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新約聖書解説序論 新約聖書の位置付け、成立経過、構造

🔷聖書の知識127ー新約聖書解説序論ー新約聖書の位置付け、成立経過、構造


新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。(アウグスティヌス)


今まで、旧約聖書、ルター・カルバン・ピューリタンなどの宗教改革について論述してきましたが、いよいよ今回から「新約聖書」を解説していきます。今回 は先ず新約聖書の位置付けや成り立ち、そしてその構造など、全体像について見ていきます。


【新約聖書の構造について】


冒頭のアウグスチヌスの言葉は、旧約聖書の中には、新約に登場するキリストが隠されており、新約聖書は、旧約に隠されていたキリストが顕れるという意味であると解釈できます。そこで先ず、新約聖書の有する構造、及びその内容について、簡潔に述べておきたいと思います。



<構造>

聖書とは英語の音訳から、バイブル (the Bible) とも言いますが、この語はギリシャ語で「書物」の意味であります。そして聖書は、全66巻(旧約39巻、新約27巻)、1189章からなっています。


ちなみに、旧約の「約」とは「神との契約」という意味であり、2コリント3章14節に「古い契約」という言葉がでてきます。また新約の「約」も同様で、エレミヤ31章31節に「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」とあり、「新しい契約」という言葉が出てきます。即ち古い契約が律法であり、新しい契約が福音であるというのです。しかし、旧約、新約という言い方はキリスト教のみで使われている言葉であり、ユダヤ教では単に「聖書」と呼んでいます。


旧約聖書は律法・歴史書・文学書・預言書に4分類されていますが、新約聖書は、旧約に相応して、それぞれ福音書・歴史書・書簡・預言書に4分類されています。


以下は『新約聖書』27書と伝承による記者のリストです、


a.福音書(イエスの生涯、死と復活の記録)


・マタイによる福音書 →税吏の使徒マタイ(80年代に書かれたと考えられる)

・マルコによる福音書 →ペトロとパウロの弟子であったマルコ(64年~70年)

・ルカによる福音書 → パウロの弟子であったルカ(80年代)

・ヨハネによる福音書 → 使徒ヨハネ(?)(100年頃)


b. 歴史書(イエスの死後の初代教会の歴史)


・使徒行伝 → ルカ(85年頃)


c.書簡(手紙)


▪️パウロ書簡

パウロの書簡は、下記の通りですが、パウロは64年に殉教していると言われていますので、書かれたのは、50年~60年頃で福音書より前ということになります。なお、パウロの真性な書簡として認められるパウロの書簡とは、『ローマの信徒への手紙』、『コリントの信徒への手紙1、2』、『ガラテヤの信徒への手紙』、『ピリピの信徒への手紙』、『テサロニケの信徒への手紙1、2』、そして『ピレモンへの手紙』であります。


パウロ真性の手紙

・ローマの人への手紙

・コリントの信徒への手紙1

・コリントの信徒への手紙2

・ガラテヤの信徒への手紙

・ピリピの信徒への手紙

・テサロニケの信徒への手紙1(49年頃)

・テサロニケの信徒への手紙2

・ピレモンへの手紙


以下は、パウロの名によって書かれた手紙

・エペソの信徒への手紙

・コロサイの信徒への手紙

・テモテへの手紙1 (牧会書簡)

・テモテへの手紙2(牧会書簡)

・テトスへの手紙 (牧会書簡)


▪️公同書簡

公同書簡とは特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い一般的な対象にあてて書かれた書簡という意味です。


・ヘブライ人への手紙→(アポロ?)

・ヤコブの手紙 → 主の兄弟ヤコブ(?)

・ペテロの手紙1 → ペトロ

・ペテロの手紙2→ ペトロ

・ヨハネの手紙1→使徒ヨハネ

・ヨハネの手紙2→ 使徒ヨハネ

・ヨハネの手紙3 →使徒ヨハネ

・ユダの手紙 →使徒ユダ 又は主の兄弟ユダ


d.預言書


・ヨハネの黙示録 →使徒ヨハネ(ヨハネ教団?)


