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聖書的霊性の相続と救いの本質ー福岡聖書セミナーで感じたこと

○つれづれ日誌(令和2年11月8日)-聖書的霊性の相続と救いの本質ー福岡聖書セミナーで感じたこと

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(詩篇51.17)

最近、福岡で、聖書セミナーがもたれ、筆者は講師として参加いたしました。みやま市の会館で開催された40名位の信者中心の集会でしたが、皆さん問題意識が高く、かなり高い霊的雰囲気の中で進行することが出来ました。そして誰よりも語る筆者自身が一番恵みを受けた集会になりました。長年、コツコツと撒いてこられた種が、今実りつつある姿をこの目で見ることが出来て希望を感じた次第です。

[セミナーのテーマ]

さて、当該セミナーに当たって、過去のセミナーで作成したレジメを再整理し、今回のセミナー用に向けてかなり投入しましたので、相当完成度の高いレジメを作成することが出来ました。この58ページのレジメに聖書66巻の骨子と要点がすっぽり入るようにまとめたつもりですので、今後の聖書セミナーにも十分使えるものになりました。

この度のセミナーのテーマは「聖書的霊性の相続」であり、具体的には「救い」です。救いとは何か、「私たちは救われているのか」、この魂の救いの問題こそ午前と午後計3講座の一貫したテーマでした。そしてこのテーマを補う形で、異邦人たる筆者が何故「聖書の研究を以て天職となす」ということになったか、事の顛末を語ることになりました。

ともすれば摂理や諸活動の現実に追われて、顧みられることなく取り残されていた私たちの魂は、今こそ再び脚光を浴びて癒されなければなりません。そしてそれには「聖書的霊性」を深く理解することが必須であること、これが筆者の確信であります。

筆者の見るところ、新約のキリスト教会は「救い」を強調し、UCは「摂理」を重視する傾向があるように見られます。救いも摂理も共に「み旨」にとって必要で、これらは車の両輪のように相互に補い会うものであると言えるでしょう。

[聖書的霊性とは]

では一体、聖書的霊性とは何でしょうか。筆者の考えるところ、第一に神の啓示と神の霊の働きの系譜、第二は聖書の思想的一貫性(唯一神思想、メシア思想、贖罪思想)、そして第三は敬虔な信仰と回心の系譜であります。この3つの霊性の総体こそ聖書的霊性と言えるでしょう。以下、この聖書的霊性の3つの源泉を見ていきます。

<神の啓示と霊の働きの系譜>


第一は、神の啓示、神の霊の働きです。聖書は神の言葉であり、啓示、霊の働き、しるしに満ちています。そして何よりも聖書には、「神の霊が働いてきた歴史」が綴られているのです。

例えば旧約聖書には次のような聖句があります。

「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った」(士師記14・19)

「主の霊がサムエルの上に激しく下った」(1サムエル10・6)

「神の霊がサウルに激しく降った」(1サムエル11・6)

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(1サムエル16・13)

「終わりの時に、全ての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル書 2・1)

また、新約聖書にも聖霊の役事が記されています。

「真理の御霊(聖霊)が来る時には、あらゆる真理に導いて下さる」(ヨハネ16・13)

「一同は聖霊に満たされ、色々の他国の言葉で語り出した(使徒2・4)

「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を神から受けて注いで下さった」(使徒 2・33)

「貴方の体は、貴方方の内に住まわれる聖霊の宮である(コリント6・9)

<聖書の三大思想>


第二は、聖書66巻を貫く一貫した思想性です。聖書には、「唯一神思想」、「メシア思想」、「贖罪思想」という三大思想があり、一貫してこれらの思想に貫かれています。他にも選民思想、契約思想、弱者救済思想、預言者の批判精神などの諸思想もありますが、三点に絞るとすれば、筆者は上記三大思想を挙げたいと思います。

唯一神思想は、「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1.1)というフレーズに象徴され、モーセの十戒の第一戒「わたしの他に、何物をも神としてはならない」に具体化されています。

メソポタミアの周りの国々が全て多神教に沈んでいる中にあって、一人イスラエルだけが死守してきた神観であります。そしてこの唯一神思想は聖書全体の一貫した神観になっており、その唯一にして創造主たる神を、「ヤハウェ」、「主」、「天の父」などと呼んできました。

次にメシア思想です。 旧約聖書には300ものメシア預言があるといわれ、聖書は救世主を待望する預言の書であると言われています。即ち、旧約にはイエス・キリストが隠され、新約には再臨のメシアが顕されているというのです。

更に聖書は贖罪思想に貫かれています。旧約時代は、牛や羊なとの祭物がイスラエルの「罪を贖ういけにえの供物」として捧げられました。そして新約時代にはイエス・キリスト自身が十字架による贖いの供物になりました。これが贖罪思想、即ち身代わりの思想であります。

