top of page

​他のアーカイブ記事は下のカテゴリーメニューを選択し、一覧表示の中からお選び下さい。

​他の記事は下のVマークをタップし、カテゴリーを選択し完了をタップ。記事一覧が表示されます。

聖書の奥義とは何か③ 創世記4章の奥義 善悪分立と歴史の歴史の二流

更新日:4月6日

🔷聖書の知識175ー聖書の奥義とは何か③ 創世記4章の奥義-善悪分立と歴史の二流


日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 (創世記4.3~8)


(左)カインとアベルの供え物 * (右)アベルを殺害するカイン(ギュスターブ・ドレ画)


冒頭創世記4章の、いわゆるカインとアベルの物語は、神が創世記3章で堕落した人間を救おうとされて、救援摂理を始められた第一歩であります。しかし、ここでもカインがアベルを殺害することによって、失敗が繰り返され、最初の救援摂理は失敗することになります。


即ち、人類は、神の創造の初めに「姦淫」(創世記3章)と「殺人」(創世記4章)の大罪を犯すことになったというのです。UC創始者が「聖書は人類の失敗の記録でもある」と言われましたが、その躓きは創造の始めから始まりました。


この創世記4章にあるように、神は、何故アベルの供え物は顧みられ、カインの供え物は顧みられなかったのでしょうか、そして何故兄カインは弟アベルを殺したのでしょうか。今日まで、この深刻な問に未だ明快に説明できた神学者は誰一人いません。また聖書には、兄と弟の葛藤が随所に記載され、「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」(ロマ9.13)とある通り、兄が弟に仕えるべしという系譜があります。カインとアベル然り、エソウとヤコブ然り、ゼラとベレツ然り、マナセとエフライム然りであり、またヨセフもダビデもソロモンも弟であり、摂理の中心は常に弟でありました。


一体、何故神は兄よりも弟を先に祝福されたのでしょうか、これは聖書の重要な謎、まさに奥義です。


【創世記4章の解釈―救援摂理の始まり】


神の救援摂理は、既に創世記4章から始まっています。ではこの4章のカインとアベルの聖書の記述をどのように解釈すればいいのでしょうか。


<カインとアベル>


先ず、神は何故カインの供え物を退け、アベルの供え物を受け取られたのかという問題です。キリスト教のある解釈によると、カインの供え物は「地の産物」、即ち穀物であり、これは、「血が伴わない」供え物で、信仰のない単なる義務感からの行為であるので、神はよしとされなかったと説明しています。しかしアベルの供え物は、「群れのういごと肥えたもの」、即ち、初子の羊という最良の「血のささげ物」であり、また神の啓示に従った信仰によるものであったから、神はよしとされたというのです。


つまり、2人の態度の違いと共に、「血の犠牲か伴うかどうか」が問題であるというのです。 聖書に「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである」(ヘブル11.4) とある通りです。


では原理はどのように解釈しているのでしょうか。


原理ではカイン、アベルの問題を創世記3章の堕落の動機と経路から説明いたします。堕落したアダムの状態は、神とも相対し、またサタンとも相対するという「善と悪の中間状態」にあると理解し、神は善悪中間状態の、いわば非原理的な人間を、そのまま摂理されることは出来ないというのです。従って善と悪の2つに分立し(善悪分立)、神のみが相対できる善の立場の人間(アベル)を通して摂理されるというのです。そうして、善が悪を屈服させるという摂理をされるというのです。それは後述する「長子権復帰」の路程でもあります。


そのために、神はカインを悪の表示体、アベルを善の表示体として立てられました。では、何故カインを悪の表示体、アベルを善の表示体とされたのでしょうか。それは、堕落の経路から説明されます。 創世記3章のエバは二重の姦淫関係、即ち天使とエバの姦淫関係(霊的堕落)と、エバとアダムの姦淫関係(肉的堕落)を結んだとし、前者の堕落の実をカイン、後者の実をアベルと見ることが出来ます。即ちアダムを悪と善の象徴体に分立し、カインとアベルに分立されました。


何故なら、天使とエバの堕落は天使の嫉妬心とエバの過分な欲望心から出た悪質な不倫の姦淫であり、エバとアダムの姦淫は、本然の関係に戻りたいという、より善なる動機に基づいた姦淫であり、またアダムとエバは本来神が予定された相対関係でありました。従って、悪質な堕落の最初の実の象徴がカイン、次のより善の実の象徴がアベルとされたというのです。


