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思想遍歴 何故、聖書の研究に至ったのか  原理講論の意義について

◯徒然日誌(令和6年7月31日)  思想遍歴ー何故、聖書の研究に至ったのか  原理講論の意義について

 

キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである(ピリピ3.8)

 

最近、トランプ元大統領が共和党の副大統領候補に指名したJ・D・バァンス上院議員(39才)が書いた回想記『ヒルビリー・エレジー』(田舎者の哀歌)を取り寄せて目を通した。 

 

【ヒルビリー・エレジー】 

 

本書は回想記だが、当時若干31才の青年の書であり、それまで取り立てて何か偉業を為したわけでもなく、まさに早すぎる回顧録というしかない。しかし、この本は全米のベストセラーになり、バァンスは一躍有名になった。ただ、内村鑑三の自叙伝『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』も内村34才の時の書である。 

 

この若干31才の回想記が何故、アメリカの人々の心を掴むのか。そこにはラストベルト(錆び付いた工業地帯)と呼ばれる、豊かさから取り残されたオハイオの白人労働者の物語が赤裸々に綴られているからだろう。結婚と離婚を繰り返す薬物依存症の母親、失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグの蔓延。まさに労働者階級の子として過酷な幼少期を過ごしたバァンスと、そこから這い上がり、海兵隊、オハイオ州立大学、イエール大学ロースクールを卒業して全米トップ1%の裕福な層に辿り着いた小さなアメリカンドリームの物語があるからである。ちなみにラストベルトとは、米国中西部から北東部に位置する、鉄鋼や石炭、自動車などの主要産業が衰退した工業地帯で、ミシガン州・オハイオ州・ウィスコンシン州・ペンシルベニア州などが含まれる。 

 

【何故、聖書の研究が天職になったか】 

 

しかし筆者はバァンスのような若者ではなく、後期高齢者として、そろそろ人生の最後の旅支度をしてもよい年齢に達している。実際、回りの知人がバタバタと霊界に旅立っている。しかし、筆者と同じ年齢のトランプが、向こう4年間、世界で最も過酷なアメリカの大統領をやろうというのだから、筆者も負けてはおれない。ならば少し肩の力を抜いて、自らの過去を語って、次への弾みとしたい。 

 

筆者は拙著『異邦人の体験的神学思想』にも書いたが、信仰者としては決して優等生ではなく、み旨の道において誇れるような業績を残したわけでもない。むしろ異邦人であり、反キリスト的性向(世俗的性向)を有していた筆者は、宗教的献身者という最悪の選択をしてしまた呪われた人生を余儀なくされた者である。その筆者が、人生の最終章において「何故、聖書の研究をもって天職となす」となったのか、これを今日、皆さんと共に、自戒を込めてこめて分かちあいたいと思っている。


<信仰人生の三期間>


20才で原理と出会った筆者だが、その後の信仰人生は大雑把に3つの期間に分けることができる。


 第一期は20才から40才までの20年間で、この期間は主に勝共啓蒙運動や政治運動を中心とした活動を「み旨」として携わった、いわば「勝共啓蒙時代」である。久保木修己元UC会長との人間関係もこの時築かれ、拙著『久保木修己著「愛天愛国愛人」を読み解く』も、この時の所産である。もちろん伝道者・牧会者として歩んだ時期(京都時代・福井時代)もあった。そして何よりも筆者は、20才代で「神・罪・救い」という信仰の原体験を経ている。この神体験については拙著にも触れているが、この20才代での信仰体験が、今の聖書・神学研究の基礎になっている。 


第二期は、40才から60才までの20年間で、この期間はまさに「法律の時代」であった。筆者は神の計らいにより、40才から3年間、法律を学ぶ機会が与えられ、独学で法律を学んだ。それは主に、いわゆる霊感商法時代の法務対策上の必要から、筆者に白羽の矢が当たったのである。その後筆者は法律家として、教会や会社や信徒のあらゆる法律問題の処理に日々を費やした(いまでも相談事は絶えない)。その間、配偶者が筆者の名代として、10年間、現地でポーランドとラスベガスの宣教に携わった。 

 

そして第三期が60才から今日までの「聖書・神学の時代」である。これは筆者の思想遍歴の最後の章であり、いわば思想的黄金期である。筆者は法律を独学で学んだように、神学校に行くことなく、独学でキリスト教神学を学んで牧師になった。ちなみにほとんどのキリスト教牧師は神学校を卒業している。 

 

以上が筆者の大まかな思想面から見た信仰路程である。こう考えると、勝共思想時代→法律思想時代→神学思想時代と、計らずも、より内的、本質的、霊的なものに関心が向かっていることが分かる。筆者はここに、自らの人生全体を支配される深い「神の導き」を感ぜざるを得ないのである。そこで、第三期の聖書・神学時代について、もう少し詳しく述べておくことにする。 

