◯徒然日誌(令和6年10月23日) 聖書のメシア思想についてーメシアの本質とは何か
ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1.29)
日本は今、総選挙の真っ最中であるが、石破政権の内閣支持率が30%を切り、自民党が過半数の233を大きく割るのではないかと喧伝されている。しかし、そのような世俗の喧騒から離れて、今回もまた、聖書の世界を探訪することにしたい。何故なら、世界がどのように変転しようとも、歴史を支配される神の救援摂理は厳然とあり、不変であるからである。
前回の徒然日誌で、聖書の「唯一神思想」、ならびに「神」について論考したが、今回は、聖書の三大思想の内、二番目の「メシア思想」について考察することにする。
【聖書のメシア思想】
さて信仰者の最も大切な宝(生命)とは何だろうか。それは「神」であり、「キリスト」(真の父母)であり、「神の言葉」(み言)である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉体となり・・・」(ヨハネ1.1~14)とある通り、この「神」「キリスト」「み言」の三者は、信仰において一体のものであり、信仰者の生命であり、目的である。そしてキリスト、即ち「聖書のメシア思想」は聖書の背骨となる思想である。聖書には一貫したメシア思想がその根底に貫かれており、聖書のメインテーマはメシアの来臨であり、世を救うメシアの到来は幾たびも聖書に預言されている。特に旧約聖書には200~300ものメシア預言があるといわれ、聖書が救世主を待望する書であり、メシア思想が聖書の根幹であるといわれる所以である。
神は自分のかたちに人を創造された(創世記1.27)が、「取って食べてはならない」(創世記2.17)と戒められた禁断の実を取って食べて堕落した(創世記3.6)が故に、人類に救いの摂理が必要になった。そして救いの摂理の目的こそメシア(救世主)の降臨である。もし創世記3章の堕落がなかったら、救いの摂理(創世記4章~黙示録)もメシアも必要ではなく、聖書は創世記1章と2章で完結していたはずである。
<メシアとは>
メシアとは、世の罪を取り除き(ヨハネ1.29)、神の国をもたらす人(マルコ1 .15)、即ち、人類の「罪(原罪)を清算」し、善悪闘争に終止符を打って「神の国(地上天国)を実現」する人である。
メシアはヘブライ語で、「油を注がれた者」を意味し、ギリシャ語では「キリスト」(=救世主)の意味である。当初メシアは、イスラエルでは政治的、神的な権威と力によりイスラエルを解放し全世界を治める「王」と意識されていた。そして「油を注ぐ」とは旧約聖書において、神によってある務めに任職することであり、「油を注がれた者」には王・祭司・預言者・族長などがあり、後にメシアを指す意味になった。この言葉は旧約聖書に39箇所で言及されている。イスラエル選民は預言者たちの預言によって、将来イスラエルを救う救世主を王として降臨させるという神のみ言を信じ、このメシア思想は強固な民族のアイデンティティーになっていった。
旧約聖書の主張によれば、人類の救い主は神のみであり、神のみが救いをなし得ると信じたが、新約時代のキリスト者たちは、人となった神であるイエスを救い主であると主張した。新約聖書にとってイエスは人々を罪から救うキリストであり、その名にのみ救いがあり(使徒4.12)、そして礼拝の対象となった。(A・Eマクグラス著『キリスト教神学入門』教文館P485)
以下、メシアの位格、態様、職能、メシア預言、メシアの本質について、論考する。即ち、キリスト論である。
<メシアの位格(人格)>
位格とは、他者に対して区別される主体、また自己が成立つ個物のことで、特に人に対しては人格という言い方がされ、キリスト教神学においては、キリスト論で論じられる。ちなみにキリスト論は、イエス・キリストの人格、特に「神性」と「人性」の関係についての神学理論である。 平たくいえば、「イエス・キリストは誰か」という問題を扱い、イエスが神(神性)か人(人性)か、はたまた両性かというイエスの存在論的な本質やその位格(独立した人格)について論じる神学と言える。
キリスト教の歴史の中で、三位一体論と並んで、このイエス・キリストの位格の問題(キリスト論)ほど激しく論議されて来た神学上の論点はない。キリスト教としては、カルケドン公会議(451年)で、「イエス・キリストはまことの神であり、神性において父と同質、まことの人であり、人性においてわれわれと同質。神性と人性の両性を有し、神であり人であるが、しかも一人格である」(カルケドン信条)という両性説で最終的に決着を見ることになった。