上記の27書以外にも『新約聖書』の正典には含まれない文書群があり、「外典」と呼ばれています。


【新約聖書の成立と著者】


では、聖書は如何なる経緯を経て、現在の形になったのでしょうか。聖書の形成と成立を見ていきたいと思います。


<旧約聖書の成立>

先ず、新約聖書の前提となっている旧約聖書ですが、旧約聖書はBC15~13Cにモーセの律法から始まり、8C~7Cに形が出来、バビロン捕囚前後にモーセ五書がまとめられたと言われています。旧約聖書の最後の書は、マラキ書ですが、預言者マラキは前400年代に活動しました。従って旧約聖書全体が、最終的に編纂されたのも前400年以降ということなります。そうして250年くらいかけてその他の文書もまとめられ、AD90年の「ヤムニア会議」で旧約39巻が確定しました。


その間、BC3~2世紀にヘブライ語からギリシャ語への70人訳が出来(LXX)、そこには外典も含まれています。つまり、カトリックでは、ヘブル語正典の39巻の他に、ユディット書、トビト書、バルク書、ソロモンの知恵、1・2マカベヤ書、ベン・シラの知恵の7巻を第二正典として含めています。カトリックはこれを第二正典と呼びますが、プロテスタントはこれを外典と呼び聖典から除外しています。


またカトリックでは、教会が正典を認定したとする立場から、聖書の上位に教皇・教会を置いています。そしてこの聖書66巻は、全てユダヤ人の手によって書かれました。


<新約聖書の成立>

さて新約聖書ですが、『新約聖書』の各書はすべてイエス・キリストとその教えに従うものたちの書ですが、それぞれ著者、成立時期、成立場所などが異なっています。つまり、初めから新約聖書をつくろうという構想があって書かれたのではなく、著者、成立時期、成立場所がばらばらな書物を、一つに編集して成立したものと言われています。


つまり、『新約聖書』は多くの記者によって書かれた書物の集合体であり、伝承ではそのほとんどが使徒自身あるいは使徒の同伴者(マルコやルカ)によって書かれたと伝えられてきました。同じように多くの書物の集合体である『旧約聖書』と比べると、成立期間が大幅に短いと言えるでしょう。


福音書のマルコ書が64年~70年、マタイ書とルカ書が80年代、ヨハネ書が100年ころにそれぞれ書かれたと言われています。パウロは64年ころにネロの迫害のときに殉教したと言われていますので、ロマ書などパウロの書簡は福音書より前に書かれたということになります。


書簡の中で最も多いのはパウロの手紙で、ローマ人への手紙以外は自らが建てた教会への信仰指導として書き送られたものであります。この内、ローマ、コリント1と2、ガラテヤが「四大書簡」と呼ばれており、それが2千年後にも聖書の一部となって世界中で読まれていることをパウロが知ったら、ささぞかしびっくりすることでしょう。


こうして新約聖書は1Cにはほぼ書き終えられていましたが、他との区別やその順番を確定するなどのために300年を要し、聖書正典として一応の確定を見たのは397年の「第3回カルタゴ教会会議」と言われています。


<福音書のイエスについて>

聖書の主役であるイエス樣については、これらの4福音書以外に知ることのできる資料は有りません。特に30才までの私生涯の情報はほとんどなく、多くの方が色々と書いたりしていますが、憶測の域を超えません。筆者の知る限り、UC創始者のみ言の本『イエス様の生涯と愛』(光言社)が最もよく説明していると思われます。


このように真のイエス像について、福音書には限界があり、近時、「史的イエス像」と「宣教(信仰)のイエス像」には、かなり乖離があると言われています。この点、新約聖書研究家の宮原亨牧師は、「福音書によって述べ伝えられているキリストは、史的イエスではなく、信仰と礼拝のキリストである。即ち、キリストとして宣教され、伝えられた内容は礼拝のための言い伝えであり、福音書は更にそれを拡大したものである」(『新約聖書の真実』P16)と述べています。


また、編集史学派の見解によれば、福音書には、イエスの伝承や断片記録を福音書記者が自らの信仰信条に基づき再解釈して編集した「編集句」が挿入されていると言われています。典型的な編集句と言われるのは、マルコ福音書の8章31節~38節、9章30節~37節、10章33節~45節の3つの「受難予告」だといいます。


イエス・キリストが十字架で死んで復活後、初期の信者が集まり、イエス・キリストの名によって信者の家で礼拝を始めました。これがキリストが建てた教会で「家の教会」と呼ばれ、そして初代教会は、私たちが現在、手にしている聖書は持っていませんでした。使徒たちの教えや、キリストが語った言葉のメモ書きのようなものを基に、お互いに教えあっていたと思われます。


その後、キリストの使徒であった弟子たちが、50年以降、信者向けに手紙を書き送りました。さらに、70年以降にイエス・キリストの生涯について福音書が書かれたというのです。