 

<神学との出会い>

 

筆者は還暦を過ぎたころから、キリスト教神学への並々ならない憧れを抱くようになった。聖書に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3.11)とあるが、現実より本質、現象より形而上的なもの、即ち永遠なるものに深い関心が行くようになった。その頃、上智大学の神学部に入る計画を立てたものである。 

 

そして佐藤優氏の著書『自壊する帝国』を読んで現実的な神学への動機が与えられた。佐藤氏は、三等書記官という低い地位にありながら、大使も国会議員も及ばない程のソ連要人との太いパイプを築いたが、それは神学のお陰だったという。つまり、普通の利害関係ではなく、神学というレベルで付き合った時、はじめて本当の信頼関係が築けたという。佐藤氏は同志社大学神学部で神学を学んでいたのである。 

 

<どん底の試練> 

 

忘れもしない、2011年65才の秋、筆者は金の先物取引で大失敗をやらかしてしまった。いわゆる投機的取引で一攫千金を目指していた筆者の目論見は、完膚なきまでに打ちのめされたのである。このいきさつについて詳しく語る余裕はないが、とにかく筆者にとって大失策であった。 

 

実は筆者は、新宿の歌舞伎町から10分くらいの新大久保に法務事務所を開いていたことがあった。この時も魔が差したのか、ちょっとしたきっかけで一時期ギャンブルをしたことがある。いわゆる裏カジノである。日本ではラスベガスやマカオのようなカジノはご法度だが、池袋や新宿などの歓楽街には必ず裏カジノがあった。筆者は仕事が終わった後、歌舞伎町のカジノに通ったのである。もちろんそういった場所には酒と女は付き物である。そして、天国と地獄が行ったり来たりする修羅場を体験した。 

 

現代、パチンコ依存症になり、そこから抜け出られない主婦が多くいるというが、ギャンブルは一旦はまると、そこから脱出するのは至難の技ではない。しかし幸運にも、筆者はほどなくこのギャンブルから自力脱出することができた。まさに信仰の賜物である。だが、詮ずるところ、金にせよ、FXにせよ、ギャンブルにせよ、筆者には投機や賭け事にそもそも向いていないのだ。このことが前記の金の先物取引の失敗で、骨身に染みてよく分かったというのである。筆者は二度と投機や賭け事をするまいと神に誓った。 

 

さて金の投機に失敗した筆者は、一夜にして文字通り無一文の無産者に転落した。そしてそれを合図に、仕事、人間関係、健康、家庭など全てが暗転し始めたのである。「坂を転げ落ちるように」とは、まさにこのことである。人生ではじめて精神病を患い、半年間、精神科のお世話にもなった。イエス様が十字架に架かって復活されるまでの3日間、黄泉に行かれたが、筆者は十字架に架かって3年間、どん底で辛酸をなめることになったのである。しかもイエス様は自分の罪のためではなく、人類の贖罪のためだったが、筆者の場合はまさに自業自得であった。一瞬、自殺という言葉が脳裏をよぎった。 

 

<神の言葉は最大の財産である> 

 

そのどん底で、筆者は神の言葉を聞いたのである。「お前は金持じゃないか。神の言葉は唯一最大の財産である」と。今まで何度もこのような話は聞いていたのだが、右から左に素通りして、未だ自分のものにはなっていなかったのである。そして筆者は、この神の声に反応し、神の言葉という掛け替えのない財産を完全に所有することを神に誓った。そして次の瞬間、「聖書を三回通読しなさい」との託宣を受けたのである。筆者における本格的な聖書の研究、神の言葉の研究、そして復活の歩みはこうして始まった。聖書の「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それは、わたしがキリストを得るためである」(ピリピ3.8)というフレーズは筆者の回心聖句となった。 

 

そして得意の独学がフル回転をはじめたのである。こうして筆者は、神のために神学者になることを決意した。だがこの時筆者は、既に古稀を過ぎていた。 

 

【原理講論は聖書の奥義を明らかにした神学書】 

 

筆者は最近、原理原本、原理解説、原理講論の三冊を読む機会を得て、改めて原理の深さを実感した。ちなみに『原理原本』は1952年5月10日、文鮮明先生が32才の時、ボンネッコルの小屋で書き終えたものである。また『原理解説』は1957年8月15日、『原理講論』は1966年5月1日に発刊されているが、いずれも劉孝元元協会長によりまとめられた。 




「原理講論は聖書の新しい解釈論であり、聖書の奥義を解明した神学(書)である。そして旧約聖書、新約聖書の土台の上に成約聖書としての原理講論がある」 。 これが筆者の原理観、原理講論観である。なお、原理講論の成立過程については「徒然日誌(令和6年4月10日)   原理講論は聖書の新しい解釈論であるー劉孝元元協会長と原理講論」に詳述している。 

