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畠田秀生牧師の出版記念懇談会に参加して

○つれづれ日誌(12月13日)- 12月13日、畠田秀生牧師の出版記念懇談会に参加して


古事記は如何なる書なのか、聖書と如何なる関係があるのか、そしてそれは何を意味するのか


12月13日、「聖書と日本フォーラム」の会長である畠田秀生牧師の著書「古事記と聖書」の出版記念懇談会がお茶の水のクリスチャンセンターで行われ、筆者も参加いたしました。「聖書と日本フォーラム」とは、古代日本と古代ユダヤとの関わりを研究し、そして聖書を日本的視座からも読み解いていこうという保守的なクリスチャン、牧師の集まりであり、筆者も会員であります。


[問題意識]


筆者は、イスラエルの幕屋の構造が、日本の神社の構造と瓜二つであることに、以前から着目していました。そして幕屋の至聖所に十戒を記した石板がご神体として安置されているように、8万神社の本殿にも、ご神体として聖書(神の言葉)を安置することを提唱してきました。


これによって、日本の多神教に「唯一の創造神」という眼が入り、日本的霊性が完結すると確信するからです。ちなみに「日本的霊性」とは、アメリカでいう市民宗教、即ちピューリタンによる建国以来のアメリカ的霊性の日本版ともいうべきもので、日本人の根底を流れる霊的意識であります。

(「日本的霊性」については、HPのカテゴリー「聖書の知識22」に掲載しています。)

reiwa-revival.com/post/令和リバイバル:日本的霊性とは何か


そして畠田氏の新刊「古事記と聖書」に、これらのヒントになるものがあるかも知れないとの期待感から、早速アマゾンで取り寄せて読んだ次第です。従って、今回の記事はこの本の書評ということになるでしょう。


[「古事記と聖書」の骨子及びコメント]


以下、「古事記と聖書」のなかで重要と思われる箇所について、筆者の見解を加味して論評したいと思います。


この本は、古事記と聖書の内容には極めて強い関連性があることを、古事記の各項目ごとにきめ細かく論証されています。その労たるや大変なものであり敬意を表するものです。また、興味深く小説風に構成されており、その中に、著者自身の宣教観や信仰観がちりばめられているような気がしました。


そして古事記と聖書がこれ程密接な関連性がある以上、古代北イスラエルの10氏族や南ユダが、国の滅亡後、日本に渡来し聖書を伝えた可能性が大ではないかとの前提に立っていると思われます。以下、指摘されている主要な関連性について見ていきたいと思います。


1、古事記と聖書の天地創造について


古事記の冒頭に出てくる造化三神(アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ)は創造そのもの、聖書の神そのもので、これはキリスト教の父なる神、子なる神、聖霊なる神と対応していると指摘されました。(「古事記と聖書」P23)確か久保有政牧師も、タカミムスビの神はイエス.キリストであり、従ってタカミムスビから国家神を引き継いだアマテラスもイエス.キリストだと言われているようです。


この点、平田 篤胤も聖書を研究し、キリスト教的天地創造神話を強く意識しながら、アメノミナカヌシ(天御中主神)を創造主と位置付けました。復古神道においては、日本の「国産み」において天地創造がおこなわれるとしました。


ただ気になるのは、古事記には「高天原に成りませる神」と記載されている点です。これを額面通り読めば、アメノミナカヌシが誕生する前に既に高天原(神々の住むところ)は存在していたということになり、聖書でいう天地創造の神ではないということになりかねません。


しかし、神道は多神教であるという通説に対し、この造化三神を創造神と位置付けて、本来神道は一神教だったという説も根強くあることは確かです。つまり、アメノミナカヌシの復権です。


この点、日本には古来から祭神論争があり、多神教的な性格を持つアマテラス派と、一神教的な性格を持つアメノミナカヌシ派で多くの議論がなされ、今日に至っています。



2、みとのまぐわいによる国生みー聖なる結婚


古事記には日本を生んだとされているイザナギとイザナミの聖なる結婚が記載されています。イザナギの下半身に出っぱっているところがあり、逆にイザナミにはくぼんでいるところがあり、これを合わせて国を生もうというおおらかで有名な話です。