現在福音書について、多くの研究者は『マルコ福音書』が最初に書かれ、『マルコ福音書』と他の資料(いわゆるQ資料)をもとに『マタイ福音書』と『ルカ福音書』が書かれ(以上、共観福音書)、一方、『ヨハネ福音書』が別の視点から最後に書かれたという見解を取っています。


古代神学者のヒッポリュトス(170~235年)は、22巻を霊感を受けた書として認識しており、論争のあった書はヘブル書、ヤコブの手紙、1ペテロの手紙、2ヨハネの手紙、3ヨハネの手紙の5書でした。


<聖書の認定基準>

旧約39巻と共に、新約27巻の最終認定は、ヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)、においてなされましたが、その認定基準としては、a.著者が使徒又は使徒と関係の深かった人、b.教会全体から受け入れられているかどうか、c.正統的な教理や教えと矛盾していないか、d.聖霊を感じさせる霊的、倫理的価値を含んでいるか、といったものでした。


冒頭で述べましたが、旧約と新約の関係についてアウグスティヌスは「旧約の中に新約が隠れており、新約の中に旧約が現れている」と語りました。旧約を影(イエス預言)とするなら新約は実体(イエス)だという訳です。


<新約聖書の内容>

新約聖書の神学的な内容としては、a.教理(神・罪・救い・世界観・歴史観・死生観)、b.規範(倫理・最高道徳)、c.癒しと教会論(癒し・奇跡及び牧会論・教会論)の3つが骨格となっています。イエス・キリストは、先ず神と救いについて教え、次に人倫を説き、そして奇跡と癒しを行われました。このイエスの3つの言動が聖書の骨格になっています。


【聖書観について】


次に、聖書をどのような書として見るかについての各派の見解、即ち聖書観について見ておきましょう。聖書観の違いが聖書解釈の違いをもたらし、遂には教派の乱立に至ったからです。


聖書観には大きく、a.聖書は誤りなき神の言葉であるとする福音主義の立場の「根本主義的聖書観」(十全言語霊感説)、b.聖書全体を必ずしも神の言葉とは見做さず、人間の理性や歴史的実証性を重視する神学的立場の「自由主義的聖書観」(自由主義神学)、c.カール・バルトら弁証法神学者の新伝統主義の立場の「新正統主義的聖書観」の3つがあります。


<十全言語霊感説―福音主義の聖書観>

福音主義の聖書観によれば、「聖書の一字一句は神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばであり、信仰と生活の唯一で最終的権威である」と言うことになります。いわゆる十全言語霊感説です。聖書信仰では「十全霊感」と「言語霊感」をあわせて「十全言語霊感」と呼ばれ、十全言語霊感説は福音主義の伝統的立場であります。


「十全霊感」とは、聖書が十分性をもっており、聖書66巻はそれ自体で完結しているとし、霊的、宗教的な事柄に関してだけ霊感が及んでいるとする限定説ではなく、科学や歴史に関しても霊感が及んでいるとするものです。従って、聖書の啓示性を否定する教派や、聖書66巻に付加する教派は異端とされ、聖書信仰の立場から退けられることになります。これが十全霊感であります。


また「言語霊感」(Verbal Inspiration)とは、聖書の霊感が思想だけではなく、一字一句の言葉にも及んでいるとする聖書の霊感説であり、「逐言霊感」とも言われています。


聖書信仰では十全霊感とあわせて「十全言語(逐語)霊感」と呼ばれ、この聖書観は福音主義の伝統的立場であります。また聖書の「無謬性」(infallibility)とは、「聖書は救いの事柄に関して誤りがない」という立場であり、聖書の「無誤性」(inerrancy)とは「聖書は信仰の事柄だけでなく、科学的、歴史的にも誤りがない」という限定枠のないものです。上記十全言語霊感説の根拠聖句は次の通りです。


「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 (マタイ 5.18 )


「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ2 3.16 )


福音主義(福音派)は、聖書を最高の権威と認め、聖書全体を「神の霊感を受けた誤りなき神の言葉である」と信じる立場です。この立場に立つ教会は「福音派」と呼ばれます。一般的に、「福音派」には以下の四つの大きな前提があるとされています。


a.聖書の権威とその十分性、b.十字架上のキリストの死による贖いの独自性と完全性、c.個人的回心の必要性、d.福音伝道の必要性・正当性・緊急性。


<リベラル(自由主義神学)の聖書観>

一方、前記に対し自由主義神学の立場で聖書無謬説を批判する人々もいます。自由主義神学(Liberal theology)は、キリスト教のプロテスタントの神学的立場の一つで、プロテスタント教会の主流エキュメニカル派の多くが採用しています。自由主義神学とは、「聖書を、歴史的・組織的な教理体系から自由に、個人の理知的判断に従って再解釈する」立場であり、自由主義神学の特徴は以下の通りです。


