◯つれづれ日誌(令和4年5月18日)-憲法フォーラムに参加してー憲法に神の復権を!
日本の戦後総決算は、憲法改正を以て完結す!(中曽根康弘)
この5月15日、横浜市緑公会堂において、神奈川県自民党主催で「憲法フォーラム」が、高市早苗さんを講師に迎えて開催されました。筆者は、以前総裁選挙に際して高市早苗論をしたためていたこともあり、大変興味があり参加いたしました。
高市さんが、どういう憲法認識をされているのか、憲法改正について如何なる見解をもたれているのか、そして特にウクライナ戦争との関係で日本の安全保障について憲法の欠陥をどう見ておられるのか、について知りたかったからであります。
加えて筆者は、かねてより日本国憲法の最大の問題として、根本理念が欠如していること、即ち魂が入っていないことを感じていましたので、この際、憲法の根本理念、即ち憲法と宗教の関係について持論を述べたいと思います。
【憲法フォーラムー高市早苗さんの話し】
冒頭に神奈川自民党県連会長の小泉進次郎議員の挨拶があり、神奈川自民党内に、従来の憲法改正推進本部を改編して、憲法改正実現本部を設置したこと、つまり、今までの「推進」ではなく「実現」としたことを述べられ、そのためには参議院で改憲発議に必要な3分の2が必要であること、従って、7月に行われる参議院選挙で神奈川から出る福祉の三浦じゅん子と経済の浅尾慶一郎を何が何でも当選させて欲しいことを訴えられました。
<高市早苗さんの話し>
そしていよいよ高市早苗自民党政調会長の登場です。白の服を羽織って颯爽と登壇され、40分ほど憲法改正の必要性と緊急性について、歯切れよく、力強く、そして理路整然と、時々関西弁を交えて語られました。さすがに日本初の女性首相の呼び声高い高市さんならではの、説得力あるスピーチでした。
先ずはじめに、憲法とは国家統治の在り方を示す基本規範であり、国家権力を縛る「制限規範」であると共に、国法体系の頂点に立って権限を与える「授権規範」であることを説明され、世界の中で一度も憲法改正が行われなかった国は日本だけであり、憲法改正は世界の常識であることを述べられました。
曰く、アメリカは18回、オーストラリア8回、ドイツ65回、カナダ27回、インド104回、韓国9回、というように憲法改正が行われているのに、日本だけが無改正というのは驚きだというのです。
そして改憲の内容として自民党の改憲案4項目、即ち、①自衛隊の明記、②緊急事態対応条項、③合区解消・地方公共団体改革、④教育充実(教育理念の規定)、の説明がありました。
その内、特に憲法9条の2として自衛権行使の実力組織である「自衛隊保持」を明記し、憲法上、自衛隊を明確化すること、地震や疫病など国家の非常事態に備える「緊急事態条項」を新設することの二点が強調されました。
つまり、現行憲法では、自衛権も緊急事態も曖昧であり、このような「お花畑」の国は日本だけという訳で、これは、マッカーサーの占領下にあって、未だ日本の主権がなかった当時、GHQによって押し付けられた急ごしらえの外国製憲法であるからだというのです。つまり、現行憲法は「無国籍憲法」だというのです。
そして過去自らが議員立法を提案し、その成立に尽力してきたことが語られました。例えば、国旗損壊の問題です。現在の法律では、国旗に関して、外国国旗には損壊罪があり、外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊・汚損することは犯罪であり、刑法92条1項で禁止され罰せられます。しかし、肝心の日本国旗(日章旗)を損壊しても処罰されないというのは理不尽であり、国旗の損壊は、日本の国旗であっても処罰の対象にするべきというのです。
これは何も高市さんでなくても、極く当たり前の話しでありますが、高市さんの、この議員立法の提案は、リベラル派が反対し、「このような法律は、憲法の表現の自由に抵触する」という理由で日の目を見なかったというのです。
このようなことは、小さいことから大きなことまで幾つもあり、その度に悔しい思いをしたと高市さんは述懐されました。
そして最後に、ウクライナ戦争に言及され、「何故世界がこぞってウクライナを応援するのか」と問題提起され、「それは、ウクライナの国民が命がけで祖国を守るために戦っているからです」と語られました。これは、ウクライナ戦争が決して対岸の火事ではないこと、そして自らの国を守る気概のない国を誰も助けてくれないことを教えていると明言され、次の言葉で締めくくられました。
「国の究極の使命は、『国民の生命と財産を守り抜くこと』『領土・領海・領空・資源を守り抜くこと』『国家の主権と名誉を守り抜くこと』だと考えています」(高市早苗著『美しく、強く、成長する国へ』P28)
筆者は講演終了後、高市さんとお会いし、高市さんに関する筆者の二本の論評「自民党総裁選に思う①ー高市早苗著『美しく、強く、成長する国へ』を読んで」「自民党総裁選に思う②ーサッチャー、メルケル、そして高市早苗へ」を手渡したいと思って楽屋裏に行きましたがガードが固く、やむなく秘書に預けてきました。この文書は、高市さんが尊敬されているサッチャーの真骨頂が「キリスト教信仰にこそある」ことを述べた文書です。(神よ、導きたまえ!)
