◯つれづれ日誌(令和5年6月7日)-福音宣教の神学ー奥山実牧師の実践的宣教学に学ぶ
全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ(マルコ16.15)
先月、真のお母様は、韓国UCの伝道活動の停滞を改めて深く認識され、これからは伝道が生命線であること、即ち、「一に伝道、ニに伝道、三に伝道」であることを強調されました。その方針を受けて、日本を含む世界の教会体制を「伝道勝利の観点から全てを発想する」という考え方の元に、地区、教区の呼び方を大教会、教会と改めるなど、伝道する教会へ改革しました。
全体としては、家庭連合(FFWPU)と天宙平和連合(UPF)の二元体制で進め、家庭連合は福音伝道を、天宙平和連合は専ら対外活動を中心に活動を展開することになると思われます。
そこで今回は、そもそも「伝道とは何か、如何なる理念の元に、如何に伝道するか」など、いわば「宣教の神学」について、キリスト教の福音宣教の成果を踏まえ考えてみたいと思います。その際、著名な宣教の大家である奥山実牧師の宣教学とその実践を参考にしたいと思います。
【伝道とは何かー奥山牧師の宣教論】
奥山実牧師は(1932年生れ)、1953年日本基督教団の教会にて受洗しました。関西大学経済学部卒業して2年間のサラリーマン生活の後、「神戸改革派神学校」に入学し、1961年、京都福音自由教会牧師、八尾福音自由教会を開拓しました。その後、1966年に宣教師として、インドネシアに渡り、8年間宣教に邁進し、インドネシアのリバイバルに大きく寄与しました。
1974年、病気で帰国し、11年間片柳福音自由教会牧師として牧会した後、現在、宣教師訓練センター所長、日本民族総福音化運動協議会総裁、宣教学博士として、キリスト教界の第一人者として宣教と超教派の指導に当たっています。91才。
<神を礼拝すること、福音の種を種を蒔くこと>
二年前、筆者はセミナー会場で食事を共にしたことがありましたが、その時も「人生の目的は神を礼拝することである。人間は神を礼拝するために生まれてきた」と持論を熱く語っておられました。実際奥山牧師は、牧師になって一度も日曜礼拝を欠かしたことはないと言われ、出張した時も地方の教会を探して必ず礼拝に参加したと言われていました。
奥山牧師曰く、「神学校を卒業して、60%の神学生が神が分からなくなる。そして宣教の意欲を喪失する」と。実際、自分の妹の息子(甥)は神学校を出たものの、伝道意欲を失い、今後は聖書学の研究者として生きたいと心境を吐露したといいます。つまり、頭だけの神学で実践が伴わないこと、教える教師自体に福音伝道への喪失感があること、この2点を指摘されました。
この点、奥山牧師は、イエス様の大宣教命令である福音書の二つの聖句を固く握って世界宣教に赴いたと告白されました。即ち、一つはマルコ書16章15節「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」であり、いま一つはマタイ書28章19節「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施しなさい」であります。
また奥山牧師は、路傍伝道も訪問伝道もトラクト(パンフ)の全戸配布も行ったと言われましたが、その活動を支えたのは、次の聖句だったといいます。
「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24.14)
つまり、先ず万人に福音の訪れが「宣べ伝えられること」、「福音の種を蒔くこと」だと言われます。即ち、「ケリュグマ(宣教)とは布告である。福音のケリュグマとは全ての造られたものに福音を知らせ伝えることであり、刈り取るのはその結果である」というのです。
路傍伝道、訪問伝道、トラクトまきは効果がなく虚しかったと神学校の教師は告白したといいますが、奥山牧師はイエスの言葉通り、開拓地の八尾市の市民全員にもれなく伝えるべく、一軒一軒訪問しトラクトをまき、先ず福音の種を植えたというのです。この種蒔きの条件は、「ひとりがまき、ひとりが刈る」(ヨハネ4.37)とある通り、必ず刈り取られる日が来るというのです。
そしてパウロが「福音のために、わたしはどんな事でもする」(1コリント9.23)と決死の伝道を敢行したように、奥山牧師も、インドネシア宣教に骨を埋める覚悟だったと告白されました。
筆者はこの話を聞きながら、拙著『異邦人の体験的神学思想』を出しておいて幸いだったと心底思いました。本は筆者に代わって見知らぬ人々に福音を伝えてくれるからです。先だって主だった高校、大学の同級生に送ったところ、大変喜んでくれ、「お前の生き様が初めて理解できた」と言ってくれました。また、千葉で毎週路傍伝道にいそしむシニアから、「今日、午後4時から6時まで街頭伝道を行いました。会社勤めの男性に真のお母様の自叙伝を渡しましたが、この青年が時至り、天の父母様に連結されることを祈ります」とのラインを頂きましたが、正にこの通りです。
