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聖書的霊性とは何か⑤ よき信仰と回心の伝統

🔷聖書の知識119-聖書的霊性とは何か⑤ よき信仰と回心の伝統


人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(ヨハネ3.3)


今回は、聖書的霊性の三番目の柱である「よき信仰と回心の伝統」について述べたいと思います。即ち信仰、回心そして新生(重生)の伝統です。英語では、「ボーンアゲイン」(Born Again)といいますが、文字通り新生とは新しく生まれることで、これは信仰の目標であり希望です。正にキリスト教の歴史は「ボーンアゲイン」の歴史でした。


【敬虔な信仰と回心の系譜】


聖書に登場する人物には、見上げた、そして私たちの信仰の模範となる敬虔な信仰者に彩られています。


ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、士師・預言者たち、そしてペテロ、ヨハネ、パウロなど......。またメシアの血統を担ったタマル、ラハブ、ルツ、バテシバ、マリアなどの女性たち。


私たちは、その信仰者としての生き様からあまりにも多くの教訓を引き出すことができるというのです。私たちの信仰生活の在り方は、ほぼこの聖書の中の登場人物の信仰に網羅されており、全てここから回答が与えられると言っても過言ではありません。即ち、聖書にはよき信仰の伝統があるというのです。


またキリスト教歴史には、聖書に登場する信仰者に優るとも劣らない、キリスト者の煌めく信仰の伝統が刻まれています。アウグスチヌス、マルティン・ルター、ジョン・ウエスレー、ナイチンゲール、マザーテレサ、チャールズ・フィニー、チャック・コルソン、細川ガラシャ、新島襄、内村鑑三、李登輝、等々の敬虔な信仰と回心の記録です。これらの人々は、聖書の一句との出会いによって、人生を変える回心に導かれました。そこで今回は、特にキリスト教の歴史の中でも、聖書の一句で劇的な回心に導かれた「典型的なキリスト者の回心」について振り返って見たいと思います。


<アウグスチヌスの回心>


「それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」(ロマ書13.12~14)


上記はアウグスチヌスの回心聖句です。ヒッポの司教アウレリウス・アウグスチヌス(354年~430年)は、洗礼前の386年(32歳) 、ミラノの自宅の庭で隣家から「取れ、読め!、取れ、読め!」という子供の声が聞こえ、手元にあった聖書を開きました。遂に彼は、最初に目にふれたロマ書の聖句「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」(ロマ書13.13~14)と出会ってを回心することになります。


 「この節を読み終わった瞬間、いわば安心の光とでもいったものが、心の中に注ぎこまれてきて、全ての疑いは消え失せてしまいました。そこで私はもう、妻を求めず、この世のいかなるのぞみをも求めずに、信仰のあの定規の上にたつことになりました」(「告白」八巻12章中公文庫P114)


そうして、ミラノの司教アンブシウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに33歳で洗礼を受け、キリスト教徒となりました。


アウグスティヌスにとって回心とは、単に洗礼を受け、単なるキリスト教徒になることではありませんでした。それは、自己の人生そのもの、全身全霊を神に奉献することに他ならず、それ故に大きな決断を要したのです。まさに、回心とは決断であり信仰告白であります。


「なぜなら、肉の欲するところは霊に反し、また霊の欲するところは肉に反するからである」(ガラテヤ5.17)とある通り、名誉や利得、とりわけ断ちがたい情欲のくびきに縛られて苦悶し、その葛藤の中にさらされ、「ちょっと待って」(「告白」八巻7章P10)と決断を先送りにしていアウグスチヌスです。彼を最後まで阻んだのは、まさしく肉の欲との戦いでした。かって若きころ、神から貞操の徳を求められた時、「われに貞操とつつしみの徳を与えたまえ、されどもいますぐにではなく」と答えています。(「告白」八巻7章P114)


若い頃から身を立てるために弁論術の勉強をはじめ、370年からカルタゴにて学び、372年(18才)には、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(372年~388年、16才で死去)が生まれています。事実上の妻であるこの女性との同棲は15年に及び、当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂いまったくその欲望のままになっていた」と自叙伝『告白』で述べています。


「私はあなたの教会の壁の中で、荘厳な儀式の行われている最中でさえも、欲情を起こし、死の実をもうける業をあえてしました」(『告白』第三巻P106)