さて筆者は、高市さんの話しを聞きながら、現行憲法の最大の欠陥は、「無国籍憲法」であること、そして憲法に「根本理念が欠如」していること、この二つであると認識しました。従って、この二点を如何に克服していけばいいのかとの問題意識のもとに、以下の通り論考したいと思います。
<自民党の改憲に関する冊子より>
その日、憲法フォーラムの会場で、「日本国憲法の改正実現に向けて」という表題の改憲に関する小冊子が配られました。この冊子に、改憲への要点が端的にが書かれていますので、先ず、この冊子の骨子を紹介いたします。
1.基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の憲法三原則を、これからも死守する。
2.現行憲法は、日本の主権のない状態で制定されたため、憲法の生い立ちに問題があり、国
防規定や緊急事態規定が存在しないという欠陥がある。
3.憲法は、時代の変化、社会の変化に対応してアップデートしていかなければならない。
4.国会で憲法改正を発議し、その賛否を問う国民投票に国民が参加することは、国民主権の
最大の発露であり、その権利は大切にしなければならない。
5.憲法改正は、自民党立党(1955年11月15日)の党是であり、これは党の原点であり、また
日本の原点でもある。
6.憲法改正実現本部を全国に設置し、党内体制を強化し、世論を喚起する。
7.自民党改憲4項目の確認、特に、9条の2として、日本の平和・独立・安全を守るために、
実力組織として「自衛隊を明記」すること、及び自然災害・疫病などから国民を守る「緊
急事態条項」を創設する。
8.国会で3分の2での発議、国民投票での過半数の賛成、という2段階の手続きを後押しする
ため、国民の理解と世論の盛り上りを期す。
概ね、以上のような骨子でありますが、筆者も、この自民党の政策を基本的に支持したいと思います。ただ、後述しますように、憲法前文に国柄を表明し、憲法のよって立つ 理念を宣言できれば、なお完全になると思料いたします。
中国・北朝鮮・ロシアといった核保有国の脅威に囲まれている日本は、この度のウクライナ問題を反面教師にして、日本の平和と安全を真剣に考える待った無しの時に来ていると思われます。
【法・憲法とは何か】
日本の憲法に欠陥があることは、前記で述べた通りですが、先ず、そもそも「憲法とは何か」についておさらいし、次に日本国憲法の欠陥とその克服について論じることに致します。やや専門的になりますが、お付き合い下さい。
教科書通り定義すると、憲法とは、「国家統治体制の基本を定める法」であり、「人権保障の体系」であります。そして憲法も「法」ですので、宗教や倫理・道徳と同様、「規範」の範疇に入る概念であります。
ちなみに規範とは、人に一定のことを「すべし」、もしくは「すべからず」と命ずる規準であり、その究極的価値がなんであるかによって、規範の種類も分かれることになります。「真」を論証するための「論理規範」、「善」を実現するための「倫理・道徳規範」、「美」のための「芸術規範」、「信仰」のための「宗教規範」、そして「秩序」を実現するための「社会規範」、などであります。そこで先ず、社会規範である「法とは何か」について論ずるところから始めることに致します。
<法とは何か>
法とはある特定の社会集団のなかで守られるべき「とりきめ・おきて・きまり・さだめ・規則」と言えますが、国法の場合は、「 国家の強制力を伴う社会規範(法律)」と一応定義できるでしょう。
法律には成文法と不文法、実体法と手続法、公法と私法、国際法と国内法などに分類され、近代法では、「法のもとの平等」が謳われます。
さらに、法は、法の源、即ち法源によって、「神の法」(永久法)、「自然法」、「実定法」に分類されます。「神の法」とは、神の意思あるいは神の理性であり、神定法として文字通り神が啓示によって定めた法で、モーセの十戒は典型例です。 トマス・アクィナスは,キリスト教の聖書によって啓示された法を指すとしました。ちなみにアメリカ最高裁判所には「十戒」が、日本の最高裁判所には「十七条の憲法」が掲げられています。
「自然法」とは、人為を越えた自然や理性を基礎として存在する法であります。ここで自然とは、理法(ロゴス)、理性、良心、普遍的理念などがこれにあたります。神の法のうち、人間の心の中に書き込まれたものが自然法であり、古来、法は人の心の中に在ると言われる所以です。
また、「実定法」とは、民定法として、憲法、民法、刑法など国が定めた現行法です。神の法・自然法は、実定法より高次の規範であり、実定法に妥当性の根拠を与え、法的価値判断の規範となるものです。
