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慈善活動の動機を考える 倫理法人会に見る宗教と倫理の関係について

◯つれづれ日誌(令和5年4月19日)-慈善活動の動機を考えるー倫理法人会に見る宗教と倫理の関係について


神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた(伝道の書3.11)


この4月15日、和歌山市で、岸田首相に爆発物を投げ込んだ木村隆二容疑者(24)は、刃渡り13㎝のナイフを持参し、自宅にも火薬粉末が見つかりました。こ の青年は、参議院選挙立候補に年齢制限があるのは憲法違反だとしていますが、安倍元首相を殺害した山上哲也が英雄視されるのを模倣して襲った可能性が濃厚であり、テロリスト山上容疑者に正統性を与えた左傾化したマスコミや言論人への警告だと思われます。


さて最近、安倍元首相へのテロ事件に端を発したUCバッシングも、表面上沈静化の傾向にあるようです。しかし、文部科学省はUCに対し昨年11月22日から5回の「質問権」を行使し、解散命令を裁判所に請求するための「証拠固め」の最中にあります。


4月9日に、都道府県及び指定都市の議会議員及び長の選挙が終わり、4月23日には指定都市以外の市、特別区及び町村の議会議員及び長の選挙が行われますが、「一連の統一地方選挙が終わるまでは、政府は解散請求の判断を先延ばしするだろう、そして解散理由を見つけるのは難しいだろう」との筆者の観測は、やはり正夢になりそうであります。


月刊誌『Hanada』に「『統一教会』に信教の自由はないのか」と題する論考を寄せた元武蔵野大学教授杉原誠四郎氏は、「旧統一教会の霊感商法等の批判と解散請求は本来、別問題だ」と指摘し、「宗教法人の解散は刑事事件を犯したものしか解散させていない」とした上、「もうしばらく年月が経過ぎると世間の目が覚めてきて、旧統一教会を不公平にいじめたという反省が出てくるだろう」と見通しを述べられました。(ワシントン・タイムズインタビュー)


この安倍元首相テロ事件に際して、筆者はホームページにこれまでに約20本の関連記事を投稿し、特に「宗教の本質」という視点から、色々論評いたしましたが、その結論は次の3点に集約されるでしょう。


第一は、この事件には、背後に「全能の神の深い経綸(計らい)がある」ということ、


第二に、安倍晋三元首相は、岸信介、安倍晋太郎と共に、日本とUCの「守護聖人として働かれる」との確信、


第三に、神はUCとその信徒に、真摯な「悔い改めの機会を与え給もうた」、ということであります。


そしてこれらの確信は日毎に深まっています。

 

【宗教と倫理】


ところで最近筆者は、 「倫理法人会」のリーダーであり、社会奉仕活動をされている方々と懇談する機会があり、色々と意見を交換し、「社会奉仕活動(ボランティア)の力(動機)の源泉」、そして「倫理と宗教の関係」について、改めて考える時間を持つことになりました。


即ち、慈善活動に象徴される社会奉仕活動(ボランティア)における、動機と力の源泉についての論考です。


<倫理法人会とは>


「倫理法人会」とは、丸山敏雄が1950年ころ設立した「倫理研究所」(一般社団法人倫理研究所)の主要部門に位置付けられ、倫理研究所の趣意書には「純粋倫理の研究並びに実践普及により、生活の改善、道義の昂揚、文化の発展を図り、もって民族の繁栄と人類の平和に資する」とあり、御木徳一の「ひとの道教団」(現在のPL教団)の流れを汲む非宗教系の倫理啓発団体であります。


倫理研究所では、倫理とは即ち「幸福のための人の道であって宗教ではない」とし、倫理・道徳を旨とするよく似た団体として、倫理研究所からの分派とも言える「実践倫理宏正会」(上廣哲彦設立)や、道徳科学を標榜する「モラロジー研究所」(廣池千九郎設立)があります。