即ち、イエス・キリストは、神がマリアに受肉する前は神性のみの存在であったが、受肉により人性をも持つようになった。つまり、神が受肉して「人になった神」であるというのである。しかし、 「神は、実体において唯一の神でありつつ、父と子と聖霊という三つの位格において存在する」という三位一体の概念は、人間の理解を超えており、ハーベストタイムの中川健一牧師は、三位一体という言葉は聖書には存在しない言葉であり、人間の言葉で説明するのは大変難しく、「三位一体は、理解するものではなく、信じるものです」と言われている。
しかし、前記した伝統的なキリスト教の見解に対して、「イエスは神ではなく人である」との考え方が根強くある。
キリスト教系のエホバの証人、モルモン教、UCを始め、ユニテリアン、クリスチャンサイエンスなど、これらは皆、三位一体論の神を否定し、イエス・キリストを神ではなく神聖な人格を有した被造物(人間)としている。無論、ユダヤ教、イスラム教もイエスを人間と認識している。また宗教的多元論で知られるイギリスの神学者ジョン・ヒック(1922 ~2012)は、三位一体の神観を拒絶し、イエスは神の霊と愛に満ちた偉大な預言者であるが、神そのものではなく人間であるとした。神の受肉という教義は、あくまでも比喩(メタファー)として考えるべきであるというのがヒックの考え方である。
そして原理は、メシア(イエス)は神自身ではなく、「創造目的を完成したアダム(人間)」と捉え、また同時に「神聖な価値を持たれた方」と認識している。イエスは神と一体となり、神的な価値を有しているので、信仰面から見れば、イエスを神と同視する信仰に異議はない。しかし、イエスは原罪がないという点を除けば、我々と少しも異なるところのない人間なのである。(原理講論P263)
<イエス・キリストの様態>
さて、ここに「キリストの様態」(様相)という概念がある。イエス・キリストの様態には、①キリストの先在(誕生前)、②キリストの謙遜(誕生から死まで)、③キリストの高挙(十字架から昇天まで)、の三つがあり、この三つの様態をとって救いの業を成就されたというのである。(梅本憲二著『やさしいキリスト教神学』P92)
「キリストの先在」とは、「アブラハムの生まれる前からわたしはいる」(ヨハネ8.58)、「全てのものが造られる前に生まれ」(コロサイ1.15)に示されるように、肉体を持って生まれる前からイエスは神と共にいたという概念である。また、「世は彼によってできた」(ヨハネ1.10)というように、イエスを創造者とする考え方がある。
文鮮明先生は、「神様の創造理想は真の父母を標準として創造しました。真の父母と言う言葉は神様の創造以前からの標準です」と語られ、創造以前の神の構想の中に、既に完成した人間像(真の父母=先在のキリスト)があったというのであり、これが先在のキリストの原理観である。
次に「キリストの謙遜」とは、マリアに宿った時(受胎)から、十字架で亡くなり墓に葬られるまでの様態である。「キリストは、神のかたちであられたが、・・・かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた」(ピリピ2.6)とある通り、その有様は人と異ならず、また「キリストは自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、死にまで従い」(ピリピ2.6~8) とあるように、おのれを低くして、十字架の死に至るまで従順(謙遜)であられたというのである。
そして「キリストの高挙」とは、黄泉への降下、復活、昇天、神の右に座すというキリストの様態を指す。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2.9) とある通りである。
受胎告知 マリアとエリサベツの出会い イエスの洗礼 (カール・ブロッホ画)
<キリストの職務>
次にメシアの三つの職務、即ちメシアの役割について論考する。メシアの職務として、「預言者」、「祭司」、「王」の3つの側面があり、この三つの職務を通してその使命を全うしたとされる。カルバンは「メシアは役割において預言者的、祭司的、王的機能を有す」と述べている。
「預言者的役割」とは、文字通り神の言葉(真理)を宣布するみ言の実体たるキリスト(もしくは実体のみ言)を意味する。「私は彼らの同胞の内からお前のような一人の預言者を立ててその口に私の言葉を告げる」(申命記18.18)とある通りである。神はキリストを通して真理を語られ、自らをキリストにおいて啓示されたのである。
また「祭司的役割」とは、罪なきキリストが人類の罪の贖い主として「贖罪の業」をされることであり、また「神へ執りなし」をされる仲保者としての働きである。イエスはいと高き神の祭司であるメルキゼデク(創世記14.18)のような神によって立てられた大祭司であった。この贖罪の業と執りなしこそメシアの最も重要な職務であり、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3.25)とあり、「彼は、私たちの罪のための、贖いの供え物である」(1ヨハネ2.2)とある通りである。そうして人類を神の前に執りなされた。これが救いである。
