🔷聖書の知識124 -宗教改革と対抗宗教改革⓹ カトリックの宗教改革
前回まで、ルターやカルヴァンによる宗教改革、プロテスタントの誕生について、その歴史や理念について検証してきました。これを踏まえ、今回はカトリックの対抗宗教改革について、考察することにいたします。いわばプロテスタントに対するカトリックによる反論であり反撃であります。
【カトリックの対抗宗教改革】
ルターやカルヴァンの福音的宗教改革を、カトリックも手を拱いて黙ってみていたわけではありませんでした。それが「対抗宗教改革」と呼ばれるカトリック側の対応であり、カトリック教会の復興運動でもあります。
カトリックの改革刷新運動は宗教改革以前にも断続的にありましたが、ルターらによるカトリック批判を反面教師にして、本格的な「自己改革」と「失地回復」の努力をしていきました。 その骨子として、a.聖職者や教会組織の粛正と自己改革、b.イエズス会の発足と世界宣教、c.トリエント会議での教理の再確認、d.異端審問所と思想統制、の4点を挙げることが出来るでしょう。
<自己改革とイエズス会>
改革は、先ず教会の刷新から始まりました。聖職売買の禁止と規律の向上、司祭の再教育と知的水準の向上、人間性の重視と信心の深化、教会法の遵守などの自己改革です。その中でも修道会の刷新です。その先頭に立ったのが「ドミニコ会」で、審問や討論を通じてルター派と論戦をいたしました。
そして1540年には「イエスズ会」が托鉢修道会として誕生することになります。「清貧と貞潔の誓い」を立てて誕生したイグナチウス・ロヨラ率いるイエズス会は、教皇への絶対服従と軍隊的規律をもって内部の信仰の革新に努めたばかりでなく、「積極的に海外伝道」を進めました。南米やアジアへの宣教、そして日本にもイエズス会士フランシスコ・ザビエルが1549年に上陸し、キリスト教を伝えたことは周知の通りです。また多くの慈善活動にも携わりました。
ちなみに日本に初めてキリスト教を伝えたザビエル(1506~1552年)は、スペインのピレネーの山麓ハビエル城で生まれ、地方貴族の相続人でありながら、地上の黄金、権力、肉欲と決別し、神の使徒としての道を歩みました。1525年、19歳で名門パリ大学に留学して学んでいるとき、戦争で片足を失った37才の転校生イグナチオ・デ・ロヨラに出会い、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになりました。
そして1534年8月15日、ロヨラを中心にザビエル、ファーヴルなど7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立て、これが「モンマルトルの誓い」であり、事実上の「イエズス会創立」であります。一同はローマ教皇パウルス3世の叙階許可を得て、1537年ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階されました。
イグナチオ・ロヨラ(フランシスコ・スルバラン画)フランシスコ・ザビエル(作者不詳)
<トリエント会議と異端尋問>
対抗宗教改革として、何といっても特筆すべきは、1545年から1663年にかけて断続して行われたトリエント会議において、カトリック教理を「改めて確認した」ことです。ルターやカルバンによって辛辣に批判されたカトリック教理でしたが、ここにおいて次のような教理が再確認され、福音主義的信仰思想を拒否しました。
a. ニカイア、コンスタンティノポリス信条を再確認し、教会の真理と規律は「聖書と伝統(聖伝)による」こと、またヒエロニムスの手によるラテン語のヴェルガータ訳を公式聖書 として採用すること。
b.救いは、神の恩寵が義化の根本であるが、「人間の協働(行為)も必要」とすること。(神人協働説)
c.「7つの秘蹟を再確認」。ことに聖餐の秘蹟では、聖変化によりパンとワインがキリスト の体と血となる「実体変質説」(化体説)を確認。ちなみにルターは実体共存説、ツイング リーは象徴説、カルバンは(霊的)臨済説の立場にそれぞれ立っている。
d.「司祭叙階は秘蹟」であること(秘蹟により魂に消えない印が刻印される)や婚姻の秘蹟(司祭と二人の立会人、離婚を認めない)も確認される。
e.「贖宥状は廃止」するも、その意義は認めること。
f.聖人や聖遺物の崇敬、巡礼、修道院制度、煉獄説、諸聖人の通効などの教会の伝統に由来する教義の有効性を確認。
以上がトリエント会議で確認された骨子であります。そして更にカトリックは、「異端審問所」を設置して魔女狩り的な裁判を行い、また「禁書目録」を作成するなどして思想統制を強めていきました。
