○つれづれ日誌(令和4年3月16日)-政治(家)と宗教(信仰)の関係についての考察
先般、家庭連合(旧統一教会)への発言問題に端を発して、筆者と青山繁晴参議院議員との間で、書簡のやり取りがありました。
後述するように、青山議員は言論界出身の保守の論客であり、70名以上の議員を擁する「日本の尊厳と国益を護る会」の代表として、今や日本を代表する保守主義政治家と言ってよく、筆者もかねてより注目していました。
今回筆者は、この一件を通して、もう一度、信仰の自由の価値、宗教と国家の関係(政教分離)、宗教と政党、そして特に宗教(信仰)と政治家の関係について考えさせられました。この機会に、これらを考察したいと思います。
【宗教と国家の関係について】
先ず、「宗教と国家の関係」については、イスラム圏のように、特定の宗教を国教として、宗教と国家が一体となって神権政治(セオクラシー)をとっている国もありますが、アメリカや日本のように、国教を制定したり、特定の宗教と国家の結び付きを禁じる「政教分離」を国是としている国もあります。
<政教分離規定>
アメリカにおいては、1791年に合衆国憲法修正第1条(権利章典)が制定され、この権利章典では国教が禁止され、宗教の自由が明記されました。
修正第1条前段
「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律は、こ れを制定してはならない」
しかしアメリカの政教分離は、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるように、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みにする、という点に重点が置かれたもので、アメリカの公的領域において、宗教が一定の役割を果たすことは伝統的に是認されてきました。
そしてアメリカの影響を受けた日本国憲法にも政教分離の規定が設けられました。
日本国憲法第20条
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
<政教分離の意義>
前記の憲法条文に見るように、政教分離の考え方は、「信教の自由」が前提となっており、人権の中の人権ともいうべき信教の自由を担保するための「制度的保証」だというのです。
つまり、中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついてそれが一体となっていたため、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた歴史がありました。またイギリス国教会からの迫害を受けたピューリタンが、信仰の自由を求めて新大陸に移住してきたように、国家と特定の宗教が結び付くことによって信教の自由が侵害されてきた歴史があり、このような歴史的教訓から政教分離の思想が生まれたというのです。
しかし、「宗教」と「政治」の結び付きは違法ではなく、宗教団体が特定政党を応援することも、政党を作って政治活動をすることも自由であることは言うまでもありません。ましてや、政治家が特定の宗教を信仰し、それを政治に反映することは自由であります。
とりわけアメリカにおいては、宗教と政治(国家)の係わりは密接であります。
米大統領は聖書に手を置いて宣誓し、大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われ、また最高裁判所にはモーセの十戒が掲げられています。
アメリカ合衆国議会・裁判所・軍隊・警察・刑務所・公立病院には「専属牧師」が置かれ、国会開会は牧師による祈祷から始まります。
またアメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには「IN GOD WE TRUST」(我々は神を信じる)の文言が刻まれ、「星条旗に対する宣誓」の中には「one Nation under God」(神の下にある一つの国家)という文言があります。
即ち、アメリカにおいては、キリスト教は国家、国民のアイデンティティーであり、国家が国教を制定したり、特定の教派と結び付きさえしなければ、宗教が国家に関与することは原則自由であります。
【政治家と宗教(信仰)】
ところで、日本の政治家は、自らの帰依する宗教や信仰について、あまり積極的に公表しない傾向がありますが、欧米、特にアメリカはそうではありません。自らの信仰を明らかにし、またその信仰を政策に反映させようと努力いたします。
<アメリカ大統領の信仰>
