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澤田美喜記念館を訪問して 隠れキリシタンの資料館

◯つれづれ日誌(令和4年7月6日)-澤田美喜記念館を訪問して-隠れキリシタンの資料館


自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マダイ5.44)


さて筆者は、この7月2日、大磯にある澤田美喜記念館を訪問してきました。筆者の「長崎キリシタン訪問記」を読んで下さったある牧師さんから、是非ともと勧められたからです。


澤田美喜記念館は、澤田美喜女史の生前の遺志を引き継ぎ建設され、建物はノアの方舟をイメージした船型で、2階は礼拝堂、1階はコレクション展示室となっています。1980年(昭和55年)に澤田美喜さんが亡くなって、1988年に澤田美喜記念館が創設されたと聞いています。


澤田美善は、戦後、児童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立しましたが、その福祉事業と共に、「隠れキリシタンの遺物」の収集を行い、澤田美喜記念館には、1936年(昭和11年)から約40年にわたって収集した、隠れキリシタンの遺物や関連する品々874点が収蔵され、その3分の1が展示されています。


【大磯という町】


炎天下のうだる暑さの昼過ぎ、筆者は横浜駅から東海道線で8番目の駅である大磯に生まれて初めて下車しました。澤田記念館は大磯駅から3分位の場所にありますが、先ず最初に観光案内所に行き、大磯について色々知ることになりました。


大磯については、吉田茂の邸宅があること位しか事前知識はなかったのですが、実はこの地は「明治政界の奥座敷」と呼ばれ、避暑・避寒地として、伊藤博文をはじめ、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望など、そうそうたる重鎮が別邸を構えている歴史的な地でありました。


また文学者の島崎藤村が晩年を過ごした地でもあり、石原慎太郎がこよなく愛した湘南海岸が目と鼻の先に広がっています。そして美喜の実家岩崎家の別邸も大磯にありました。


筆者は、澤田記念館を見たあと、七賢堂などがある吉田茂邸を見学しようと思っていましたが、結局、澤田記念館の隠れキリシタンの遺物の説明を聞くだけで満足し、吉田邸などは、次回の機会に回すことにいたしました。


【澤田美喜とキリスト教】


澤田美喜女史(1901~1980)は、1901年三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫娘であり、三菱財閥3代目岩崎久弥と妻寧子の長女として東京の本郷に生まれました。50人もの使用人に囲まれ、下膨れの丸顔で男勝りの美喜は、流行のドレスが似合う女性ではありませんでしたが、何不自由のない恵まれた環境に育ちました。しかし、一つどうしても許されなかったのがキリスト教でした。


ちなみに戦争特需の政商として成り上がった三菱財閥の総師岩崎弥太郎は、そうそうたる閨閥を形成しています。弥太郎の弟弥之助は2代目として三菱を発展させ、娘婿には二人の総理大臣がいます。長女・春路は加藤高明元総理に、四女・雅子は幣原喜重郎元総理に嫁ぎました。また母・寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女です。


美喜は、10才位の時、静養で大磯の別荘に来ていた時、衝撃的な聖書の言葉と出会います。美喜の世話をするため隣室にいた赤十字出身の看護婦が読んでいた聖書の一節「汝の敵を愛し迫害するもののために祈れ」(マダイ5.44)の声を聞き、当時戦乱の世界だっただけに、この言葉が新鮮でいたく心に響いたというのです。以後、美喜はキリスト教と聖書に関心を深めていきました。(青木冨貴子著『GHQと戦った女』新潮文庫P93)


しかし美喜の生家岩崎家は代々真言宗で、キリスト教は許されず、彼女はどうしても聖書を読みたい、教会に行きたいと思っていましたが、それが見つかると祖母から大目玉を喰らったと言います。ある時は、せっかく手に入れた聖書を、風呂釜の薪と一緒に火にくべられてしまい、美喜はその前でボロボロと涙をこぼすのでした。また、祖母の意向で、1916年に東京高等女学校を中退しています。


