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再度、李登輝先生の思想と信仰を考えるー 宗教政治研会講話骨子

○つれづれ日誌(12月21日) 再度、李登輝先生の思想を信仰を考えるー宗教政治研究会講話骨子


 また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた(黙示録12.3)


12月21日、定例の宗教政治研究会が溜池山王にある幸福実現党本部で行われ、筆者は「李登輝先生の思想と信仰」と題して講話を行いました。宗教政治研究会とは、宗教と政治の関係について多角的に研究し、宗教は政治にどのように関わって行けばいいのかを考える超宗教の会であります。


今回、今年7月30日に他界された政治家であり、また宗教家(クリスチャン)でもあった李登輝元台湾総統(以下、敬称略)について学ぶごとになりました。李登輝は、学者、政治家、宗教家という3つの顔を持ち、それぞれの分野で卓越した存在でありました。


今まで政治家李登輝としては広く論評されていますので、今回筆者は、特に宗教家、信仰者としての李登輝に焦点を当て、また李登輝が強く影響を受けた新渡戸稲造著『武士道』について、論評したいと思います。彼が如何なる信仰と思想を持ち、それが政治家李登輝にどのような影響を与えたかを見ていきたいと思います。なお、令和2年9月9日、及び令和2年9月16日のつれづれ日誌でも、「李登輝元台湾総統の逝去を悼むーその思想と信仰」と題して投稿していますので参考にしてください。


はじめに


2020年7月30日、台湾の李登輝元総統は台北市内の病院で多臓器不全などのため逝去されました。(享年97歳) 人口2350万人超、九州位の国土を持つ先進国家台湾において、イスラエルのモーセ、アメリカのワシントンに匹敵する存在と評価されています。李登輝は、中共に対し次のように述べました。「今の中華人民共和国は共産主義を標榜する壮大な虚構てあり擬制である」と。


当に中国共産党は、聖書の黙示録に記されている「赤い龍」であります。


「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた」(黙示録12.3)


【李登輝3つの業績】



李登輝はその激闘の生涯において、大きく3つの業績を挙げました。


第一は、「台湾の平和的な民主化」を実現したことです。 


戦後、国民党の独裁政権が長く続きましたが、現在は日本と同様、民主主義が定着し、政権交代可能な民主主義国家になりました。李登輝はこれをやり遂げ「台湾民主化の父」と呼ばれています。


1996年直接選挙が導入され、李登輝は選挙で選ばれた初めての総統に就任し(73才)、台湾を自立した民主体制につくり替えました。一滴も血を流すことになく民主化が実現し、6度にわたる憲法改正によって、静かなる革命を成就したのです。


第二の業績は、「中共の脅威から台湾を守る道筋」を示し、自由アジアの防波堤としての台湾を確立したことです。李登輝は台湾と中国の「二国論」を唱え、中共から東南アジアの自由を守る布石を打ちました。


「反攻大陸」のスローガン、即ち、今までの蒋介石国民党の「中華民国(台湾)は、中国全土を代表する政府」という建前から脱し、中華民国の本土化(台湾化)を推進し「現実外交」を展開しました。即ち、1999年、台湾と中国は「特殊な国と国の関係」と表明し二国論を展開しました。台湾の独立は敢えて主張せず、また統一に反対したこともありませんが、台湾は中国の一部とする「一つの中国」を主張する中共には一歩も譲りませんでした。


そして第三は、親日国台湾を育て、親日家李登輝として「日本と台湾の橋渡し」をしたことです。


「自分は日本人」と公言し、日本人以上に日本を知る「親日家」と言われ、今日のアジア随一の親日国家台湾を育てました。この点、反日国家韓国との大きな違いであります。流暢な日本語を話し、日本文化を開放するなど日台交流に貢献しました。


「戦前日本と台湾は同じ国だった。当時我々は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」といい、実際、2007年6月7日、日本兵として戦死した兄が奉られている靖国神社を参拝しています。また、次のように語りました。


「台湾における日本の植民地政策が、台湾をして非近代的な社会から近代的な社会に持ち上げたということを、台湾の人民はよく知り、今や台湾はアジア最大の親日国家となっている。私は日本の統治の仕方については、高く評価しております。台湾を非近代的な農業社会から近代社会に持ち込むときに、一番大きな問題は司法と行政が分割しない中国社会でした。これを日本ははっきり司法と行政を分けました」