それに加えて、サタンは常に長子に未練があり、長子カインを取ったというのです。歴史的にも、サタンが、真理を装って疑似理想型世界を先取りして作ってきたのが人類歴史だったのでした(サタン先行論)。即ち、神が作ろうとされた理想世界を先行して原理型非原理世界を標榜したのが、正に共産主義社会であり、共産主義はサタンの集約的な思想であるというのです。


従って、悪の表示体であるカインは神が直接主管できない立場に立っているので、神が主管できるアベルを通して供え物を捧げ、悪が善に屈服した条件を立てなければならないというのです。しかし、カインはアベルの供え物だけを受け取られる神に嫉妬と疑義を呈して怒り、結果的にアベルを殺害することになりました。


堕落は、天使長が神と同じ立場に立ってアダムを愛せず、自分の位置を離れてしまったことに原因がありましたので、復帰は、この堕落性を元返して創造の秩序を回復する(蕩減する)ことにあります。従ってカインはアベルを愛し、神への仲介者としてアベルを通して供え物を捧げ、善を広めることが使命だったというのであり、カインはアベルと相談することなく自己本位で供え物を捧げて、神に退けられました。ここに歴史の奥義があります。ここに「兄は弟に仕える」という兄と弟の葛藤が随所に記載された聖書の意味があります。


一方、アベルには兄カインへの配慮、謙虚さが要求されました。カインを屈服させるのはアベルの自己否定と自己犠牲(アベルの正道)が不可欠でしたが、結局、アベルは、信仰によって神の前に立ったものの、カインとの間で長子の立場を復帰するという使命を全う出来なかったのです。従って、殺人したカインに弁解の余地はありませんが、アベルにもその責任の一端があるというのです。


<長子権復帰>


なお、カインとアベルの関係を、弟のアベルが兄のカインを屈服させて、弟が長子権を復帰していくという「長子権復帰」の視点から見ることもできます。復帰摂理におけるこのカインとアベルの転換が長子権復帰であります(周藤健著『成約摂理解説』光言社P109)。本来アダムとエバは長子、長女として、本然の神の直系の子女となったはずであり、その後夫婦、父母となって、地上天国が成就された時には神の代身として、王と王妃となって天宙を治めたはずです。長子の立場とは、父母から家督権を相続し、次子以下を愛で主管することができるので、長子の権限は次子以下を指導できる立場なのです。


ところが堕落したことによって、アダムは長子の立場を奪われてしまったので、それ以来サタンは長子権を握り、次子を支配してきたのです。これを復帰するために、サタンが上にあり、神が下になっているので、次子を神が取って、長子の立場を復帰する歴史が必要となったのです。ゆえに復帰歴史は兄(カイン)を次子にし、次子(アベル)を兄にするという、逆理の道として今日まで摂理されてきたのです。(白井康友著『統一原理Q&Aみ言による神の心情の再発見』光言社刊)


この長子権復帰はアダム家庭においては失敗しましたが、アブラハム・イサク家庭において実現しました。イサクとリベカの双子の兄弟、即ち、兄エソウと弟ヤコブの葛藤と融合の摂理です。聖書に「その子らが胎内で押し合った」(創世記25.22)とあり、「二つの国民があなたの胎内にあり、一つの民は他の民より強く、兄は弟に仕える」(創世記25.23)とあります。また、「わたしはヤコブを愛しエソウを憎んだ」(ローマ9.13)とある通り、神は兄よりも弟を祝福されました。


前記白井氏の著書によると、ヤコブは、エソウの愛に関する恨み(減少感・怨念・憎悪心)を解いて、愛で自然屈伏させなければならず、そのためには、まずカイン圏に行って、迫害の中にあっても、愛と犠牲の精神をもって仕え、カイン圏から「もうこれ以上いじめてはいけない」という同情と、「この人はよくやった」という祝福の言葉の証明書をもらってくる必要があるというのです。


