🔷聖書の知識115-聖書的霊性とは何か①-神の霊の働きの伝統
その後わたしはわが霊をすべての肉なるものに注ぐ(ヨエル書2.28)
前回のマラキ書の解説で、旧約聖書が終わりましたので、新約聖書の解説に入る前に、聖書の中心テーマを形成する精神性・思想性・伝統、即ち「聖書的霊性」について考察したいと思います。
アメリカには市民宗教(=アメリカ教)と呼ばれる霊的精神性があると言われ、ワシントンもリンカーンも市民宗教の信奉者でした。市民宗教とは、「ピューリタニズム・聖書的選民観・愛国的心情」が融合した見えざる国教とも言うべきアメリカの霊性であります。
ここで霊性(Spirituality)とは、霊(Spirit)よりも広い概念で、神に従って生きようとするキリスト者の歩みの総体、ないしは宗教的精神性を「霊性」と呼ぶことにいたします。
そして日本にもこれと対比される精神性、即ち「日本的霊性」があり、 鈴木大拙が『日本的霊性』という本を著し、初めてこの言葉を使いました。
日本的霊性とは、即ち、「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む」というもので、古神道的な精神性が日本精神の核をなし、仏教の無常観や儒教的な忠孝の規範性が加味され、日本的霊性を形成しているというのです。
それと同じように、聖書には一貫して流れる霊性・思想性・伝統があり、筆者はこれを「聖書的霊性」と呼ぶことにいたします。
【聖書的霊性とは何か】
では筆者が理解する「聖書的霊性」、言い換えれば「聖書の霊的伝統」とは具体的に何でしょうか。筆者は、聖書的霊性の源泉を、第一に歴史を摂理してきた「神の啓示・神の霊の働きの伝統」、第二にメシア思想を中心とした「一貫した思想性の伝統」(聖書の三大思想)、第三に「敬虔な信仰と回心の伝統」と考えており、聖書的霊性とは、これら3つを源泉とした霊的精神性の総体と言えるでしょう。
なお、これら3つの源泉の他に、「祈り・礼拝・典礼・奉仕・教会・修道院制度」などの「良き教会的伝統」も聖書的霊性を形成する要素と言えるでしょう。
言い換えればメシアに行き着く霊的生命の流れです。アブラハムより始まり、モーセを経由したユダヤ教はイエス・キリストを生み出し、イエスに端を発したキリスト教は再臨を生み出すというのです。即ちユダヤ教は初臨の母体となり、キリスト教は再臨の母体となるというのです。これが「聖書的霊性の核心」であります。
さて悲しいかなユダヤ教という生命の母胎は、初臨を産んだあと産後の肥立ちが悪くして病魔に倒れ、生み出された生命だけがキリスト教として大きく羽ばたくことになりました。同様にキリスト教という再臨の母体は自らが生みだした再臨をよりよく育てることができるのでしょうか。
しかしいずれにせよ、その生命の母胎であり養分となった旧約と新約の伝統を、決して蔑ろには出来ません。この聖書的な霊的伝統を正しく引き継ぐ時、完成期的な再臨摂理の深い理解が生まれて来ると信じます。以下、この聖書的霊性「3つの源泉」について考えていきます。
【神の啓示・神の霊の働きの系譜】
先ず第一に、聖書は神の言葉であり、「神の啓示」「神の霊の働き」とそのしるしに満ちています。
即ち、聖書には摂理を司ってこられた「神の呼びかけ」と「神の霊(聖霊)が働いてきた歴史」が綴られています。当にキリスト教は神からの宗教、神の啓示の宗教であり、以下、これらをその聖句に沿って見ていきたいと思います。
<神からの呼びかけ>
聖書は先ず唯一・創造の神が、人間(摂理的人物)に対して呼びかるところから始まります。

「神は『光あれ』と言われた」(創世記1.3)
「主はノアに言われた」(創世記7.1)
「主の言葉が幻のうちにアブラハムに臨んだ」(創世記15.1)
「その夜、主は彼に(イサクに)現れて言われた。(創世記26.24)
「そして主は彼のそばに立って言われた(ヤコブに)言われた」(創世記28.13)
「神はしばの中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた」(出エジプト3.4)
「主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた」(ヨシュア1.1)
「主はまた三度目にサムエルを呼ばれた」(1サムエル記3.8)
「主の言葉が私(エレミヤ)に臨んだ」(エレミヤ1.4)
<旧約聖書における神の霊の働き>
そして旧約聖書全編に渡って、「神の霊」
が働かれた、あるいは注がれた記録に満ちています。
「神の霊が水の表を動いていた」(創世記1.2)
「ヨシュアは知恵の霊に満ちていた」(申命記34.9)
「そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った」(士師記14.19)
