​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

朝鮮半島におけるキリスト教の迫害① 李王朝時代

◯つれづれ日誌(12月22日)-朝鮮半島におけるキリスト教の迫害①ー李王朝時代


一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 (ヨハネ12.24)


筆者は2年前の12月、クリスマスを記念して、「クリスマスって何だ?」とのタイトルで「聖書の知識5」を発信いたしましたが、この令和3年12月19日の「聖書の知識」をもって、第117回目の発信となりました。


そして今回の「つれづれ日誌」で、合わせて「210本」になりました。これは丁度縁起がよい数字で一つの区切りとなり、これもひとえに読者の皆様の励ましの賜物と深く感謝申し上げます。


【クリスマス豆知識】


さて今年もクリスマスがやって来ましたが、案外クリスマスとは何かについて知らない方が多いのではないかと思います。


クリスマス(降誕祭)は、イースター(復活祭)、ペンテコステ(聖霊降臨)と並んでキリスト教の三大祝祭の一つです。


クリスマス(Christmas)とは、本来「キリストのミサ(典礼)」という意味で、イエス・キリストの誕生を祝う祭りです。しかし、あくまで誕生を祝う日であって、「誕生日」ではありません。


ユダヤ教の暦では、日没を一日の始まりとしていますので、クリスマスは「12月24日の日没から12月25日の日没まで」ということになります。 従って、「イブ」とはクリスマスの夜という意味です。


では、何故12月25日がクリスマスの日になったのでしょうか。


古代ローマの「ミトラ教」では12月25日は「不滅の太陽が生まれる日」とされ、太陽神ミトラを祝う「冬至の祭」でした。冬至を境に、太陽の時間が長くなるので太陽の復活を意味します。これをキリスト教が取り込んで12月25日をクリスマスにしたと言われています。ですから、12月25日はイエスが生まれた日ではなく、いつ生まれたかは諸説あり確定していません。


 次に、サンタクロースは、何故、赤と白の服を着ているのでしょうか。


サンタクロースは、キリスト教の聖人である聖ニコラウスの伝説が起源とされています。彼は貧しい子供たちのために、枕もとの靴下に、金貨を入れて回ったと言われています。このニコラウスの話が元になり、ゲルマン土着の風習と相まって、クリスマスイブに良い子達はプレゼントがもらえるという話が出来上がりました。


そしてカソリックの司祭は赤い服を着ていますが、赤は、神と信者のために「血を流す覚悟」を象徴していると言われています。つまりサンタクロースの赤色は、「犠牲」を象徴しているというのです。


また、白色は教皇の着る色で、これは「純潔」の象徴です。即ち、サンタクロースの赤と白の服は、「犠牲と純潔」の象徴だったのです。


では、クリスマスツリーは、何故モミの木なのでしょうか。


モミの木は、常緑樹で年中緑であり、モミの木の緑は「永遠のいのち」を象徴する色なのです。つまり、キリストにあっての永遠の命を象徴しています。


またクリスマスケーキは、本来イエスの誕生を祝うために用意するものですが、むしろ、キリストの下にあって、家族、友人、信者の「よき愛の交わり」を象徴しています。だから、クリスマスケーキは、みんなで戴くのが一番というわけです。


以上、クリスマスには、犠牲、純潔、永遠の命、愛というキリスト教のエキスが詰まっているということが明らかになりました。


【朝鮮半島への宣教と迫害】


さて今回の本題である「朝鮮李王朝時代におけるキリスト教の迫害」について論考いたします。


前3回に渡って、潜伏キリシタン、即ち日本の禁教時代におけるキリスト教の迫害について述べましたが、今回から朝鮮半島におけるキリストへの迫害がテーマです。


朝鮮半島における弾圧・殉教は、むしろ日本より激しいものがありました。主な弾圧の時期は李王朝時代ですが、日本統治時代の戦時下(1937年~45年)にも神社参拝の強制問題がありました。