それでも一度知った聖書の感動が忘れられず、自分の誕生日のお祝いに教会に行くことを父にねだって、鳥居坂のメソジスト教会に行っています。やはり、美樹は神に目を付けられ、神に捉えられた女性でした。


実は、財閥創業者の岩崎弥太郎は、その当時の大物の常として、妻の喜勢以外の複数の女性と関係し、何人かの子をもうけていました。しかし喜勢は、自分の子のようにして邸宅で育てたという度量のある女性だったと言われています。一方、美喜の父、岩崎久弥は、母喜勢の苦労を見ていたせいか、父弥太郎と違って妻の寧子以外の女性には手を出さなかったと言われ、その父にしてこの娘あり、という感がいたします。


そんな美喜にとって大きな転機となったのは、1922年、澤田廉三(さわだ れんぞう、1888年~1970)との結婚でした。廉三は、東大卒の優秀な外交官で(後、外務次官・国際連合初代大使)、鳥取出身の敬虔なクリスチャンで した。澤田家は代々クリスチャンの家系だったのです。


これでようやく美喜は教会に堂々と行けるようになったというわけで、名実共に、晴れてクリスチャン澤田美喜の誕生です。美喜は、1926年、鳥居坂のメソジスト教会で洗礼を受けました。しかし、4年後、ロンドンに住むようになった美喜は、英国国教会(聖公会)に転会しています。


美喜は、海外赴任する廉三に喜んで従い、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと任地を転々としました。その間、多くの著名な国際人脈を築き、聖書の集会にも積極的に参加しました。特にロンドンで、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアをした経験は、のちに混血孤児院「エリザベスサンダースホーム」を設立する大きな動機となりました。なお、美喜は廉三との間に4人の子をもうけ(息子3人、娘1人)、息子3人は軍隊に行き、3男晃(洗礼名ステパノ)は戦死しています。


【エリザベス・サンダースホーム】


澤田美喜記念館に隣接する「エリザベス・サンダースホーム」は、神奈川県中郡大磯町の「児童養護施設」であります。第二次世界大戦後、駐留するアメリカ軍兵士など連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、川や沼、トイレに無惨に捨てられる混血孤児が急増していました。両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たち(GIベビー)のための施設として、1948年、美喜が、財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を、私財を投入し、募金を集めて400万円で買い戻して設立しました。


当時、GHQの財閥解体指令で、三井、住友、安田、そして三菱などの財閥は解体され、全ての資産を失っていましたので、孤児院設立に美喜は寄付集めに奔走しました。 施設の名前は、ホーム設立後に最初の寄付(170ドル)をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダース(40年にもわたって日本に住み、他界したイギリス人女性)にちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けられました。


またホームの中に小学校・中学校も設立されました。小学校は、1953年に創立され、美喜の戦死した三男・晃の洗礼名から、「聖ステパノ学園」と命名されました。1993年よりは、外部の一般家庭の子弟も募集するようになり、小学校・中学校ともにキリスト教学校教育同盟に加盟しています。


では、美喜がこの孤児施設を作るに至った動機は何だったのでしょうか。美善は、1931年(30才)夫・廉三の英国・ロンドンへの転任に伴い同行した時、前述した孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪問し、院長の「捨てられた子を、引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい奇跡だ」という言葉に感銘を受け、この時の体験が、日本で児童養護施設「エリザベス・サンダースホーム」を設立する大きな動機付けになりました。美喜は 「もし神がお許しになるならば、必ず日本にこのような明るい子供たちのホームを実現させよう」と、神に祈り誓いました。


そして決定的なきっかけになったのは、1946年のある日、たまたま東海道線列車内での驚くべき体験でした。美喜の膝元に棚から落ちてきた紫の風呂敷に、なんと黒人嬰児の遺体が入っていたというのです。美喜は、警察からこの遺児の母親と間違われ、逮捕されそうになるという体験をしたというのです。


