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新約聖書の解説⑳ ヤコブの手紙

🔷聖書の知識147ー新約聖書の解説⑳ーヤコブの手紙


信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである(5.15~16)


「ヤコブの手紙」は、主イエスの兄弟であるヤコブ(マルコ6.3)が、同胞のヘブル人クリスチャンに書き送ったもので、離散したヘブル人信者を励ますために書いたと言われています。但し、他者説や、本書は偽名文書であり、実際の著者は不明であるという学者もいます。ここでは、主の兄弟ヤコブとの前提で話をすすめます。


【概略】

「ヤコブの手紙」は、「ペテロ第一、第二の手紙」、「ユダの手紙」、「ヨハネの第一、第二、第三の手紙」「ユダの手紙」と並んで「公同書簡」と呼ばれ、ある特定の地域の人々に宛てて書かれた手紙ではありません。


ヤコブは、パウロが「ガラテヤ人への手紙」で「主の兄弟」(1.19)、「教会の三人の柱の一人」(2.9)として言及する人物であり、著者が義人ヤコブだとすれば、書簡が書かれた場所はヤコブが62年の殉教まで暮らしていたエルサレムと思われます。


全体構成は 、a.試練の意味について(1章)、b.信仰と行いについて(2章)、c.舌の制御について(3章)、d.霊的戦いについて(4章)、e.再臨の希望について(5章)となっています。


【特徴】


この手紙は、「聞くこと」ではなく「行うこと」、即ち「教理」ではなく「実践」を強調しているところに特徴があります。本書簡が書かれたのはパウロの義化という考えに対する教会内の誤った認識を正すためと言われ、信仰には行いが伴わなければならないことを強調しています。


「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか」(2.14)


「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(2.17)


しかし、特にマルティン・ルターは「ヤコブ書」をあまり価値のないものと考え、「藁の書」と呼んで何度も正典かはずそうとしました。その理由はルターが唱えた「信仰のみ」というパウロの中心思想を批判するだけの文書と思われたからです。


現代では、本書が批判しているのはパウロの義認思想そのものではなく、それを曲解した者たちであるとの理解から、「ヤコブ書」を正典にふさわしいものとみなしています。


即ち、行いによって義とされるというヤコブの主張は、一見するとパウロが述べる「信仰によって義とされること」の反対の立場のように見えますが、パウロは、救いそのもの、救いの教理について論じ、ヤコブは、救われたものの証拠、道徳的な実践について論じているというのであり、両者は相互補完的と考えられます。


またヤコブは「他者の前で義とされること」 (隣人愛)について語っており、パウロは「神の前で義とされること」(古い律法の否認)について語っている、という考え方があります。


その意味で使徒行伝26章20節で、パウロは「悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うよう」と説き勧めましたが、これは信仰により神に立ち返った者(救いを得た者)は、当然の発露として行いが伴うという考え方とみることができます。


【注目聖句】


「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」(1.2~3)


「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」(1.12)


上記の2つの聖句は、試練に直面したときの考え方と忍耐について語っています。試練と忍耐はこの書簡全体を貫くテーマです。5章には主の来臨への希望を語り忍耐するよう述べています。


「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか」(2.14)


「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」(2.17)


「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」(2.20~24)


これらの聖句は、上記で解説した信仰と行いに関しての聖句で、ヤコブは救われたものの道徳的な実践や隣人愛を述べています。


「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている」(3.8~9)


「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか」(4.1)


3章、4章では、舌、即ち語る言葉の舌禍に注意を換気し、また、内的な霊の戦いについて述べています。


「あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(5.8)


再臨の日が近いことを述べ、忍耐して試練を耐え忍ぶことを奨励しています。


「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである」(5.15~16)


この聖句は、臨終の秘蹟といわれ、病者の塗油の聖書における根拠とされました。ヤコブは共同体の中で病人が現れた場合の対処を示しており、これが後にカトリック教会の病者の塗油の形式になりました。


以上で、ヤコブの手紙の解説を終わります。次回は、「ペテロの第一の手紙」の解説になります。(了)




上記絵画*使徒(大)ヤコブ (バルトロメ・ムリーリョ画)