アメリカの歴代大統領は、そのほとんどが、政治家であると同時に敬虔なクリスチャンでもあり、その政治政策は、多かれ少なかれ、帰依するキリスト教信仰の世界観、歴史観、教理に深く根差しています。
歴代大統領の信仰を類別すると、大別して「市民宗教型」(アメリカ教型)信仰と「ボーン・アゲイン型」(新生型)信仰の2つに分けられると思われます。
「市民宗教」とは、宗教学者のロバート・ベラーが唱えた言葉で、「ピューリタリズム・アメリカ的選民観・愛国心」から成り立っているアメリカの国民的精神性と言っていいでしょう。森孝一氏(同志社大学教授)はそれを「見えざる国教」と言い換えました。
即ち、市民宗教とは、「敬虔な聖書的霊性」、「世界に特別な使命を持つ祭司の国」といった信仰が融合した、教会の垣根を超えた聖書的愛国信条であります。日本で言えば、鈴木大拙が唱えた「日本的霊性」(日本教)と呼ばれる概念です。
そして「アメリカは神の特別の使命のもとにあり、神に源を持つ個人の尊厳・自由・人権といった普遍的価値を世界に拡散していくことがアメリカの使命である」とのアメリカ的選民観は、歴代大統領に共通する信条であります。これがマニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)と言われているものです。
これは、アメリカの「三つ子の魂」と言える17世紀ピューリタンの入植から始まる約100年間に形成されたアメリカの精神性であり、ワシントン、リンカーン、アイゼンハワー、レーガンは、この市民宗教の信奉者でした。
一方、「ボーンアゲイン型」大統領、即ち信仰的回心(新生)を体験した大統領としては、リンカーン、カーター、クリントン、ブッシュ、を挙げることができるでしょう。
これらアメリカ大統領の信仰については、筆者ホームページ「アメリカ大統領の信仰」に詳細を記していますので、ご参照下さい。(https://www.reiwa-revival.com/)
こうして、偉大なアメリカ大統領は、多くが祈りの人であり、在職中の日曜礼拝はほとんど欠かしたことがなく、また、演説には必ず聖書を引用しました。
ワシントンは独立戦争の最中、アメリカに寄せられる神の大いなる摂理を体感し、一人で神に祈ることが日課でした。リンカーンは聖書に精通し、まるで牧師が聖書を解くように国民に語りかけ、「アメリカの預言者」「市民宗教の神学者」と呼ばれました。
「ボーンアゲイン」(新生)した典型的な大統領として知られているのはカーターです。彼はもともと福音派の牧師で、初仕事がホワイトハウスの執務室に祈祷室を作ることだったそうです。多忙な選挙期間中でも、就寝前には必ず聖書1章を読むことを日課としていました。
また、ブッシュ(ジュニア)は事業の失敗とアル中で苦しみましたが、40歳代で回心を体験し、神を確信して立ち直ったと言われています。
このように、歴代の大統領は、市民宗教の体現者として、あるいは個人的にボーンアゲインを体験した信仰者として、まさに篤実なキリスト者というアイデンティティーの持ち主であるというのです。
<平和サミットに見る政治家の信仰>
この2月11日~13日、THINK TANK 2022「韓半島平和サミット」が開催されましたが、今回のサミットは、国連NGOのUPF(Universal Peace Federation.天宙平和連合)が主催し、ワシントン・タイムズが後援しました。
そしてこのサミットは、元国連事務総長の潘基文(パン・ギムン)氏、及びカンボジア首相のフン・セン氏が共同組織委員長を務め、多くの国家元首や世界要人がスピーチを行いました。アメリカ勢としては、トランプ元大統領、マイク・ベンス元副大統領、マイク・ポンペイオ元国務長官、投資家のジム・ロジャーズ氏、著名牧師のポーラ・ホワイト氏などのそうそうたる要人が居並び、これらアメリカ勢によるスピーチがありました。
特にトランプ氏は、トランプ大統領のメンターであるポーラ・ホワイト牧師から韓鶴子女史についての人柄や考え方の話を聞かされていると述べ、ワシントン・タイムズにも感謝を述べられました。そして締め括りに、人間は神聖な存在であり、政府からではなく、「全能なる神から平等な権利と自由と尊厳を与えられている」と語り、自由の中でも宗教の自由がすべての自由の基盤であると強調しました。
トランプ自身は、プロテスタントのクリスチャンで、常々、「アメリカは祈りによって支えられている国」と述べ、「神無き民主主義には如何なる生産性もない」と断言しました。トランプの「Make America Great Again」というスローガンの真の意味は、アメリカをもう一度「神に選ばれた特別な国」、「自由と民主主義の宣教の国」に復活しようという意気込みでありましょう。