そもそも法は、それを守らなければならないという「規範意識」によって支えられなければなりませんが、規範力の源泉には、神、宗教、道徳、慣習、習俗、正義の観念、利益衡量などが挙げられるでしょう。
神が人間の本性や理性の創造主とすれば、自然法の究極の法源は神となります。この傾向は特にキリスト教の自然法論において顕著であり、例えば、アウグスティヌスにとって、自然法の法源は神の理性ないし意思であり、また、トマス・アキナスにとって、自然法とは宇宙を支配する神の理念たる永久法の一部であります。
即ち、究極の法源は神ということになり、「神みずからが法であり、それ故に神は法を愛する」との格言は然りであります。トマスは、実定法は自然法によって根拠づけられ、自然法は神の法によって根拠づけられるとし、神こそ究極的な授権規範だとしました。
故に聖書は「神を知る(恐れる)ことは知識のはじめ」(箴言1.7)と言っています。
但し、 実定法を唯一の研究対象とする「法実証主義」の立場の法学者は、そもそも神の法、自然法を認めてはいません。
<権利とは何か>
次に、実定法としての近代法の本質について、筆者の体験を踏まえて論じることに致します。
法は英語でRight、ドイツ語でRecht、と言いますが、このRight(Recht)には、法・権利・正義という三つの意味があります。即ち、客観的に見れば「 法」、主観的に見れば「権利」、理念的に見れば「正義」であります。従ってRightは、法であり、権利であり、正義であります。
特に、近代法は「権利の体系」と言われ、権利を中心概念に据え、法の目的は権利の実現であり、それは正義の理念によって導かれます。
権利とは、義務の対概念で、「法律によって保護された利益」であり、義務とは、あることをなし、あることをしないように、法によって命じられることであります。そして法律関係とは即ち、「権利と義務」の関係であります。
さて上記しましたように、ローマ法系譜に属する日本の法体系は近代ヒューマニズムに基礎を置くもので、義務ではなく「権利」という概念を中心に構成され、その中心理念は正義です。法は正義を目的とし、それは権利の実現によって達成されます。
しかし信仰の論理では、権利は否定的な脈絡の中で考えられ、権利を主張するより、むしろ 義務の履行こそ信仰の要求するところであります。従ってこの信仰理念とは対極にある「権利」という概念を理解するには、立ちはだかる霊的な壁を越えねばならず、筆者は悪戦苦闘いたしました。
筆者が始めて「法律が分かった」と思ったのは、法律に取り組み始めてから3年過ぎた時、突如として「権利」という概念が鮮明に理解出来たと実感した瞬間でした。
前述のように、Right(Recht)には、法・権利・正義という三つの意味があり、従って、法・権利・正義はいわば三位一体の概念であり、その中心に位置するのが権利であります。この法・権利・正義と言う三位一体の概念がはっきり観念できたとき、初めて自分は法律家になったと思いました。
但し、権利はその対概念である義務の履行の上に立つ言葉であることは言うまでもなく、問題は、この権利を何が根拠付けているかであります。
<憲法とは何かー立憲主義について>
では次に、今回の命題である憲法について考えることにいたします。
前述しましたように、憲法とは、国家の統治体制の基本を定める法であり、また人権保障の体系として、国法の最高規範であります。
そして、高市さんも語られましたように、憲法には、国法の頂点に立ち、国法に規範的妥当性を与える「授権規範」という性格と、国権を制限して権力の暴走を防ぐ「制限規範」という二つの性格があります。つまり、憲法の名宛人は国民であり、また国家自体でもあるというのです。
そして日本国憲法を含め、近代憲法は、いわゆる「立憲主義憲法」であります。立憲主義とは、端的に言えば、憲法の中に、「三権分立」と「人権保障」の規定がある憲法思想であり、1798のフランス人権宣言16条に、「権利の保障が確保されず、権力の分立も定められていないあらゆる社会は、憲法をもたない」と明記されている通りです。
高橋和之編『世界憲法』(岩波書店)には、「立憲主義とは、国家権力の行使を権利保障と権利分立を核心原理とする憲法に従って行うことを求める思想であり、広い意味での『法の支配』の近代的形態である」(P27)とあります。ちなみに法の支配とは、「国王といえども神と法の下にある」との言葉の通り、何人と言えども、より高次の法(憲法を含む根本法)に従うという考え方であります。
