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礼拝改革への一里塚① ベテル・キリスト賛美教会、及び新宿純福音教会の礼拝に参加して

◯つれづれ日誌(令和4年2月23日)-礼拝改革への一里塚ーベテル・キリスト賛美教会、及び新宿純福音教会の礼拝に参加して


ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。(創世記28.18~19)


最近筆者は、図らずも二つのプロテスタント教会の礼拝に参加いたしました。今回は、この二つの教会の礼拝で感じたこと、そして礼拝改革について述べたいと思います。


【ベテル・キリスト賛美教会を訪問して】


先ず2月6日、「天地人真の父母様御聖誕記念天一国敬礼記念式」にズームで参加したあと、筆者はクリスチャンの知人のお誘いで、目黒不動前駅から2分にある「ベテル・キリスト賛美教会」の礼拝に参加いたしました。


<ベテル・キリスト賛美教会とは>

ベテル・キリスト賛美教会のダビデ原田牧師は、若きころ、兵庫県にある「子羊の群れキリスト教会」で洗礼を受けました。その時は、会社の上司の顔を立て、義理で洗礼を受けたそうです。


「子羊の群れキリスト教会」とは兵庫県芦屋市に本部がある教会で、ピーター島田、藤猪美津子両氏を指導者として1989年に設立された教会で、現在、数千名の信者を持つ教会に成長しました。特に「賛美」を強調するプロテスタント教会であり、 基本的にピーター島田牧師の改革派神学を中心に据え、各々が「神と一対一の関係」を持って神を賛美することを重視しています。


従って牧師を含む教会スタッフは、あくまでもその「一対一の関係」を促す助け手として位置付け、組織の仕組みとしては、ピーター&美津子、総務、働き人、集会リーダーから成り、出来るだけ簡素にしています。


この教会で洗礼を受けた原田牧師は、その後10年間は教会とは縁がなかったそうですが、ある時、大和カルバリチャペルの大川従道牧師の集まりに参加してから、教会に復帰するようになりました。大川牧師のもとで訓練を受け、1年半前に大和カルバリチャペルから独立して開拓伝道を始め、ベテル教会を設立しました。今では、30人くらいの信者を抱え、明るい奥さんと二人三脚で牧会活動をされています。


ベテル・キリスト賛美教会の「ベテル」とは、創世記28章18節~19節の「油を注いで、その所の名をベテルと名づけた」から取られた名前で、「神の家」という意味だということてした。


そして賛美教会の「賛美」とは、「賛美で全ては完成する」との原田牧師の信念からつけられたもので、神を礼拝し賛美することが、礼拝の目的であり、信仰の中心であるとの確信からくるものです。これは前記の賛美を強調する子羊の群れキリスト教会と同様です。ちなみに大川牧師の標語は「試練は恵み。マイナスは必ずプラスになる」というものです。


<ベテル教会の信条>

ベテル教会は、聖書は誤りなき神の言葉である事、真理の御霊なる聖霊による清めと癒しを信じ、実生活での祝福が豊かにある事、そしてイエス・キリストがいつかこの地上に戻られる事、を信条としています。


また、「神の目的は救い、罪の目的は滅び、処罰の目的は回復である」と明言し、信仰の本質をワンフレーズの短い言葉で語られ、分かりやすいのが特徴だとお見受けしました。


この「処罰の目的は回復である」との信条は、大川牧師の持論である「セカンドチャンス論」と同じ脈絡の中にあり、神は地獄をそのまま放置される神ではなく、霊界の悪人も福音を聞き、悔い改めて皆救われるという確信の表明です。


まだ小さな馬小屋のような教会でしたが、明るくオープンであり、初めての訪問者にも違和感なく溶け込める雰囲気を持ち、母教会のようにこれから成長する教会だと感じたものです。


現今、UCの礼拝は、ややもすれば内部の信者に向けられた内向きに傾きがちですが、礼拝は信者向けであると同時に、敷居を低くして、新規伝道者を意識した「伝道の場」でもあるという視点が大切だと思われます。


但し、ベテル教会のホームページには、当教会は「モルモン教、エホバの証人、統一教会などとは関係ありません」と書いてあり、オープンで開かれた教会で、他宗教であっても大歓迎との掛け声にしては、残念な言葉です。


【不思議な出会い】


さて筆者は、この度の礼拝で、二つ不思議な出会いをいたしました。


<ダビデ原田牧師>

一つは、ダビデ原田牧師との意外な出会いです。原田牧師の出身地が、なんと筆者と同じ兵庫県丹波の同郷で、筆者の出身校の柏原高校もよくご存知だったことです。


礼拝後、お茶を飲みながら歓談した際、一時故郷の話で盛り上がりました。お蔭で旧知の中のような親近感を得、名刺交換をして今後ともお付き合いをすることになりました。


<知人のこと>

もう一つは、私をベテル教会に誘った知人のことであります。彼は、60代の熟年者ですが、保守系キリスト者の集まりである「聖書と日本フォーラム」の世話人をされている方で、夜間の聖書学校を卒業し、日本のキリスト教界には詳しい方であります。聖書と日本フォーラムで知り合い、これまで資料のやり取りなどをしてきました。