またマイク・ペンスは、自らは原則的な保守主義政治家であるが、その前に「キリスト者」であると明言しました。そしてキリスト者らしく、冒頭「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5.9)を引用し、自由・民主・家庭・信仰の自由・人間の尊厳という共通の価値を守ることを呼び掛け、「神と共にあれば不可能はない」とまるで牧師の説教のように語りました。
<日本の政治家>
翻って日本の政治家はどうでしょうか。日本の政治家の演説から、先ず「神」という単語を聞くことはありません。まして聖句の引用などは論外です。せめて仏典からの引用でもと期待しますが、それもほとんどなく、これらは、八百万の神々を信じる多神教の宗教風土から来るものだと思われます。
しかし、大平正芳は敬虔なクリスチャンでしたし、麻生太郎のカソリック洗礼名はフランシスコであり、石破茂の家系は歴代クリスチャンで本人もプロテスタントの洗礼を受けています。また、石橋湛山は僧籍を持ったまま首相を務め、綿貫民輔は神主でありながら衆議院議長を務めました。
美智子上皇后はカソリックの聖心女子大学で学び、雅子皇后もカソリックの雙葉学園で学ばれ、両者キリスト教の影響を強く受けておられます。また、安部昭恵夫人はカトリック系の聖心女子学園で一貫教育を受けています。
こうして見ると日本も捨てたものではありません。1ぺテロ2章9節に、「選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民」とある通り、日本もアメリカと同様、神の摂理を担う国になり得る精神性があると信じるものです。
ちなみに日本には、鈴木大拙が名付けた「日本的霊性」があると言われています。日本的霊性とは、「自然・先祖・天皇を敬い、和と清浄を好む」という精神性で、山本七平はこれを「日本教」と呼びました。
よい政治にはよい宗教が欠かせません。そしてこれからの日本の政治家は、最大の同盟国であるアメリカ大統領とその政権のキリスト教信仰を理解するべきであり、この理解なくしてアメリカの世界政策を真に理解することは出来ません。
【石原慎太郎の場合】
令和4年2月1日、かの石原慎太郎が89才で死去いたしました。筆者は、石原の死に際して、この型破りの作家にして政治家の生き様と思想について、追悼の意を込めて論評いたしました。(HP「石原慎太郎の死に思う」参照)
<預言者石原慎太郎>
一般的にメシアの役割には、統治者としての「王」、神と人間の仲介者たる「祭司」、時代を警鐘し改革を提言する「預言者」、という3つの顔があるとされていますが、その段から言えば、石原はさしずめ「日本型預言者」と言えるでしょう。
預言者の具体的な役割とは、王や権力に対しては「腐敗の糾弾」を、民に対しては不信仰の「悔い改めを迫る」ことでした。従って、預言者は王からも民からも嫌われ、悲惨な人生を余儀なくされました。
<石原慎太郎における宗教と信仰>
実は石原は、霊友会の信者で、法華経に親しみ『法華経を生きる』(幻冬舎)という本まで書いています。その本の中で「法華経に関しても、お前の宗派はいったい何だと問われれば、石原教とでもしかいいようがないが、俺は俺の教祖だと自惚れてみても、私の信者も私しかいない」(P50)と告白しています。
「石原慎太郎は霊友会の信者、長男の石原伸晃は崇教真光、そして三男の石原宏高は幸福の科学に入信しており、一族で別々の新宗教からの支援を受けている」と物の本に出ていますが、衆議院議員宏高に言わせれば、「オヤジは法華経だが、実際は『石原教』なんだ」と言ったといいます。
石原は、哲学者のように「自分とは何か」という実存的な課題を真面目に探求し、法華経の中にそれらしき回答を見いだしたかに思われますが、彼はあくまでも求道者、あるいは哲学の徒であって、信仰者ではありませんでした。最後まで、「自分」あるいは「日本」が発想の原点であって、キリスト教のように超越的な「神」ないしは「人類」からの発想は希薄だったと言えるでしょう。
従って、「贖い」や「救い」という境地までは知るよしもなく、人は死んだら自分にとっての神と出会うんだと言いつつも「死後の世界は存在しない。虚無だけだ」(文藝春秋四月号)と、さ迷いつつ、求める人として、自己流のそれなりの納得感、満足感を持ってかの国に旅立ったと思われます。
こうして遂に石原は、「真の神」にまでは至ることは出来ませんでしたが、日本的預言者だったことは確かです。預言者は「ぶれない、群れない人種」、いわば一匹狼であり、王からも民からも憎まれ役でした。石原が、最後に「人に憎まれて死ぬんだ」とテレビて言い放ちましたが、そもそも、改革者、預言者は「憎まれ役」であることを肝に銘じたいものであります。