とりわけ李王朝時代の弾圧は徹底しました。李王朝時代は、儒教(朱子学)を国教とし、厳しい鎖国政策をとっていましたので、異国のキリスト教は弾圧されたのです。


それでも宣教師は潜入し、信者は絶えなかったので、李王朝は何度か凄惨な迫害を行っています。


<キリスト教の布教のはじまり>

李氏朝鮮は、1392年から1897年(大韓帝国としては1910年まで存続)にかけて518年の長きにわたって朝鮮半島に存在した国家で、王朝名としては李朝と呼ばれています。


歴史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)は、小西行長の朝鮮人養女ジュリアおたあと言われることもありますが、正式には1784年に北京で洗礼を受け、帰国した官吏の「李承薫」(イスンフン、洗礼名ペテロ)であると言われ、韓国カソリックはこの年を宣教元年としました。日本に遅れること230年です。当時、中国の清にはイエズス会が宣教しており、北京には4つの天主教会がありました。


李承薫が中国から帰国した後、それまで私的に「西学」を学んでいた人々も改めて洗礼を受け、知識人を中心に聖職者が存在しない「信者だけの組織」が生まれました。そして最初の50年間は一人の神父(宣教師)もいませんでしたが、特に知識人らに広がり、やがて庶民に広がっていきました。


<初期の迫害と殉教>

しかし李王朝は新興のキリスト教を弾圧しました。李王朝にとってキリスト教は反体制思想であり、危険思想と見なされていたからです。また保守的で原理的な儒教(朱子学)を国教とし、その伝統的価値観は、しばしばキリスト教的価値観と対立したのです。


儒教では「孝」を大切にし、孝の延長に先祖の祭祀(先祖供養)を重視しましたが、キリスト教はこれを偶像崇拝と見なしました。(但し、1939年、バチカンは先祖供養を市民的儀礼として認めています)


また李王朝は徹底した身分制度をとり、男尊女卑の思想がありましたが、キリスト教には神の下に人間は皆平等であるという思想があり、男女の差別を否定しました。


最初の殉教者は儒学者の「金範兎」(キムボムウ)と言われ、現在彼の家だった土地の上に天主教「明洞教会」が建っています。


1791年、儒学者の尹持忠(ユンジチョン)と権尚然(クォンサンヨン)が、祖先祭祀を廃して位牌を燃やした罪状で処刑され、西学書は焼却されました。これが受難100年の始まりでした。


<周文謨の殉教>

その後、パリ外国宣教会宣教師らが北京を経て朝鮮北部に入り、カトリックの宣教を行いました。朝鮮初の宣教師は、1794年に朝鮮にやって来た中国人宣教師の「周文謨」(シュウブンモ)であります。


周文謨は、両班の党派争いに巻き込まれたこともあり、1801年迫害にあい、信者300人と共に殉教しました(辛酉教難)。また同年、黄嗣永(ファンサヨン)が中国へ密告した「絹布事件」が起こり処刑されています。


前記の通り、李王朝は身分秩序重んじる徹底した儒教(朱子学)の国で、完全鎖国主義をとっていましたので、キリスト教は激しく弾圧されました。儒教は国教とされ、この世に儒教に優る教えがあるはずはないと思われていたからです。 


中国や日本では儒教は独自の宗教としては成長しませんでしたが、朝鮮では宗教色の強い保守的な朱子学の儒教による「小宇宙」を形成していました。


従ってキリスト教伝来以後100年の間に、迫害による殉教者が数万~10万超にも達したのです。


<金大建の殉教>

1845年「金大建」(キムデゴン)が上海で朝鮮人初の司祭になって帰国し、布教を始めました。


巡威島において外国人宣教師密航計画を進めていた金司祭は1846年に捕縛され、彼と103人の信者は「キリスト教棄教」を拒否し処刑されました。金司祭と103人の信徒は1984年5月6日にローマ教皇によって列聖されています。 (丙午教難)