 

<原理の解明> 

 

ここで先ず明確にしておきたいことは、原理、特に堕落論の解明は、サタンの讒訴条件のない、無原罪降臨のメシアにしか解明できないということである。そもそもメシアの最も本質的な使命は、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3.2)に象徴されるように、「罪を取り除き、神の国をもたらす者」である。そして罪(原罪)なきメシアでなければ世の罪を取り除くことはできない。神が創造されたエデンのアダムが罪なき無垢の、即ち、「無原罪の独り子」であったように、第二アダム、即ち後のアダム(1コリント15.45)であるイエスも、原罪を免れた無垢のアダムと同様であり、第三アダムたる再臨のキリストも然りである。黙示録に、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5.5)とあるが、この七つの封印、即ち聖書の奥義を解かれるダビデの若枝こそ再臨のキリストであり、文鮮明先生である。そしてこのダビデの若枝は、罪(原罪)なきメシアとして誕生される方であり、この事実は聖書66巻が予定する自明の真理である。(参照→徒然日誌 令和6年10月23日 聖書のメシア思想について) 

 

こうして原理を解明されたのが文鮮明先生であり、この原理を組織的、体系的に経典としてまとめた神学書が劉孝元氏による原理講論に他ならない。原理講論は、文先生の指導と主管の元に、劉氏がまとめられた。 

 

文先生は、これからは八大教本・教材と良心が導くと言われた。八大教本とは、原理講論、天聖経、平和神経、天国を開く門、平和の主人・血統の主人、世界経典、家庭盟誓、マルスム選集である。これを筆者流に言えば、これからは聖書、原理講論、天一国三大経典の「神の言葉」が私たちを導くと言ってよい。ちなみに、「天国を開く門」は三大経典の平和経の中に含まれている。そしてこれらの「神の言葉」は私たちの掛け替えのない財産であり、この財産を所有した者は幸いである。この信仰のあるところ、神は万事を益とされ、私たちを養って下さる。そして、「神」「キリスト」「神の言葉」は人生の三大秘宝であり、神の言葉は、私たちをキリスト(真の父母)に繋げ、神に繋げる媒介者である。即ち、神はキリストを通して神の言葉を与えて下さったので、私たちは神の言葉を通じて、キリスト(真の父母)を知り、神を所有し永遠に至ることができるのである。 


「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」(1ペテロ1.23~24)

 

そしてその中でも原理講論が骨格となる。文先生は、「原理講論は人間から出てきたものではなく、神様の原理、神様の直接的な教えです。これは統一教会の教理ではありません。神様の心の中にある主流憲法です」(『八大教材・教本』光言社P25)と言われている通りである。従って、「統一思想」も「本体論」も「真の父母論」も、皆、原理講論という骨格に肉付けしたものとして位置付けられるものであると筆者は理解している。 

 

2024年7月18日天正宮で、真のお母様が「これまでの統一教会の歴史で、原理講論は荒野時代で終わったのだ。天一国時代においては真の父母論だ」と言われたというが、これは決して原理講論を廃棄すると言われたのではない。原理講論が神の父性を重視するのに対して、これからは神の母性が顕れなければならないことを強調されたものであると筆者は理解している。いわゆる分派は、お母様のワンフレーズを切り取って、「原理を捨てろ」と言われたと、鬼の首を取ったように喧伝するが、饒舌なお父様に比して、お母様は短い言葉で結論だけを言われる傾向があるので、前後の文脈を総合的に判断して、その真意を正しく解釈しなければならないのである。 

 

原理講論は「神の原理」であるが故にその真理性は未来永劫、不変である。しかし、総序に「ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである」とあるように、原理講論はそれ自体が完全無欠ではなく、また、聖書や原理講論の文字は真理を表現する一つの方法であり、真理それ自体ではない。(原理講論P171)

 

<イスラエルの残れる者>

 

ところで、以前「イスラエルの残れる者」(レムナント)というフレーズを解説したことがある。イスラエルの残れる者とは、イスラエル民族の過酷な試練の中にあっても、大能の神に帰り、真の信仰を貫いた少数の人たちのことを指す。不信に流れる民の中にあっても、民族の霊的な核として、新しい神の民を形成する者となる「残りの者」がいた。 

 

「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」とも呼ばれ、このフレーズは、エレミヤ書、イザヤ書など旧約聖書では60回以上出てくる馴染みのフレーズである。「イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない」(ゼパニヤ3.13)とある通りである。そして私たちは、まさに「イスラエルの残れる者」であり、またそうありたい。


以上、筆者の思想遍歴と併せて、神の言葉、原理講論の位置付けについて論評した。異論・反論があればお聞かせ頂きたい。(了)   牧師・ 宣教師  吉田宏

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