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納骨式及び秋季特別大役事に思う

○つれづれ日誌(10月27日)-納骨式及び秋季特別大役事に思う


私のお墓の前で 泣かないでください

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって

あの大きな空を吹きわたっています

(千の風になって)


この『千の風になって』の歌は、アメリカで話題となった詩『Do not stand at my grave and weep』の日本語訳で、それを歌詞にしたものと言われています。この歌詞には、さすがにキリスト教国アメリカならではの死生観が顕れています。


さて筆者は、この週、二つ霊的儀式に望みました。10月23日に富士宮市営朝霧霊園での配偶者の「納骨式」、及びあくる24日に青葉台家庭教会で行われた「秋季天宝特別大役事」であります。


今回は、筆者が経験したこの二つの霊的世界に係わる儀式について、その意義を考え、そしてその神学的意味を検証しました。


【納骨とは何か】


この10月23日、配偶者の納骨式を富士宮朝霧霊園の吉田家メモリアルで執り行いました。4月26日に他界して火葬にしてから、いわゆる「お骨」を約半年間自宅祭壇に安置していましたが、この日、霊園墓所に納骨した次第です。


実はこの納骨式に際し、霊園・墓所の選定、墓石の製造、納骨の段取りなど、全てを長男の嫁がやってくれました。この場を借りてお礼を申し述べます。


そしてこの配偶者の納骨の機会に「納骨とは何か」「そもそも墓地とは何か」、ということについて、再度考えて見ました。(墓所は別途写真を参照下さい)



<名実共に鬼籍に入る>

他界してから10月23日まで、約半年間、いわゆる「お骨」を自宅に安置していたわけですが、23日にそのお骨が霊園墓所に納骨されました。これで配偶者の痕跡は自宅から消え、名実共に葬られたのだという実感がこみ上げてきました。当に故人との文字通り、地上での別れの区切りになりました。


しかし、もともと本人の霊魂は死によって肉体を離れ、永遠の霊界に旅立っていますので、地上に霊魂はいないということになります。また「お骨」は、本人の人格全体を象徴するものとは言え、あくまで本人の肉体の一部であり、霊魂とは別物であります。


従って、「お骨」が墓所に納骨されたからと言って、墓所に本人の霊魂が鎮座するわけではなく、そこに死人の霊魂がいるわけではありません。この点、仏教の墓所観と著しく異なるところと言えるでしょう。


上記『千の風になって』の歌詞の通り、そこ(お墓)にはその人はいない、千の風になって、空(霊界)に飛翔しているというのです。


<墓所とは何か>

では一体、墓所、即ち「お墓」とは何でしょうか。前に「つれづれ日誌(5月26日)-墓所とは何かを考える 」(サイト→https://www.reiwa-revival.com/post/__富士山)において言及しましたが、それぞれの宗教は、それぞれの死生観を持ち、その死生観に基づいて死者を葬ります。


上記しましたように、キリスト教やUCでは、死は霊魂が肉体と分離することであり、永遠の愛の霊界への旅立ちであります。スウェーデンボルグ流に言えば、霊的身体の「霊界への移住」に他なりません。


従って、仏教が考えるように、墓所に故人の霊魂はいません。「お墓」は故人の魂が眠る場所ではなく、故人の「生きた証」であり、また故人に思いを馳せるための「メモリアル」(記念碑)ということになります。


いわば、墓所は故人の地上における戸籍のようなものです。故に納骨は、地上の戸籍への「入籍」と言えるでしょう。そして故人を墓所に丁重に葬ることは、故人を人格的、霊的存在として敬意をもって扱うことを意味しています。これは人間だけが行う行為であり、猿には葬りというものはありません。


そして「墓参」は、死者や先祖に思いを馳せ、慰霊するよい機会になります。縁者はそこで故人を偲び、思いを馳せ、慰霊し、子孫への加護を祈願するというのです。故人の霊界の霊魂は、この墓参に反応して、墓所に下ってくることもあると言われます。