この立憲主義の思想は、「権力は必ず腐敗し、そして膨張する」という人類の歴史的教訓から生まれた思想でもあり、プーチンのように、長きに渡って(22年)権力の座にあると、腐敗し堕落するというのです。従って、アメリカの大統領の任期は最大8年であり、韓国は1期5年となっています。
近代憲法は、この立憲主義の思想を取り入れ、立法・司法・行政の三権分立が制度化され、信仰の自由を核とする人権規定が謳われ、全体として法の支配が反映されています。即ち、国家の秩序維持と共に、国家自らが憲法により自己制限を課しているというのです。
そして、この立憲主義に基づく法の支配の考え方には、普遍的真理が含まれていると思われ、神の法を中心とする天一国憲法の中にも、法の支配が反映されるべきであると思料いたします。
【日本国憲法の根本欠陥について】
以上の論議を踏まえて、以下、日本国憲法の根本的欠陥について、筆者の考えるところを述べたいと思います。
<憲法改正は前文の改革から>
現実的な改憲の方向性については、前述した自民党の改憲案に譲るとして、本来、抜本的に変えるべきは憲法前文であります。憲法前文には、その国の国柄や根本理念が反映されている、いわば憲法の魂であります。
憲法学者の八木秀次氏は、歴史の連続性を自覚していた明治憲法に対して、現憲法にはそれがないと指摘され、それぞれの国の憲法で、政治制度や人権規定などは、どこの国も似たり寄ったりで大きな違いはないが、どこが大きく違うかと言えば、それが「前文」だと述べられました。
即ち、八木氏は、著書『憲法改正がなぜ必要か』(PHP)において、「前文にこそ、文化的、歴史的なその国の由来、そして国柄といったものが表現され、そこから立ちのぼる国家の理念が高らかに謳われているのです」(P99)と指摘されています。
例えば大韓民国憲法前文は「悠久なる歴史と伝統に輝く我が大韓民国は」の書き出しで始まり、ポーランドでは「巨大な犠牲によって贖われた独立のための戦い、国民のキリスト教と全人類的価値に根差した文化に感謝し」と表明されています。またキリスト教やイスラム教国家では、多くが「全能なる神の名において」といった表明をしています。
つまり前文は、国家の歴史的連続性、先人らの努力により今日があること、それを守る義務があり、その淵源が何に依拠するか、を明らかにするものであるというのです。
また、同じ憲法学者の西修氏も、世界の憲法前文には、その国の歴史と文化を謳い、国家の理念が表明されているとしているとし、「そこには日本国の歴史、伝統、文化、国柄などにも言及されてしかるべき」と言われています(『ざんねんな日本国憲法』ビジネス社P106)。先般他界した石原慎太郎は、日本国憲法前文は、文学的に稚拙な文書であり、幾つかの文法的な誤りがあると酷評しました。
即ち、現行の日本国憲法には「日本の顔」が見られず、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といった抽象的な他人任せの文言は、正に無国籍憲法との謗りを免れません。
以下、世界の憲法の前文を概観したいと思います。
立憲君主制を採用するイギリスは不文憲法ですが、「マグナ・カルタ」や「権利の章典」など、伝統的に蓄積されてきた文書に基づき憲法を構成しており、その原則的部分である立憲君主制、議院内閣制、人権保障などは一貫して維持されています。
1297年、エドワード王によって確認されたマグナカルタ(大憲章) 第一条は次のように規定され、自由・人権が神に由来することが宣言されています。
「イングランド教会が自由であり、その権利および自由全体が不可侵であることを神に認め、朕および朕の相続人のために本憲章によって永遠に確認する」(マグナカルタ 第一条)
また、1788年に作られたアメリカ憲法は、世界最古の成文憲法ですが、 1775年7月4日の独立宣言の精神を継承しています。この独立宣言には、人間の権利は神から付与されたものであることを謳っています。
「すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利をあたえられており、その権利のなかには生命、自由、幸福の追求が含まれている」(独立宣言冒頭)
また諸国では、前文に、神ないし宗教に憲法が根拠づけられていることが謳われています。
ドイツ基本法前文(1949年)には「ドイツ国民は、神と人間とに対する責任を自覚し」とあり、スイス憲法前文(1999年)は「全能の神の名において!」との書き出しから始まります。