この時美喜の耳元に、「もし、お前が、たとえいっときでもこの子供の母とされたのなら、なぜ日本国中の、こうした子供たちの、その母となってやれないのか」という声がし、正にこの出来事は「神の声」だと直感し、混血孤児の救済を決心したというのです。著書に「私の残る余生をこの仕事にささげつくす決心を、はっきりさせた瞬間でした」と著わしています。美喜45才。(青木冨貴子著『GHQと戦った女』新潮文庫P59)


こうして1948年2月、孤児院エリザベス・サンダース・ホームが設立されます。しかし当初、GHQ、日本政府、社会からも迫害をうけ、経営は窮乏を極めました。設立後、世間の誤解や偏見、資金難など幾度かの危機に遭遇しましたが、美樹は持ち前のバイタリティーと信仰によって乗り越え、560名の混血孤児を含む2000人もの孤児を育て上げました。


聖書に、「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。」(申命記27.19)、「寄留者 、孤児、やもめを虐げず」(エレミヤ7.6)とあり、また「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14.18)とあるように、聖書は随所に寄留者、孤児、やもめ、貧しい人々を大切に扱うよう求めており、この弱者救済思想は聖書の顕著な特徴であり、美喜の行動にはこうしたキリスト教の慈善思想が根底にありました。


また、「ノブレス・オブリージュ」(高貴さには義務が伴う)という言葉がありますように、美善には、恵まれた家系に生まれた者の義務と責任をより深く感じる感性があったことでしょう。ある意味で、日本昄マザーテレサといったところでしょうか。


ちなみにマザーテレサが、貧しい人々への献身を決定付けた回心聖句は次のフレーズです。


「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしに(イエスに)したのである」(マダイ25.40)


澤田美喜と子供たち   現在のエリザベス・サンダースホーム   澤田美喜記念館



【澤田美喜記念館にて】


澤田美喜が生涯で手掛けた事業として、上記した「福祉事業」(サンダース・ホーム)と「教育事業」(聖ステパノ学園)の2分野の他に、「 文化事業」(隠れキリシタン遺物収集)があります。この項では第3の文化事業であり、最も関心がある「隠れキリシタン遺物収集」について述べたいと思います。


さて、今回のお目当ての澤田美喜記念館ですが、美喜は、隠れキリシタンの遺物の収集家であり、日本全国から集められた貴重な資料874点の3分の1あまりが記念館に展示されています。またこの記念館はエリザベス・サンダース・ホーム出身者の心の拠り所としての機能も有していて、2階には礼拝堂があり、孤児たちの祈りの場でもあります。


<隠れキリシタン遺物>


澤田美喜は、熱心なクリスチャンであったことから、夫の海外赴任に同行中に、世界各地で、各種の十字架など、キリスト教関係の資料を収集していました。そして 1936年、ニューヨークからの帰国の船の中で、隠れキリシタンの迫害に関する本を読み、「信仰深い日本人の血が自分にも流れている」と感銘を受け、帰国後隠れキリシタンの資料を集め始めたと言われています。


こうして信仰心から遺物の収集を始めましたが、迫害に耐えて信仰を守った隠れキリシタンの労苦を偲び、何よりも本人自身が励まされ、なぐさめられ、そして強められました。彼女自身、孤児施設の運営・維持に当たって試練が絶えなかったからです。


その後、40年に渡って遺物を収集し、自ら隠れキリシタンらに励まされた経験から、これらの遺物を守りたいという思いにかられ、キリシタン記念館建設趣意書を書いて、世の多くの人々と共に、この歴史的な宝を守っていきたいと表明しました。この美喜の思いが、澤田美喜記念館として結実したという訳です。


筆者は、この目で、実際に踏絵として使用された「摩耗した踏絵」や、表面に光が当たるとキリスト像が浮かび上がる「魔鏡」を拝見すると、当時の人々の信仰への強い思いを感じ、また、制作者の技術の高さにも感銘を受けました。


阿弥陀如来像の背面に隠されたキリスト像、マリア観音の掛け軸、大黒天像や鬼子母神に見立てられた聖母子像からは、仏教を隠れ蓑に礼拝を守った、緊張感ある空気が伝わってきます。


