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断捨離とは何か 本棚の整理に思う

○つれづれ日誌(6月9日)-断捨離とは何か-本棚の整理に思う


さて、皆様は「断捨離」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか。筆者は、死去した配偶者の持ち物を整理する中で、断捨離という言葉を想起いたしました。そう言えば、ある「君が代」奉唱歌手の方から、「今私は断捨離中です」との話しを印象深く聞いたことがありました。


断捨離(だんしゃり)とは、沖正弘が提唱したヨーガの思想で、1976年の著書『ヨガの考え方と修業法(上巻)』において使われ、また一方、作家の「やましたひでこ」さんが、著書『断捨離』を書いて好評を博し広がりました。2010年には新語・流行語大賞にノミネートされました。(Wikipedia)


【断捨離とは】


断捨離は、ヨーガの行法である断行・捨行・離行に対応し、断とは、入ってくる不要な物を断つこと、捨とは、不要な物を捨てること、離とは、物の執着から離れること、という意味があると言われています。


即ち、ヨーガの行法が元になり、単なる物の「片付け」ではなく、諸々の執着から自らを解放し、真の自由を手に入れようとする思想であるというのです。



やましたひでこ氏は著書『断捨離』(ダイヤモンド社)の中で「モノを断ち、ガラクタを捨てれば、執着も離れていく」と言い、また、断捨離とは「出すこと」だとも述べています。余分なものが体に溜まれば良くないように、入るだけ入って出ていかないのは、停滞を生むと主張しました。(P190)


但し、所有物を最小化しようとする「ミニマリス」と、最適化しようとする「ダンシャリアン」は、明確に区別すべしと、やました氏は言っています。物を溜め込むのは、モノに「思い」が詰まっているからで、溜め込んだ物を捨てることにより、むしろ執着から解放されるとしました。


【本当に必要なものが明らかになる】


確かに断捨離とは、執着から離れることに本質があるといわれますが、筆者にとって断捨離とは、「本当に必要なものは何か」を見出だすことでありました。


<本棚の整理>


さて筆者は、1ヶ月ほど前、新しく本棚を購入しましたが、この度やっと組み立てて、雑然と積まれていた本を整理することができました。筆者の住む市営住宅は、民間のマンションと比べ、玄関とベランダがかなり広くとってあり、この玄関のスペースを利用して本棚の置場所にするというわけです。


5年前、この市営住宅に移り住んだ時には、小さな本箱一個しかなかったのに、いつの間にか増え、四畳半の自分の部屋には収まりきれず、玄関先のスペースを利用することになりました。そしていまやその本棚の95%以上が、キリスト教を中心とした宗教書で占められています。


<蔵書の断捨離を敢行>


実は9年ほど前、筆者は思い切った蔵書の断捨離を敢行した経験があります。それは、かのバビロン捕囚のイスラエルのように、全てを失ってどん底に陥った只中で、神の言葉と出会った時のことでありました。


神の言葉(聖書・原理講論・み言集)と六法全書だけを残して、あとの政治・法律・経済・歴史・思想・文学など、他の一切の蔵書を処分したのです。かれこれ十数個を越える段ボールになったでしょうか。


それは、「唯一にして最大の財産は神の言葉である」との神の声を実践するためでした。唯一必要なものだけを残し、他の全てを捨てることにより、残されたものの価値が身に染みました。断捨離の本質とは、外的には片付け、内的には執着からの解放であると共に、「何が最も大切なものであるかを明らかにすることにある」との筆者の確信は、このようにして実証されたのです。


<分別された蔵書>


かくして筆者の蔵書は、聖書と六法の数冊だけになり、本箱などは不必要になりました。捨てたことで、本当に必要な本は数冊だったということが分かったのです。絶対的に不可欠なものと、二次的なものとの分離です。しかしやがて蔵書は増え続け、今や玄関まで溢れるようになりました。前記しましたように、こんどはそのほとんどが宗教書であります。


ただ今回は、明らかに前とは性質を異にしています。明確な動機と目的に裏付けられた分別された蔵書であり、以前のように雑然としたものではありません。当に「神の言葉は唯一の財産である」とのインスピレーションを実証するものです。