台湾には今も「日本精神」という言葉が残り、「誠実、礼儀、勤勉、清潔」などを象徴する言葉とされており、「日本が、日本人の理想として作り上げたのが李登輝という人間だ」とまで言うほどであります。


【3つのアイデンティティー】


李登輝のバックグラウンドには、a.中国の客家の血筋(洪秀全、孫文、鄧小平、リー・クアンユー、李登輝)、b.戦前の日本の教育による日本精神、c.二度のアメリカ留学でのアメリカ文化、d.そして長老派クリスチャンの信仰、があります。このような背景を持つ李登輝ですが、以下の項で、李登輝の3つのアイデンティティーについて見ていきたいと思います。


第一は「学者」としてのアイデンティティーです。


京都帝国大学農学部に進学し、戦後台湾大学卒業、大学教員や農業技師を務めました。大学時代は「農業簿記」を学んでいます。1944年、学徒出陣により出征、大阪師団に入隊し、名古屋の高射砲部隊に陸軍少尉として配属され、終戦を名古屋で迎えています。1945年 - 2月15日、兄の李登欽がマニラ市のマニラ湾において戦死し(享年24)、大日本帝国軍人として靖國神社に祀られています。


1952年アメリカに留学、アイオワ州立大学で農業経済学を研究し、1953年に修士学位を獲得しました。帰国後、台湾省農林庁技正(技師)兼農業経済分析係長に就任、台湾大学講師を経て台湾大学助教授に就任しました。1965年、コーネル大学に再留学(42才)、農業経済学を専攻し、米国で最優秀博士論文賞を受賞しました。そして1968年7月台湾に帰国し、台湾大学教授兼農復会技正(技師)に就任しました。


第二のアイデンティティーは「政治家李登輝」です。


アメリカから帰国後、蒋経国総統に農業専門家として見込まれ、71年に国民党に入党し政界入りを果たすことになります。政務委員として入閣し(49歳)、1978年台北市長、1981年台湾省主席、1984年副総統候補に指名され、第7期中華民国副総統を歴任しました。


そして1988年65才で総統、国民党主席に就任します。2000年の総統選には出馬せず。国民党主席を辞め、01年には国民党からも退きました。1912年1月の総統選では民主進歩党の蔡英文氏を応援し、指南役として影響力を発揮しました。「駆け引き上手な現実主義者」との評があります。


そして第三のアイデンティティーは、「キリスト教徒としての李登輝」です。キリスト者李登輝は、今回の中心テーマですので、次の項で詳しく取り上げることにいたします。


【キリスト者李登輝】


李登輝は、政治家である前にキリスト者でありました。


<求道時代>


李登輝は、10代では戦前の日本教育の影響で唯心論者となり、大学時代は一時期共産主義唯物論に染まり、そうして38才でキリスト教徒になりました。若いころから、人間とは何か、人生とは何か、死とは何か、など人生の根本問題をとことん考えたと述懐しています。


本を読むのが何よりも好きだった李登輝は、日本、西洋、中国の古典を読み漁る青春を過ごし、鈴木大拙の仏教書、善の研究、漱石全集、三太郎の日記、出家とその弟子、愛と認識との出発、古事記、源氏物語、枕草子、平家物語、風土、衣装哲学、ファースト、若きウェルテルの悩み、白痴、純粋理性批判、マルクス資本論、聖書、易経、など手当たり次第に読み漁りました。その中でも最も影響を与えられたのはカーライルの『衣装哲学』だったといいます。


しかし小さい頃から強い自我に苦しみ、またアイデンティティーの喪失に葛藤する日々が続きました。


特に戦後、台湾が日本の統治から離れ、日本人でも中国人でもない、新たな自分の立ち位置を探し求めざるを得なくなりました。そうして、アイデンティティーが喪失して空しかった自分に、「キリスト者」という新たなアイデンティティーを得ることができたというのです。李登輝は「心の虚しさを埋めてくれるものが信仰であり、キリスト教だった」と告白しました。


そして、李登輝がキリスト教に救いを求めるようになった背景には、心酔していた新渡戸稲造がクリスチャンだったことや、アメリカのキリスト教文化に触れたことも後押ししました。また、クリスチャンの奥さんの影響が大きかったと思われます。