a.科学的な見方(進化論等)を許容し、聖書に記されている神話的要素(天地創造・アの箱舟・バベルの塔・ヨシュア記等)を必ずしも科学的・歴史的事実とは主張せず、宗教的に有益な寓話(若しくは神話・説話・物語等々)とみなします。


b.聖書本文に対する批評的な研究・解釈、非神話化を支持し、書かれた言葉が書かれた時代の人々にどう読まれたかを解釈の第一義としています。また各書の成立に関わる今までの伝説を採用しません。例えば、モーセ五書の著者はモーセではなく、バビロン捕囚前後に成立したとして「文書仮説」を支持し、イザヤ書は一人の預言者イザヤによるものではなく、第二イザヤ、第三イザヤが存在する、などが挙げられます。無論、聖書無謬説、言語霊感説を採りません。                      


c.古文書学の他、考古学、史学の成果も最大限活用して古代の信仰のありようを分析し、そこから現代の課題に合わせたキリスト教信仰を再構築しようとします。                            


d.リベラルやフェミニスト神学は人工妊娠中絶擁護の立場を取っています。


自由主義神学は、これら「科学や聖書学の成果を受け入れる理性と保守的信仰を両立させている層」から、「宗教的に甚だしく形骸化している層」、「宗教色の希薄な信仰者層」までを幅広くカバーしています。


自由主義神学に立つ主な神学者としては、近代主義神学の父と呼ばれる「シュライエルマッハー」がリベラルの始祖にあたるとされ、「アルブレヒト・リッチュル」と「アドルフ・ハルナック」が代表的な神学者として挙げられます。そして自由主義神学者は、キリスト教教義の批判的研究である「教義史」を確立しました。教義史の創始者である「ヨハン・イェルーザレム」は、イエスの両性説や三位一体説を聖書に根拠がないとして退け、ハルナックは、キリスト論、受肉の教理はヘレニズム由来だと批判しました。エホバの証人やユニテリアンなどもイエスの両性説を採用していません。


しかし福音派やカトリック教会においては、自由主義神学の限界が認識されています。教皇ベネディクト16世は、「自由主義神学は、神の国を個人主義的に解釈しようとするものであり、一面的で根拠のないものである」としました。一方、カトリックでは、聖書よりも教会の権威を上位に置き、曖昧な聖書の箇所を教会が明らかにしなければならないとの立場をとっています。


<新正統主義の聖書観>

締めくくりに、正統主義に対する「新正統主義」について論考し、それらを止揚した新しい聖書観を提言いたします。   


一般的にプロテスタント神学では、ルターやカルバンの主張を中心とした流れが「正統主義」とされていますが、18世紀に入り聖書内の矛盾を追求する聖書批評学が台頭し、19世紀に入りこのような聖書の矛盾を克服する道として、「自由主義神学」が興りました。


そのような状況下、20世紀に入り、カール・バルトやエミール・ブルンナーに代表される「新正統主義」(Neo-orthodoxy)と呼ばれる神学が生まれ、この神学の流れは、自由主義神学により切り捨てられた啓示や、福音主義などの正統主義神学が持っていた神学的概念を、実存主義的観点から取り戻すものでありました。


この新正統主義の源流は、ニーチェと共に実存主義の祖とされる神学者で哲学者でもあった「セーレン・キルケゴール」であると言われています。彼らは、当時の哲学や自由主義神学などに見られる理性に絶対的信頼を置く思潮に対し反旗を翻し、そこにおいては理性より啓示が優先され、啓示との実存的出会いが強調されています。(W・E・ホーダーン著『現代キリスト教神学入門』P147)


バルトの聖書観は、聖書は神の言葉(啓示)を証しするものであるが、聖書自体を啓示の書とせず、「啓示についての人間による証言の書」として、言語霊感説の立場には立たちませんでした。


「聖書の中から神の言葉を見つけ出すこと」が人間の役割であり、そのためには「神との出会い」が必要であるとします。聖書を通しての啓示(神の言)そのもの、すなわちその実体である「キリストに出会う」ことによりそれがなされるとし、また「聖書の言葉と実存的に関わる」とき、その言葉はその人にとって神の言(啓示)となるとされます。