【青山繁晴議員の場合】
さて、冒頭の青山繁晴参議院議員についてですが、筆者は、青山議員のユーチューブ「僕らの国会第264回」での発言内容、つまり、世界平和統一家庭連合(旧統一教会、以後「家庭連合」)に関する発言について、その真意を図りかねず、「お尋ね」の文書を郵送いたしました。
この一件は、信教の自由や宗教と政治家の関係について考えるよい機会になると思われますので、先ずは事の顛末をしたためることにいたします。
<青山議員への手紙>
即ち筆者は、「僕らの国会第264回」での青山議員の家庭連合に関する発言について、以下の通り、令和4年2月1日付け配達証明郵便で「お尋ね」を郵送し、発言の真意を尋ねました。
<お尋ね>
寒さ厳しい折り、青山繁晴議員には益々ご活躍のほど、お慶び申し上げます。
さて、この度、青山議員がユーチューブで発信された本年最初の「僕らの国会第264回」での発言内容、つまり、世界平和統一家庭連合(旧統一教会、以後「.家庭連合」と呼びます)に関する発言について、お尋ねしたく、失礼を顧みず一筆したためる次第であります。
青山議員は、当該動画の中で、中国習近平の異様な個人的野望の厄災を縷々述べられました。その上で、中国の支援を受けている政治家がいること(具体的には金銭やいわゆるハニートラップによって工作されていること)は、それらの政治家が隠して裏でつながっていても、アメリカが把握していることを述べられ、同様に家庭連合に支援されている政治家がいることが判明したこと、そして特にそれらの政治家が家庭連合に支援されていることを隠していることを問題にされました。
また、自分が家庭連合や中国の支援を受けているのならアメリカは自分と議論はしない、と明言され、あたかも中国と家庭連合を同視するかのような誤解を招く発言をされました。
この青山議員の発言に関して、家庭連合の多くの信者から問い合わせが頻繁しております。即ち、私を含め、私たち家庭連合の多くの信者は、青山議員の政策や愛国心に大いに共感を抱いており、ある意味で私たちの代弁者であるといった心情を持っていましただけに、今回の発言はショックであり、その真意や意図を図りかねております。
つまり、一部信者は、あの青山議員の発言が中国の工作と同じ脈絡の中で語られていましたので、家庭連合を、中国の工作と同列に見た批判ではないか、また視聴者はそのように受けとめるのではないか、と危惧している訳であります。
そこで、この度、特に政治問題に関心のある信者を代表して、先ず、あの発言の真意と意図を知りたいたいと考えております。更に、仮に青山議員が家庭連合に何らかの疑義、ないしは否定的な感情を抱かれているのであれば、それがどのような懸念なのかを率直にお聞きしたいと考えております。
私たち家庭連合は、教祖が韓国人であり、「家庭連合は韓国ロビーであり、反日団体ではないか」との風評があることは承知しております。従って、先ずは青山議員の意見をお伺いし、思い当たるふしは鋭意改善する材料とさせて頂き、またあわせて青山議員の疑義乃至は誤解を解くことが出来れば、これに過ぎたる喜びはありません。
上記のような趣旨をよくご理解頂き、忙しいとは思いますが、近い内にお会いしたいと希望しております。僭越ですが、お会いできる日時、場所を指定して頂ければ幸いであります。
なお、私、吉田宏のプロフィールは、下記ホームページに掲載しています。
令和4年2月1日
参議院議員青山繁晴殿
住所〒100-8962
東京都千代田区永田町2-1-1 参議院議員会館1215号室
TEL03-3581-3111
家庭連合信者有志代表吉田宏
〒226-0025
横浜市緑区十日市場町1258番地
十日市場ヒルタウン1-3-507
電話090-3504-6430
メールh-yoshida@coda.ocn.ne.jp
HPサイトhttps://www.reiwa-revival.com/
<青山議員からの回答>
前記の通り、筆者が出した「お尋ね」に対して、3月9日、回答の自筆の封書(4枚)が届きました。それによると、次のような内容でした。
1.中国共産党独裁政権と家庭連合とを同一視などは一切していない。(動画を文字起こしして再点検した)
2.信教の自由は人間の根元的な自由であり、自分はあらゆる宗教の自由を尊重している。また個人的には神々が好きであり、エルサレム、メッカ、ラオスのお寺、などを尋ね、宗教者と懇談してきた。
3.動画で指摘したのは、政治家(立候補者)は有権者に支持団体を明示すべきだということであり、支持団体(宗教団体)自体を批判しているのではない。