[カトリックの神学的反論]
カトリックは、宗教改革の中心理念である信仰義認、聖書主義、教会制度について、以下のように辛辣に反論・批判しました。
<義認は過程である>
カトリックは宗教改革の理念に関し反論を強めていきました。先ず信仰義認説に対して、カトリックは「義認は過程である」としました。前記しましたように、真の信仰は必ず善行を伴い、信仰と善行が共働して救いをもたらすこと、即ち信仰と善行は一体となっていると主張しました。いわゆる「神人協働説」です。
この点ルターは、善行は義認の原因ではなく「結果としてのみ可能」であり、従って善行による義認はありえないとしています。
<聖書主義は欺瞞>
またルターの聖書主義について、「伝承(聖伝)を否定し聖書のみ(聖書主義)を主張する福音主義は、仮面を剥げば結局、救いは人間が我儘勝手に『自分は救われた』と思い込む(Mind Cure)主観主義の粗野な哲学にすぎない」と批判しました。(岩下壮一著『カトリックの信仰』講談社学術文庫)。更に同書で聖書主義を次のように批判しています。
「聖書だけを採用して、聖書の基礎となった聖伝を捨つるに至っては、最も滑稽である。キリスト教の信仰が、原始教会内における最初の著述に先立って既に説かれたのは、疑う余地もなき明白な事実で、新約聖書自身がそれを証している。福音書は使徒等のキリストの生涯と奇蹟と教訓とについての説教の一部を書いたものに過ぎず、かつ、これ等の事蹟は、文字に書き表される以前に一定の解釈を附されていた。そうしてその解釈は使徒の権威によって真なるものとして教えられ、かつ、受容れられていたことは、彼等の書簡がまた明らかに示している」
<教会制度への批判>
さらに教会制度についても、「プロテスタント教会の実状は、信者はやはり牧師の教える所に従い、長老は事実教会を統率しているのではあるまいか。而してローマ法王の権威や世界的教会の教権は、独断的なものではなく、聖伝と教会法によって明らかに限定された言わば立憲的なものであるに反し、小法王等の権威と群小教会の教権に至っては、まさに暴君の独裁専制のようだ」と批判しました。
こうしてカトリックは、ルターなどの宗教改革の三大理念を真っ向から批判しました。カトリックから見ればプロテスタントは異端中の異端であり、ルターは正にサタンの代理人でした。
【カトリックとプロテスタントの違い】
ここで、カトリックとプロテスタントの一般的な違いについて、参考のため列挙して説明しておきたいと思います。(以下、カトリックをC、プロテスタントをPと表記します)
a.信者数はキリスト教全体で23億人、その内Cが約12億、Pが7億人である。
b.権威の所在はCが神→教皇→教会→聖書→信徒の順だが、Pは神→聖書→教会(信徒の集
まり)の順になっている。また、義認は、Pは信仰のみ、Cは信仰と行い。
c.聖書に関する態度としては、Cは教会の信仰と規律は「聖書と伝統」とするのに対し、P
は伝統や諸規定に権威を認めず、ただ「聖書のみ」を権威とし、聖書のみが神と人との媒
介者であって教会や司祭ではないとする。
d.Cは聖書の最終的解釈者を教皇とし、聖書解釈の統一性が維持されているのに対して、P
は聖書解釈が各人により、教派毎に主張が異なり、聖書解釈の無政府性が指摘されてい
る。
e.Cは伝統を重視し、ヒエラルキー的な組織(教皇・枢機卿・大司教・司教・司祭・助祭)
を持つが、Pは伝統から解放された自由な信仰、自由な教会設立を主張し、牧師と信徒は
原則平等である。
f.Cは、神父(公式には司祭)は男性のみで独身が原則で、儀式は司祭のみが行う。Pは聖
職者の結婚を認め、女性も牧師になれる。またPでは原則信徒も儀式を行える。信徒全体
が平等に神と繫がっており、牧師と信徒は平等(宗教的民主主義)との思想がある。ルタ
ーはキリストに従う者は、誰でも儀式を行う権利を持つ」と言った。
g.Cには修道院制度(ブラザー・シスター・出家僧)があり、マリアや使徒などの聖人信仰
があるが、Pには一部を除いて修道院制度はなく、聖人信仰を否定する。修道生活は、神
との一致を徹底した形で求めようとする宗教家たちが営んできた特別の生活形態であり、
教会の霊性を支え、社会の精神的支柱を果たしてきた。
h.Cには7つの秘蹟(洗礼、堅信、聖体、告解、塗油、叙階、結婚)の儀典があるが、Pは
聖書に根拠がある洗礼と聖餐だけである。 これらの秘跡は、目に見えない救い(恵み)
を目に見える形で示す行為である。洗礼は聖書に根拠がある(マタイ28.20)両者共通の
儀式であり、回心、信仰告白、入会の儀式として行うが、パウロはその意義を更に神学的