このように、墓所・墓参は、死者を弔う象徴的な意味がありますが、私たちはこのような形式を侮ることはできません。確かに内実こそ第一義的な意味を持ち、内心の故人への真摯な祈りこそ最も大切で本質的だと言えますが、内実は形式を通して働くということもまた真理だからです。


墓所・墓参という形式に神が働くというのです。即ち、実質と形式は相互補完関係にあり、儀式・儀典には実質を可視化する、即ち心を形にするという意味があります。


アウグスチヌスは、これらを客観的恩寵論(客観的秘蹟論)として体系化しました。そして、このアウグスティヌスの教会論が、カソリックの客観的恩寵論として結実していきます。教会の本質が、教会に神が宿るという「客観的制度」としての性格を有し、従って教会は摂理に基づく恩寵の施設であるということになります。神の恩寵という内的なものが、教会という形式に働くというのです。


【解怨役事の意義を考える】


さて次に筆者は、10月24日、所属している青葉台教会で行われた「秋季孝情天寶特別大役事」及び「万物の樹特別聖燭伝授式」に参加しました。特に今回の役事は、「神統一韓国実現」と「万物祝福(経済・伝道・子女繁殖)勝利」のための秋季大役事ということでした。


この機会に、今やUCの中心的活動になっている先祖解怨・祝福役事などUCの活動の在り方について考えて見たいと思います。


<祈りと悔い改めの時間としての役事>

今回の特別役事は、霊分立、先祖解怨・祝福、そして真のご父母様の恩恵を受けとる役事という触れ込みでした。しかし筆者にとっては、むしろ霊界に思いを馳せる神聖な祈りの時間となったというのが正直な実感です。


また霊分立役事は、血肉に巣くう恨霊を分立するというように説明されていますが、筆者にとっては、恨霊分立というより、自らの堕落性を分立役事という形式を通して悔い改めるための象徴的行為でありました。


このように自分なりに位置付けての役事でしたので、その意味では大変貴重な「祈りと悔い改めの時間」となりました。


<UCは先祖解怨教か>

最近、あるネットのブログを開いて見ると、「UCは今や先祖解怨教になった。そしてこれは新たな献金収集ブログラムだ」というような記事を目にしました。この記事はUCに批判的なブログですので、かなり割り引いて受け止める必要がありますが、外見だけを見れば、ある意味で一面の事実を言い当てていると言えなくもありません。


またある宗教学者によると、韓国では、聖主教などに見られるように、歴史的にシャーマニズム的な「恨解り」(ハンブリ→恨みを解くこと)の儀礼を行う伝統があり、UCでもこの恨解り類似の儀礼を行っているとし、そしてUCはこの「恨解りを教義の根幹においている」と決めつけました。


即ち、恨の中核要素は悲哀であり、解けない恨、解くべき恨、回復としての恨ブリ(恨解き)は、朝鮮のシャーマニズムである「巫俗」(ふぞく)の中心的な概念だとし、UCの恨み多い無念の先祖像は、韓国の巫俗的神霊宗教の鎮魂儀礼と同列にあるとして、近年UCは「恨を教義の核心にして巫俗シャーマニズム的なものに変質した」と指摘しました。


確かに先祖解怨・先祖祝福・祈願書・聖火式・書写行など、今や主流となっている教会活動は「恨解り」ないしは「形を変えた天地正教」と言えなくもありません。誤解を恐れずに言えば、今やUC全体が天地正教化している、つまりかの前述のブログの言葉を借りれば「先祖解怨教」になっているということになります。そしてそれは、新たな献金プログラム、いいかえれば、形を変えた霊感商法でもあると誤解されかねません。