贖罪は、人間存在の根本的悪としての原罪からの解放で救済の必須条件であり、「私達はこの御子において、その血によって贖われ、罪を許されました」(エペソ1.7)と告白されている。内村鑑三は、「神の子の贖罪の恩恵による罪からの解放、これがキリスト教の本質であります」と語っている(『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』岩波文庫P279)。ちなみにキリスト教の最も重要な概念は、十字架による贖罪と、キリストの復活であり、「贖罪」と「復活」の意味が理解できれば、即ちキリスト教が分かったということになる。
また「王の役割」とは、文字通りキリストが栄光の主として新天新地を開かれ、神の国を統治されるということである。初臨の時は王としての権能は発揮されなかったが、再臨は王の王として来られることが預言されている。
【聖書のメシア預言】
こうしてメシアの定義、位格、態様、職務を見てきたが、次に聖書におけるメシア預言を概観する。即ち聖書には、随所に世を救うメシアの到来が預言されており、以下は旧約聖書における代表的なメシア預言である。
「おまえの子孫と女の子孫の間に、敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」(創3.15) →この句は原福音と言われる。
「私は彼らの同胞の内からお前のような一人の預言者を立ててその口に私の言葉を告げる」(申命記18.18)→モーセのような預言者、即ちメシアを立てるという聖句。
「わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。 彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の王座を堅く据える」(2サムエル7.12~16) →ダビデの家系から出るキリストによる王権を約束。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7.14)→有名な処女懐胎の予告。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。その名は、霊妙なる義士、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ9.6)→栄光の主としてのメシア預言。
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53.5)→受難の主の預言。
「エフラタのベツレヘムよ、お前の中からイスラエルを治めるものが出る」(ミカ5.2)→ベツレヘムにメシアが生まれるとの託宣。
「見よ、あなたの王が来る。高ぶることなくロバに乗って来る」(ゼカリア9.6)→ロバに乗って来るメシアを予告。
また、新約聖書の最大の主題は、「イエスがキリストである」との主張であり、旧約聖書のメシア預言はイエスにおいて成就された。「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである」(ロマ書1.2~3)とある通りである。また、新約聖書には、随所に再臨が預言されている。旧約聖書は初臨を預言し、新約聖書は再臨を預言している。
「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙示22.12)
「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)
以上の通りの聖書のメシア預言だが、アウグスチヌスは「旧約の中に新約が隠れており、新約の中に旧約が現れている」と述べている。即ち、旧約が初臨のキリストを預言し、新約はその成就であるというのである。また内村鑑三は「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその頭脳である」と語った。
なお、世界の国々、諸宗教には、聖書のような一貫性を持ったものではないが、散発的なメシア来臨の預言がある。
韓国には「格庵遺録」(16Cの南師古による預言書) や、「鄭鑑録」(正道令・義の王の到来)の預言書があり、イエスが韓国に再臨すると言う啓示がある。また日本 には、出口王仁三郎のメシア宣言(王仁三郎こそみろく神との啓示)や、谷口雅春の「来るべき者」の自称、日蓮の末法本仏論(創価学会の教理)がある。その他、仏教の弥勒菩薩の下生(釈尊入滅後56億7千万年後に下生する)、儒教の真人の出現、ゾロアスター教の救世主の出現などがある。
【メシアの本質とは何かーメシアの無原罪性】