あのエズラ記9章の光景が思いだされます。バビロン捕囚帰還後、異民族との雑婚の問題が信仰の妨げになるとして大きな課題になっていました。エズラは、「雑婚」(異教徒との結婚)の罪が蔓延していることを知って憂慮し、異民族の妻子と離縁し、追い出すことを求めました。


ソロモンの事例でもそうでしたが、異民族との結婚は、偶像礼拝をもたらすからです。エズラは、「われわれは再びあなたの命令を破って、これらの憎むべきわざを行う民と縁を結んでよいでしょうか」(エズラ記9.14)と、雑婚の分別を迫ったのです。


かくして、かって行った蔵書の断捨離は、結果的に雑婚ならぬ「雑本」との分離・分別になり、今や新たな蔵書から、日々霊的な糧を享受しています。


<修道院に見る断捨離>


修道院生活は究極の断捨離です。529年にベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに創建した修道院の戒律は「純潔」「清貧」「従順」でありました。修道者の持ち物は、二枚の服と一枚の毛布だけだったと言われています。


ベネディクトゥスのこの戒律は、フランシスコ会、ドミニコ会など、多くの修道会の会則のモデルとなりました。修道者は、「純潔」「清貧」「従順」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの共同生活を送りました。


とりわけ托鉢修道会は、会則により「私有財産を認めていない」修道会をいい、特に、ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会のことを指しています。修道士は托鉢を行い、善意の施しによって生活し、衣服以外は一切の財産を持たなかったと言われています。


また、インドのジャイナ教も、解脱を目指して行われる宗教生活で、「何ものも所有しないこと」(無所有)を五大禁戒の一つにしています。ものを所有しないことの規定により、厳格な修行僧は下着も身に付けず、全裸で修行すると言われています。


【ミニマニスト宣言】


やました氏によれば、断捨離とは物の最小化を目指すミニマニストになることではなく、物の最適化を目指すダンシュリアンであると主張しました。最適化とは、物をほどよい程度保有し、人と物の調和を諮る考え方ですが、これから筆者は、ヨブのように、敢えて「ミニマニスト」を目指したいと考えています。持たないことの美学です。一切の余分なものを持たないことで、魂の豊かさを得ようというのです。


それにしても、全てを奪われたヨブの言葉、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ」(ヨブ記1.21)は、あまりにも示唆に富む言葉ではありませんか。


最近、筆者は配偶者と死に別れ、配偶者の持ち物を処分することになりました。生前大事にしていた、ほんの数点だけを残して、断捨離を実施しました。このことは、彼女が真に大事にしていたものを際立たせることになり、地上での思いを分別して、永遠の生を享受する一つの区切りになったと信じています、


また筆者は、これをよい機会に、家の中の断捨離にも手を付けています。断捨離は、単にガラクタを捨てるという「片付け」ではなく、真に必要なものを発見する作業でもあります。


最近ある知人のヨガの先生から、「吉田さん、断捨離はもう古いですね。これからは『断三感』です」との話しを伺いました。断三感とは、早朝や深夜の静寂の中で、視聴覚と皮膚感覚を遮断して、裸で瞑想するというものです。


そうすれば、見えないものが見え、聞こえいないものが聞こえ、空気の清浄の肌触りが伝わって来て「引き上げられる」というのです。これがヨガの真髄だと....。 物も金も執着も、必要なもの以外は持たないことで、真の自由が得られるというのです。確かにこのヨガの先生は、決して負け惜しみでも強がりでもなく、本当にそう感じているのだと思いました。


そして、物の断捨離だけでなく、体の断捨離が必要です。余計なものを取らず、余分なものを出し、体自体の執着を断つことです。体を大切に!。もっと体をいたわらなければ。75年間、ちゃんと働き続けてくれた体に感謝しなければ。私の仕事を支え続けてくれた体を愛さなければ!


さて皆様は、以上の論議をどのように思われるでしょうか。感想をお聞かせください。(了)

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