前記のような手紙の内容であり、筆者としては、青山議員と膝を交えて会って意見を交換したかったのですが、先方はウクライナ問題などもあって、寝る暇もないそうです。
一応、私たちの意思は青山議員に伝わったと思いますので、「お尋ね」を出したこと自体は良かったと思いますし、青山議員から、きちんと回答があったことは、一歩前進と言え、青山議員には敬意を表する次第です。
なお、筆者が「お尋ね」を出すに際して、日韓平和フォーラムの長野氏の仲介により、家庭連合本部の担当部署とは事前に意見交換し、意思疎通を図ることができたことを申し述べておきます。
<青山議員に見る宗教観>
さて、青山議員は、回答の中で「信仰の自由は根元的な自由」と述べ、「エルサレム、メッカ、ラオスのお寺、などを尋ね、宗教者と懇談してきた」と述べて おられますように、宗教には基本的に造詣が深いとお見受けいたしました。
青山議員(69才)は、元共同通信の記者で、危機管理や安全保障を研究するシンクタンク「独立総合研究所」を立ち上げ、メディアにも広く活躍されている方であります。安倍晋三元総理から押し出されて政治家になってからも、超派閥の国会議員集団「日本の尊厳と国益を護る会」の代表として、国政に大きな影響を与えています。
筆者は、以前から動画や著書を通じて、国際情勢の分析や、率直かつ大胆な人となりに共感を抱いてきました。
青山議員は、『西郷南洲翁遺訓』第三十番「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也」という言葉を好み、また彼の政治信条の中で、この遺訓を実践していると明言しています。
そのため、政治献金を一切受け取らず、また宗教団体をはじめ、如何なる団体の支援を受けないとのことであり、その信念からすれば、 宗教団体の支援を受け、しかも有権者にそれを開示しないのは不節操と写り、「政治家(立候補者)は有権者に支持団体を明示すべきだ」との発言になるのでありましょう。
しかし、ある国会議員秘書の話しによれば、そもそも政治家は数多くの団体や個人から支援を受ける存在であり、いちいち開示することは、いかにも煩雑であるとの意見もあります。
実は青山議員の母親と実姉は、カルバン派の信仰を持つ「敬虔なキリスト教徒」であり、自身は幼少期から聖書を読まされた経験があるとのことであり、カトリック系ミッションスクール(淳心学院中学校・高等学校)出身であります。(Wikipedia)
しかし青山議員は、「自分はいかなる特定の宗教にも帰依していない」と公言されています。つまり宗教的感性の持ち主であり、宗教に造詣があるものの、かの石原慎太郎と同様「青山教」の信者であると、筆者は理解しました。
<青山議員の原体験談>
しかし青山議員は、いわゆる霊的体質があり、大東亜戦争で無くなった将軍らの霊から、「祖国を頼む」と懇願されたといいます。そして、それに類する霊的体験をいくつかの動画でも告白されています。
最近筆者は、青山議員の動画「ぼくらの国会・第294回」を聞く機会があり、その最後の部分で、図らずも自らの霊的体験を吐露されていました。
かってエルサレムを訪問した青山議員は、イエス・キリストが歩いたゴルゴタの十字架への道、ヴィア・ドロローサ(「苦難の道・ゴルゴダ」の意))を歩き、四番目の礼拝場「聖母マリアの出会いの場所」で、とんとん、とんとんと背中を叩く音を感じたと証言しました。
古くから、ゴルゴタへの道行きの巡礼は行われていましたが、14世紀以来、イエスへの死刑宣告から埋葬にいたる各場面が 14図として聖堂内に図示されるようになり、信者たちはそのひとつひとつの場面を見て黙想しました。これらは、新約聖書の「四つの福音書の記述」や「キリスト教の伝承」などから想定されるイエスの最後の歩みの場面です。
即ち、①死刑宣言、②十字架を荷い、③転倒、④聖母との出会い、⑤シモンの助け、⑥聖ベロニカイエスの顔を拭い、⑦2度目の転倒、⑧エルサレムの女への慰め、⑨3度目の転倒、⑩衣をはがれ、⑪十字架への磔刑、⑫十字架上での絶命、⑬降架、⑭埋葬、から成る 14の礼拝所であります。
あの時青山議員を(背後から)とんとんと叩いた手は、多分、神の指だったと筆者は思います。あるいは青山議員の背後の霊だったかも知れません。とにかく神霊を感じる感性を、生来持って生まれたのだとお見受けしました。
青山議員は家庭連合創始者なみに、睡眠時間は毎日二、三時間だといわれ、一種超人的な活動をされていると聞いています。筆者は牧師として、青山議員が母親の薫陶を想起され、成約再臨時代の「よき預言者」たらんことを祈るばかりです。(了)