二人は結婚のための聖なる神殿を建て、聖なる結婚をすることになります。御柱を左右に回って出会ったところで交わりをすることを約束しますが、しかし、女性のイザナミの方が先に愛の言葉を語って誘ったことが原因となって、最初の結婚は失敗することになりました。その結果手足のない水蛭子が生まれてしまいます。


この教訓から畠田氏は、「聖書から励まされている聖なる男女の関係には、心しなければならない。清さを尊ばなければ」と記されています。(P55)


上記の聖なる結婚の失敗は、創世記3章の失楽園を想起させられます。蛇がエバを誘惑し、エバがアダムを誘ったあの話、つまり聖なる結婚の失敗です。


またイザナミは多くの神を生んだあと、最後に火の神(火之迦具土神)が生まれる時、御陰(ほと)である女性器に深刻な火傷を負い死んで黄泉に下ることになりました。(P59)


このように奇しくも古事記には、女性器に問題が生じて災難に合う場面がいくつか出てきますが、これは何か大切なことを暗示しているのでしょうか。神話は事実ではないことがあるかも知れないが、「真実が秘めれている」と言われますように、古事記がある種の霊感を持って書かれたものであれば、なおさらその霊的な意味を感じとることが大事になります。


畠田氏は本書冒頭で「古事記はおとぎ話ではない。そこに秘められた(啓示的な)意味を汲み取る姿勢の大切さ」を強調されています。


3、アマテラスの岩戸隠れー贖罪と復活


アマテラスの岩戸隠れの顛末は、古事記の中でも最も有名な逸話の一つであります。弟スナナオノミコトの度を過ぎた所業に業を煮やし、遂に天の岩戸の洞穴に身を隠されてしまわれます。お陰で辺りは真っ暗闇になり、悪い悪霊らが跋扈する暗黒世界になってしまいました。


その後、高天原の神々は、知恵を凝らしてアマテラスを岩戸から引き出すことに成功し、世界は照らされて再び輝きを取り戻しました。


この岩戸は、キリストの墓と同じ横穴式で、キリストの死と葬りが暗示されていると畠田は指摘されています。そしてこのアマテラスの岩戸隠れとそこから出てくる逸話には、スサノオの狼藉の罪の贖いと、復活の意味が暗示されているというのです。即ち、このアマテラスの岩戸隠れには、イエス.キリストの「贖いの死」と「復活」の意味があるという訳であります。(P83~85)


確かにこの復活の思想は、死んで黄泉に下ったイザナミを探して黄泉に赴いたイザナギが、逆にイザナミから追われて 、地下の黄泉の国から、地上に逃げ帰る場面にも現れています。これは「黄泉がえり」、即ち「蘇り」であり、死から命へと移る復活を表しています。


また、天皇の代替わりの儀式である大嘗祭の御衾(おふすま)の儀礼にも復活の思想が現れているといいます。新天皇が神の前でかけぶとんの御衾にくるまって横になり、また起き上がるという儀礼は、皇太子として死に、天皇として復活することであるというのです。(P111~112)そしてこれらは、明らかに復活思想の表現であると思われます。


こうして見ると、神、罪、救いという聖書の構造が、そのまま古事記の構造になっていると言えなくもなく、古事記と聖書との密接な関係が明らかになるという訳です。


筆者の知人のつくだ照雄さんは、古事記と聖書のただならぬ関係を数十年来研究し、近く日本国史学会に論文を提出するためまとめているというのですが、「古事記の神話の流れは、間違いなく創造(神)、堕落(罪)、救い(復活)の摂理が表されていると見なせる」と言っています。


また、「古事記と聖書の比較から、皇室の祖先はイスラエルの流れであり、三種の神器の八咫の鏡とは、失われた契約の箱の石板であると言う説が成り立つのではないか」とも言っています。


これらの証言は、本書「古事記と聖書」において縷々説明されている畠田説を補強するものであります。


ただ筆者は、神道にはイスラエルにあるような贖罪思想は見られないのではないか、と考えております。冒頭で述べましたように、幕屋と神社は瓜二つですが、幕屋にあって神社に無いものが一つあります。つまり、全焼のいけにえのための祭壇であります。


