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聖書を何故学ぶのか② 聖書の特性とその影響

◯つれづれ日誌(11月17日)-聖書を何故学ぶのか② 聖書の特性とその影響


聖書は全て神の霊感を受けて書かれた(2テモテ3.16)


前回、聖書を学ぶ意義を吟味し、その上で、如何に学べばいいのかを、特に比較宗教の視点から論じました。


そこで今回は第二弾として、聖書の本質的な特徴や性質、及びその影響について、5つの側面から考察し、聖書に取り組む動機付けにしたいと思います。


1、聖書は神の言葉・啓示の書である。


聖書の特性は何といっても、聖書は「神の言葉」、即ち啓示の書であるという事実です。では聖書は、何故神の言葉であると言えるのでしょうか。以下、何点かを指摘いたします。


まず第1に、「聖書は全て神の霊感を受けて書かれた」(2テモテ3.16)と、聖書自身が自己表明していることです。


第2に、1600年もの間に、40人以上の異なった職業の人々によって書かれた多様性を持った書でありながら、ひとつの明確な一貫した思想(メシア思想・唯一神思想・贖罪思想)に貫かれていることです。ここには背後に「真の著者」(神)がいることを暗示しています。つまり神が書かれた啓示の書であるというのです。


しかし、自由主義神学を唱える人々の中には、聖書は神の言葉ではなく、聖書記者による人間の言葉だという見方もあります。


第3に、キリスト教では、旧約聖書だけでも300ものメシア預言があると言われており、それらがイエスにおいて成就したことです。「主はあなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者を起される」(申命記18.15) 、「おとめがみごもって男の子をうむ」(イザヤ7.14)、「ひとりのみどりごが生まれる」(イザヤ9.6)など、数多くのメシア預言が散見されます。つまり聖書は「イエスにおいて成就された預言の書」であるというのです。


但し、ユダヤ教では、上記のメシア預言は、当時の時代背景の中で書かれたもので、これらをイエス・キリストに結びつけるのは「こじつけだ」としています。


第4に、聖書は決して人間を美化せず、ダビデやソロモンやペテロの犯した罪をも隠さず、赤裸々にありのまま書かれています。この点は他の宗教経典と著しく異なっています。


以上、4点を挙げましたが、他にも、考古学とも一致していること、仏典などと違って、成立後一度も修正、加筆されたことなくその権威を保っていることなど、聖書が神の言葉であることを裏付ける理由は多々あるでしょう。


さて宗教には、大きく「神への宗教」と「神からの宗教」の2つがあると言えます。仏教やギリシャ哲学は真理を人間側から探求し求めていく神への宗教、つまり「悟りの宗教」であり、ユダヤ・キリスト教は神からの宗教、即ち、啓示の宗教であり「救いの宗教」であります。


このように、聖書は神からの啓示の書であり、イスラエルは経典の民であると言われる所以です。とりわけ旧約聖書は、「神が言われた」「主が(モーセ)に言われた」「神の言葉が(預言者に)臨んだ」というように、神がダイレクトに預言者らに臨んで語られています。


こうして聖書が生ける神の言葉であることに疑いの余地はありません。勿論、福音主義神学、自由主義神学など多様な聖書観があり、その解釈にも相違がありますが、基本的に聖書が神の啓示の書であることはキリスト教の共通した認識であることは確かです。問題はここから如何に神の声を正しく聞き取り、如何に信仰の羅針盤とするかが大切だと思われます。


2、聖書には一貫した思想性がある。


原理創始者は聖書について、「聖書には一貫した統一性があり、メシア思想に貫かれています。これはこれら聖書記者の背後に、真の著者としての思想的核心の存在(神)がいるからです」(み言葉集)と述べられ、 又「聖書には神の救援摂理の奥義がある」とも語られ、一方では「聖書は人類の失敗の記録である」とも語られました。


聖書は大変多様性のある書でありますが、上記しましたように、そこには聖書を貫く思想、即ちメシア思想(救済思想)があり、大変一貫性に満ちた書であるというのです。 またメシア思想と共に、全編が唯一神の思想(一神教)及び贖罪思想に貫かれています。筆者は、メシア思想、唯一神思想、贖罪思想を聖書の3大思想と考えており、この点については別途詳述いたします。


即ち、聖書は、約1600年間に渡って、40人もの聖書記者によって書かれた書であり、しかもその聖書記者は、漁師、取税人、神学者、預言者、王と様々な職業の人々によって構成されていながら、しかしそれにも係わらず、調和性と統一性に富み、聖書66巻を貫く「一貫した思想性」があるというのです。


3、聖書は奇跡と癒しの書である。


また聖書には、奇跡の話が多々散見されます。特に、a.モーセ・ヨシュアの時代(BC1450年頃)、b.エリア・エリシャの時代(BC850年頃)、c.そしてイエスとその弟子達の時代(AD30年頃)の3時代が、「3大奇跡の時代」としてよく知られています。 歴史の転換点には神が直接介入されたというのです。つまり奇跡は、神様からの直接的な介入を見せる必要があった転換期や危機の時代に起こっているというのです。


そして福音書には、病気のいやし、悪霊の追い出しなど数々のイエスの行った奇跡が記されています。従って、聖書は「奇跡の書」であると言えるでしょう。


しかし、イエスは「信仰があなたを救った」(ルカ7.50)と言われているように、奇跡は信仰の結果だというのです。イエスはトマスに「見ないで信じるものは幸いである」(ヨハネ20.29)と言われましたが、できれば奇跡を見ないで信じたほうがもっといいのです。従って奇跡はあくまで信仰の結果として考えるのが正論であり、イエスも奇跡の前に信仰を強調されました。そして、最大の奇跡は人間が「生まれ変わる」(新生)ことと言えるでしょう。