イラン憲法前文(1979年)は、「イスラム社会の真の熱望を反映したイスラム的原理と戒律に基礎を置くものである」と謳われ、パキスタン憲法前文(1973年)は「至高権は全知全能の神アラーにのみ属し」とあります。
また、中国や韓国などでは、前文にその国の歴史、伝統、文化を謳っています。
中華人民共和国憲法前文(1982年)には「中国は、世界でもっとも古い歴史をもつ国のひとつである」という文言から始まり、大韓民国憲法前文(1987年)は、「悠久の歴史と伝統に輝くわれら大韓民国は、3.1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に立ち上がった4.19民主理念を継承し」とあります。
<憲法の思想的淵源ー真の改憲とは>
さて上記の八木氏は、『憲法改正がなぜ必要か』のまえがきの中で「日本国憲法が前提としている国家観は、17世紀イギリスの思想家ジョン・ロックが提示した社会契約モデルに基づいたもので、個人の生命・自由・財産を確実に保障するためにこそ、人々が社会契約をして国家を作ったとする国家観である」と指摘され、その国家観には、歴史的共同体である日本や日本らしさという観念が欠如しているというのです。
もともとロックは、敬虔なクリスチャンであり、人間はすべて、唯一人の全智全能なる創造主の作品であり、神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである、故に個人固有の「生命・自由・財産」を、神に由来する権利・人権としました。しかし日本の憲法は、この肝心な「神に由来する権利」という観念が割愛され、ただ外的な社会契約の思想だけを取り込んだというのです。
そしてこのロックの思想を引き継いだのが、アメリカの独立宣言であり、アメリカの憲法であります(同著P39)。上述のように、アメリカ独立宣言には「自明の真理として、全ての人は平等につくられ、造物主(神)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福追求の含まれることを信ずる」と明記され、これがアメリカの憲法にに相続されました。
そして日本国憲法は、アメリカ憲法の影響下で作られ、日本の憲法でありながら、またアメリカとは事情が異なるにもかかわらず、歴史的存在としての日本や天賦人権思想を排除し、正に無国籍、無理念、無宗教の憲法であり、これが最大の欠陥であり、そしてその元凶が憲法前文だというのです。
このアメリカの独立宣言やアメリカ憲法の考え方は、日本国憲法の第13条に、その影響が見られます。
「第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
つまり、価値の究極的担い手は個人にあるとする個人主義に基づき、全ての国民は個人として尊重さること、即ち人権尊重とは「個人の尊厳」を守ることであるというのです。
この点、京都大学教授の佐藤幸治氏は、著書『憲法』(青林書院)の中で、立憲主義や個人の尊厳の価値について述べられた上、では、「人間は何故に固有の尊厳」を有するのか、そもそも「個人の尊厳とは何で、どのようにして基礎付けられるか」に答えるのは限界があると吐露され、結局、宗教信条や自然法なくして根拠付けは難しいと告白されました。
このように、最大の問題は、日本国憲法が歴史や伝統を相続していないというだけではなく、ロックの思想やアメリカの独立宣言には、少なくとも神から付与された権利・人権という観念があるのに対して、日本の憲法には、この人間の尊厳を基礎づける宗教信条が欠如しているというのであり、神なき人権は、傲慢や利己主義の温床になりかねません。
日本国憲法前文には「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し」とありますが、権威は国民に由来するものではなく、本来、神に由来するものであります。そしてこれこそ、日本国憲法の致命的な欠陥であり、従って、日本国憲法に「神の復権」が不可欠だというのです。
「画竜点睛を欠く」(がりょうてんせいをかく)との言葉が示す通り、日本国憲法に神という眼を入れなければならないということであり、これこそが、「真の改憲」であります。 それには、真の神を受け入れる「国家的回心」が待たれるところです。
以上、今回は「憲法フォーラム」に参加し、憲法改正、国防、国民の権利と義務、そして憲法の思想的淵源について考察いたしました。皆様の意見をお聞かせください。(了)
上記画像*上:憲法フォーラムで講演される高市早苗議員、下:ジョン・ロックの肖像
Comments