「主の霊があなた(サムエル)の上に激しく下り」(1サムエル10.6)
「神の霊がサウルに激しく降った」(1サムエル11.6)
「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」(1サムエル16.131)
「その上に主の霊がとどまる。主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11.2)
「その後わたしはわが霊をすべての肉なるものに注ぐ」(ヨエル書2.28)
<新約聖書における聖霊の働き>
新約聖書では、「神の霊」という表現がなくなり、「聖霊」の働きや注ぎに変わっています。
「マリアは聖霊によって身重になった」(1.18)
「天が開け、聖霊が鳩のように降って来た」(ルカ3.22)
「聖霊が鳩のように降って来た」(ルカ3.22)
「一同は聖霊に満たされ、色々の他国の言葉で語り出した(使徒2.4)
「イエスは約束された聖霊を神から受けて注いで下さった」(使徒2.33)
【神の霊(聖霊)とは何か】
では、神の霊とは何でしょうか。
旧約聖書では「聖霊」(Holy Spirit)という言葉は使われていませんが、創世記冒頭には既に「霊」(Spirit)という言葉があります。(創世記1.2)
生命を創造する力は、「神の霊」もしくは「神の息」(創世記2.7)と言われています。神の霊は実在する霊の働きであり、現に我々自身がある種の「霊の注ぎ」を感じています。
またヨハネ4章24節には「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」とあり、神を「霊」であると表現しています。
端的に言えば、神の霊とは「神の愛の活動する力又は働き」と言えるでしょう。聖書に出てくる「霊」( Spirit)とという語は,ヘブライ語のルーアハ、ギリシャ語のプネウマを翻訳したもので、ほとんどの場合,これらの語は「神の活動する力」を指して用いられています。
また,聖書は神の霊のことを神の「手」(申命記2 .15)や「指」(ルカ 11・.20、申命記2 .15)と表現しています。人間が手と指を使って仕事をするように、神もご自分の霊を用いて色々な業を行なってこられました。
【神の霊と聖霊の区別】
ここで神の霊と聖霊の区別が問題になります。
キリスト教における聖霊は神学的には三位一体(父・子・聖霊)の神の第三位格、「聖霊なる神」ということになりますが、原理的に言えば、イエスは神の男性性相が実体化した方、聖霊は神の女性性相の働きと考えられます。
聖霊について原理講論には、「聖霊とは真の母として来られた方で、霊的イエスの霊的相対(新婦)となる霊であり、霊的真の母としての女性神である。霊的真の父母としてのイエスと聖霊によって、霊的重生されるのがクリスチャンである」(P265~266)という記述があり、聖霊とはイエスが(霊的に)復活されて以後、霊的相対(妻) として復帰された霊だと読むことが出来ます。
従ってキリスト教でいう「第三位格としての聖霊」はイエス様の相対者になるはずだった人の霊を意味していません。ただ、実際は神の女性性相の働き、あるいはそれに促されて天使や善霊たちがキリスト者に働く作用がキリスト教での聖霊の働きとなると思われます。したがって聖霊による癒しなどの奇蹟は実際あるということです。
原理創始者は、「聖霊は、サライ・リベカ・ラケルの総合霊、それにマリアの霊が加わったもの」という表現をされています。
一方、神の霊はイエスが誕生する前から存在しているので、イエスの相対者という限定された存在ではなく、それは被造物に働きかけてそれを形成し生命を与える力(創2.7、詩104.29~30)であり、全ての力の根本にある力(万有原力、講論P50)と言ってもいいと思います。
以上を要約すると、神の霊は 第一に世界と人間に創造的、生命付与的に働きかける「神の力」を意味し、第二に人間を人格的に鼓舞し目覚めさせて、歴史形成に資することを目的とする「神の働き」を意味しています。即ち、神の人格的、非人格的な全ての根本にある神の力の作用」あるいは「神の意を受けた天使や善霊を通しての働き」、つまり「聖なる神の霊」であるということになります。
従って、神の霊が上位概念としてあり、聖霊はその中に含まれると言えるでしょう。新約においては、神の霊がより具体的、個性的な聖霊として働かれるということです。そして神の霊も聖霊も基本的には神の愛の働きであり、私たちは、その霊の注ぎ、霊の恩寵を感じたいと思います。
以上、今回は「神の霊」について学びました。この神の霊の働きは、当に「聖書的霊性」の一つであります。次回から、もう一つの聖書的霊性である「一貫した思想性」、特に「メシア思想」、「唯一神思想」、「贖罪思想」の三大思想について順次考察していくことにいたします。(了)
上記絵画*「光あれ」(ギュスターヴ・ドレ版画)