に深め、「キリストの死と復活」に与る洗礼として捉えた。
i.Cは、ミサの本質は聖餐の儀式であり、各教会共通で聖餐は毎週行われる。Pの礼拝は説
教(み言の解き明かし)を占め、聖餐式は通常は行っていない。両者共に、礼拝(サービ
ス)は神の働き、神の奉仕と捉え、人間は奉仕される側、恵みを受け取る側にいる。
j.Cの教会には、磔刑のイエス十字架像、マリア像、聖画などが飾られているが、Pの教会
はシンプルで、象徴的な十字架だけである。
k.葬儀について、Cは死者の罪のゆるしを請い、永遠の命にいたることを祈るが、Pは葬
儀は神と遺族の慰めであり故人への祈りはせず、死者を神に委ねる。
l.教育について、Cはマナー・長幼の序を重視するが、Pは個性を尊重し自由にのびのび
と育てる。
m.Cは器具や薬を使っての人工的な避妊は不可とし、Pは干渉せず個々人に委ねるとす
る。Cは妊娠中絶を禁止するが、Pは一部を除き許容する。
以上、カトリックとプロテスタントの違いを挙げましたが、確かにカトリックの教会はプロテスタントの教会と比べて、装飾的です。先般、日本で最古のカトリック教会である「横浜山手教会)のミサに参加しましたが、祭壇正面の真ん中上に、神々しいイエス・キリストの全身像がご本尊のように、飾られていました。
但し、次の4点はカトリック、プロテスタント共に共有しており、ここから外れれば異端となり、もはや正統なキリスト教とは認められません。
即ち、a.聖書を正典とすること、b.三位一体の神を信じること、c.イエスをキリストであると告白すること、そして、d.福音の3要素を信じること、であります。なお、福音の3要素とは、罪人のために十字架で死なれたこと、墓に葬られたこと、3日目に復活されたこと(1コリント15.3~5)です。また、洗礼と聖餐は両者の共通の儀式であり、主の祈り、使徒信条も両教会で唱えられています。
【宗教間の対話と一致の潮流】
このように、カトリックとプロテスタントは別々の道を歩んできましたが、20世紀になって対話や一致を求める潮流が生まれてきました。即ち、第二バチカン公会議とエキュメニカル運動であります。
トリエント会議(1545年)以来、カトリックは唯一の正統的な教会を自認し、他の教会との協力はありませんでしたし、 第一パチカン公会議(1869年)では、教皇の無謬性(むびゅうせい)が強調されました。しかし、第二バチカン公会議(1961年~1965年)では、宗派・宗教間の対話と協力に大きく舵を切ることになります。これには第二次世界大戦で、同じキリスト教国が悲惨な戦いをしたことの反省の上に立ってのことでもありました。
教皇ヨハネ23世は、第二バチカン公会議で、教会と教義の現代化、科学的世界観の許容、他宗派・他宗教との対話と協力を決定しました。例えば、現代化として典礼の改革がそれであります。それまで、カトリックのミサにおいて、聖書の朗読や賛美などがラテン語で行われていましたが、これをそれぞれの自国語で行うようになりました。
また、1054年以来の、ギリシャ正教との相互破門が解消され、聖公会・ルター派との関係修復も行われました。ヨハネ・パウロ2世によるユダヤ人への謝罪、聖地エルサレム訪問など教派の垣根を超えて諸教会が一致しようという「エキュメニカル」な運動にカトリックは最も熱心な教会になっていきます。
一方、プロテスタント内部の教派間協力運動も推進され、1948年、聖公会を含むプロテスタント諸派が結集した「世界教会協議会」(WCC)が結成され、日本では、1948年、プロテスタント合同の「日本キリスト教協議会」(NCC)が結成されました。また、1987年には、カトリック、プロテスタント合同の「新共同訳聖書」も刊行されました。 更に21世紀初頭には、カトリックとプロテスタントの神学者が共同して執筆し、『カトリックとプロテスタントーどこが同じで、どこが違うか』(教文館)という本を出版しました。この本は、ルーテル学院大学教授徳善義和氏、上智大学教授百瀬文晃氏ら両教会の神学者が7年をかけて一字一句を吟味し検討を重ね、「どこが同じで」という点に照準をあわせて書かれた書籍で教会一致を目指す試みでした。
こうして、カトリックとプロテスタントが違いを超えて一致しようとする流れ、更に宗教間の垣根を越えて一致しようとする流れは、もはや不可逆的な潮流となり、不動のものとなっていくことでありましょう。次回は、ピューリタンやパプティストなどによる「新しいプロテスタンティズム」の勃興を見ていきます。(了)
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