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新約聖書の解説⑫ コロサイ人への手紙

🔷聖書の知識139ー新約聖書の解説⑫ーコロサイ人への手紙


あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼と共によみがえらされたのである。(コロサイ2.12)


『コロサイ人への手紙』は使徒パウロがコロサイの信徒共同体へ宛てた書簡で、エペソ書、ピリピ書、ピレモン書と共に獄中書簡(62年頃)の一つです。なお、著者については、諸説がありますが、ここではパウロが著者との前提で解説いたします。


【執筆の経緯】


コロサイは、エペソの南東約200キロのところにある町で、豊かで人口も多い町でした。パウロは、コロサイを訪問したことはありませんが、コロサイ教会は、パウロがエペソでエパフラスを伝道し、そのエパフラスが開拓した教会でした。


<異端的な教え>

そのエパフラスが獄中のパウロを訪問し、教会の現状を伝えました。当時のコロサイ教会には、間違った教えがあり、早急に対応する必要がありました。


間違った教えとは、後に「グノーシス主義」と呼ばれる異端の原型であり、コロサイにはびこっていた、このいわゆる混合主義(シンクレティズム)の異端的な教えであり、コロサイ書は、これに対してパウロが反論した書簡でもあります。


1章で正規のキリスト論を述べたあと、2章で、グノーシス主義の過ちを指摘し、3章~4章で正しいキリスト論に基づく信仰と愛の実践に励むようにと書かれた手紙であります。


<混合主義、グノーシス主義とは何か>

では、コロサイ教会が直面していたグノーシス主義とは何でしょうか。正確に言えば、グノーシス主義の初期段階の原型で、混合主義的な思想であります。


混合主義(シンクレティズム)とは、色々な信仰、文化、思想などが混ぜ合わせることで、異なる複数の文化や宗教が混交して、その結果生まれる考え方で、混合主義と呼ばれます。


ちなみに日本の宗教におけるシンクレティズムの典型例としては神仏習合があり、修験道も、仏教・道教・神祇信仰などのシンクレティズムの産物であります。また大本教は古事記の冒頭にでてくる天之御中主大神(大本内では大国常立大神)をキリスト教などに言う「万物の創造神」としており、この神は世界の各宗教にいう阿弥陀如来、ゴッド、エホバ、アラー、天、天帝などの名称で呼ばれているものすべてと同じ(万教帰一)であるとしています。


また「グノーシス主義」とは、宗教というよりは、一種の思想運動で、紀元1世紀から2世紀にかけて地中海世界で盛んになり、4世紀には衰微して行った思想であり、霊と物質の二元論に特徴があります。


グノーシス主義は、キリスト教、ユダヤ教、ギリシア哲学の混合思想と言え、福音とは全く異質の教えであります。聖書の創造論は、宇宙は神によって創造されたとする神一元論であり、従ってグノーシスの善悪二元論とは真っ向からぶつかりました。


グノーシスとは、「知識・認識」などを意味するギリシア語で、人間は、ある「霊知」(グノーシス)を持つことによって救済されるとしました。 徹底した霊肉二元論の立場を取り、霊は清く純粋で神秘なもの、肉(物質)は穢れ罪悪性を持ち堕落したものとし、マニ教はこの影響を受けた宗教です。


物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して、一方では禁欲的、戒律的、密儀宗教的に陥り、他方では、 霊は肉体とは別存在であるので、肉体において犯した罪悪の影響を受けないという論理の下に、不道徳を恣(ほしいまま)にする放縦となって現れました。


4世紀の神学者アウグスティヌスがキリストに回心する前に惹かれたマニ教は、前者の禁欲的なタイプであったと言われています。


このような混合主義に対して、パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエス・キリストの中にあると述べ、その贖いの意義を強調しました。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである」(1.13~14)


【書簡の内容】


前述のように、本書簡は1章~2章の神学的考察(ケリグマ)と、3章~4章の実践的な教え(ディダケー) の二部構成になり、1章から2章にかけての神学的考察の部分で、キリストの神性のうちにあることを妨げているもの、即ち混合主義(グノーシス主義)へ警告を行っています。