内村鑑三は、「神道、仏教、武士道を源泉とする日本の道徳性は、贖罪観念を除いて、決してキリスト教の道徳性に引けを取らない」と語りました。つまり、日本の霊性はキリスト教に負けないが、贖罪という思想だけは欠落しているというのです。「神の子の贖罪の恩恵による罪からの解放、これがキリスト教の本質であります」(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』P279)と述べています。

以上の三大思想こそ、聖書的霊性の源泉に挙げられるものです。

<敬虔な信仰の系譜>


第三に、聖書は敬虔な信仰と回心の系譜とその教訓に満ちています。即ち、ノア・アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセ・預言者・イエスらが示した旧約時代の信仰の系譜、アウグスチヌス、ルター、ウエスレー、内村鑑三、等々の敬虔なキリスト教信仰の系譜、タマル、ルツ、マリア、ナイチンゲール、マザーテレサなど女性達の信仰の系譜、など神に仕えた信仰の伝統があります。

そして数知れない多くの聖人・クリスチャンが聖書の一句で回心しました。

アウグスチヌスの回心聖句はロマ書13章14節「キリストを着るべし、肉の欲を満たすことなかれ」であり、ルターの回心聖句はロマ書1章17節「信仰による義人は生きる」でした。また、マザーテレサはマタイ25章40節「最も小さきもののために)」であり、ナイチンゲールは生涯4回の啓示「ただ私だけに仕えよ」でした。更に、ジョン・ウエスレーは「ルター説教集冒頭の一句」、チャールズ・フィニーはエレミヤ書29章12節~14説「一心に求めれば私は会う」、内村鑑三はアマースト大学総長シーリー先生の言葉「ただ十字架を仰ぎ見よ」、新島襄は創世記1章1節「はじめに神は天と地を創造された」などがそれぞれ回心聖句でした。

以上が聖書的霊性の三大源泉であり、聖書的霊性とは何かについての回答になります。そして更にそれに加えて「良き教会的伝統の系譜」が挙げられるでしょう。外的には、祈り、礼拝、典礼、奉仕、教会・修道院などの良質な諸制度の伝統であり、より内的には「リバイバルの伝統」です。


[リバイバルと救いの確証]


ここで、キリスト教歴史を彩ってきた顕著な特徴である「リバイバル」(大覚醒)とその様相について考えたいと思います。何故ならここに救いの原型があるからです。

リバイバルはキリスト教歴史の最も注目すべき特色の一つです。教会が形骸化したり、信仰が停滞した時、周期的に信仰を改革し、回復させるリバイバル(大覚醒)が勃興しました。

旧来の宗教を改革するかたちで、ドイツにはルーテル派、スイスには改革派やバプテスト派、イギリスにはフレンド派、メソジスト派そしてピューリタン、アメリカでは数次のリバイバルが勃興しました。このように、世界のあちこちに信仰回復運動が周期的に起きたのであります。

世界最古のリバイバルは1世紀のペンテコステ(使徒行伝2.1~4)とそれに継ぐローマ世界への宣教であります。各地のシナゴーグ(宗教)、共通語としてのギリシャ語(文化)、ローマ帝国による道路網・海路の発達(文明)がリバイバルの原動力となりました。

しかし、何と言っても典型的なのはアメリカのリバイバルです。アメリカキリスト教(プロテスタント)の最も注目すべき特色は、周期的に信仰を改革し、回復させるリバイバル(大覚醒)の勃興であります。過去、4回のリバイバルがありました。

<第1次リバイバル(1730~1740)>


敬虔主義の流れを汲むオランダ改革派の牧師フリーリングハイズン、ウェスレーの友人であるメソジスト派牧師のホイットフィールド、会衆派の牧師ジョナサン・エドワーズなどにより、移民後100年が過ぎ、信仰が沈滞・形骸化し霊的な力を失っていた教会に霊的覚醒(回心)が起こりました。この「大覚醒運動」で、バプテスト派やメソジスト派、長老派が成長していき、アメリカ人というアイデンティティー(市民宗教)が生まれていきました。

<第2次リバイバル(1800~1840年)>


第2次リバイバルは、独立後、冷めてしまった信仰や、理神論やフランス革命の啓蒙主義の影響で停滞していた霊性を蘇生させようとする運動です。このリバイバルは、キャンプ・ミーティング(野営天幕集会)などで行われ、指導者としてチャールズ・フィニー(1792~1875)、が有名です。

フィニーは1921年10月10日(29歳)、エレミヤ書29章12節~14節の「もしあなが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会う」の聖句に感応し、聖霊のバプティスマを受け、劇的な回心を遂げました。

<第3次リバイバル(1850年~1900)>


第3次リバイバルは、南北戦争前後の混乱の中で、中断した信仰を復興することになりました。ドワイト・ライマン・ムーディーが中心になります。ムーディー(1837~1899)はまともな学校教育も受けず、神学校にも縁がなく無学でしたが、靴屋で働いていた時(18歳)、回心を体験しています。

