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新約聖書の解説⑲ ヘブル人への手紙

🔷聖書の知識146ー新約聖書の解説⑲ーヘブル人への手紙


しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。(9.11~12)


【概観】


「ヘプル人への手紙」は新約聖書中もっとも文学的な書であるといわれ、その理由はギリシア語の流麗さにあると言われています。


著者は書簡に明記されず不詳ですが、 10章には旧約時代の人名が多々あり、旧約聖書からの引用が多いことから(37箇所、その内、詩篇16箇所)、旧約聖書に精通している「卓越した未知のユダヤ人」と考えられ、ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものと思われます。


パウロなどが著者であるとの説もありますが、誰が筆を取っていたにしろ、神が働かれて霊感を受けて書かれたことに変わりはありません(2テモテ3.16)。


執筆時期は、ヘブル書が書かれた時にテモテが生きていたという記述や、エルサレムの神殿での生け贄などの儀式が行なわれていたという記述から、ヘブル書が書かれたのは70年に神殿が崩壊する前の西暦65頃だと考えられます。


文体や用法などはパウロと違っていますが、ヘブル書に見られる思想そのものはパウロに近いものがあります。そして本書簡は、二つの異なる要素を持つ部分、即ち、神学・教義に関する部分と、倫理・道徳に関する部分が組み合わされています。


著者はイエス・キリストを次のような方として語っています。


「神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである」(1.2~3)


【特徴】


著者はモーセの律法を「律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず」(10.1)として、律法の意味をとらえなおし、そこに新しい意味を与えようとしています。即ち、パウロのキリスト論を引用しながら、新しい契約(エレミヤ31.31~33)が古い契約(律法)にとって変わったということを強調し、福音はモーセの律法を更新させ成就するものであるといいます。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マダイ5.17)とある通りです。


そして神とその民との間に新しい契約を結ぶために、 古い契約は石の板に書かれましたが、新しい契約は私たちの心に書かれるというのです(8.10)。


当時、ユダヤ教から改宗したキリスト教徒でありながら、(迫害のため)再びユダヤ教へ戻ることを考えていたユダヤ人信徒に対して、次の聖句の通り、ユダヤ教の動物の犠牲はキリストの十字架での犠牲の後では意味を持たないことを強調し、「幕屋の外で」、つまりユダヤ教を離れてキリストに従うことを求めています。


「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(9.11~12)


これらは、初代教会に存在したエビオン派など、ユダヤ教の習慣を維持したままキリスト教徒になった人々に対する批判として書かれたと見ることもできます。


ヘブル書は、キリストが人物としても、またその働きにおいても、他の宗教に優越していることを強調します。即ち、ヘブル書はキリストが何よりも優れた方である事がテーマとして書かれている書なのです。


イエス・キリストの復活(カール・ブロッホ画)


また、イエスを大祭司として位置付け、大祭司を「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である」(5.1)と定義しています。そして「神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである」(5.1)と、イエスを、メルキゼデクに例えて、レビ系祭司とは異なる特別の永遠の大祭司としています。


ちなみにメルキゼデクとは、旧約聖書の登場人物で、創世記(14.18)にて「いと高き神の祭司」として、神秘的な大祭司として紹介され、著者はメルキゼデクについて次のように述べています。


「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである」(7.1~3)


メシアは、王であり、祭司であり、預言者であるという三つの顔があると言われていますが、このようにヘブル書は特に大祭司としてのキリストを強調しています。


【注目聖句】


「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(11.1)


この「信仰とは」の聖句は有名です。本書簡は、カイン・アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そして、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルなどの旧約聖書に出てくる名前をあげて、これらの人々は信仰によって道を開いたことが縷々語られています。「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた」(11.24~26)とある通りです。


「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった」(11.13~16)


この聖句は、キリスト教会での葬儀の時、好んで読まれるフレーズで、筆者の配偶者の聖和式にも読み上げました。地上にいる私たちは寄留者であり、死の向こうにある永遠のふるさとに向かう旅人であることを言い表しています。


最後に、試練に遭遇したときの励ましの聖句を記しておきたいと思います。


「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。

主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(12.5~6)


以上で、「ヘブル人への手紙」の解説を終わります。次回はヤコブの手紙を解説いたします。(了)