◯つれづれ日誌(令和5年7月12日)-『徒然草』論考ー安倍元首相一周忌法要、天聖経の再発見、戦犯国家発言余波 、日韓宿命論
つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ (徒然草・吉田兼好)
上記の一文は、吉田兼好(1283~1350) が鎌倉時代末期に書いた随筆集『徒然草』の冒頭の一節で、現代訳にすると、「することもないもの寂しさにまかせて、一日中、硯と向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書き綴ってみると、妙に不思議な気分になってくる」となるでしょうか。
【吉田兼好と徒然草】
徒然草には全243段の短編随筆がおさめられ、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならんで日本古典文学の三大随筆にあげられています。 ちなみに随筆とは、心に浮かんだ事、見聞きした事などを筆にまかせてありのままに書いた文章のことで、兼好が自身の見聞きしたこと、感じたことなどを折に触れつれづれに書き綴りました。
吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家であり、治部少輔だった卜部兼顕の子で本名は卜部兼好(うらべ かねよし)です。旧来、吉田神社の神官の家系である吉田流卜部氏の系譜に連なると考えられてきました。歌人としても当時の 「和歌四天王」として活躍し、また30才にして出家したことから兼好法師とも呼ばれています。
さて、筆者が毎週水曜日に発信している文書も「つれづれ日誌」と命名していますが、これは徒然草から取った名前であります。「つれづれ」には、することがなく手持ちぶたさ、取り留めもなく思い巡らす、しんみりとして寂しい、などの意味がありますが、筆者の場合、「肩の力を抜いて時々に思うこと」というくらいの意味と考えています。しかしありがたいことに、最近読者が増え、UCのリーダーやUPFリーダーからも、「つれづれ日誌は参考になる」ということを風の便りに聞いており、また海外、特にアメリカからもエールを送って頂いています。
そこで今回は、直近の出来事の中で、印象に残ったことをつれづれに書き綴ることにいたします。即ち、安倍元首相の一周忌法要、天聖経の再発見、韓鶴子総裁の発言余波、についての3つです。
【安倍晋三元首相の一周忌法要に思う】
この7月8日は安倍元首相の一周忌でした。午前中、芝の増上寺で一周忌法要が執り行われ、午後には、明治記念館で、桜井よしこさんらが音頭をとって、「安倍晋三元総理の志を継承する集い」が行われました。
この「志を継承する集い」では、岸田首相、高市早苗大臣、台湾安倍晋三友の会会長の陳唐山氏、元内閣官房参与の谷口智彦氏、経済学者の本田悦郎氏らが挨拶し、最後に安倍昭恵夫人が御礼の言葉を述べました。安倍首相のスピーチライターを担当してきた谷口智彦氏は「中国の習近平が女系天皇を煽って日本の根幹を潰しにかかっている」と指摘し、暗に安倍事件の山上単独犯説に疑義を呈しました。また安倍夫人は、「父の安倍晋太郎は首相寸前で病に倒れたが、夫は戦後最長の首相を務め、豊かな人生だった」と語りました。
安倍元首相は、地元の吉田松陰を尊敬されていましたので、吉田松陰の辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」にちなんで、奈良市内に「留魂碑」と名付けた安倍元首相の記念碑が立てられたということでした。筆者は前回のつれづれ日誌にて、「安倍元首相は、その死によって、リンカーン大統領のように伝説になり、日本の大祭司になった」としたためましたが、その思いは「志を継承する集い」を視聴する中で、ますます確信となって蘇ってきました。
【天聖経の再発見ーその力、その真理性】
さて筆者は、7年前、聖書3回の通読が終わった直後、「天一国経典(天聖経・父母経・平和経)を3回読みなさい」という神の新たな声を聞きました。その神との約束を果たすべく3回目に挑み、上記一周忌の7月8日、天聖経第一篇第四章の「解放してさしあげるべき神様」(天聖経P99~P138)を精読いたしました。
筆者はこの日読んだUC創始者の「み言」に、改めて大きな発見と感嘆を禁じ得ませんでした。実はこの日、後述する韓鶴子総裁の公集会での発言、即ち「戦犯国家発言」にショックを受け、午前中ベッドから立ち上がれず、極度に落ち込んでいたのです。この韓総裁の発言は、(その深い真意はともかくとして)また一騒動が起こって大変なことになると予想されたからです。