さて本稿の最後に「メシアの本質とは何か」(=メシアの無原罪性)について論考する。メシア(キリスト)は、み子、主、ひとり子、神の子などと呼ばれるが、これは無原罪の贖い主を意味する。以下、メシアの無原罪性について、a.聖書的視点、b.文鮮明先生の「み言」、c.文鮮明先生の誕生前後の時代背景、d.信仰告白、の4点から論証する。
<聖書的視点から>
メシアの最も本質的な使命は、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1.29)、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3.2)に象徴されるように、「罪を取り除き、神の国をもたらす者」である。イエスの第一声は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1.15)であった。そして罪(原罪)なきメシアでなければ世の罪を取り除くことはできない。即ち、 聖書が予定するメシア像は、罪なき(無原罪)神のひとり子であり、その事実は「聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(ヘブル7.26) とあるように、随所に聖書が証言している(→ヨハネ8.46、ヘブル4.15、2コリント5.21、1ペテロ1.19)。またイエスは完全な神性を有した人となった神であり、罪とは無関係であることは自明の理である。(ジェーコブズ著『キリスト教教義学』聖文社P155)
神が創造されたエデンのアダムが罪なき無垢の、即ち、「無原罪の独り子」であったように、第二アダム、即ち後のアダム(1コリント15.45)である受肉されたイエスも、原罪を免れたアダムと並列の関係にある。罪ある人によって死がもたらされたのと同じように、罪のない人によって死者の復活がもたらされるのである(1コリント15.21)。
ルカ書に 「聖霊が臨み、身籠ったイエスは聖なるもので神の子と唱えられる」(ルカ1.35)とあるが、この処女降誕は、イエスが罪の性質を持たずに、無原罪で生まれたメシアを象徴するものに他ならない。イエスは、アダム以来自然に生まれた他のすべての人間の子孫とは違って、聖く罪のない者として生まれた。そして、「天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1.10)とある通り、第三アダムとして来られる再臨主も、当然、生まれながらの無原罪のキリストとして誕生されるというのが聖書が示すメシア観である。
このように、聖書が予定するメシアは無原罪のひとり子イエスであり、従って、昇天したイエスが再び帰ってくるという再臨のキリストもまた然りである。これが聖書のメシア観であり、キリスト教正統神学である。
原理講論には次のようにある。
「イエスは、原罪のない、神の血統を受けた直系のひとり子として来られ、堕落したすべての人類を彼に接がせて一体となることにより、彼らが原罪を脱いで神の直系の血統的子女として復帰することができるように摂理しようとしてこられたのである」(P434)
「イエスは、すべての人類を、神の血統を受けた直系の子女として復帰するために、肉身をもって地上に再臨されなくてはならない。再臨のイエスは、すべての人類を霊肉併せて接がせることにより、彼らが原罪を脱いで、神の血統を受けた直系の子女として復帰できるようにしなければならないのである。
(P436)
<文鮮明先生の「み言」より>
文鮮明先生のみ言の中には、以下の通り随所に聖書が預言する「罪(原罪)なき神の独り子」「真の父母」についての「み言」がある。
「イエス様は二人目のアダムであり、再臨主は三人目のアダムなのです。そして三人目のアダムが堕落前の立場で来て、堕落前のエバを探し出さなければなりません。堕落していないエバを探し出して、子羊の宴会をしなければなりません。結婚して人類の父母となるのです」(「祝福家庭と理想天国」(1)P584~585)
「私は種子がちょっと違います。私の先祖がちょっと違うのです。先生は、天が私を生まれるようにする時に、既に血統を通して準備したのです」 (真の御父母様の生涯路程 1)
「世の中では文総裁について、『人間は堕落したので、文総裁も堕落した血筋だ』と考えているのですが、それは違います」(「平和の主人、血統の主人」P47)
「我々は母の胎内で生まれたわけですが、生命の起源は父親から出発するのです。それゆえに、今日までクリスチャンは、母の霊による聖霊の力により、根源そのもの、すなわち生命の起源であるところの父なる来たるべきキリストのもとへ帰ることを待ち望んできたのです」(み言 復帰の道 1972年4月1日)
また周藤健氏は、著書『成約摂理解説』(光言社)の中で次のように述べている。
「再臨主はイエス様が果たせなかった復帰摂理を完成するために真なる本然の赤ん坊の種として来られ、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するために来られた。即ちイエス様と同様に、再臨主も生まれながらに堕落前のアダムの立場で来られる」(周藤健著『成約摂理解説』P192)
