🔷聖書の知識138ー新約聖書の解説⑪ーピリピ人への手紙
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである(ピリピ3.8)
『ピリピへの手紙』は、使徒パウロがビリピのキリスト者共同体にあてた書簡であり、61年の終わりから62年のはじめにかけてローマで獄中にあった時、書かれたものと思われます。(獄中書簡)
彼がこの手紙を書いたとき、パウロはローマ皇帝護衛隊のもとに拘禁された囚人でしたが、彼の周囲ではかなり宣教が進んでいました。
ピリピ書は獄中書簡であり、他に、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモン人への手紙があります。
【執筆の背景】
当時ピリピは、ローマの「植民都市」(コロニー)であり、住民にはローマの市民権が与えられ、税制上の特権も与えられていました。海路と陸路をつなぐ通商の拠点であり、農業生産、金鉱などにより栄えていました。
『使徒行伝』によればピリピの教会は、パウロによって創設された最初のヨーロッパキリスト者の共同体であり、しかもパウロの宣教に由来するものでした(使徒16.11~40)。
そういう意味でパウロはピリピの共同体に非常に強い愛着を抱いていたことがうかがえます。ピリピの信徒たちは、物心両面でパウロをバックアップしていました(使徒20.33~35、2コリント11.7~12.2)。
ピリピの信徒たちの好意はパウロにとって喜びの源であり(4.15)、パウロのマケドニア宣教において、信徒たちの物心両面の惜しみない協力ぶりは際立っています。
ピリピの信徒はパウロの必要としていたものを集めてエパフロデトに託しました。パウロはそれを受け取り、この手紙を感謝と喜びを込めて、彼に託してピリピへ帰しました (4.18)。
残念ながらピリピの教会そのものは現代では残っていませんが、しかしピリピの信徒たちの情熱と名声はこの手紙によって永遠のものとなりました。
【内容】
この手紙からは当時のローマのキリスト教共同体の様子がうかがえます。パウロにとって獄中にあることは福音を伝えることの妨げにならず、むしろ情熱を燃え立たせることになりました。パウロを監視していたローマ兵たちはその感化を受けたと言われており、ローマのキリスト教徒たちも増えていきました。
パウロは自らの苦難のなかで神を賛美し、また同じく周囲の無理解と迫害、さらに教義上の対立にさらされるピリピの共同体を慮り、彼らを励まし、キリストの再臨を待ち望むことを勧めました。
パウロは自らを「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」(3.5~6)と自己紹介しながら、もはや律法の下にいないことを告白し、ユダヤ主義者の誤った教えを警告しました。
「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい」(3.2)
本書簡に見られる神学的内容は『ローマ人への手紙』の信仰義認に近いものがあり、次の聖句がこれを示しています。
「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(3.9)
また、パウロは「しかし、わたしたちの国籍は天にある」(3.20)との死生観を示し、「救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」(3.20)と述べて再臨を待望し、「わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる」(3.21)と「復活の体」への希望が語られています。
そしてピリピ書には、 クリスチャン生活は喜びに満ちたものであることが強調され、 関連した「喜び」の表現が19回も出て、「喜びの書簡」とも言われています。
試練の中にある喜び( 1 章 )、奉仕の中にある喜び( 2 章 )、信じることの中にある喜び( 3 章 )、与えることの中にある喜び( 4 章 )などです。
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」(4.4~5)
【注目聖句解説】
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(2.6~8)
この聖句には、パウロのキリスト論が表れています。キリスト論とは、「イエス・キリストは誰か」という問題、端的に言えばイエスが神(神性)か人(人性)か、はたまたその双方かというイエスの存在論的な本質やその位格について論じる神学と言えます。そしてこれらは、三位一体論と密接に関連するもので、キリスト教の三位一体論はキリスト論が根幹となっています。キリスト教の歴史の中で、三位一体論と並んで、このイエスの本質の問題、キリスト論ほど激しく論議されて来た神学上の論点はありません。
パウロは本書において、キリストは(天地が創造される前から)神として存在しておられたこと、しかしキリストは、この「神のあり方」に固執せず、私たちと同じ人間の姿を取って地上に誕生し、へりくだって人間として地上生涯を送ってくださったことを述べています。
つまりパウロは、イエス・キリストが神であり、また人間であること、即ち神性と人性の両性を一人格内に持つという伝統的なキリスト観を既に持っていたということになります。
伝統的なキリスト教は、神がマリアに受肉する前は神性のみの存在であったが、受肉により人性をも持つようになった、即ち、神がマリアに受肉して「人になった神」であると考えています。
福音派の中川健一牧師は、「人でなければ死ねない、神でなければ救えない」と表明され、イエスは神であり人である必要があると言われています。アメリカの神学者ゲーリーバーグは、「キリストは神の驚くべき自己啓示であり、キリストと神との合一に妥協はありません。イエスは完全に神であり、そして完全に人間なのです」(「キリスト教神学Q&A」教文館P108)と明記しています。