しかし筆者はこの日、当該天聖経を読み直し、正に「目から鱗」の出会いをし、「み言」を再発見いたしました。ここ数年間、キリスト教神学の学びにいそしんできた筆者でしたが、何か靴の上から痒いところを掻くような歯痒さを感じてきたものでした。しかし「み言」は、明確直截に真理を衝き、筆者の疑問に端的に答えてくれるものでした。
しかしこういうことを言うと、「あなたはそんなことに今頃気がついたのですか」と言われそうです。しかし、聖書との出会いがそうであったように、改めて「み言」と出会ったという新鮮さを感じ、今までオブラートに包んだご馳走を食べてきた筆者は、この日、オブラート無しに味わう喜びを体験しました。そこで今回、衝撃を受けた「み言」の内、次の3点に絞って事の顛末を述べることにいたします。
第一は、「なにゆえ悪しき人が生きながらえ、かつ力強くなるのか」(ヨブ記21.7)とヨブが発した問い、即ち「何故悪人が栄え、善人が滅びるのか」という問いです。筆者はかって、何故、神の摂理に献身するUC信者が迫害され、何故、紀藤正樹、山口広、有田芳生、鈴木エイトなどの反対派がマスメディアに歓迎され栄えるのか、何故神は彼らを放置されるのか、と神に談判祈祷をしたことがありました。そしてこの答えは正に天聖経にあったというのです。
「悪なる人々が犯した人類の罪は、善なる人々が犠牲になることによって蕩減されるというのです。従って、蕩減の祭物として善なる人々がたくさん逝ったのです」(天聖経P120)
つまり、かって永井隆が著書『長崎の鐘』の中で、「浦上天主堂8000人のクリスチャンの清い供え物が捧げられることによって、はじめて神は満足された」と述べたように、善なる統一の群れが打たれることで歴史は清算されるというのです。即ち、「神様の作戦は、打たれて奪ってくる作戦であり、サタンは打って滅びていくのです」(天聖経P126)とある通りです。
第二は、個人完成と家庭完成の問題です。「家庭連合」という名前が語るように、UCは、社会の基本は「家庭」であり、家庭の価値を何よりも強調しています。しかし筆者はこの考え方に一種の不均衡を感じてきました。何故なら、家庭は個人から構成されており、個人が確立しない限り家庭の確立もないと思ってきたからです。この点、「み言」は次のように述べており、我が意を得たりという感がいたしました。
「個人が完成できなければ、新しく自覚された家庭が形成されず、従って新しい民族も国も出てくることができません。ですから統一教会では、個人の完成を決意して立ち上がるのです。神様は、個人復帰の完成を何よりも待ち望んでこられました」(天聖経P122)
第三は、来るべきキリスト(再臨主)に関することです。筆者は、旧約聖書が予定しているメシアは、神のひとり子、即ち罪(原罪)なき第二アダムたるキリスト(イエス様)であったように、新約聖書が予定しているひとり子、即ち再臨のキリストは、第三アダムとして来られる、イエス様の相続者たる「罪(原罪)なきキリスト」であると信じできました。正にこれが聖書的メシア像です。そして天聖経は次のように来るべきキリストを証言し、筆者の聖書的確信はこの「み言」によって裏付けられました。
「これまで神様は、復帰摂理の全般的な目的を、時代を超越して一人の完成した男性に置き、それを標準にしてこられました。そして、その完成した男性を中心として一人の女性を立て、一つの家庭完成の標本をつくろうとされたのですが、それがメシア思想なのです」(天聖経P122)
「真の愛と真の生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探して立てなければなりません。創造の時にアダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理でも、堕落と無関係な息子を先に立てなければなりません」(天聖経P122)
このように復帰摂理は、先ず「創造目的を完成した男性(アダム)」を求めてきたというのです。更に天聖経は、再臨主が如何なる目的、如何なる基盤の上にこられるかについて、次のように明記しています。
「再臨主は、創造理想を完成すべき真の本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成されるために来られます。彼は、既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の基台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が成長して大人になるまでの勝利的な基盤の上に正しく立たれ、彼が果たせなかった(本然の)新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救って下さるのです」(天聖経P135)
