムは神が不在なので、自己中心的な個人主義、あるいは乱暴な集団主義に陥りやすく、結果として人間性否定につながる危険性を有しています。まさにこの思想が、抵抗力がない日本の多神教に感染し劣化させているのです。一方、キリスト教的ヒューマニストは文化を価値あるものとしますが、人間はキリストとの正しい関係に入る時にのみ、文化の担い手である本来の機能を果し得るものであると告白します。
リンカーンの「人民の、人民による、人民ための政治」という有名なゲティスバーグの演説は、アメリカ民主主義の原点とされますが、最後に「In-God」即ち「神の下での民主主義」を謳っています。また、アメリカの独立宣言には「創造主(神)によって与えられた人権」という思想があります。札幌農学校のクラーク博士の「少年よ大志を抱け」も有名な言葉で、これだけが独り歩きしていますが、クラークは「Under-Christ」、即ち「キリストの下での大志」を唱えたのです。
このように、神のもとにあっての民主主義こそ、真の民主主義であって、神なき民主主義は、(今の岸田政権のように)世におもねる衆愚政治になりかねません。 もっともキリスト教ヒューマニズムも、キリスト教自体の衰退から同様の弊害を生んでいることも事実です。
<甘いヒューマニズ日本を滅ぼす>
久保木会長は、一見聞こえがよい「ヒューマニズム」という思想こそ、日本が毒されている元凶だと訴えられました。つまり、人間(人権)尊重という「甘いヒューマニズム」が左翼の温床になっているというのです。前述したように甘いヒューマニズムとは、世俗的ヒューマニズムと同義で、久保木会長は、端的に言えば「地上に生きている生を絶対視する人間中心の思想である」と指摘され、この人間中心の思想は、中世ヨーロッパの偏狭な神中心思想の反動として生まれたとも語られました。
この極端な人間中心思想は、結局現世至上主義に陥り、その必然として神なき唯物思想の温床になるというのです。勿論、ヒューマニズム自体は尊重に値する思想であるとしても、神と切り離されたヒューマニズムは、日本の多神教的文化を劣化させ、文字通り「神なきヒューマニズム」に陥り、神に代わって人間が神になることによって人間の自己中心や傲慢を助長することになるというのです。そしてこれが共産主義者に利用されていることが問題であると指摘されました。
共産主義の本質は「神を否定する」こと、マルクスの言葉で言えば「神に復讐すること」にあり、従って、久保木会長の言われる「勝共」とは、「神を復権するための思想運動」、即ち、現代社会に「神を回復すること」にあるというのであり、次のように語られました。
「神の喪失と愛の喪失、これらを見失っているところに、人類の最大の不幸があり、故に勝共運動の本質的意義は、これらの二つを再発見することによって、世界の真の平和を実現することに帰着するのです」(久保木修己著『愛天愛国愛人』P102)
そして甘いヒューマニズムの過度な人間尊重主義は、限度を超えた人権思想となり、曖昧な多神教文化の「常識通念という道徳観の土壌」となりました。つまり、この日本の常識通念は、熱いか冷たいかはっきりしない「ぬるま湯文化」、個の確立なき「他人依存の風潮」、テレビのワイドショーに象徴される「偏った感情主義」、などに象徴されていると言っていいでしょう。 そしてこのあいまいな空気感こそUCバッシングの元凶であります。
繰り返し述べますが、リンカーンも示したように、ヒューマニズムに基礎を置く民主主義は決して間違った思想ではありません。問題にすべきは、神なき世俗的ヒューマニズム、度を過ぎた人間主義に基づく民主主義であり、それが唯物論や共産主義の温床になり、ひいては曖昧な多神教文化の負の土壌になっているということです。
【イエス・キリストに見る道徳観】
ここで、日本人の多神教的な倫理道徳観念から見れば、一見不道徳とも思えるイエス様の言動について考えて見たいと思います。
<平和ではなく、つるぎを投げ込む>
マタイ伝10章34節に「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」というイエスの言葉があり、また「わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10.35~36) との言葉があります。