倫理研究所の理念は、丸山敏雄の著書『万人幸福の栞』にそのエキスがあり、17箇条の標語(金言)にまとめ、万人幸福の道として、特に「明朗」(ほがらか)、「愛和」(なかよく)、「喜働」(よろこんではたらく)を挙げています。この17カ条は丸山敏雄が「ひとのみち教団」での探求や人生の苦闘を通じて体得した幸福になるための人生訓であり、非宗教としているものの、その根底には丸山の神体験、宗教体験が厳然とあります。


即ち、「ひとの道教団」幹部時代、神と一体となる「神体験」、弾圧の獄中で「大我」の悟りを得た信仰体験が基礎となって生まれたものであり、「宇宙の生命、統一の中心、万象の根源、これを神あるいは仏と言う」とし、「万象は神の発顕、世界は神の顕現、人は神の性をうけて現れる」 との世界観・人間観を有しています。これは、正に聖書が示す世界観・人間観であります。


<倫理の源泉としての宗教>


このように、倫理法人会や実践倫理宏正会は、自らを宗教ではないと標榜していますが、前記の丸山敏雄の神体験に象徴されるように、倫理を根拠付ける宗教無くして倫理は成り立たないと筆者は考えています。


モーセの十戒の1戒から4戒までが神と人間の関係を規定する信仰箇条、5戒から10戒までが人間と人間の関係を規定する倫理箇条と呼ばれていますように、倫理箇条は信仰箇条が前提となっています。聖書には、大きく宗教教理(救いについて)、倫理・道徳の教え、役事(癒し・奇跡)の3つが書かれていますが、倫理的真実の源にあるのは宗教的真実であり、救いに関わる宗教教理と離れて倫理はありません。


ただ倫理には、有神論が前提となっているものだけでなく、無神論、乃至は不可知論的なものが前提になっているものもあります。無神論的な倫理の場合は、そもそも神を前提しないので、合理的理由を超えた絶対的規範というのは出てきません。


このように、宗教と倫理は人間の生き方や人間関係の在り方を指し示すという点では同じ方向を向いていますが、その拠って立つ原理が異なるというのです。人間が生きる意味について、宗教は人知を超えた究極的解答を用意しますが、倫理は人知の範囲での良心に依拠した合理的な問題提起に留まります。


端的に言えば、慈善活動の主な動機には、宗教的動機、倫理的動機(良心的動機)、現実的動機があり、持続的で発展的なボランティアは宗教と信仰から発すると思料いたします。従って、宗教的根拠や動機を持たない倫理は、実践力を失い、やがて消滅することになるでしょう。


【二人の慈善活動家の場合】


ここで筆者は、倫理法人会に所属する二人の慈善活動家をケーススタディーに倫理と宗教の関係を考えたいと思います。


<A氏の場合>


一人は熱血教師「なかよし先生」の愛称で知られる社会貢献活動家のA氏です。既に20年に渡って恵まれない子供たちにランドセルを贈ったり(いわゆるタイガーマスク運動)、25年に渡って難病の子供をディズニーランドに招待するなどの慈善活動を行い、児童養護関係など幾つかのボランティア法人を立ち上げています。また、与えることの意義と喜びを語ったベストセラーの啓発本を出しています。


筆者はA氏に一つの質問をいたしました。「あなたが慈善活動を行う動機は何ですか」と。


彼は倫理法人会に所属しているものの、特別何かの宗教を信じているとか、信仰を持っているとかの形跡はなく、一人の良心家にしか見えません。そうして色々聞いて見ると、一つの「原体験」がありました。


彼は教師時代に障害児童のクラスを担当していましたが、その時、筋ジストロフィーに侵された頭のいい生徒の死(13歳)に衝撃を受けたというのです。その生徒は、将来国際弁護士として世のため人のために生きる夢を持ち、また一度でもいいからディズニーランドに行きたいと言っていたといいます。彼は夭折したその生徒の夢を叶えてあげたいと思ったというのです。