そして天聖経170ページには、「神様がイスラエルの国とユダヤ教を建てられたのは、メシアを迎えるためです。メシアとは真の父です。また、キリスト教とキリスト教文化圏をつくたたのは再臨主を迎えるためです。再臨主は、第三次アダムとして来られる真の父です」とあり、更に天聖経149ページには、「まず真の父に代わり得る一人の男性が現れなければなりません。それで、神様のみ前に『私はひとり子だ』とイエス様が言われたのです。ひとり子が現れたのですが、ひとり子だけではいけません。ひとり娘を探して、神様を中心として、互いに喜ぶ位置で結婚しなければなりません」と、ひとり子、ひとり娘について明記されています。ちなみに、聖書でいう「ひとり子」とは、たった一人という数的な意味ではなく、メシアという意味、ないしは神が特別に愛する子という意味であって、その意味で、イエス様も文鮮明先生もひとり子です。
以上の通り「天聖経」は、筆者の疑問に回答を与えてくれました。まさに「み言」の再発見であり、目から鱗とはこのことです。
【韓鶴子総裁の発言余波について】
ところで、先月末、韓国で行われた集会にて、韓鶴子総裁が語られた内容が、日本で思わぬ波紋を呼んでいます。即ち、「日本は第2次世界大戦で敗戦した戦犯国家で、賠償をしないといけない」「岸田(首相)をここに呼びつけて教育を受けさせなさい」などといった発言です。
<ある信徒とのやり取り>
この件について、多くの信徒から筆者の見解を聞きたいという問い合わせが入りました。以下は、筆者がある信頼できる信徒にメールした内容です。
今回の韓総裁の発言は、予想通り反対派、左傾マスコミに格好の餌(えさ)をあたえましたね。私が一番胸を痛めたのは、徳永弁護士や花田編集長、小川榮太郎氏、長尾敬前議員など、UCを擁護して下さってきた保守の論客に冷や水を浴びせるようなことになって申し訳ないということでした。
もう一つの懸念は、今まで韓総裁を擁護していたような純粋な食口の気持ちが冷え込んでいることで、これは深刻です。とにかく今回の韓総裁の発言は、安倍元首相の一周忌を前にしてあまりにもタイミングが悪かった、一周忌を基点に局面が好転すると思っていましたが、出鼻をくじかれたというのが正直な実感です。
この韓総裁の発言、特に戦犯国家発言がお母様の日本の状況への認識不足なのであれば、何故、側近リーダーらは前もって韓総裁に助言し、レクチャーしなかったのか、あるいは助言したが届かなかったのか、あるいはこれが韓総裁の信念で、全てを知った上での本音なのか、等々、色々考えさせられます。確かに今回の韓総裁の発言は、よく読むと、「日本は母親の国として、世界宣教を助けたが、これは日本の国のためになった」と言っておられるのですが、その全体文脈の真意がどこにあるのかは別にして、結果的に断片だけが切り取られて独り歩きし、マスコミの餌食にされました。
この筆者の見解に対して、次のような趣旨の返事が返ってきました。
「正に同感です。岸田政権や左翼勢力による憲法違反による宗教迫害や弾圧は絶対に許すべきではありませんが、反日と揶揄されている日韓の歴史認識に関しては、この際、しっかり整理して弁明・反論する必要があります。同時にUC内にくすぶる日韓の歴史認識の違いを先送りせず、UC内においてきちんと共通認識を持つべき時ではないでしょうか。世界日報は如何なるUC内の風潮にあっても、反共と愛国の社是を貫いています。今回の発言を通じて、UCが取り組まねばならない大きなテーマが、歴史認識と民族問題だということが浮き彫りになりました」
上記の返信メールに対して、筆者は更に次の通り回答しました。
「UCは『カルト団体』とのレッテルと並んで、UCは『反日団体』とのレッテルは大問題です。徳永弁護士もカルトよりむしろ反日風評が深刻だと指摘されている通り、左翼は『UCは反日団体』とのレッテルを使って、UCと保守派の分断を狙っているというのです。そもそも戦犯国家といった概念は、半世紀前の歴史認識であり、時代錯誤も甚だしいものですが、この日本の保守派が一番嫌う『戦犯国家』発言を、左翼は徹底的に利用するでしょう。即ち、『反日レッテル』と『日韓歴史問題』、この2つは避けて通れず、ご指摘の通り、この問題のUC内での決着は重要です。特に日本の事情については、お母様によくよく理解、納得して頂くことが大切で、これはお母様の側近を通じて進言してもらうしかないでしょう。私もつれづれ日誌や『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』(P67~P71)でかなり論じていますので、この問題の解決の一助になれば幸いです」