「タマルの絶対信仰によってペレヅとゼラが胎中で実体基台を勝利したその『胎中聖別』の勝利圏をマリアが相続してイエス様を生んだように、その勝利圏は、再臨時代においても継承され、生きている」( 『成約摂理解説』P194)
つまり、マリアがタマルの胎中聖別の勝利の上にたち、胎中聖別を経ずしてイエスを生んだように、再臨主の母(金慶継女史)はタマルとマリアの勝利圏、即ちイエスの時まで神側が勝利した根本基台の上に立たれ、胎中聖別も二人の女性(レアとラケル、エリザベツとマリア)の介在も必要とせず、無原罪の再臨主を身籠られたというのである。
文先生は1996年4月16日、ワシントンDCのヒルトンホテルで行われた「ワシントンタイムズ財団」創設記念会で「救援摂理史の原理観」と題して講演された。政界・宗教界・言論界のVIPに対して、イエス様再降臨の目的を明確に解き、再臨主の無原罪誕生の真実を次のように語られた。
「真の愛と生命の種を持ったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探して立てなければなりません。神様が人間を創造するとき、アダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理も、堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシア思想の根本です」(救援摂理史の原理観、平和経P118~119、)
「再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するためにこられます。すなわち、創造理想を完成すべき真なる本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源になる真の父母の理想を完成するためにこられます。彼は既にイエスの時まで神側が勝利した根本摂理の土台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上に真っすぐ立たれて、彼が果たせなかった新婦を探し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです」(救援摂理史の原理観)
この「救援摂理史の原理観」は、「ワシントンタイムズ財団」創立記念特別講演として、聖職者、学者、政財界VIPの前で語られたみ言であり、極めて公的で信頼性が高いみ言である。この中で、救援摂理に関する聖書の奥義が端的に語られている。なお、この文先生の「救援摂理史の原理観」で語られた再臨観は、以下の通り、『天聖経』の神論・父母論の中でも繰り返し同様のことが述べられている。(以下、天聖経より)
「メシアという存在は、血統的に蕩減復帰した基盤の上に来なければなりません。言い換えれば、サタンの血統を受けて生まれた人類の前に、メシアは血統的な面でサタン側から生まれたとしても、サタンが讒訴できない環境から生まれなければなりません」(天聖経第二篇第二章P158)
「これまで神様は、復帰摂理の全般的な目的を、時代を超越して一人の完成した男性に置き、それを標準にしてこられました。そして、その完成した男性を中心として一人の女性を立て、一つの家庭完成の標本をつくろうとされたのですが、それがメシア思想なのです」(天聖経第一篇第四章P122)
「真の愛と真の生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件のない新しい種をもった息子を探して立てなければなりません。創造の時にアダムを先に造ったように、再創造摂理である復帰摂理でも、堕落と無関係な息子を先に立てなければなりません。これがメシア思想の根本です」(天聖経第一篇第四章P122)
<文先生の誕生前後の時代背景より>
文先生は1920年1月に誕生されたが、誕生前後の時代背景には再臨の前兆が見られる。1919年の3・1独立運動、1918年~1919年の内村鑑三の再臨運動、誕生前後の不可思議な文家の霊的現象は、明らかな再臨主降誕の予兆である。
<信仰告白より>
実は既に筆者は、2011年7月27日、アメリカアリゾナ州セドナの山頂にある「The Chapel of the Holy Cross」(聖十字架教会)礼拝堂にて、「初臨のイエス・キリストと再臨の文鮮明先生(真の父母)は、無原罪誕生のメシアである」との信仰告白を行っている。筆者において無原罪降臨のメシアは確かな信仰的事実である。
以上の通り、イエス様と文鮮明先生、そして真の父母は、無原罪誕生のキリストであることは明らかであり、これが聖書と原理のメシア観、まさに疑いの余地がない真実である。以上で「聖書のメシア思想」についての論考を終わる。(了) 牧師・宣教師 吉田宏