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神学事始め 神学は異端を見分ける知恵

◯つれづれ日誌(令和4年8月24日)-神学事始めー神学は異端を見分ける知恵


もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音(異なる福音)を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。(2コリント11.4)


ある著名な牧師は、「神学とは正しい福音と異なる福音を峻別することである」と述べましたが、これは神学の一面を語っています。確かに正しい神学はパウロがいう「異なる福音」(2コリント11.4)、即ち「異端」を峻別するための知恵と言えるでしょう。


ちなみに異端の神学とは、その宗教の正統な教理に対して異なった教理を標榜する神学で、その意味で、異端は正統に対しての相対的概念とも言えるでしょう。そこで今回は、「神学事始め」と題してキリスト教神学とその役割について考えたいと思います。


【金振春氏論文の顛末】


前に筆者は、清心神学校教授の金振春氏が書いた神学論文「独り子独り娘としての真の父母」の中に、「いつ真のお父様が独り子となり、原罪がなくなったのかと言えば、お生まれになった時ではなく、神様の召命に応じてメシアの使命を受けた16才の時であったことが理解できます」(同論文P26) とのくだりに遭遇し、金氏が教会の重要な公職にある方だけに、腰を抜かすほどびっくりした次第です。そこで矢も盾もたまらず反論の論文 を書き、お父様は無原罪のメシアとして誕生されたことを論証しました。(参照→つれづれ日誌.令和4年6月1日-金振春氏の論文「独り子独り娘としての真の父母」の検証①)


そして最近、韓国の世界本部から、金振春氏の発言について、次のような公式発表がありました。


「去る4月19日から20日まで行われた特別教育の講義は、研究者個人の信仰告白及び研究結果の見解であり、真の父母様のみ旨と意中と心情がまったく盛り込まれていませんでした。同時に、教理的側面からも世界本部の公式な立場ではないことをはっきりと明かし、これ以上公式に講義をしないようにしました」


つまり、この公文によると、筆者が問題にした金氏の論文の「お父様原罪誕生論」についても金氏個人の見解に過ぎず、教会全体の公式見解ではないと読むことができそうであります。筆者としては、この金氏の論文の見解が「研究者個人の信仰告白及び研究結果の見解」であり、「世界本部の公式な立場ではない」とするだけではなく、「教理的に間違いである」と明言して頂きたかったと思っています。


実は筆者は、上記金氏の論文について、日本UCの教理的立場に責任のある方との協議を申し入れており、近々話し合いをする予定でしたが、安倍事件の勃発で延びています。そして筆者が金氏の論文への反論を書いて間もなく、金榮輝先生が「真の父母理想を破壊する金振春を討つ」と題する文書を出されましたが、お父様に関してのメシア観については、筆者と全く同じ見解でした。


筆者は、他の問題ならともかく、お父様に関するメシア観の問題だけは譲ることが出来ないと思っており、この金氏の異端的なメシア観とは、早晩、公私に渡って決着をつけたいと思っています。


【異端を見分ける知恵】


さて最近、ある信徒から、聖書の通読4回目が終わり、5回目に入ったとの連絡がはいりました。通読を終えた感想として、「その人の言葉が、神からのものか、人からのものか、鮮明に分かるようになりました」とありました。


<神からか、人からか>


使徒行伝に「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい」(使徒5.38~39) とありますが、この兄弟はその判別がつくようになったというのです。


かって筆者は、聖書の3回目の通読を終えて、神の霊の注ぎ、即ち神からのインスピレーションが頻繁に来るようになったと証言しましたが、気をつけなければならないのは、そのインスピレーションが、本当に神からのものか、悪霊の業ではないかを、よく祈って峻別しなければなりません。


そして、インスピレーションにとどまらず、その教えが、異なる福音、つまり異端的な言説であるかどうかを見分けなければならず、それを分別する知恵が聖書の霊性を受けた神学の知識であるというのです。


<神学は異端を識別する知恵>


そもそも異端とは何でしょうか。カトリックは20世紀に入って、今後は異端という言葉を使わないとの声明を発表しましたが、ある牧師によると、「異端とは三位一体の教理を否定する教えです。イエス・キリストの神性を否定したり、聖霊が神であることを否定する非聖書的な教えです」と答えています。