<歴史認識の相互理解>
さて、一般論として、第二次世界大戦(大東亜戦争)の認識について、東京裁判史観によれば、この戦争は日本のアジア「侵略戦争」であり、日本は「戦犯国家」であるというものであり、一方、日本の保守派は、欧米の植民地搾取からアジアを解放した「解放戦争」と位置付けています。
また、日韓歴史認識について、韓国は日韓併合を日帝による植民地支配であるとし、国民を隷属化し搾取した侵略行為と考え、一貫して謝罪と賠償を求めてきました。一方、日本の保守派は、日韓併合による日本の支配は、結果的に韓国の近代化と民主化に貢献し、またロシアによる朝鮮半島の植民地支配を防ぐために止むを得なかったと主張します。
このように、歴史認識の双方の考え方は大きく異なりますが、どちらが正しくて、どちらが間違っているといるということとは別に、このように異なった考え方があるということ自体を先ず認識し共有することが大切であり、この事実は韓鶴子総裁にも十分認識して頂くことが肝要であります。
つまり、「日本が戦犯国家であるから賠償しなさい」といった発言は、ことのよし悪しはともかく、日本のUCを懸命に擁護して下さっている保守派の論客が、一番嫌う言葉であることをしっかり認識しなければならないということです。ましてや反対派が喧伝するように、これが献金を促す動機づけであるとするならなおさらです。もちろん、韓総裁の発言は、むしろ分別を迫る天情から出た愛情表現であるかもしれません。しかし、「み言」や「摂理」を語る場合、民族主義が色濃く出ることには慎重でなければならず、あくまでも世界人韓鶴子総裁の言葉であること熱望いたします。そしてまた、情報管理の杜撰さが指摘されていますが、特に教団トップの発言は、しっかり管理すべきであることは言うまでもありません。
もとより筆者は、文鮮明先生ご夫妻を真の父母(キリスト)と信じ、韓鶴子総裁を真の母として仰ぎ慕う心情において人後に落ちるものではありません。しかし、誤解を恐れず申せば、特にUC創始者の聖和以後、韓鶴子総裁の言葉に反日主義と韓国民族主義が色濃く出ていると「誤解される発言」が散見され、よくよく真意を説明して注意を払われると共に、かって世界を回られ、徹底的な神主義、世界主義を宣布されたあの輝かしいご父母様を想起して頂くよう心から進言し祈念するものです。
余談になりますが、韓鶴子総裁の「岸田(首相)呼びつけ発言」は、「その通りだ。私もLGBT法案ごり押しの一件では、岸田を呼びつけたい」とか、 「当たらずとも遠からずのところもある」との論客の言葉があることを付け加えておきます。
<日韓の過去と未来ー宿命国家論>
筆者は、「つれづれ日誌(令和3年3月31日)-久保木修己著『愛天愛国愛人』を読んで(5) 」において、宿命としての日韓関係論を論じました。
確かに日本の統治それ自体は、台湾と同様、結果として韓国に近代化と民主化をもたらすという成果を挙げました。日本の統治時代、朝鮮の食糧生産が増え、衛生環境も改善され、餓死者や病死者が激減し、朝鮮半島の人口が1300万人から2500万人に倍増したことは周知の事実であります。 創始者も、「日本による韓国併合は、再臨摂理のための経済基盤、社会基盤を造成するために、神が後押しした」と言われました。
しかし、韓国には支配されたものとしての感情的反発があり、この意味で、統治人格の問題と共に、日本は韓国の民族的感情をよく理解し、配慮しなければなりませんし、韓鶴子総裁もご指摘の通り、朝鮮戦争特需で戦後の疲弊した日本経済が蘇り、神武景気のきっかけになったことも忘れてはなりません。また、日帝の偏った国家主義、戦勝による慢心、汚染された宗教思想などの堕落性は、一旦清算されねばならず、その意味で、太平洋戦争は国家的回心をして日本が新生するための敗戦という神の分別だったかも知れません。
創始者は、日韓問題は「人間の知恵では解決出来ない」と明言され、日韓はもはや善悪の道理の彼岸にある「摂理的な宿命国家」であるというのです。そして久保木修己元会長が指摘された通り、ここに神の摂理があることは確かです。即ち、日韓関係は、両民族、両国家における「摂理的な宿命論」の問題として捉えた方が正解であると筆者には思われます。この点、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領も、「既に日本は何度も謝罪した」と言われ、半世紀も前の歴史観を持ち出すのではなく「未来志向の日韓関係こそ重要だ」と指摘されている通りです。
以上、最近筆者が感じたことを、つれづれに書き綴りました。異論、反論は歓迎いたします。(了) 牧師・宣教師 吉田宏