<ペンテコステ運動の勃興(1906年~)>


第四次リバイバルとも言えるペンテコステ運動は、1906年ロサンゼルスのアズサ通りで起こった異言を伴う聖霊運動のリバイバルです。ホーリネス派の影響を受けたチャールズ・パーハムの弟子であるウイリアム・シーモア(黒人)による3年間に渡るアズサ・ストリート・リバイバルが有名です。

この聖霊の賜物重視の運動は世界に広がり、ペンテコステ派は多くの信者を獲得しました。聖霊の賜物とは、「異言・癒し・奇蹟・悪霊の追い出し」などを伴う霊の働きであります。

世界最大のメガチャーチと言われる韓国趙ヨン基牧師の「純福音教会」、日本の大型教会「大和カルバリチャペル」はペンテコステ派の流れを汲み、日本では1919年と1930年に超教派的なホーリネス・リバイバルが起こっています。

<リバイバル運動の特徴と救いの原点>

リバイバルは、常に「悔い改め」から始まりました。洗礼ヨハネは「罪の許しを得させる悔い改めのバプティスマ」(マルコ1.4)を宣べ、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3.2)と叫びました。

そしてリバイバルには一つのパターンがあります。 リバイバル運動は、草の根的な1人又は数人のキリスト者の回心、無名の牧師の回心から草の根運動として始まっています。その思想は単純で、悔い改め(repent)、回心(convertion)、そして新生(born again)、の3つであります。先ず、悔い改めの祈りから始まり、回心体験を経て、遂には贖われて新生と永遠の命の高嶺に導かれるというものです。

即ちリバイバルは、「悔い改め」に始まり、「回心・新生・復活」を経て、「永遠の命」に達してその使命を完結することになります。ルカ24章47節に「罪のゆるしを得させる悔改めが、イスラエルから始まり、もろもろの国民に宣べ伝えられる」とあり、使徒信条には「罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの生命」とある通りです。

更に特徴を付け加えると、聖霊のハプテスマの強調、形式に拘らない大衆的情熱的説教、超教派的運動、躍動的な歌と踊り、そして使徒的教会への原点回帰であります。

レムナント出版を主宰されている久保有政牧師は次のように指摘されました。

「教会は今、回復の途上にある。教会は、この後さらに回復し、やがて究極の回復の時に

至る。そして究極の回復の時とは、イエス・キリストの再臨の時である。その日には、教派も、またプロテスタントもカトリックもなく、全地はただ一つの教えになる。その日、主を知る知識が、海をおおう水のように地を満たすからである。(イザヤ11.9)」

[聖書的霊性を相続することの恵み]

最後に、聖書的霊性を相続することの恵みについて三点ほど記しておきたいと思います。

先ず、聖書的霊性は、私たちを原理のより深い理解に導いてくれます。私たちは、原理という果実を食べてそれなりの喜びを得ていますが、その果実が生まれるまでには、神という根っ子から始まり、旧約という幹、新約という枝を通過しなければなりません。神に源泉を発し、神→旧約→新約→成約に至るまでの養分が何であるかを知ることは、原理という果実の味の深さを知るために不可欠です。

原理が聖書に源泉を持ち、原理講論は聖書の奥義を明らかにした「新しい聖書の解釈論」である以上、原理の理解に聖書ないしは聖書的霊性の相続は不可欠です。

二番目は救いの確証です。救いとは何か、私たちは救われているのか、これは信仰者の深刻な問題です。聖書的霊性は、この死活的な問いに回答を与えてくれることでしょう。

救いとは何んでしょうか。それは「許される」ことに他なりません。私たちは許されていることを実感すべきです。真の悔い改めには許しが伴い、そしてその先には新生があり復活があり永遠の命があるというのです。そして自らが「許されていること、救われていること」を信じること、そして大胆にこれを「告白」することであります。

人妻バテシバとの不倫と、バテシバの夫ウリヤを殺害したという二重の大罪を犯したダビデでしたが、その後深く悔い改め、神に許されました。ダビデの悔い改めの歌「詩篇51篇」はあまりにも有名です。「神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。(詩篇51.17)

三番目の恵みは、福音宣教の力になるということです。悲しいかな原理は、未だ地上での市民権を得るには至っていません。しかし、聖書は既に万巻の書の頂点に立ち、不動の市民権を得ています。従って聖書は、成約の福音伝道の頼りがいのある武器になることでしょう。「聖書を通して原理を語る」、これは聖書自体を生かすことになり、ここに至って聖書はその本然の価値を回復し、隠されていた本領が発揮されるというのです。

以上の通り、今回のセミナーの骨子を振り返りながら、恵みをシェアさせて頂きました。これらを通して、いささかなりと霊的な力、知識、教訓を得ることになれば幸いです。(了)



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