そして彼の慈善活動のもう一つの体験は、ビジネス時代に過労で重病になり、二ヶ月間入院したことでした。病気になって、深く人生を振り返り、今まで見えなかったものが見えるようになり、聞こえなかったことが聞こえるようになりました。このことが奉仕活動へのきっかけになったと、著書の中で証言しています。


つまり彼は、人生のある時期、人間や社会の根本問題について、深く考えさせられる「特別な出来事」に遭遇し、この原体験が奉仕活動への大きな動機になったというわけです。


彼の他にも、自分の子供の病気や障害がきっかけとなって社会奉仕活動に目覚めるケースや、自らの特別な生い立ちが動機となる場合も多々あるようです。これらも人生の中で遭遇した「特別な原体験」と言えるでしょう。


つまり、この「特別な原体験」は、疑似宗教体験として良心に作用し、自らを社会奉仕活動を動機付けることになるというのです。


筆者はこの慈善活動家と渋谷で会った時、彼から意外な質問を受け、目から鱗でした。彼は買ってきた真新しい聖書を筆者に見せ、「牧師になりたいがどうすればいいですか」と聞いてきたのです。この時、慈善活動の根本的動機について知りたいという強い欲求を彼の中に感じて、「では、聖書の学びから始めましょう」と答えておきました。


<B女史の場合>


もう一人のB女史は、中学2年の時にカトリック教会で洗礼を受け、洗礼名は「セシリアMika」だそうです。


ちなみにセシリアとは、ローマ帝国の貴族でしたが、彼女が改宗させた夫や友人たちとともに、230年頃殉教したと言われ、音楽家と盲人の守護聖人とされています。神奈川県大和市にカトリック系の聖セシリア女子中・高学校があります。


B女史は、倫理法人会で活動する傍ら、君が代奉唱歌手で皇居清掃の奉仕活動や知覧特攻基地研修ツアーを企画し、一方では「Lobby大作戦」(LoveとHappyの短縮)と称して「愛と幸せの七つの法則」の標語を広める活動をしています。この「愛と幸せの七つの法則」は、倫理法人会を創設した丸山敏雄氏の著書『万人幸福の栞』が原点になっており、これを彼女流に端的に表現したものです。


筆者はかねがね彼女のボランティア活動の動機と力の源泉がどこにあるのかについて、つまり彼女を社会奉仕活動に駆り立てているものは何かについて大変関心があり気になっていましたので、思い切って次の質問をいたしました。


「あなたを奉仕活動、『愛と幸せの七つの法則』を広める活動に駆り立てるものは何んですか」


B女史曰く、「私は毎朝神に祈りを捧げ、神から力を得て、人々の喜ぶ姿を見たいがために押し出されるのです」と。


つまり、彼女は今、特定の宗教に帰依しているわけでも、特別の信仰を持っているわけでもありませんが、本心において神を知り、その神から力を得ているというのです。そしてこれは前述した「なかよし先生」の疑似宗教体験と類似しており、ある種のシャーマン的な霊的体質の持ち主だとお見受けしました。


従って、彼女が既に感性で知っている神を、体系的(原理的)に説明してあげ、良心的動機から宗教的動機へ引き上げてあげればいいのです。筆者は、これから本物の「セシリアMika」になりましょう、そのために聖書の勉強をする事を約束して下さいと言って別れました。


【ボランティア活動の二つの力の源泉】


さて前述しましたように、ボランティア活動には、大きくの二つの力の源泉があると思われます。一つはいうまでもなく「宗教的・信仰的動機」であり、そして今一つが「倫理的・良心的動機」です。加えて、企業の社会的責任や個人の 宣伝行為と言った「世俗的動機」も第三としてあるかも知れません。


<高い良心水準と正義感>


UC創始者は、「良心は師に優り、父母に優り、神に優る」と語られ、人間の良心は第二の神とも言えると言われ ました。また聖書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とある通りです。