その他、隠れキリシタンがその信仰を隠すために工夫をこらしたキリスト像、十字架、マリア観音像、マリア地蔵、信仰の手引書「七つのさからめんと」、そして細川ガラシャの遺品まで、実際に目の当たりにすると、その受難の日々が想像され、身が引き締まる思いがいたします。正に、神が澤田美喜という女性を召されて、日本にも見上げたキリスト教の信仰があったことを、後生に残すために為されたみ業に他なりません。


美喜が隠れキリシタンに励まされたことについて、次のように記載されています。


「そこに隠れキリシタンの遺物をおさめ、祭壇と祈りのための机をおいて、美喜は夜になるとひとり祈りを捧げた。ホームの運営に行き詰まったり、米軍の迫害や周囲からの白眼視など、あらゆる困難や苦しみに打ちのめされた美喜が、三百年もつづいた激しい弾圧の中で、死をも恐れず、命懸けで教えを守り通した隠れキリシタンの苦難を思い、白磁のマリア観音へ語りかけ、自分を叱咤激励した場所でもあった」(青木冨貴子著『GHQと戦った女』新潮文庫P27)


<長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産>


筆者は以前、「長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地」と題して、 2018年に ユネスコ世界文化遺産として登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について3回シリーズで紹介しました


筆者はかねてより、当該澤田美喜と同じく、禁教時代の長崎を中心としたキリスト教の迫害、特に「隠れキリシタン」(潜伏キリシタン)について、強い関心があり、「殉教と潜伏キリシタン」をテーマに日本のキリスト教の歴史を振り返って見たものでした。


徳川幕府によるキリスト教の禁教下の中で、長崎と天草地方において日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた「潜伏キリシタン」がいました。江戸時代には禁教が徹底され、キリシタンたちは信仰を守るために潜伏することを余儀なくされたのです。


政府からの激しい弾圧、宣教師・神父の国外追放といった厳しい状況の中にあっても、250年の長期にわたり、信仰を継承した日本のキリスト教は、わずか数百年の歴史の中に、伝来、発展、弾圧、潜伏、そして復活というプロセスをたどってきた、世界に類を見ない劇的なキリスト教史とも言えるでしょう。


この世界遺産は、長崎と天草地方の潜伏キリシタンが、信仰を守ってきたあかしとなる遺産群であり、潜伏キリシタンの伝統の歴史を語る上で必要不可欠な12の資産で構成されています。 これら12の遺産は以下の通りです。


① 大浦天主堂(世界の宗教史上に残る劇的な信徒発見の舞台)

②長崎市外海(そとめ)の出津(いず)集落(聖画像をひそかに拝み信仰を続けた遠藤周作の『沈黙』の舞台)

③外海の大野集落(神道の信仰を装いながら続けた信仰)

④原城跡(南島原市ーキリシタンを中心に37000人が殲滅された地)

⑤黒島の集落(佐世保市―仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた )

⑥平戸の聖地と集落①(平戸市―禁教時代の潜伏キリシタンの集落の様相をとどめる歴史的遺産)

⑦平戸の聖地と集落②(平戸中江ノ島ー潜伏キリシタンから崇敬される)

⑧奈留島の江上集落(五島市奈留島ー人里離れた海の近い谷間に移住)

⑨久賀島の集落(五島市ー未開の地で仏教徒との相互関係)

⑩野崎島の集落跡(五島小値賀町ー神道の聖地で信仰を続ける)

⑪頭ヶ島の集落(五島新上五島町ー仏教徒の開拓地の指導によりできた集落)

⑫天草の﨑津集落(天草市ー漁村特有の形態で信仰を続けた集落)


【善き出会い】


以上の通り見てきましたように、美喜の生涯の背後には、常に聖書の言葉と神の声がありました。美喜の混血孤児ホームは、財閥解体を指令したGHQへの復讐だといった偏った見方もありますが、美喜の行動には、孤児ホームにせよ、学校設立にせよ、そして遺物収集にせよ、美喜の本心に働く「神の声」があったことは明らかです。かってナイチンゲールが、生涯4回の神の声に従って、当時、蔑まれていた看護制度の大改革を成し遂げたように、美喜もその見えざる声に突き動かされたというのです。