だからといって筆者は、このような教会の在り方を、決して批判しているのでも、またこれが悪いと言っているのでもなく、あくまで客観的事実を述べているのです。


ちなみに筆者の配偶者は、一時期熱心な天地正教の布教師であり、また筆者の氏族も天地正教を通じてUCに導かれ、天地正教から恩恵を受けています。 またこの度の配偶者の他界に際して、遺留品を整理したところ「先祖解怨祝福履歴」が出てきて、私も知らなかったことですが、両家約120代の先祖解怨・祝福を済ませていたことが分かりました。


もともと天地正教は原理創始者によって、多神教の日本の救済のために特別に許諾された宗教であり、これは最終的にUCに導くための途中的な意味を持った宗教形態と言えるでしょう。


そしてある信頼できる食口によると、そもそも清平先祖解怨の歴史は、霊石愛好会→天地正教→清平先祖解怨という流れにあると言われます。そしてこれらは、専ら日本人食口によって担われてきたというのです。


<方便として位置付ける>

さて筆者は、UCが推進している先祖解怨・祝福役事は、一種の伝道や救いのための「方便」と位置付けることにしました。こう考えることで、筆者の抱いていたもやもや感が吹っ切れて府に落ちたからです。


しかし方便と言えば「嘘も方便」との言葉があるように、目的のためになりふりかまわず利用する便宜的な手段と考えがちですが、仏教において方便とは、もっと高尚な意味をもっています。


即ち、無知な衆生を真の教えに導く巧みな手段、真実の教法に誘い入れるために、仏の慈悲から出た仮に設けた教えを意味する仏教用語であります。


法華経譬喩品には、「三車火宅」の有名な譬えがあります。


火の燃えさかる家(火宅)の中で、家が火事であることを知らずに、夢中で遊んでいる三人の子どもたちを救い出すために、父である長者は、方便として羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三車を示して外に誘い出し、出てきた時にはそれらに勝る大白牛車(だいびゃくごしゃ)を与えたという話しです。


羊車・鹿車・牛車の三車は声聞・縁覚・菩薩の三乗を、大白牛車は三乗を統合する一仏乗の教え、すなわち法華経を譬えています。


つまり、羊・鹿・牛の三車は仮の教え(即ち天地正教)であり、大白牛車が法華経、即ち究極の真理を意味します。


そして筆者は、先祖解怨・祝福など現UCの天地正教的な活動を、上記仏教が示す一種の方便と位置付けることにし、こう理解することで精神的に安堵したことを告白するものです。勿論、このような筆者の理解に対しては、異論・反論があろうかと思いますので、お聞かせ下されば幸いです。


<キリスト教の先祖観>

一般的にキリスト教では、仏教やUCのように、先祖供養を重視しません。


ただ、カソリックには「煉獄」(れんごく)という教理があります。煉獄とは、クリスチャンで天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的な霊界であり、ここで火によって罪を清められた後、天国に入るとされています。


そしてカソリックでは、煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。地上のクリスチャンがこの煉獄の霊に祈りや代償をすることにより、煉獄の霊は恩恵を受けて天国に導かれ、地上人もまたその恩恵を受けるというのです。


即ち、生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為をするというもので、この考え方は、大和カルバリチャペルの大川従道牧師の「黄泉の霊人への祈祷」とも類似性があります。


しかし、プロテスタントは基本的に先祖供養には否定的です。それは偶像崇拝になりかねないという理由からであり、また死者の救いは神の主権に委ねるべきというものです。


いずれにせよ、先祖供養や死者への過度な畏敬は、キリスト教ではあまりよしとされていません。死後の世界は専ら神が主管し、神が図られる領域であるとの考え方、即ち「死者のことは神に委ねよ」という考え方があるからです。 従ってこの点は、先祖を祭ること(先祖解怨・祝福)を積極的に認めているUCとは異なっています。


原理創始者は霊界解怨式について、次のように簡潔に語っておられます。


「統一教会に霊界解怨式というものがあります。先祖解怨式があり、次に先祖祝福式があります。霊界に行っている自分の父母、兄、弟、叔母、全てを祝福してあげてこそ、天の家庭として神様に代わって侍ることができるのです。これは偶像崇拝ではありません」(天聖経第七篇「地上生活と霊界」P800)