よき良心の持ち主は、特別、体系的な宗教や信仰を持たなくても、良心を動機として、より善のための社会貢献活動に奉仕することができるというのです。 前記した二人の慈善活動家は優れた良心の持ち主であり、それが特別な原体験で目覚めたものと言えるでしょう。


また、社会的な貧困や差別を撤廃しなくてはならないと言った「正義感」から出た社会改革活動も無視出来ません。 筆者は学生時代、正義感から部落解放運動に関与しましたが、しかし結局中途半端に終わりました。今一筆者をかりたてる動機付けが弱かったのです。社会的正義感や、差別差別に対する憤りだけでは長続きするはずがありませんでした。


<宗教的・信仰的動機>


しかしなんと言っても、宗教的・信仰的動機、即ち神に根差したものが、最も活力に満ち、最も強力であり、最も永続的なものと言えるでしょう。


筆者は、つれづれ日誌(令和4年11月9日)「モザンビーク太陽学校外務大臣表彰取消に思うー非キリスト教国家日本の大失態」の中で、「もし信仰的信条に基づいて為す慈善活動を、この度の日本の外務省のように否定するなら、およそ世界の慈善活動は存在できないことになるでしょう。何故なら慈善活動のほとんどは、キリスト教などの信仰が土台になって成り立っているからです」と明言しました。


「モザンビーク太陽中学校・高校」を設立して、長年モザンビークでボランティア活動を行っている宝山晶子さんもその一人です。短期間赴任で交代するJICA(青年海外協力隊)やPKO(国際連合平和維持活動)と違って、現地に骨を埋めるボランティアは信仰的信念がなければ、できるものではありません。


マザーテレサは、「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という神からの啓示を受け、また、「これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである」(マタイ25.45)との聖句で回心し、修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていきました。


長崎世界遺産に登録された隠れキリシタンの里である「外海」(そとめ)地域の貧困からの脱出のために、私財(現代価値で約20億円)を惜しみなく投じたフランス貴族の息子「ド・ロ神父」(1840~1914)もまたそうでした。


かって筆者は、「つれづれ日誌(令和4年7月6日)-澤田美喜記念館を訪問して」の中で、岩崎弥太郎の孫娘である澤田美喜が隠れキリシタンの遺物を収めた記念館と共に、孤児児童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立したことを紹介しました。澤田女史は敬虔なクリスチャンであり、これらの慈善活動はひとえに信仰心から生まれたものであり、キリスト教信仰を抜きに、こうした犠牲的な奉仕は不可能であります。


左*マザーテレサ  中*ド・ロ神父  右*(エリザベツ・サンダースホーム)澤田美喜


もしこれらの信仰的動機を(外務省のように)否定するなら、慈善活動そのものを否定することになるでしょう。何故なら「マザーテレサの貧民救済活動」や「エリザベス・サンダース・ホーム」などに見た通り、慈善活動のほとんど(90%以上)は宗教的信念に基づいた人々によって担われているからです。


聖書には色濃く弱者救済思想が現れており、繰り返し「寄留人・寡婦・孤児・貧しい者・弱い者」を大切にしなければならないとの記述があります。


「あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。あなたがたはすべて寡婦(やもめ)、または孤児を悩ましてはならない」(出エジプト22.21~22) とあり、「飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ」(イザヤ58.7)とある通りです。エレミヤ書にも「寄留者、孤児、やもめを虐げず」(7.6)とあります。


また、イエス・キリストは次のように言われました。この聖句は聖アントニウスの回心聖句です。


「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになる」 (マタイ19.21)


以上、今回は慈善活動、ボランティア活動の動機付けについて、二人の慈善活動家をケーススタディーに、宗教(信仰)、倫理(良心)、世俗(自己表現)という側面から見て参りました。そして、信仰は倫理に優るという重要な結論を引き出すことができました。(了)

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