このアウグティヌスが、冒頭の聖句との出会いで回心に至ったというのです。回心までの軌跡について、京都大学の川添信介教授は、次のように7つのステップを指摘されています。


第1ステップは、官能的、世俗的欲望に振り回されていた時代(16才~)、第2が、哲学を薦めたキケロ著「ホルテンシウス」に啓発されて哲学に目覚める時代(19才)、第3がマニ教信者になった時代(19才~28才)、第4が懐疑主義的になる時代、第5がミラノ司教のアンブロシウスの説教などにより感化される時代(32才)、第6がプラトン哲学(新プラトン主義)と出会った時代(32才)、そして第7が聖句ロマ書13章13節との出会いによる回心と受洗(33才)。


<マルティン・ルターの回心>


「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてある」(ロマ書1.17)


宗教改革者マルティン・ルター(1483年~1546年)は、ロマ書1章17節の「信仰による義人は生きる」で回心に導かれました。これは旧約聖書ハバクク書2章4節の「しかし義人はその信仰によって生きる」の引用であります。


ルターは修道院に入って、誰よりも厳格な修道生活を行い、誰よりもよく祈ったと言われています。しかし、その厳しい修道生活の中で、遂に心の平安は得られず、苦悶した末、上記の「信仰によって救われる」という聖句に出会いました。宗教改革の理念である「信仰義認」が誕生した瞬間です。プロテスタントとカトリックの救済観の最大の違いは、端的に言えば、救いは「信仰のみ」か、または「信仰と行いの協働」か、の違いにあります。ルターは、救いはキリストの十字架の贖罪と復活を信じる信仰によりもたらされるものであって、救い自体には善行や修行や人間的な努力などの「行い」(業)は不要であるとしました。


即ち、善行自体に救いの効力はないとし、免罪符を買っても救いには無関係だと主張しました。但し、ルターは「行い」そのものを否定した訳ではなく、行いは救いの要件ではなく結果であるとしたのです。宣教や奉仕や慈善など善行は、信仰によって既に救われた者が、その感謝と責務からくる必然的な発露であるというのです。


このルターの信仰義認論は、親鸞の他力思想と瓜二つです。親鸞は、人間の煩悩は自分の努力や修行では解決不可能であり、ただ阿弥陀如来の本願を信じて、その慈悲と功徳にすがるしかない、即ち救いは絶対他力によるとしました。


この2人に共通するものは、人間は自力で罪を解決することは出来ない、救いは神の絶対主権に属し、「救いも信仰も神からの恩寵による」という考え方が根本にあるということであります。アウグスチヌスの恩寵救済論もこの系譜にあります。人間には自由意思があるが、罪を背負っている人間は、神の恩寵無しには善をなす自由を得ることは出来ないとしました。筆者もこれらルターやアウグスチヌスの思想に強い親近感を感じており、支持したいと思います。但し、プロテスタントとカトリックの救いを巡る議論は、原理が示す「成長期間」と「責任分担」の教理に拠らなけれは解決できません。救いの完成は、成長期間における神と人間の責任分担が相俟って全うされるというのです。


<ジョン・ウェスレーの回心>


「キリストを信じる信仰を通じて神が内在して働いて下さる」(ルター著『ロマ書』序文) 


メソジスト派の開祖ジョン・ウエスレー(1703年~1791年)は、18世紀のイングランド国教会の司祭でしたが、1738年5月24日(35歳)、ある集会でルター説教集の冒頭の一句をフス派モラヴィア兄弟団の宣教師が朗読の最中、雷のごとく霊に打たれ回心体験をしました。


そして「救いの確証は、戒律や善行の末に訪れるものではなく、自らの不完全性と罪深さを悟った時に、既にキリストの自己犠牲によって救われている」との確信に到ります。これはパウロの信仰による救い、アウグスチヌスの恩寵救済論、ルターの信仰義認説と同じ脈絡にあるもので、ルターに次ぐ第2の宗教改革上の回心と言えるでしょう。


オックスフォード大学で神学を学んだウェスレーは、 厳しい戒律主義者で、自らそれを実践していましたが、アメリカ宣教での失意の中で自信喪失に陥っていました。そんなとき、モラヴィア兄弟団の宣教師から聞いたルター説教集の一節が、雷のごとく彼の心と体を打ったというのです。