<丙寅教獄>

また鎖国政策に固執する大院君高宗政権下の1866年には、密入国していたフランス人司祭9名と、カトリック信徒約8000名が捕縛・処刑される「丙寅教獄」(へいいんきょうごく)が起こりました。


丙寅教獄とは、1866年3月に朝鮮で起こったキリスト教徒大量虐殺事件で、キリスト教徒弾圧事件として最大規模であり、1万人以上が犠牲になりました。崖から漢江へ突き落とされ2000人以上が処刑された「切頭山(チョルツウサン)は有名です。


丙寅教獄(キリスト教徒弾圧事件)尋問されるベルヌー司祭、 拷問の様子


こうして19世紀、李王朝の凄まじい大迫害が続きました。李王朝のキリスト教弾圧は、日本のように拷問によって回宗させるよりも、早期に芽を摘むためにキリスト教徒であることをもって処刑される場合が多かったようです。以下は主だった殉教ですが、当時、李王朝時代の人口は日本の30%くらいだと考えれば、その殉教の甚大さが分かろというものです。


a.1801清国人宣教師周文謨、進士黄嗣永ほか300名あまりを処刑(辛酉教難)


b.1839年 、フランス人宣教師ほか200名あまりを処刑、最初の西洋宣教師の殉教処刑(己亥教難)


c.1846年、金大建ほか103名を処刑(丙午教難)


d.1866年、殉教者1万人以上、寒さと飢で数万人死亡(丙寅教獄)


しかしカトリック信者は引き続きその信仰を守り、李王朝終焉と共に復活し、現代にもその信仰が伝えられ、韓国のカトリック信徒の割合は現在、韓国総人口の約10%に至っています。


【李王朝時代の宣教の特色 】


ここで、カソリックの宣教における韓国の特色、及び日本との違いを見ておきたいと思います。


先ず、日本の宣教元年が、ザビエルの1549年だったのに対し、それに遅れること230年、李承薫受洗の1784年でした。


また、日本にはザビエルを始め、優れた宣教師によって宣教が行われ、当初は為政者にも受け入れられましたが、朝鮮半島では鎖国と禁教のため、はじめから禁じられ、そして50年間宣教師は不在でした。


日本では、最盛期には40万人を越えるキリシタンがいましたが、李王朝時代は多くても数万くらいだと思われます。


日本と朝鮮半島には、このようなキリスト教宣教の違いがありますが、現代においては、韓国のキリスト教人口比33%に対して、日本は1%に留まっています。ちなみにプロテスタントは日本より20年遅れて布教が始まりました。


浅見雅一・安延苑著『韓国とキリスト教』(中公斬書)によれば、初期の宣教の特徴として、天主教(カトリック)から宣教が出発していること、宣教師によるものではなく、韓国人の自発的布教、自主的摂取であること、両班など知識人から浸透していること、イエズス会が中国で出版した書物「西学書」など、文書と学問を通じて摂取していること、などを挙げています。


著名人気作家の李光洙(イグアンス)は、「天主教数万名の殉教者を尊敬します。朝鮮人の腐ちない誇りです」と語りました。殉教者の血は誇りと言われ、いずこでも殉教は返って信者の増加をもたらしました。当に死の恐怖に打ち勝つ信仰、「聖霊の賜物である信仰」(1コリント12.9)であります。


「殉教の血は種子である」との教父テリトリアヌスの言葉の通り、これら李王朝時代の殉教が、1907年のピョンヤンリバイバル、1960年代からの信者の激増の淵源になったと言われています。まさに「一粒の麦、死して実る」(ヨハネ12.24)であります。


以上、李王朝時代のキリスト教の迫害と特色について見てきました。次回は、日本統治下のキリスト教、特に戦時下(1937年~1945年)における取り締まりについて見ていきます。(了)