上記のイエスの言葉を文字通り捉えれば、夫婦親子など家庭の争いを肯定し、子供が親にさからうことを是認するなど、とんでもない不道徳な教えということになります。かっては親泣かせの原理運動と言われ、今はワイドショーで、UCの親子、二世問題がクローズアップされています。
実は、このイエスの言葉は、一神教的な一種の「分別思想」であるというのです。ユダヤ・キリスト教には、光と闇、神のものとサタンのものというように、善と悪を分ける 分別思想(聖別思想)が厳然とあります。内村鑑三も、「キリスト教の優れた特質は、この光と闇、生と死との峻別であります」(自叙伝P227)と言っている通りです。しかし、この分別思想は、日本の温厚だがぬるま湯的な和の思想、寛容だが曖昧な多神教の文化とは相容れない思想であり、この水と油の思想的土壌の違いが、日本でキリスト教が根付かなかった原因の一つだと言われています。
ではイエス・キリストは、文字通り「つるぎ」で平和を壊し、家庭に争いをもたらすことを奨励されているのでしょうか。そうではなく、個人にせよ、家庭にせよ、社会にせよ、混沌とした中間状態の曖昧さを分別し、善悪を分立して神(善)に従う道を選択するよう勧められているのであり、そのためには、人間的な常識通念に囚われてはならないと言われているのです。つまり、今までの世俗的な人間関係を一旦清算し、神を中心とした新しい関係に脱皮せよと言うことであります。即ち、堕落人間は、善悪混沌とした中間状態にあるので、復帰(救い)のためには善悪を分別する闘争が必須であり必然であるというのです。
その意味で、今、マスコミでバッシングを受けているUCは、神なきヒューマニズム、ぬるま湯的で曖昧な多神教文化につるぎを投げ込み、善悪の分別が必要であるという問題提起をしているように筆者には見えます。この分別思想は、和の文化を持つ日本人には馴染みが薄い、なかなか受け入れられない考え方ですが、唯一日蓮宗を開いた日蓮は、対立や迫害を恐れない、ある種の分別思想の持ち主でした。日蓮が他の仏教宗派を批判した、いわゆる「四箇格言」(しかかくげん)という有名な言葉があります。日蓮は、『法華経』を最高の仏法とする立場から、『法華経』以前の釈迦が説いた教えは、全て方便で説かれたものであるから成仏できないと主張し、「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」と言い放ちました。(諌暁八幡抄)
つまり、この四箇格言は、三大秘法の南無妙法蓮華経以外の一切の宗教とか思想は邪教、邪宗であると切り捨てているのであり、四箇格言をないがしろにするということは、宗教や思想には高低、正邪、浅深があることを無視し、「宗教はどれも同じ」(万教一致)とか「どの宗教もめざすものは一つ」(万教同根)といった、もっともらしい曖昧な認識を生むというのです。この日蓮の思想は、それが現代社会にそのまま適応できるか否かは別として、善悪を分ける一神教の思想に近いものがあると言えるでしょう。
<救いにおけるパラドックス(逆説)>
更にイエス・キリストの思想には、逆説の論理、即ちパラドックスの思想があり、内村鑑三も「キリスト教の教えにはパラドックスの妙がある」と指摘しています。
マタイ伝5章~7章は「山上の垂訓」と呼ばれる有名なイエスの説教で、「神の国に入るための義」が問かれていますが、イエスは8つの「幸い」を逆説的に語られました。例えば、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」(マタイ5.3~4)は、その一つです。また、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイ5.10)ともあります。
一般常識では、貧しい者、悲しんでいる者、迫害される者は不幸であるはずなのに、逆にこういう人たちこそ天国に入る幸いな者であるというのです。そして、「自分の命を得ている者はそれを失い、失っている者は、それを得る」(マタイ10.39)と語られ、「狭い門からはいれ」(マタイ7.13)、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マタイ5.44)と常識通念の対極にある言葉を吐かれました。