そして、この福音とそれに基づく社会奉仕を広めるため、イギリスやアイルランド各地を馬に乗って巡回し、野外説教をして情熱的な信仰覚醒運動を開始しました。メソジストの誕生は、今やアメリカではメジャーな教派となっています。


<チャールズ・フィニーの回心>


「その時、あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」(エレミヤ29.12~14)


チャールズ・フィニー(1792年~1875年)は、アメリカのキリスト教第2次リバイバル運動(1800~1840年)の中心人物で、アメリカ最大のリバイバリストであります。 苦学し独学で神学を学んだフィニーは、1921年10月10日(29歳)、「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる」(エレミヤ29.12~14)の聖句で聖霊のバプティスマを受け、劇的な回心を遂げました。


フィニーは法律の傍ら聖書を読むようになり、ある日森に入り跪いて神に祈っていると、エレミヤ書29章12節~14節の言葉が示されました。その晩、弁護士事務所に戻ったフィニーは聖霊のバプテスマを受け、「愛の波のように、体と魂を突き抜けていく、聖霊の降臨を感じた」といいます。フィニーは1824年、32歳で長老派教会の牧師となりました。


こうして彼のリバイバル運動の原点には、自らの罪に対する深い悔い改めと聖霊との出会いという「回心体験」がありました。弁護士でもあり、論理的に明快で、且つ霊的な力に富んだ説教を行って、野外集会などで多くの人々を悔い改めと回心に導きました。フィニーはアメリカのリバイバルで際立つ存在であり、神の国とその栄光のために、聖霊の力によって悔い改めと聖書的なキリスト教に立ち返り、それを実践することにその生涯をささげました。著書『上よりの力』には、聖霊の賜物を受けることの意義が書かれています。しかし、リバイバルは奇跡ではなく切磋琢磨によるとも言っています。また、奴隷制度には強く反対しました。


<李登輝の回心>


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20、李登輝回心聖句)


李登輝は、10代では戦前の日本教育の影響で唯心論者となり、大学時代は一時期共産主義唯物論に染まり、そうして38才でキリスト教徒になりました。若いころから、人間とは何か、人生とは何か、死とは何か、など人生の根本問題をとことん考えたと述懐しています。哲学が、人間と世界の本質について、「~とは何か」「~とは何故か」と根っ子から問うことであるとするなら、李登輝は文字通り哲学者でありました。


本を読むのが何よりも好きだった李登輝は、日本、西洋、中国の古典を読み漁る青春を過ごし、鈴木大拙の仏教書、善の研究、漱石全集、三太郎の日記、出家とその弟子、愛と認識との出発、古事記、源氏物語、枕草子、平家物語、風土、衣装哲学、ファースト、若きウェルテルの悩み、白痴、純粋理性批判、マルクス資本論、聖書、易経、など手当たり次第に読み漁りました。その中でも最も影響を与えられたのはカーライルの『衣装哲学』だったといいます。


しかし小さい頃から強い自我に苦しみ、またアイデンティティーの喪失に葛藤する日々が続きました。特に戦後、台湾が日本の統治から離れ、日本人でも中国人でもない、新たな自分の立ち位置を探し求めざるを得なくなりました。そうして、アイデンティティーが喪失して空しかった自分に、「キリスト者」という新たなアイデンティティーを得ることができたというのです。李登輝は「心の虚しさを埋めてくれるものが信仰であり、キリスト教だった」と告白しました。そして、李登輝がキリスト教に救いを求めるようになった背景には、心酔していた新渡戸稲造がクリスチャンだったことや、アメリカのキリスト教文化に触れたことも後押ししました。また、クリスチャンの奥さんの影響が大きかったと思われます。


キリスト教の門を叩く

こうしてキリスト教の門を叩くことになった李登輝ですが、科学者だった李登輝にとって、そのキリスト教信仰を心から受け入れるには、まだ紆余曲折を要しました。


「かって私は、キリスト教に回心するにあたって非常に苦しんだことがあります。『何故マリアは処女にしてイエスを産んだか』『何故イエスが磔にされて、そして生き返ったか』 どう考えても理性では説明がつかない不可能なことです。5年の間台北のあらゆる教会を回り歩き、これは何なのかと悩み続けました。その結果、これはもう理性的に考える必要はないのだ、と悟ったのです。そうなのだ、イエスは本当に磔にされて生き返ったのだと信じること、それが信仰なのです」(著書『武士道解題』P132)