4、絶大な影響力と実績を持ち、確固たる市民権を有した古典の最高峰にある。


聖書は歴史的に、如何なる書物にもまして、絶大な影響力と感化力を持ってきた実績、即ち「市民権」があります。


<The Book of Book>

聖書は、本の中の本(TheBook of Book)と呼ばれ、各方面への影響は絶大です。この古典は、毎年世界的に圧倒的なベストセラーであり、世界3200もの言語に翻訳され、多くの偉大なキリスト教徒を回心に導いた実績のある書であります。


聖書はキリスト教の経典であるだけでなく、特に旧約聖書のモーセ五書(律法)はユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通経典であり、アブラハムを信仰の祖として仰いでいます。


聖書には、大きく、「教理」、「倫理」、「しるし」(奇跡)、の3つが示されています。宗教教理はキリスト教神学の基礎になり、宗教倫理はキリスト教倫理の根幹となり、しるしは、奇跡・癒し・聖霊運動の源泉になりました。


<聖書の普遍性>

全世界での発行部数は、1815年~1998年に約3880億冊(推定)と言われています。2000年の1年間に世界中の聖書協会によって約6億3300万冊が配布・販売(国際聖書協会の発表)され、世界一発行されている本としてギネス・ワールド・レコーズに登録されています。日本でも毎年200万冊が売られています。


アポロ14号が人類初めて月に到着したとき、船長は16ヶ国語の聖書を月に置いてきました。 国連本部の壁には、イザヤ

2章4節の「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」が掲げられ、アメリカ最高裁判所には「モーゼの十戒」が掲げられています。(ちなみに日本の最高裁判所には聖徳太子の17条の憲法が掲げられています) 


赤十字のアンディヂュポンもナイチンゲールも神の啓示に従って医療福祉を行いました。このように、聖書が歴史と世界に与えた影響は図り知れません。今なお、確固たる市民権を持ってその光彩を放っています。


<古典の最高峰>

そして、聖書は神の啓示の書であるばかりでなく、古典の最高峰に位置する学術書、文学書としても評価は定まっています。


ダンテの神曲、ゲーテのファースト、シェイクスピアの三大悲劇などの古典は言うまでもなく、ドストエフスキー、トルストイ、芥川龍之介、太宰治などの文学者にも強い影響を与えました。 特に詩篇の文学的価値は高く評価され、アウグスティヌスもルターもほぼ丸暗記していたと言われています。このように聖書は古典としても最高峰にあると言っても過言ではありません。


5、人々を回心に導く


更に聖書は多くの人を回心に導きました。古来、聖書の一句で回心した人々は枚挙に暇がありません。


パウロはイエスから直接啓示を受け、キリスト教に改宗しました。(使徒行伝9.19) アウグスチヌスはロマ書13章13節の「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか」の聖句と出会って回心しました。


ルターは塔の中で回心を体験しましたが、その決め手となった聖句が、「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」(ロマ書1.7)であったといわれています。


メソジスト派の創始者ジョン・ウエスレー(1703年~1791年)は1738年5月24日、アルダアスケント街の集会で回心体験をしました。ウエスレーは、モラビア派の宣教師がルターのロマ書序文「キリストを信じる信仰を通じて神が内在して働いて下さる」という箇所を説教者が読んでいる時、自分の心が不思議に熱くなるものを感じたと告白しています。


即ち「救いの確証は、戒律や善行の末に訪れるものではなく、自らの不完全さと罪深さを悟った時に、既にキリストの自己犠牲によって救われている」との回心でした。


ナイチンゲールは生涯4回の神の啓示を受け、ノーベル賞を貰ったマザーテレサは、マタイ25章40節の「私の兄弟であるこの最も小さいものにしたのは、私(イエス)にしてくれたことなのである」の聖句によって召され、「貧しい人たちのために」という彼女の行動原理になりました。


ジョージ・ワシントンは、「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である」と言い、 アブラハム・リンカーンは「人間にとって望ましいものはすべて聖書にある」と語りました。


我が内村鑑三はどうでしょうか。彼はアーマスト大学の総長であり牧師であるシーリー先生から感化を受けました。内村は、聖書の示す道徳律があまりにも高いので、現実と理想のギャップや罪の苦悩に苦しむ、いわゆる「クルシムチャン」であったと述懐しています。


内村は、シーリー先生の「汝、自ら義たらんとするなかれ。ただ、十字架のイエスを仰ぎ見よ」の言葉で救われました。当にイエス・キリストによる「贖罪」を理解した瞬間でした。 


又、同志社大学創設者の新島壤は、若きころ創世記の冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1.1)を読んで瞬時にその世界観を理解し、キリスト教に帰依することになりました。


このように、著名なクリスチャンが、聖書の一句で回心し、新たな人生を生きることになった例は数えきれません。さて、皆さんの回心聖句や如何に!


以上、聖書の特性とその影響について5点を挙げて述べてきました。当に聖書は世界の頂点と言える宗教経典であり、歴史上の古典の最高峰にある書と言えるでしょう。


もし、この書を越える教典が生まれたとするなら、これは文字通り歴史上、最大にして最高の真理であるということになるでしょう。果たして原理はどうでしょうか、今後更に確証していきたいと思います。


次回は第三弾として、ではこのような特徴と市民権を持った聖書ですが、果たして完全無欠の万能の書なのか、聖書に弱点はないのか、即ち、「聖書の課題」について考察することにいたします。(了)



上記画像*ニューヨーク国連本部「イザヤの壁」