こうしてキリスト教としては、ニケーア公会議(325年)及びカルケドン公会議(451年)で、アタナシウス派の三位一体説が正統教義として確立し、「イエスは神と同質で混合も分離もせず、神性と人性の両面を一つの位格の中にもつ」とされ、「イエス・キリストは、100%神であり、100%人間である」とされました。
しかし著名な神学者も「(神性と人性の)二性を持ちながら、しかもどのようにして一人の人であり得るのか、この質問に答えることは難しい」(シーセン「組織神学」P503)と述べ、合理的な説明の難しさを吐露しています。また宗教的多元論で知られるイギリスの神学者ジョン・ヒック(1922 ~2012)は、三位一体の神観を拒絶し、イエスは神の霊と愛に満ちた偉大な預言者であるが「神そのものではなく人間である」としました。神の受肉という教義は、あくまでも「比喩」(メタファー)として考えるべきであるというのがヒックの考え方であります。
日本においてキリスト教の三大異端とされているのが、エホバの証人、モルモン教、そしてUCであります。他にもユニテリアン、クリスチャンサイエンスなどもありますが、これらは皆、三位一体論の神を否定し、イエスキリストを神ではなく人(被造物)とする傾向があります。ちなみに、異端かどうかの最大の尺度は、イエスを神と認めるか否か、即ち三位一体の神を認めるかどうかだと言われています。上記異端とされている教派は、この基準に引っ掛かっていると言うわけです。
イスラム教では、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドの5人を預言者たる「使徒」と認めており、キリスト教はイスラームに強い影響を与えました。しかし、イスラム教はムハンマドを「飯を食べ市場に行く一人の人間」と見ているのと同様、ナザレの大工の息子イエスを神ないしは神の子ではなく人と見ています。 クルアーンには、「これがマルヤムの子イーサー(イエス)。みながいろいろ言っている事の真相はこうである。もともとアッラーにお子ができたりするわけがない。ああ、恐れ多い」とある通りです。また、ユダヤ教もイエスを人(被造物)と見て、三位一体の神観を多神論として退けています。
では、原理はどう考えているのでしょうか。原理は、イエス・キリストを、「神の創造目的を完成したアダム (人間)」と見ています。神の創造目的、即ち神の三大祝福(創世記1.28)を完成した人間は、神の実体対象(第二の神)として神的価値を有し、それぞれが唯一無二の宇宙的価値を有する個性真理体であります(原理講論P252~253)。その創造目的を完成した人間こそ創世記2章9節で象徴されている「生命の木」であるというのです。人間に堕落(創3.6)がなかったなら、人間は生命の木になり得る存在でした。
今までキリスト教は、「アブラハムの生まれる前から私(イエス)はいた」(ヨハネ8.58)、「世界が造られるまえからいた」(ヨハネ17.5)、「世は彼(イエス)によってできた」(ヨハネ1.10)などの聖句を根拠にキリストの先在説を唱え、「私は父と一つ」(ヨハネ10.30)、「私を見たものは神を見たもの」(ヨハネ14.9~10)などによってイエスが創造主(神)であると主張してきました。
しかし、創造目的を完成した人間は創造性を有し、宇宙の総合実体であり、この世界は完成した人間によって創造されたとも言えるし、またキリストは全人類を重生させるために人類祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの祖先にあたると言えなくもありません(講論P259)。
即ちイエス・キリストは、正に神的価値を有する「創造目的を完成した人間」(生命の木)に他ならず、イエスは神と一体となり神性を持っていますので、第二の神とは言えますが神自体ではないというのです。
そしてイエスキリストが創造目的を完成した人間であるとしても、それはイエスの価値を引き下げることにはなりません。何故なら、創造目的を完成した人間は神的価値を有し、唯一無二の宇宙的価値を有する存在であるからです。この「神性」という点で伝統的キリスト論とイエスを人間と見る見解との両者を仲介できる余地があると言えるでしょう。
いずれにせよ、イエスは原罪がないという点を除けば、我々と変わらない人間であり、霊界において霊人体として存在される点では霊界の先祖と変わりはありません。無論イエスは、霊界において最上位の存在(生霊体)であり、この点で先祖とは異なることは言うまでもありません。
以上が「イエスとは誰か」(キリスト論)に関する原理観であります。今まで見てきた通り、このキリスト論は三位一体論と並んで、多くの議論を呼んできました。イエスの存在論的な在り方とその価値について正しく認識することは、私達の信仰や救いの意味を知る上で不可欠であります。何故なら、人間は神霊的存在であると同時に真理に立つ存在でもあるからです。信仰と理性は究極的に一致しなければなりません。
この点、伝統的キリスト教は、現代人の合理性にも応える義務があるといわなければならないでしょう。しかし、キリスト者がイエスを神のように信じてきた信仰をあながち否定するものではありません。事実イエスが神と同視できる神性を備えられていたからです。
以上、「喜びの書簡」ピリピ人への手紙を解説いたしました。なお、冒頭のピリピ3章8節「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」は、筆者の回心聖句です。次回は『コロサイ人への手紙』を解説いたします。(了)
上記絵画*聖パウロ(エティエンヌ・パロセル画)
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