1コリント書には、「ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には知識の言、またほかの人には信仰、またほかの人にはいやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている」(1コリント12.8~10)とある通り、人にはそれぞれ神からの賜物があり、伝道の賜物 、渉外の賜物、執筆の賜物、説教の賜物、牧会の賜物、奉仕の賜物と様々ですが、それぞれの賜物を生かして福音宣教に同参したいものです。
<伝道と社会的責任>
1974年、福音派の第1回の「ローザンヌ世界伝道国際会議」が、スイスのローザンヌで開催され、そこで宣教(ミッション)の在り方が示されました。
即ち、宣教(ミッション)を福音伝道(エバンジェリカル)と社会的責任(ソーシャルアクト)の二つの柱に分類し、どちらも重要だが、福音伝道を第一、社会的責任を第二と位置付けました。
しかし、伝道と社会責任は両輪の車であり、 世界宣教という概念の中に、この二つを位置付けました。教会の外延的な活動も広い意味での宣教であり、今までのミッション(宣教)の意味に社会的責任が加わり、ミッションの概念が広がったというのです。即ち、宗教はその宗教自体が持つ目的と同時に、社会的問題にも責任を持つべきというのです。いわば直接伝道と間接伝道であります。
UC的に言えば、家庭連合は専らエバンジェリカルな伝道を、UPFの諸活動、例えば関連団体である勝共の政治活動、世界日報などの啓蒙活動、女性連合の世界奉仕活動、WCLCの超宗教活動などは社会的責任を担うソーシャルアクトの分野と言えるでしょう。
【社会的責任の考察ーボランティア活動を支えるもの】
ではここで、社会的責任の一つである女性連合などが実践しているボランティア活動の意義とその動機付けについて考えて見たいと思います。
筆者は、女性連合の宝山晶子さんらが長年に渡って育成してきた「モザンビーク太陽中学校・高校」のボランティア活動について、「つれづれ日誌(令和4年11月9日)」に、「モザンビーク太陽学校外務大臣表彰取消に思うー非キリスト教国家日本の大失態」と題して論評しました。
その中で、「短期間赴任で交代するJICA(青年海外協力隊)やPKO(国際連合平和維持活動)と違って、現地に骨を埋めるボランティアは信仰的信念がなければ、できるものではありません」と述べ、「もし信仰的信条に基づいて為すボランティアを、この度の日本の外務省のように否定するなら、およそ世界の慈善活動は存在できないことになるでしょう。何故なら慈善活動のほとんどは、キリスト教などの信仰が土台になって成り立っているからです」と指摘しました。
筆者は、マザーテレサのインドの貧民救済活動、シュバイツァーのアフリカの医療向上活動、ナイチンゲールの看護の改善活動、ド・ロ神父の隠れキリシタンの里「外海」(そとめ)地域の貧困救済活動、澤田美喜の孤童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」の慈善活動などを例に挙げ、これらの犠牲と献身は、ひとえに信仰の賜物であり、持続的で犠牲的なボランティアは、単なる良心や正義心でできるものではなく、そこに神への揺るぎない信仰があってのことであると明言しました。
実存哲学者にして神学者のキェルケゴールは、人間の精神的な実存段階を、享楽的・エロース的な「美的段階」、次に良心と正義による「倫理的段階」、そして神との関係における「宗教的段階」という実存の三段階を唱え、宗教的実存段階で人間は不安や絶望を脱して解放されるとしました。そして、倫理的段階から宗教的段階に至るためには飛躍が必要であり、飛躍とは非合理性を受け入れることであるとし、アブラハムのイサク献祭は当にその象徴であるとしました。つまり、良心と正義心による倫理的な動機では、犠牲を伴う献身的ボランティアは不可能であるというのです。
そしてこれらの献身の結果、キリスト教が普及するのは自然なことで、左翼がいうような「正体を隠した布教」などとは似て非なるものです。つまり、骨を埋めるボランティアは信仰あってのことであり、非キリスト教国家日本の政府はこれが理解できず、宝山さんに付与した外務大臣表彰を取り消しました。