そうして聖書を読み尽くし、信じることを決断しました。「信仰告白」によって聖書的真理を認識するに至ったというのです。トマスにイエスは「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネま20.28~29)と言われましたが、李登輝は「見ないで信じる者になろう」と決断したと述懐しています。筆者もまた、信仰とは信じることへの「決断」であり、決断し告白(信仰告白)することによって神を認識でき、信仰に至ることが可能になると思います。


キリスト教に入信

こうして李登輝は、1961年38才の時、洗礼を受けて長老派のキリスト教に入信し、敬虔なクリスチャンになっていきました。李登輝は『愛と信仰―わが心の内なるメッセージ』を出版し、「日本精神」と「キリスト教」から最も大きな影響を受けたと述懐しています。


李登輝はあるとき「お前は60歳になったら山へ入り、人々を伝道するのだ」という夢を見ました。これを神が自分に告げた使命だと悟り、60歳になったら山(高砂族)にキリスト教伝道をしようと決意したといいます。61才で蒋経国総統から副総統に乞われた際、この要請と神との約束の間で悩みに悩みました。そういう李登輝のもとへ、蒋家の牧師を務めている周聯華(ジョウリェンホァ)から手紙が届きました。自身が伝道に携わることを一旦棚上げし、「副総統として国家に奉仕することが神の御心」との説得を受け、やっと引き受けたというのです。


そうして、1988年1月蒋経国総統が急逝して李登輝が総統になる夜は、不安で寝付くことが出来ませんでした。その時、妻の勧めで聖書を開き、次の聖句で安心を取り戻したといいます。


「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる」(詩篇73.23)    


李登輝は、指導者の条件とは何か、「それは信仰です」と明言しました。李登輝の政治的信念を貫くうえで、信仰は力の源泉だったというのです。


信仰体験ー自我からの解放

李登輝は、かって観音山で神秘体験をしています。心と体からなる自分の上により高次元の神的存在を体験し、そしてその存在との間にただ一人立つ自分を発見しました。最初の神体験です。


そして李登輝に、ようやく自我から解放される時がきます。自分を拘束しているものが、他ならね自分自身であり、その「自我」から解放されることが真の自由であるという真理です。「自分でない自分」を見出だすこと、即ち、自我が一度死んでこそ、真の自分の復活があるというのです。次の聖句が李登輝の回心聖句です。


「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2.20)


救いとは自由であり、自由とは解放に他なりません。即ち、救いとは「キリストを通じて罪と自分自身から解放されること」であり、李登輝は正に自我から解放され自由を得て救われました。


以上、アウグスチヌス、ルター、ウエスレー、フィニー、李登輝の5人の代表的キリスト者の回心を見てきました。 他にも、マザーテレサの回心聖句「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち私(イエス)にしてくれたことなのである」(マタイ25.40)、ナイチンゲールの「我に仕えよ」との啓示(17歳)、新島襄の回心聖句「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1.1)、そして内村鑑三の「内を省みる事を止めて、罪を贖ひ給ひし十字架のキリストを仰ぎみよ」(1886年3月7日、シーリー学長)など、聖書の言葉で人生を変えられた多くの人々がいます。


ちなみに筆者もどん底の中で、「私はキリストの故に全てを失ったが、それは、キリストを得るためである」(ピリピ3.8)との聖句で回心を遂げました。このように聖書は神の言葉であり、霊感を受けた書でありますので、人間を変える力があり、聖書の一句で人生を変えられた数多のクリスチャンがいました。 無論、原理の真理や御父母様のみ言によって、更に深遠な世界に導かれることは言うまでもありません。


以上の通り五回に渡って、聖書的霊性の淵源である、「神の啓示と霊の働き」、「聖書の三大思想」、「敬虔な信仰と回心の伝統」を考察しました。私たちはこの聖書の養分を存分にし相続することによって、原理の高さ、深さ、広さを理解することができるでしょう。 (了)



上記絵画*パウロの回心(ニコラ・ベルナール・レピシエ画)

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