即ち、ヤコブ長子権復帰の第一段階(象徴的段階)としては、先ず母リベカの胎中で闘争し、ヤコプがエサウのかかとをつかんで胎外に出てきた(創世記25.26)ということであり、次に第二段階(形象的段階)としては、母リベカの母子協助があり、ヤコプは知恵を用いて、パンとれんず豆をもってエサウからヤコブヘ長子権を売り渡す誓いの条件を取り(創世記25.33)、更に、本来エサウに与えられるべき神の祝福を、父イサクから勝ち取ることができました(創世記27.27)。そして第三段階(実体的段階)として、ヤコブはハランにて21年間の苦役を通過しながら妻子と財物を復帰し、実体的サタンを象徴する叔父ラバンを屈伏させ、さらにヤボク川にて、霊的サタンを象徴する天使との組打ちに勝利することができたので(創世記33.28)、ヤコブはその勝利条件を獲得して、失われたアダムの位置を復帰したことになるのです。


そしてこの条件のもとでヤコブは、アベルの位置を復帰すべき立場に立ちました。そこで彼はハランにおいて築き上げた財物をエサウに贈り物として捧げ、エサウと出会う時には自ら七度身を地にかがめて謙虚な姿勢で近付いていき、「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」(創世記33.10)と、心からの讃美を捧げました。その結果、エサウは、今までヤコブに対して抱いていた怨みが完全に解かれ、心からの同情と祝福を感じて、涙して抱き合ったのです。まさにこの瞬間が人間始祖の堕落以来、初めて長子権復帰を勝利した歴史的瞬間といえます。

ただ、このヤコブにおける長子権復帰は、ヤコブが既に40才を過ぎていたので、それまでの期間を復帰するための長子権復帰として、タマルによるゼラとベレツの胎中における長子権復帰まで遡ることになります。ここでは女性が摂理を担う立場として重要な働きをすることになりますが、原理講論では十分説明されていない女性の使命の重要性があり、前回詳しく述べた通りです。


【歴史の二流】


上記したように、人類史は、姦淫と殺人から始まったと聖書は語っており、神の救済の歴史は創世記4章から始まり聖書全巻に渡ります。そして創世記4章はカイン型思想(ヘレニズム)とアベル型思想(ヘブライズム)という「歴史の二流」の始まりになりました。聖書には、兄と弟の葛藤が随所に記載され、兄が弟に仕えるという系譜があることは前述した通りです。


つまり、前述のようにサタンは常に先行し、長子を取り、神は弟を取りましたので、その後の復帰歴史はそれを元返して、弟が兄を屈服させて失われた長子の立場を取り戻すという長子権復帰の歴史が展開されます。従って、個人から世界に至るまで、必ずカインとアベルの二つの型の二流があるというのです。これがカイン・アベルの原則であり、兄のカインの流れがヘレニズム(人本主義)、弟のアベルの流れがヘブライズム(神本主義)の源流になりました。


ヘブライズムの特徴は、旧約聖書に見る古代イスラエル民族の思想方式・文化に源流があり、キリスト教を通じてヨーロッパ文化の核になりました。人本主義のヘレニズムに対して、神本主義、啓示、預言、といった性格が際立っています。啓典の民、啓示の宗教、即ち「神からの宗教」の本質がここにあります。 一方、ヘレニズムの特徴は、ギリシャ風の文化性を有し、人間中心、理性、論理性が際立ち、ヒューマニズム、人本主義の根本思想であり、「神への宗教」(思想)であります。


そして世界史は、ヘレニズムとヘブライズムという二つの思想が交互に主権を主張してきた歴史、即ちヘレニズムとヘブライズムの葛藤と融合の歴史でした。


アレクサンドリア大王の東方制服によるヘレニズム化に対して、ローマ帝国でのキリスト教の公認・国教化によるヘブライズムの勃興。次に人文主義ルネッサンスによるヘレニズムの攻勢に対して、宗教改革によるヘブライズムの復権。そして、ヘレニズムの集大成としての共産主義の支配に対して新しいヘブライズム思想(神主義)の勃興であります。


以上、創世記4章の奥義について、原理の画期的な解釈を見て参りました。そして創世記4章に起因する歴史の二大潮流について概観し、これらの歴史の二流が、何故生まれたのかについて明らかにいたしました。次回は、マリアによる処女懐妊の奥義を考察いたします。(了)  

                         牧師・宣教師 吉田宏

R.jpg

​新生聖書勉強会

​ユニバーサル福音教会牧師
​家庭連合ポーランド宣教師
   吉田 宏

​トップページ

​プロフィール

​記事一覧

​お問い合わせ
​コメント欄

090-3504-6430

bottom of page