つまり、異端とは三位一体の神観を認めない言説であるというのです。確かに日本で伝統的なキリスト教から三大異端と言われているエホバの証人、モルモン教、UCは、キリスト教でいう三位一体の神を認めていません。


そして異端のもう一つの尺度として、聖書の他に聖書と並ぶ、あるいは聖書より重視する経典を有する場合も異端とされ、上記三大異端はこれに該当するという訳です。


以上の2点が現代における異端の尺度ですが、かって初期教会においては、律法を強いるユダヤ主義や善悪二元論で知られるグノーシス主義、そして三位一体の教義を巡る数々の異論があり、これらの異なる福音に対して正統神学を立てる必要がありました。


リヨンの司教エイレナイウス(130~200頃) は、使徒ヨハネの弟子、殉教者、聖人、反異端的教父といった名を持つ神学者でありますが、著書『異端駁論』(いたんばくろん)を著わし、グノーシス派などの異端について詳しい反論を行いました。またかのアウグスチヌスは、三位一体論問題など少なくとも50以上の異端・分派についての反駁(はんばく)論文を残し、正統神学の教理を確立していきました。


こうしてキリスト教神学は、異端との戦いの中で生まれてきました。正に「異端を峻別する知恵」であり、また反面教師として、「異端は神学の生みの母」でもあると云うのです。


私たちUCの内外には、異端的な教え、分派の主張など異なる福音が取り巻いています。これらを論駁するためにも神学の知識が必須である所以です。


【神学事始め】


では、キリスト神学とは何でしょうか、そして神学について如何なる姿勢を持つべきなのでしょうか、先ず、この問から始めたいと思います。


<神学とは何か-神学は信仰の侍女>


科学が「自然」を研究の対象とし、哲学が「人間」を研究の対象としているとすれば、キリスト教神学は「神」を研究の対象とする学問であります。即ち、キリスト教的見地からなされる「神についての体系的な学び」といえるでしょう。ヘンリー・シーンは著書『組織神学』の中で、「神学とは神についての教理である」と述べています。またドイツの神学者パウル・アルトハウスは「キリスト教信仰の学的な自己洞察である」とし、日本の神学者北森嘉蔵氏は、「神学とは福音の厳密な理解である」と定義づけました。そしてこれらは皆、神学の本質の一面を語っています。


つまり、神学とは神についての教理であり、信仰の学的洞察であり、神の言葉の厳密な理解であります。


そして筆者は神学を「聖書(神の言葉)の体系的理解であり、信仰の論理的な自己洞察である」と一応定義したいと思います。平たく言えば、神学は正しい信仰の道しるべであります。そして神学なしに厳密な信仰を持てないと同時に、信仰なしに神学は成り立ちません。正に神学は信仰の侍女であります。


そして神学の目的は、「救いとは何か、救いは如何にしてもたらされるか」という、この根本的な命題を厳密に明らかにすることであり、端的に言えば、「神」「罪」「救い」の3つを明らかにするものと言えるでしょう。


キリスト教神学は、「聖書」、「伝統」、「理性」をその源泉とし(アリスター・マクグラス『神学の喜び』)、信仰、啓示、理性がその要素になっています。


従って、キリスト教神学は聖書信仰を土台としており、聖書と神学はいわば車の両輪であります。その際、心掛けなければならないのは著名な神学者の次の言葉です。


「神学なき信仰は盲目であり、信仰なき神学は不具である」


つまり、理性は神学に、神学は信仰に、信仰は神に奉仕しなければなりません。世界宣教センター所長の奥山実牧師は、「神学校を卒業して60%の学生が神が分からなくなる」と嘆いておられました。神について学ぶはずの神学校で逆に神を見失うというのです。この点、内村鑑三が神学嫌いであったことは有名です。つまり信仰あっての神学であり、神学は信仰に奉仕しなければならないということ、つまり「神学の目的は信仰にある」ことを肝に命じることが肝要です。


【神学の全体構造】


ここで、神学の全体的な構造や、神学が扱う分野などについて、鳥瞰的に見ておきたいと思います。神学の分野には、a.組織神学 b.聖書神学、c.歴史神学(教会史、教理史、信条史、歴史思想史)、d.実践神学(牧会学、説教学、教会学、宣教学、典礼学、基督教音楽)、などがあります。