1章でのパウロキリスト論は次の聖句で示されています。


「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである」(1.15~18)


2章で、グノーシス主義の過ちを、次のように厳しく指摘しました。


「わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない」(2.4~8)


つまり、 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されているので(2.3)、共同体の頭であるキリストのうちに一つでありさえすれば、それ以上のものは何も必要ないとパウロは主張します。


偽教師たちが教えていた過ち、即ち、①食べ物と飲み物について、惑わされてはならないこと(モーセの律法には、清い食べ物と汚れた食べ物の区別があった)、②祭りや新月や安息日のことで、惑わされてはならないこと(食物規定や祭りは、次に来るものの影であって、本体はキリストにある)、③天使礼拝に惑わされてはならないこと( 天使を礼拝し、幻を見るという特別な体験を誇る者たちがいた)、などについてパウロは警告し質しました。


3章~4章の実践的なすすめの部分では信仰生活においてすべきこと、なすべきでないことを解説します。


パウロは、上にあるものを求め(3.1~4)、古い自分に死んで新しい自分を生きること(3.5~14)を示し、イエス・キリストとその父なる神のみを信仰する生き方を提示し ました。


「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(3.1~2)


「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである」(3.9~10)


3章18節以下はいわゆる「家庭訓」になっており、「夫と妻」「親と子」「主人と奴隷」の間での訓戒が記されています。


4章7節によれば、テキコは本書の運び手であり、パウロが手紙で伝え切れなかったことを人々に伝えるという使命を負いました 。


【注目聖句】


a.キリスト論


「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである」(1.15~17)


このフレーズは、原始キリスト教教会に流布していた「キリスト賛歌」と言われる箇所(1.15~20)で、パウロのキリスト観が端的に表されている聖句です。


「万物より先にあり」とキリストの先在性を謳い、「万物は彼によって成り立っている」と、キリストが創造主てあることを宣して、キリストの神性を強調しました。またキリストを「見えない神の形」として、父なる神と御子とは、本質において同じであるというのです。御子は父なる神とともに礼拝されるべき方でありました。


初代教会の中には、御子イエスの神性を疑問視する教師(偽教師)たちが多くいて、コロサイ教会では、キリストを神以下の存在と見るグノーシス主義の教えが横行していました。


ハーベストタイムを主宰されている中川健一牧師は、エホバの証人、モルモン教と並んでUCもイエスを人間とする神学の立場にあり、これらはグノーシス主義と同じく異端の教えだと明言されています。


同じくパウロは、上記の聖句で、偽教師の立場が異端的なものであることを明確にしましたが、ピリピ書でも「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」(2.6)と、同様のキリスト論が述べられています。


本書、並びにピリピ書が、パウロの真性な書簡であるとするなら(実際そうでありますが)、パウロはイエスを神とする伝統的なキリスト論の初めての神学者と言えるでしょう。


こういったイエスを神とするキリスト論を原理的にどう考えればいいのか、またその問題点については、前回の「聖書の知識138(ピリピ人への手紙解説)」後半において詳述していますので、ご参照下さい。


b.奥義


「その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(1.26~27)


上記の聖句の通り、福音は、それまで旧約時代には隠されていた真理が、今や明らかになった「奥義」であるというのです。パウロの言う「奥義」とは、信者の中に内住されるキリストであり、キリストの内に、知恵と知識の宝がすべて隠されているというものです。


さらに、来るべき時代には、新約時代には未だ隠されていた奥義、即ち七つの封印(黙示録5.1)で閉じられていた奥義が、来るべき主「ダビデの若枝」(5.5)によって、あからさまに、そしてことごとく明らかにされるというのです。主よ、来たりませ!


以上、「コロサイ人への手紙」を解説しました。コロサイ書には、パウロのキリスト論が端的に述べられ、いわゆる伝統的キリスト教会が維持してきた三位一体論のはしりをパウロに見ることができます。次回は「テサロニケ第一の手紙」の解説です。(了)




上記絵画*子供たちを祝福するキリスト(カール・ハインリッヒ・ブロッホ画)

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