実は、今回の記念館訪問に当たって、1ヶ月ほど前からの予約が必要でした。筆者は電話でこの日午後1時の予約を取り、満を持して訪問したものです。そして筆者は、この日、3人の方との喜い出会いをすることになりました。


一人は、社会法人エリザベス・サンダース・ホーム澤田美喜記念館のチーフアドバイザーとして、筆者を含む3人の訪問者に館内を案内された武井久江さんです。彼女は、美喜の実家岩崎家の歴史、美喜自身の人生の概略、そして隠れキリシタンの遺品について、実に丁寧に、そして分かりやすく、たっぷり2時間、説明して頂きました。


私も過去こういった案内を数多く体験してきましたが、この方ほど情熱的で行き届いた案内は知りません。私は思わず、「武井さん、心なしか美喜さんとそっくりですね」と言ったら、「その通りです。私は澤田美喜と一心同体ですから」との返事がかえって来ました。


彼女は、外でも講演などをこなしているらしく、美喜の精神、隠れキリシタンの存在を語るのが自らの社会的役割だと心得ておられる気がいたしました。帰りに、筆者がクリスチャンで牧師であることを述べた上で名刺を交換し、今後、美喜について聞きたい時は自由に電話してもいいとの確約を頂きました。


そしてこの日出会ったもう二人は、この時筆者と一緒に、武井さんの説明を聞いた訪問客です。その一人は、五島列島にまで足を伸ばし、長崎のキリシタンの足跡を辿ったという方で、隠れキリシタンに深い関心があるほっそりした女性でした。熱心に説明を聞き、本質的な質問をされていましたので、「あなたはクリスチャンですか」と尋ねたところ、「クリスチャンではありません」という返事でした。


大阪の南蛮文化館にも是非行って見たいという彼女は、富士宮市から来たということでしたが、富士宮は筆者の長男夫婦が住んでいるところであり、また昨年葬った配偶者の墓、富士宮朝霧霊園をよくご存知だったので、二重の意味でびっくりしたものです。


そして今一人の訪問客は、一見、ルポライター風の落ち着いた女性で、熱心にメモを取られ、武井さんへの質問も大変的を得ていました。後で、「何をされていますか」と聞いたところ、「ブログに色々な出来事や感じたことを書いて発信しています」ということでした。


後でブログを拝見すると、映画「祈りーサムシンググレートとの対話」の論評があり、筑波大学名誉教授の故村上和雄の「祈り観」やマザー・テレサが唱える、アッシジの「聖フランシスコの平和の祈り」など、祈りについて詳しく書いておられ、また「祈り」と「願い」の違いにも触れて、なかなかの方だとお見受けました。


さてこうして、充実した訪問が終わりましたが、その余韻覚めやらず、帰りに今回訪問した3人でカフェに立ち寄り、肩の力を抜いて話すことになりました。筆者も2人の話を色々聞きましたが、筆者が聖書研究者で牧師であることを伝えていましたので、少し聖書の話をさせて頂きました。


曰く、聖書は端的に言えば、神様と罪と救いについて教えていること、そして聖書66巻で最も重要な巻は創世記であることを述べ、ここに神・罪・救いの雛型があることのさわりを説明しました。


2人は熱心に聞かれて、大変示唆に富む話を伺いましたと言って頂き、帰りに、「もう私たちは、聖書の勉強仲間ですね」と笑って帰途についた次第です。かくして私たちは、今日初めて会ったにも関わらず、旧知の仲のような聖書の友になりました。これもやはり、隠れキリシタンが取り持つ縁と言うことでしょうか。


こうして筆者の澤田美喜記念館訪問は終わりました。神は実に色々なところで、私たちを導いておられ、福音を語ることの喜びは至るところにある、という実感でした。神を伝え、救いを宣べることの喜びに優る喜びはありません。これが今回の結論でした。(了)

ユニバーサル福音教会牧師トマス吉田宏