神学的命題として、a.神は存在するか、 神は如何なる存在か、神は何故この世界を創ったのか、b.三位一体論について、c.人間の罪とは何か、d.神が造った世界に何故悪が存在するのか、e.イエス・キリストとは誰か、f.十字架による贖罪と復活の意味とは何か、g.終末とは何か、再臨とは何か、h.歴史の意味とは何か、といったことが挙げられます。


主だった神学論争として、a.三位一体論争(アタナシウス派、アリウス派、ネストリウス派、単性論)、b.キリスト論に関する論争(イエスが被造物であるか否か)、c.堕落の原因について(堕落高慢説か、淫行説か)、d.マリア論争(マリアは神の母かキリストの母か)、e.聖像論争(聖像・聖画は偶像か否か)、f.フィリオクェ論争 (聖霊発出論争)、g.再臨論(再臨はいつ如何なる方法で来るか)、などがあります。


神学の中でも最も中心となるのが「組織神学」(教義学)です。組織神学とは、聖書に基づき、聖書において啓示された真理内容を教義的視点から体系的にまとめたもので、教会形成と伝道の働きに奉仕することを目的とする学問分野であります。また、キリスト教の正しさを弁証する弁証学であり、上記した異端を峻別する護教学でもあります。


先ず教義上の真実(神・罪・救い・他)を明らかにし、次に倫理的真実(忍耐・寛容・愛・他)を明らかにするものであり、神論、罪論、人間論、キリスト論、聖霊論、救済論、終末論、再臨論、教会論などによって構成されています。


著名な神学者A・E・マクグラスの神学入門書『神学のキよろこび』(キリスト新聞社)の目次は、1.信仰 2.神 3.創造 4.イエス 5.救い 6.三位一体 7.教会 8.天国、となっています。


アウグスティヌスは、聖書の諸言語の知識、自然科学、歴史、弁証法、哲学など、聖書をよりよく理解するために可能な限りあらゆる手段を動員するべきであると語りました。


ちなみに 、聖書の新しい解釈論であり、その奥義を明らかにした神学書である『原理講論』は、前編として、創造原理、堕落論、終末論、メシア論、復活論、予定論、キリスト論、後編として復帰原理、再臨論という構成になっています。


前述しましたように、科学が万物を研究し、哲学が人間を研究するものであるとすれば、神学はまさに神を研究する学問であります。神が全ての存在の根源である以上、神を研究する神学こそ「学問の中の学問」と言っても過言ではありません。「神を知ることは知識のはじめ」(箴言1.7)とある通りです。


神学の学びについて、「自分の信仰を厳密に理解しようと試みたものこそ、それと知らずに神学した人である」(ジャン・ピエール・トレル著『カトリック神学入門』)との言葉にもありますように、その意味で、私たちは皆神学の徒であります。肩の力を抜いて、自らの信仰を秩序だって理解していくことが神学といえるのではないでしょうか。


【キリスト教神学へのアフェクション(熱情)】


では、何故神学を学ぶのでしょうか。参考に筆者の神学への動機について述べておきたいと思います。筆者の神学への動機は3つあると言えるでしょう。即ち、本心の呼びかけ、知的探求心、そして実益であります。


<本心の欲求と原体験>


還暦を過ぎた頃、筆者は無性にキリスト教神学に強いアフェクション(熱情)を抱くようになり、神学校に入り直して学びたいという欲求が湧いて参りました。本心の欲求です。その遠因はナチスの強制収容所があったポーランドのアウシュビッツでのユダヤ人との出会いであります。


筆者は宣教のためにポーランドを13回訪れましたが、何と言ってもアウシュビッツです。その凄まじいユダヤ人迫害の爪痕を見て衝撃を受け、以来「ユダヤ人とは何か」「何故これほどまでに憎まれたのか」について強い関心を持ってきました。その延長が旧約聖書の研究です。


そして、「神は人間の心に神を知ろうとする欲求を植え付けられた。人間の心の遥かな深みには、神を求める欲求と神への郷愁の種が宿っている」とはポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉ですが、筆者の本心に内在する神が神学研究に仕向けられました。