これらは、今までの古い常識や因習に囚われている日本のワイドショーに象徴される価値観、即ち世俗的ヒューマニズムの否定であります。 筆者は、これらのパラドックスは、日本社会の曖昧な常識通念への挑戦であり、これらイエスの言葉は、正に現代の神なきヒューマニズムへ一石を投じる問題提起だと強く感じるものです。果たして、日本的多神教の土壌は、これらのパラドックスを理解できるのでしょうか。
そしてその画期的な教えがマタイ伝19章21節~22節にある金持ちの若者の説話です。
「イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(マタイ19.21~22) 。
しかし、キリスト教の歴史には、イエスの言葉を聞いて悲しみながら立ち去ったこの金持の青年のようにはならず、イエスに従う完全な道を選択した人々がいます。
修道制度の創設者と言われる聖ベネディクトゥス(480年頃 ~547年)や、フランシスコ会の創設者として知られるアッシジのフランチェスコ (1182年~1226年)は、全ての財産を捧げて献身し、「祈り且働け」をモットーに、「貞潔・清貧・従順」を標語とする修道院を設立しました。とりわけフランチェスコ は、裕福な商人の息子でしたが、持ち物を全て売り払い、その代金を教会に差し出しました。これを知った父親は怒り、アッシジ司教の前で父子は対決するのですが、フランチェスコは服を脱いで裸となり、「全てをお返しします」と言って衣服を父に差し出したといわれ、肉の父を振り切って、フランチェスコにとっての父は「天の父」だけとなったというのです。
ところで筆者は前回のつれづれ日誌で、文藝春秋編『統一教会―何が問題なのか』(文春文庫)というアンチUC本に反論しましたが、その8章の対談で、宗教学者の島田裕己氏は、作家の芹沢光治の自叙伝的小説『人間の運命』を引用されていました。
芹沢光治はその本の中で、親が熱心な天理教の信者であり、全財産を投げ打って布教にのめり込んだために、塗炭の苦しみを味わったことを描いているというのです。確かに天理教の中山みき教祖(1798~1887)は「貧に落ち切れ」との親神様の言葉通り、屋敷にある米や衣服、家財道具などあらいざらい貧しい人々に施し始め、自ら貧のどん底に落ちていったと言われています。
また、最近、元創価学会エリート信者でタレントの長井秀和氏が、テレビや街頭で創価学会の多額献金の実体を暴露し、自分の親も数千万円以上の寄付をし、購入した学会指定の仏壇だけでも総額2000万円に上り、これはUCの100万円の壺などと比較にもならないと言い放ちました。つまり、この安倍事件に端を発する宗教問題は、創価学会をはじめ、今や宗教全体の問題として波及していく趨勢にあります。12月6日、埼玉アリーナで幸福の科学の大集会があり、筆者も招待されて参加しましたが、大川隆法総裁(2023年3月2日死去)はその講演の中で、「統一教会の次は創価学会で、その次は幸福の科学だ」と言われ、明日は我が身との認識を示されていました。
このように、前記に見たいくつかの例題を見るまでもなく、信仰の論理と世俗的価値観は衝突するのが常であり、先ず神への信仰を優先するという宗教的価値観は、所詮、ワイドショーに代表される世俗的ヒューマニズムには理解の及ぶところではありません。実は、この対立こそ、現下のUCバッシングの根源にあるものだというのです。即ち一神教と多神教の相克です。
そしてこの日本の多神教は、思想的に見れば、丁度善と悪の中間状態にあり、世俗的ヒューマニズムと結びつけば更に混沌とし、逆に一神教と結びつけば、日本再生の希望となるでしょう。筆者は、イスラエルの幕屋の至聖所に十戒のみ言が安置されているように、日本の8万に及ぶ神社本殿のご神体として、聖書(原理講論)を安置して、唯一神という目を入れることを提唱いたします。
【被害救済法案は世俗的ヒューマニズムの典型】