<キリスト教の門を叩く>


こうしてキリスト教の門を叩くことになった李登輝ですが、その信仰を心から受け入れるには、まだ紆余曲折を要しました。


「かって私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったか』 どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです」


「5年の間台北のあらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(著書『武士道解題』P132)


そうして聖書を読み尽くし、信じることを決断しました。「信仰告白」によって聖書的真理を認識するに至ったというのです。トマスにイエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネま20.28~29)と言われましたが、李登輝は「見ないで信じる者になろう」と決断しました。


筆者もまた、信仰とは「決断」だと思います。決断し告白することによって神を認識でき、信仰に至るというのです。


<キリスト教に入信>


こうして李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信し、敬虔なクリスチャンになっていきました。李登輝は『愛と信仰―わが心の内なるメッセージ』を出版し、「日本精神」と「キリスト教」から最も大きな影響を受けたと述懐しています。


李登輝はあるとき「お前は60歳になったら山へ入り、人々を伝道するのだ」という夢を見ました。これを神が自分に告げた使命だと悟り、60歳になったら山(高砂族)にキリスト教伝道をしようと決意したといいます。


61才で蒋経国総統から副総統に乞われた際、この要請と神との約束の間で悩みに悩みました。そういう李登輝のもとへ、蒋家の牧師を務めている周聯華(ジョウリェンホァ)から手紙が届きました。自身が伝道に携わることを一旦棚上げし、「副総統として国家に奉仕することが神の御心」との説得を受け、やっと引き受けたと述懐しています。


そうして、1988年1月蒋経国総統が急逝して李登輝が総統になる夜は、不安で寝付くことが出来ませんでした。その時、妻の勧めで聖書を開き、次の聖句で安心を取り戻したといいます。


「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。(詩73.23」   


李登輝は、指導者の条件とは何か、「それは信仰です」と明言しました。李登輝の政治的信念を貫くうえで、信仰は力の源泉だったというのです。


<信仰体験ー自我からの解放>


李登輝は、かって観音山で神秘体験をしています。心と体からなる自分の上により高次元の神的存在を体験し、そしてその存在との間にただ一人立つ自分を発見しました。


そして李登輝に、ようやく自我から解放される時がきます。自分を拘束しているものが、他ならね自分自身であり、その自分(自我)から解放されることが真の自由であるという真理です。「自分でない自分」を見出だすこと、即ち、自我が一度死んでこそ、真の自分の復活があるというのです。次の聖句が李登輝の回心聖句です。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


救いとは自由であり、自由とは解放に他なりません。即ち、罪と自分自身からの解放であり、李登輝は正に解放され自由を得て救われました。さて、台湾事情に詳しい寄居チャペルの鮫島紘一牧師の話しによると、今台湾では数千名単位の集会があちこちで開かれ、キリスト教のリバイバルが起こっているということでした。


[李登輝が尊敬する日本人]


李登輝は、二人の日本人をいたく尊敬していました。後藤新平と新渡戸稲造です。

画像(新渡戸稲造・後藤新平・八田與一の像)


後藤新平は、台湾総督府民政長官を務め、台湾の民生改革を行った後藤新平を「台湾発展の立役者」として絶賛しました。


「後藤新平は私の先生ですよ。本当に台湾のために奮闘しました。こういう人たちがいるからこそ、台湾人は永久に日本を忘れません。そして15万町歩を灌漑した八田與一先生。こういう人たちに対して、台湾では依然として神様みたいにして大事にしておりますよ」


李登輝は、後藤新平から台湾近代化の道を学び、新渡戸稲造からは思想を学びました。そして新渡戸稲造に心酔し、武士道、農業経済学、キリスト教という3つの分野において、色濃く影響を受けました。


<新渡戸稲造との出会い>


新渡戸稲造(1862年~1933年)は、1901年、後藤新平に乞われ台湾総督府の農業指導担当の技官として赴任し、台湾製糖業の発展に大きな貢献を為しました。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれています。


李登輝は若き日、図書館で新渡戸稲造の『講義録』と出会いました。それはイギリスの思想家トーマス・カーライルの哲学書『衣裳哲学』を解説した講義録です。新渡戸は、永遠の否定から永遠の肯定へを描いたこの『衣装哲学』によって救われた体験があり、「衣装哲学は命の恩人」といい、生涯34回も熟読したと語っています。