 米国、アリゾナ州セドナ・聖十字架教会  ポーランド、アウシュヴィッツ収容所


<知的探求心>


筆者にとって神学への更なる動機はセドナ信仰告白です。2011年7月27日、65才の夏、宣教地のラスベガスを訪れた際、アリゾナ州セドナの山頂にある「The Chapel of the Holy Cross」(聖十字架教会)を訪れる機会がありました。筆者はその礼拝堂で、「原理が究極的な宗教真理であること、イエス・キリストと文鮮明先生が無原罪のキリストであること」について、これを改めて信じ受け入れるという信仰告白を致しました。先ず信仰告白ありきです。


そしてその後、この信仰告白が正しかったことを明確な論理とエビデンスを持って実証することが最大の課題になり、このために神学に精通することが至上命題になったという訳であります。そのためには、キリスト教神学と原理神学の対比が必須でした。


こうして筆者にとって、神学とはセドナ信仰告白が正しかったことを証明することに他ならず、それはまた、自らの信仰を明確化、厳密化するプロセスでもありました。これが神学研究の大きな動機であります。


そして次に知的好奇心です。神学は学問の中の学問と言われ、諸学は神学の侍女とも言われています。あまたある学問の中で、神学研究を専門にできる人は限られた少数であり、その意味で神から「神学研究という賜物」を付与された人は、選らばれし者と言えるかも知れません。


そう言えばオックスフォードもケンブリッジもハーバードも、西欧の著名な大学は皆、神学部から出発しました。法学も哲学も神学の侍女だったのです。アウグスチヌスは、「自分が信じた信仰を、知性の目で覗いてみたくなった」と神学への動機について語っています。神学の研究ほど人間の知的好奇心を掻き立てる学問は他にありません。生涯をかけるに足る研究テーマであり、これが更なる神学研究の動機です。


「信仰体験は神学を伴う」というルターの言葉があります。ルターの個人的な信仰体験がプロテスタントの普遍的な教義にまで高められたように、個的信仰が公的教会によって承認されるとき、一つの教義となり得るのです。ここに神学の教会的性格があります。筆者は、教義とまでは遥かに及ばないとしても、自らの個的信仰を『異邦人の体験的神学思想』としてまとめ、この秋に出版する運びになりました。


<神学の実益>


最後に神学の実益、即ち、現実を動かす力について記しておきます。


筆者が神学へ目覚めた現実的な契機は、世界情勢を理解するためには神学知識が不可欠であること、神学が現実世界を根本で動かす力であること、この二つを知ったことであります。佐藤優著『自壊する帝国』を読んで、それはより具体的になりました。


ロシア大使館の三等書記官に過ぎなかった作家の佐藤優氏は、大物政治家にもできない太いロシア人脈を築きましたが、それには神学の力が大きかったことを告白しています。また佐藤氏は「大きな変動が起きると、国際政治や国際法の知識より、教会史や組織神学の知識が役に立つ」と指摘しました。つまり、生き馬の目を抜く国際政治の本質を理解するためには「キリスト教神学の視点が不可欠である」ということであります。そしてこの認識こそ神学への現実的契機であります。


先進国サミットに参加する7ヵ国は、日本を除いて全てがキリスト教国家です。そしてその首脳たちは皆篤実なキリスト教徒であり、多かれ少なかれ神学の徒でもあります。神学は人と人の信頼をつなぐ太いパイプです。政策の奥にある神学の共有によって、人は相手を真に信頼するというのです。キリスト教というベースがない日本の首脳はサミットの中で取り残され、一人ぼっちになることが多いと言われています。


ちなみに佐藤氏は同志社大学神学部に在籍中、原理に触れた形跡があります。また有罪判決を受けて長期の拘留生活を余儀なくされましたが、拘留からの解放直後、自宅の押入から最初に原理講論を取り出して読み、「目から鱗だった」と知人に告白したそうです。そういえば幸福の科学の大川隆法総裁も東大在学中にUCのアメリカセミナーに参加し、原理講義を聞いたといわれています。


「原理を知ること自体が、啓示や高い良心基準の役割を果たしているのです」(御旨と世界)とあるように、彼らは優れた原理の霊性から、陰に陽に影響を受けたことは確かだと思われます。その意味では、『原理講論』こそ最大の神学書と言えるでしょう。


以上、神学とは何か、その役割とは何か、何故学ぶのか、そして神学の全体像を論述しました。何かの参考になれば幸いです。(了)