彼は、色々な教会をさ迷いながら、やっと自分にあったベテル教会と出会って、居場所を見出だし落ち着きました。


実は筆者は、聖書と日本フォーラムの畠田秀生会長には、ある事情があり、自分がUC信者であることを告白していましたので、思い切ってこの知人にも告げておかなければならないと思っていたのです。


礼拝後、近くのカフェで歓談しながら、満を持して、筆者が長年のUC信者であることを証しました。


彼はきっと驚くのではないか、一体どのような反応をするのだろうかと、内心複雑な気持ちでありましたが、意外にも筆者の方が驚くことになりました。


実は彼が聖書を学びはじめたきっかけは、若い時代、自衛隊に入っていたころ、ある女性に誘われて、「UCのセミナーに出て原理を聞いたこと」だったというのです。なんと厚木セミナーにも参加し、リトルエンジェルにも見に行ったというのです。


彼は、原理について、その真偽のほどをキリスト教会の牧師に尋ね歩いたのがきっかけとなって、クリスチャンになったと告白しました。


つまり、筆者とこの知人には、原理という共通の土台があったというのであり、これは想定外の意外な展開でした。その話の後、「そのうち吉田さんには、お茶の水クリスチャンセンターの早朝祈祷会で、説教をお願いしたい」と頼まれました。筆者がUC信者だと知った上で使ってくれるというのです。本当に神は不思議なことをされる方だと驚きました。


それにしても原理の力は偉大です。半世紀も前に聞いた原理なのに、いまだに彼の心のどこかで、くすぶり続けているというのです。


【礼拝改革の一里塚】


さて、ルター、カルバンやピューリタンの宗教改革は、具体的には「礼拝の改革」から始まりました。何故なら、礼拝こそ宗教活動の中心であり、信仰生活の生命であるからです。宗教の改革とは、即ち、礼拝の改革と言っても過言ではありません。


<宗教改革者の礼拝改革>

宗教改革者は、カトリックの古い伝統に囚われた儀式中心の形式的な礼拝(ミサ)から、み言を中心とした実質的で躍動的な礼拝へと改革しました。そこでは、霊的覚醒と回心を伴う説教が重視され、また、従来、ラテン語で行われていた礼拝を、それぞれの国語に変更し、母国語に翻訳された聖書を読み上げました。


ちなみに、礼拝には3つの意義があると言われています。一つは、文字通り「神を礼拝・賛美」し、救いの恩恵に預かることです。これが一番大事な礼拝の意義であります。


次に、「み言の学び」であり、そして「信徒の交わり」です。こうして礼拝を通じて神の恩寵に預かり、信仰共同体の絆を形成していくというのです。


宣教師訓練センター所長の奥山実牧師は、「人間は神を礼拝し、賛美するために生まれてきた。神礼拝は人生の目的である」と明言されています。


<新しい礼拝>

前記したベテル教会の礼拝で、筆者が感じたことは、誰にも開かれた明るい礼拝、新規の伝道の場という位置付け、日本の文化伝統にも配慮した礼拝ということでした。


この「誰にも開かれた礼拝」という点では、2月13日、たまたま新宿に所要があり、ことのついでに参加した「新宿純福音教会」の礼拝でも感じたことでした。


新宿純福音教会とは、世界最大のメガチャーチと言われている韓国ヨイドの純福音教会の支教会として設立された教会で、今の担任牧師が派遣されてから14年目を迎えました。新宿明治通りの一等地に8階建てのビルを構え、3階と4階が大礼拝堂になっていました。在日韓国人の信者が多いのが特徴ですが、初めての筆者にも違和感がなく、誰のチェックもなく自由に参加できました。


ここでも「誰にも開かれた礼拝」と「新規伝道の場」という雰囲気を感じたものです。


つまり、礼拝を生命視し、礼拝をいかに盛り上げて神霊復興の場にするか、いかに新規伝道にも配慮した場にするか、そのためにどのような工夫が必要かを、真剣に考えることが肝要だと思われます。これは伸びている教会の共通項です。


内向きの礼拝、摂理を語る場としての礼拝から、回心と重生を意識した礼拝への転換です。つまり、礼拝において先ず語られるべきは、魂の救いであり、福音であります。勿論、そのための、牧会者の力量の向上と、それなりの規模を持った品位のある礼拝堂が望まれます。


以上が、最近筆者が二つの教会の礼拝に参加して感じたことであります。宗教改革は、先ず、礼拝改革から始まったことを想起して、より良い教会作りに前進して行こうではありませんか。(了)



上記絵画*ヤコブの夢のある風景(ミヒャエル・ウィルマン画)