今、UCバッシングの一つに献金の強要問題があり、悪質な寄付を防止する一歩にと、政府は「被害救済法案」の成立を目指しています。
対象となるのは、「先祖のたたりが起きる」などと不安をあおり、困惑させた状態に陥れて寄付させる行為だといいます。また、寄付の資金を、現住住宅の売却や借金で調達することを禁じること、本人ではない子どもや配偶者が、将来受け取るべき養育費などの範囲内で、寄付の返金を求めることを可能とすること、法人が寄付を求める際に「自由な意思を抑圧してはならない」という配慮規定を明記すること、などの規定を盛り込むというのです。
しかし、そもそもいわゆる献金返還トラブルは、当初は信仰に基づく自由意思による献金だったものが、信仰を失ったことで(強制改宗を含む)、あとからその返還を求めるケースがほとんどで、正に個の確立なき責任転嫁の典型であり、久保木会長が日本の甘いヒューマニズムを、神の喪失と共に、「個の自覚の喪失」(没個性)と指摘された通りです。 また、寄付の資金根拠に規制をかけたり、献金当事者以外の第三者が寄付の返金を求めることを可能にするというのは、「財産権は、これを侵してはならない」とする憲法29条で保証された「財産権の侵害」に当たり、更に信仰の論理にも大きく外れることになります。
元検事の高井康行弁護士が『正論』1月号で、「自分が信じる宗教団体への寄付は、信仰者にとっては重要な信仰行為の一つで、その自由は『信教の自由』で守られなければならない。自分の信仰に従って自発的に喜捨した人がその後、改宗したり棄教したりした場合に、その返還を求めることは信仰の本質に反するものと思われる」(P211)と指摘されている通りです。
更に高井弁護士は、野党の「マインドコントロール」論を批判されてます(法案では「マインドコントロール」という言葉ではなく、「特定財産損害誘導行為」という新しい言葉を使っている)。「ある人が多額な寄付をした場合、その人が自律的で熱心な信仰に基づいて寄付したのか、その人がマインドコントロール下に置かれた結果寄付したのかを明確に判別することは難しい。もし、多額な寄付をした人はすべてマインドコントロール下にあるというのであれば余りにも乱暴過ぎる」(P211)と明言されています。
以上のような多くの問題を抱えた「被害救済法案」ですが、左傾マスコミ、全国弁連、野党らの世論工作に押されて、また世論に忖度せざるを得ない岸田政権は、今国会で成立させる趨勢にあります(なお、当該法案は2023年12月13日可決・成立した)。まさにこの法律は「世俗的ヒューマニズムの象徴」と言えるでしょう。
一方、文科省の「質問権行使」に関しても高井弁護士は、「質問権」行使そのものを次のようにバッサリ切り捨てています。
「宗教法人法第78条の2は、宗教法人に解散命令に該当する事由がある疑いが認められる場合は、当該宗教法人に質問等をすることができる旨規定している。しかし、その質問内容は、その業務または事業の管理運営に関する事項に限られており、仮に、当該宗教法人が回答を拒否したり、虚偽の回答をしたりしても、行政罰である10万円以下の過料が科せられるに過ぎず、これらを考えれば、質問権行使により、解散命令の根拠となるような事実が明らかになることはほとんど期待できない」(P209)
つまり、UC側は、文科省による質問権行使に対して、「これは宗教迫害である」という抗議の意思表示として、回答を拒否してもよかったのだと述べ、そして、「信教の自由」を最大限尊重するという憲法の趣旨から、権力の介入は極力抑制されなければならないというのが、宗教法人法の基本精神なのだと明言されました。
以上、現下のUCバッシングの背景に、「有神論と無神論との戦い」、即ち「左翼という黒幕」がいることを指摘すると共に、今回、「一神教と多神教との相克」があること、即ち世俗的ヒューマニム(甘いヒューマニズム)との相克があることを明らかにしました。
私たちはここでもう一度、 「まず神の国と神の義とを求めよ」(マタイ6.33)と、イエス・キリストが示された「一神教の本質」を想起しようではありませんか。(了)
牧師 吉田宏
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