<先祖解怨に走るもう一つの理由>

清平を中心とした先祖解怨・祝福役事は、おおむね次のような順序になるとされています。


先ず、体内に巣ぐう恨霊・悪霊を分立する「霊分立役事」、次に解放されるべき先祖の「先祖解怨」、次に解放された先祖の霊界での「100日修練会」、次に原罪を贖う「先祖祝福」、次に祝福を受けて絶対善霊となった霊の40修練会....。


そして、上記のような解怨・祝福の役事が、如何なる権威に基づき、如何なる理由により、どのような霊界との手続きの中で実現していくのか、 これは理性の彼方にある、ひとえに信仰的事実、もっぱら信仰による理解の領域になるでしょう。


そしてこのように、教会全体が先祖解怨に走っているかに見えるもう一つの理由には、いわゆる天宝家庭の摂理的概念と献金の摂理的使命という問題があるというのです。


特に今、天宝摂理が叫ばれていますが、これは縦的430代の先祖解怨・祝福と、横的430家庭の伝道が条件になっています。つまり、天宝搭載家庭になるためには、430代の先祖解怨が必須となるわけで、故にこの条件を満たすために食口は熱心に先祖解怨に走ることになります。


即ち、天宝搭載家庭の条件に先祖解怨が組み込まれているというのです。このような条件が、果たして妥当かどうかは別途きちんと神学的にも検証すべきだと思われますが、ともかく先祖解怨が条件になっているため、食口は天宝搭載家庭なりたい一心で、またそれが天のみ旨だと信じて、(先祖解怨の意味もよく分からないままに?)先祖解怨に走るわけであります。それに加えて、献金摂理の要請が拍車をかけることになります。


しかし天宝摂理は、それを目指して歩む信者に具体的な方針と目標を与え、その信仰行為の結果、伝道や献金に寄与することにつながり、摂理全体を押し上げることになります。


ただ、それが自己目的化して、天宝搭載家庭になること自体が、救いや天国行きの切符になると考えるなら、それは主客転倒ということになるでしょう。かってルターが、救いは免罪符を買うことではなく、ただ「信仰により、聖書(神の言葉)による」とした宗教改革の精神を想起したいと思います。


【救いと信仰の原点回帰を祈る】


筆者は、信仰の本質は、悔い改め・告白・許し・回心・新生(重生)・復活・永遠の命という救いのプロセスにあると理解し、またそれを信じている者です。即ち、聖書的な霊的伝統の上に立つ「成約の福音信仰」にこそ、救いの本質があると理解しています。


しかし、そうかと言って先祖解怨を否定しているのではありません。これは上記のみ言にもありますように、原理創始者も認めておられる通りです。ただ、先祖解怨に偏り過ぎ、また先祖解怨に依存し過ぎて、いつまでもその霊界に留まることなく、むしろこれを呼び水として、本来の成約の福音信仰に引き上がっていくことが肝要だと述べているのです。


つまり「家庭盟誓」の趣旨、「天の父母様聖会」の原点に回帰することが肝要ではないかということです。平たく言えば、いわゆる御利益的信仰から福音信仰への脱皮です。


これこそ筆者が提唱する「神に還れ、神の言葉に還れ」を標語とする成約のリバイバル(霊的覚醒)運動であります。そして「行って全世界に福音を宣べ伝えよ」(マルコ16.15)とのキリストの言葉を想起することであります。


そして当に「その名によって『罪のゆるしを得させる悔改め』が、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ルカ24.47)というのです。



以上が、この10月23日、24日の霊的役事で体験した筆者の率直な感想です。そして早晩、今回の議論を踏まえ、浅川勇男著『先祖を幸福に導く先祖解怨・祝福』の内容について検証したいと思っています。(了)