もしこの信仰的動機を否定するなら、慈善活動そのものを否定することになるでしょう。何故なら、前記「ド・ロ神父の貧民救済活動」や「澤田美喜のエリザベス・サンダース・ホーム」などに見た通り、慈善活動のほとんど(90%以上)は宗教的信念に基づいた人々によって担われているからです。
とりわけキリスト教は、教育分野、医療分野、慈善分野などの各分野で多くのボランティア団体を運営し、それぞれ愛と奉仕の宗教的信念に基づいて活動しています。そうしたボランティア活動は、それ自体の自己完結的な目的を有していると同時に、結果としてキリスト教の普及にも寄与することになるというのです。つまり、二重目的を有しているというのであり、これは問題視されることではありません。
従って、「エリザベス・サンダース・ホーム」にチャペルがあり、聖書を配布してキリスト教思想を普及させたとしても、これを「正体を隠した布教」などと言って咎めるのはお門違いです。同様に、WFWPの創設者「真の父母」の自叙伝が太陽中学・高校で配布されたからと言って、これを問題視するのは、ボランティアを支える本質が理解できていないことの証左です。むしろ建学の創始者の精神を伝えるのは当然と言えるのであり、宝山さんの母校同志社大学でも、創立者新島襄の精神が教えられています。
従って、前記した宗教的信条に基づく慈善活動の性質が示すように、 WFWPも同様で、国連NGOとしての WFWP独自の目的に基づく活動を行い、正にこれが中心的な活動になるのですが、同時に、結果的に宗教的信条の普及につながるのは自然の理であり、咎められることではありません。
奇しくもローザンヌ世界伝道国際会議で、ミッションの概念に福音伝道と共に、社会的責任を加えましたが、前記モザンビークのボランティア活動は、その意味で大きくはミッションと言えるでしょう。
【伝道の神学】
聖書に「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」(詩篇126.5) とある通り、福音の種をまく人、それを刈り取る人、そして育てる人、この三者が三位一体となって宣教は進んでいきます。従って、先ずは種を蒔かなければ始まりません。ハーベストタイムを主宰されている福音派の中川健一牧師は「リバイバルは聖書の研究から始まる」との標語を掲げて、聖書の知識という福音の種をまくことに生涯を投入されています。 奥山牧師も述べておられるように、伝道は種をまくことから始まるというのです。
<救いを宣べる>
さて、伝道には大きく路傍伝道、訪問伝道、そして渉外伝道(文書、因縁伝道などを含む)の3つがあり、これは伝道の三種の神器と言えるものです。そしてこれは伝道の外的な形ですが、しかし伝道には内的心情が更に重要な意味を持つというのです。
端的に言えば、「伝道とは救われた喜びを伝えること」に他なりません。自らが救いを実感しておれば、自ずとこの喜びを伝えたいという衝動に駆られるというのです。従って、伝道するためには救われていなければなりません。救いの確証であります。
救いとは罪が贖われ、(古い)自我から解放されること、即ち、罪と自我からの解放に他なりません。救いの確証は、悔い改めること、回心すること、新生することであり、そしてキリスト(真の父母)の贖いの恵みを信じることがその一丁目一番地です。「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ロマ書10.10)とある通りです。
加えて聖霊の導きがあることです。救いの確証は、上からの力、神の霊・聖霊の注ぎによってもたらされるというのです。何故なら、人間は神の体、聖霊の宮(1コリント6.15~19)であるからです。
そして、「 聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1.8)とある通り、聖霊は宣教を助ける霊でもあります。
<原理セミナーの勧め>
ここで筆者は、新規の伝道対象者のための原理セミナーの開催を改めて提案いたします。少なくとも教会は、毎月、または毎週、2日修、3日修を企画し、新規を動員したいものです。先ず、原理という神の言葉の種をまくことだと思います。
振り返れば、筆者の20才代の日々は、原理セミナーの開催に明け暮れていました。もはや過去の思い出になってしまったあのセミナーを再び再現し、リバイバルの導火線にしたいものです。もし原理講師が足りなければ、筆者は喜んで原理講師を引き受けたいと思います。
以上、「一に伝道、ニに伝道、三に伝道」とのお母様のみ言に準じて、「伝道とは何か」、即ち、伝道の神学について論評いたしました。(了)
上記画像*上・奥山実牧師 下・会場となったコングレス・エキシビションセンター(スイス・ローザンヌ)
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