神道は罪科(つみとが)を人間に内在するものというより、埃のように外から付着するものと考えている節があります。それ故に禊と祓いによって払い除けるという儀式があるのではないかと考えられ、そこには罪の贖いという観念はみられません。従ってアマテラスが弟スサノオの罪科を贖うために岩戸隠れをしたというのは、やや拡大解釈ではないかと考えるものです。もちろん、異論、反論は歓迎するところです。


[天皇と日本の伝統について]


畠田氏は本書の中で、日本の天皇が二千年以上存続していることの霊妙な意味と価値を評価され、天皇は男系であり、専ら祭司として、祈りと祭りごとをなされてきたと語られています。


また、天孫降臨したニニギの子孫である神武天皇が2680年前に即位したというのは、大挙して西方から渡来した子孫ということ、即ちイスラエルの離散した末裔ではないかと言われています。


つまり、日本の建国とその文化、伝統、信仰に古代イスラエル系渡来人の影響があったとされ、そして「日本の神話は、もともと天皇家がヤコブ、ヨセフ、エフライムの子孫であることを示す系図だった」(P91)とも指摘されました。従って、日本文化に内在する古代イスラエルの思想を無視出来ないということになります。


筆者はイスラエル系の渡来人が、はたして古代日本にやってきたのか否か、天皇がエフライム族の系譜に連なるのかどうか、などについては、正直確固たる確信はありません。しかし、古事記と聖書に親和性があるということ、そして畠田氏の天皇観については、多いに共感を抱くものです。


筆者は、昨年12月1日、大嘗宮一般公開の折りに皇居を訪れましたが、その感想文の中で天皇の存在意味について論評し、日本に天皇制が何故必要なのかについて、以下の3点を挙げました。


第一に、国家・国民のまとまりにおいては、国民統合の精神的、文化的核となるアイデンティティーが必須であり、その役割は、現在の日本において天皇しかないという認識です。かって、ソ連が崩壊し、共産主権のアイデンティティーが喪失した時、エリチィンやプーチンは、ロシア正教を復活させて国民統合のアイデンティティーにしました。このことで国民精神は安定し、経済が復活したのです。


第二に、イギリスと同様、君主制が日本の国柄や国民性に合っているのです。イギリスは清教徒革命で一時期共和制を採用しましたが、結局うまくいかず君主制を復活させて安定しました。もともと日本の君主制は古来から権威と権力が分立しており、日本の国柄や国民性がこういう君主制と相性が合うのだと思います。


三番目は、天皇への崇敬が、国民道徳の根幹になっているということです。儒教でいう五倫(親子・夫婦・兄弟・朋友・君臣)や五常(仁・義・礼・智・信)の徳目は、日本では尊皇精神が根源になっていると言われています。


しかし、ここで注意しなければならないのは、「崇敬」であって「崇拝」ではないという点です。崇拝は神のみに捧げられる言葉であり、天皇を含む人間に向けられるものではありません。


[おわりに]


さて、古事記の記述が聖書と類似性があり、聖書に強く影響されていることを知ることの意味はどこにあるのでしょうか。


先ず何と言っても、これを通して日本人が聖書に親近感を持ち、福音伝道のよい養分になるということだと思われます。そして日本を正しく知ることで、キリスト教に対するアレルギーが緩和され、福音の浸透、土着化に一役買うということです。


内村鑑三は著書「余はいかにしてキリスト教徒になりしか」において、「日本の道徳性は、贖罪思想を除けば、キリスト教に決して引けを取らない」と明記しました。キリスト者は、日本の精神性を、異教徒の思想としてむげに退けるのではなく、むしろより良く知るための努力が肝要と言えるでしょう。


不足な点は今後補うこととして、以上を以て足りないながら、畠田秀生牧師著「古事記と聖書」のコメントとさせて頂きます。(了)





*上記画像:国生みの図(小林永濯画)、真福寺収蔵の「古事記」、伊勢神宮の内宮