ここに啓示と聖書の「直接的同一性」を主張する福音派と、啓示と聖書の「間接的同一性」を主張するバルトとの見解の相違があります。 バルトは「聖書において根源的に大切なのは、歴史的記録ではなく、最上最高のところの「神の言葉の証言」だと主張し、聖書の性格を何よりも「証言の書」とみなしました。


バルトは、自由主義神学は神の言葉を人間学に引き下げていると批判しましたが、聖書についての高等批判は受け入れました。人が書いた過ちを含んでいる聖書から、神との出会いを通して神の言葉を見つけ出すことを重視しました。

      

<新しい聖書観>

では、原理は聖書をどう見ているでしょうか。講論には「聖書の文字は真理を表現する一つの方法であり真理それ自体ではなく、真理を顕す一つの過渡的な教科書である」(P169)と記されています。聖書が神の啓示の書であることに異論はないものの、聖書の文字そのもの、一字一句が真理と言うより、先ず真理があって、その真理を書き表した一つの表現であるというのです。


しかも聖書はそれ自体で完結したものではなく、その真理を表す程度と範囲は、時代的恵沢により漸次その内容と範囲が深まっていくものであるという聖書観に立っています。講論38ページに「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、一層深い真理の部分が継続して発表されることを待ち望む」と書いてある通り、講論自体も真理を表す一つの教科書であり、講論自体を完結したものという態度はとっておりません。  


バルトがいうように、「聖書は神の啓示を証するものであるが、啓示自体ではない」との指摘は概ね原理観に近いものがあります。従って原理は、言語(逐語)霊感説や十全霊感説の立場には立っていません。


この議論の主張に関しては、いわゆる正統派キリスト教からは、次のような批判が来そうであります。「聖書は創世記から始まり黙示録で終わっていて、それ自体で完結した書であり、付け加えたり取り除いたりしてはならない(黙示録22.18~20、マタイ5.18)。そして今後新たな啓示が加わることはない。もしそうなら、聖書は不完全なものとなる」と。つまり聖書は、それ自体で完結した霊感の書であるというのです。


しかし聖書には、その完全無欠性と異なる見解、新しい真理を予見する内容が記載されています。1コリント13章10節には「全きものが来る時には、部分的なものはすたれる」とあり、ヨハネ16章25節には、「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」とあります。


そうして黙示録5章5節にある通り、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」と来たるべきキリストによる聖書の奥義の解明が宣言されています。更に黙示録10章11節には、「その時、あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならないと言う声がした」と再臨による新しいみ言葉の到来が告げられています。


創始者は聖書に関して次のように語られました。


「聖書は神の創造理想、堕落、復帰の道が隠された秘密の啓示の書であり、重大な内容が奥義として、比喩と象徴で描写されています。比喩と象徴は、来るべきメシアによって明らかにされるのです」(平和経 神様のみ旨から見た環太平洋時代の史観1)


最後に聖書観について、筆者の立場を記しておきたいと思います。上記原理の聖書観とほぼ同じですが、先ず「聖書には霊が宿る」とは筆者の実感です。そして聖書記者の背後に神という真の著者がおられて書かれた書であることは疑いの余地はありません。その意味において、聖書は神のことばであり、霊感の書であります。


しかし、聖書には比喩や象徴や寓話が多々あり、その意味するところを正しく解釈する知恵が必須であります。また講論が指摘する通り、聖書の文字自体が真理なのではなく「真理を表す一つの表現」である以上、その文字の背後にある真理が何であるかを理解し、聖書全体に流れる神の救済の足跡(摂理)を読みとらなければなりません。この神の救済摂理にこそ霊が宿っているからです。


聖書は神の霊感を受けて人間が書いたものである以上、誤りも含まれていますが、全体としては神に導かれた聖典であります。従って一字一句に拘り過ぎて偏った解釈に陥ってはならず、全体的文脈の中で理解することが大切です、


以上を整理すると、a.聖書は神の言葉、霊感の書である。しかし、言語霊感説は取らない、b.聖書の比喩、象徴、寓話の意味を正しく解釈し、聖書の文字の背後に暗示された奥義、救済の真理を読みとること(その意味でバルトや内村鑑三の聖書観に近い) c.断片だけを強調せず、文書全体の文脈の中で読む、d.聖書はそれ自体で完結したものではなく、講論と同様に過渡的真理と考える(従って十全霊感説は採用しない)、この4点であります。


以上、新約聖書の解説するにあたって、先ず新約聖の全体の構造を見てきました。次回からマタイ書から順に新約聖書27巻を解説いたします。(了)

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