難解なこの衣装哲学の理解に手こずっていた時、新渡戸の解説書を読んで目から鱗の体験をしました。以後新渡戸の著書をすべて読んでいき、その過程で出会ったのが新渡戸の著書『武士道』だったというのです。彼は武士道に心酔し、深く思想的、実践的な影響を受け、武士道の解説書である『武士道解題』(小学館文庫)を書いたほどでした。


<李登輝が理解した武士道>


李登輝は、武士道に道徳体系としての普遍的倫理観念を見ました。それは語られたる、もしくは書かれたる成文律ではなく、心に刻まれたる律法であり、実行されたものであるというのです。


新渡戸は、武士道の淵源には「仏教(無常観、運命観、死生観)、神道(忠尊孝、清浄)、儒教(5倫5常)がある」としました。そしてそれは日本精神の核になっているというのです。儒教などが示す五常、五倫の道は「中国から輸入される以前から民族本能が認めていたところであって、孔子の教えはこれを確認したに過ぎない」(新渡戸稲造著『武士道』P36)と明記しています。


また、内村鑑三は「日本の道徳性は、贖罪思想を除いて、キリスト教倫理に決して引けをとらない」と述べ、「武士道の台木にキリスト教を接いだもの、其の物は世界最善の産物であって、これに日本国のみならず全世界を救う能力がある」と明言しました。


李登輝は武士道について、以下の通り語っています。


「武士道などと言えば、戦後の自虐的価値観の影響で、非人間的、非民主的な封建時代の亡霊であるかのように扱われているが、決してそうではない。私は、新渡戸が説いた武士道こそ、日本人の精神であり道徳規範(道徳体系)であると考える。それは単に精神、生き方の心得というだけでなく、日本人の心情、気質、美意識であると思う」(李登輝著『新台湾の主張』P45)


「私が生まれ育った台湾という小さな島が、何故今日のような世界でも有数の豊かで幸せな国として急成長することが出来たのか。この根本的な疑問に明快極まりない答えを与えてくれたのも、新渡戸稲造先生が世界に向かって提示して見せてくれた『武士道』という本以外の何ものでもありませんでした」(著書『武士道解題』P78)


さて新渡戸は、「武士道」のなかで、「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」を武士の徳目として挙げています。李登輝は、武士道で何より重要な点は、それらの「実践躬行」を強調していることであると理解しました。「公」のために働くことの大切さや尊さについて『武士道』や『衣裳哲学』から学んだとし、著書『武士道解題』を次のような言葉で結びました。


「武士道は、我々の先人が700年の時間をかけて(台湾と日本の)国民精神の根幹として育て上げてきたものであります。それを戦後の70年ほどお蔵入りさせていたわけだが、蔵にあるものは蔵から出せば良いのです。最後に、もう一度繰り返して申し上げておきたい。日本人よ自信を持て、日本人よ『武士道』を忘れるな」


【今後の日台関係】


今や世界は第三次世界大戦の第二段階ともいうべき只中にあり、ソ連共産主義が第一段階とすれば、より狡猾で手強い中国共産主義との第二段階目の世界大戦に直面しています。当に黙示録が記す「赤い龍」であります。そしていうまでもなく、台湾は日本の生命線であり、重要な防御壁であります。


「自由で独立した台湾なくして、自由で独立した日本はなく、また、同時に、自由で独立した日本なくして、自由で独立した台湾はない、両国は運命共同体なのだ」と李登輝は叫びました。


先ずこれからの日本と台湾において、「日本版台湾関係法」の早期制定が急務です。1979年、アメリカは国内法として「台湾関係法」を定めて台湾との関係を維持し、台湾防衛で中国を牽制しました。しかし日本では、1972年の日中国交正常化にともなう日台断交以来、台湾交流の法的根拠を欠いたままであり、親日国家の台湾人は、「日本に裏切られた」との切ない思いを抱いてきました。


この台湾関係法(日台基本法)の早期制定をはじめ、日台はあらゆる面で強固な関係を築くことが不可欠であり、日本国民はこれを全面的に後押しすべきです。また、台湾を国家承認すべしとの機運を盛り上げ、日本人は、これを後押しする義務があると思います。(了)



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