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西方キリスト教と東方キリスト教の葛藤と一致① 横浜ハリストス正教会 (生神女庇護聖堂) の奉神礼(主日礼拝)に参加して

◯つれづれ日誌(令和4年5月4日)-西方キリスト教と東方キリスト教の葛藤と一致①-横浜ハリストス正教会 (生神女庇護聖堂) の奉神礼(主日礼拝)に参加して


主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え(日本正教会イイススの祈り)


【横浜ハリストス正教会の奉神礼に参加して】


筆者は、この5月1日、横浜ハリストス正教会 (生神女庇護聖堂) の奉神礼(主日礼拝)に参加いたしました。実は、もともとお茶の水にある日本正教会の本山である「東京復活大聖堂」(ニコライ堂)に行こうと思っていたのですが、あいにくコロナ対策のため人数制限があり、近くの横浜正教会に変更した次第でした。


もちろん正教会の礼拝は、生まれて初めてのことですが、今回のウクライナ戦争について、神が「ギリシャ正教(ロシア正教)に注目しなさい」と言っておられるような気がしていたからであります。


更に筆者は、今回のウクライナ戦争の本質は、単にプーチン・ロシアの大義なき侵略という政治的、軍事的な大事件というだけでなく、実はその根本に、ロシア正教が関与し、更に「西方キリスト教と東方キリスト教の葛藤」があるのでないかと感じていたからであります。


<奉神礼見聞記>

市営地下鉄ブルーラインの横浜駅隣の三ツ沢下町を下車し、7分くらい歩いた高台に横浜正教会がありました。以下、ざっと見聞きしたこと、そして感じたことを書き留めたいと思います。


横浜正教会は、丸い玉ねぎの形をした塔を持つ、そう大きくはない白い建物でしたが、その尖塔には、「八端十字架」と呼ばれる、三本の横木がある形の十字架が天に向かって聳えていました。何故、西方教会のように、すっきりと縦横二本の十字になっていないのでしょうか。


筆者を案内して下さった役員の方の話しによると、一番上の横木は、イイスス・ハリストス(=イエス・キリスト)の罪状「ユダヤの王ナザレ人イエス」が書かれ、一番下の横木は足台であり、足台の横木の一方が下に傾いているのは、地獄に行った左の強盗を象徴しているということでした。



奉神礼は10時から始まり、参加者は10人くらいでした。いわゆる祈祷文の朗読とその応答、歌の朗詠が40分ほど続き、これで終了となりました。今回は司祭が留守だったため簡略式になり、本来なら司祭のスピーチと聖体礼式(聖餐式)も行われますので、約90分位になるということでした。もちろんずっと立ったまま礼拝に臨みます。


先ず筆者が一番関心があったのは、正面祭壇に何が飾られているか、つまり、礼拝の対象のことであります。カトリックなら正面にイエスの磔刑の十字架、プロテスタントならシンプルな十字架、イスラムのモスクなら何もない、ということですが、横浜正教会は、イイスス・ハリストスと聖母子と聖人の「イコン」(聖像)でした。もちろん左脇には十字架が安置されていました。


ちなみにイコンとは、イイスス・ハリストス、生神女、聖母子、聖人、天使、聖書における重要出来事やたとえ話、教会史上の出来事を画いた聖画であり、正教会では、イコンが大きな比重を占めています。


イコンは、ギリシャ語で「似姿・印象・イメージ」という意味があり、思いや考えをイメージとしてイコンに託しました。正教では、イコンには歴史があり、文字の読めなかった民衆が、キリスト教を理解するのに有益であり、イコンを通して、神学や信仰を伝えました。いわば聖書の代わりと言ってもよく、一冊の本よりも力を発揮したのです。


また正教会においてイコンは、単なる聖堂の装飾や奉神礼の道具ではなく、正教徒が祈り、口付けする、聖なるものの象徴であります。但し信仰の対象となるのはイコンそのものではなく、イコンに画かれた「原像」であり、このことについて、正教会では「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」を例に、「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」といった喩えで説明されることがあります。


すなわち正教会において、崇拝・礼拝は神にのみ捧げるものであり、イコンは信仰や崇拝の対象ではありませんが、「信仰の媒介」として尊ばれています。従って、イコンは偶像ではないとされ、イコン画家は自分の栄誉のためにではなく、神の栄光のために渾身の魂を込めて描きます。何だか仏像を彫る仏師と気脈が通じています。


<一問一答>

以下は、案内の役員の方との一問一答です。


Q1.聖母子のイコンが正面祭壇に飾られていますが、マリアは正教ではどのように位置付けられていますか。


A.マリアは神を生みし女、「神の母」であり、「生神女」(しょうしんじょ)、または「童貞女」と呼ばれ、マリアは限りなくキリストに近い神格を持った聖人とされ、聖母子イコンは強い信仰の対象です。(カトリック以上のマリア信仰があります)


Q2.正教には、十字架における贖罪思想はありますか。


A.十字架で罪を引き受けて下さったという思想はあります。正教には、十字架で罪を身代わりになられたキリストを信じています。但し、正教は十字架より復活を極めて重視します。(正教の原罪観は後述)


Q3.日本のロシア正教会の現状についてお聞かせ下さい。


A.神奈川県には横浜と小田原に二ヶ所の教会があり、横浜は約300人位で、全国では約1万人から2万人位の信者がいます。(ギリシャ正教全体で約2億人~2億5000万人、その内、ロシア正教が9000千万人。ギリシャ正教は西側キリスト教全体の10分の1)


以上の他に、筆者が質問したのは、奉神礼では、何故椅子に座らないで立ったまま行うのか、聖職者は何故長い髭を伸ばしているのか、聖体礼式は毎回行われているのか、などといった内容でした。これに対して、聖体礼式は毎回行われること、髭は威厳、その他は今までの慣習だということでした。


筆者の調べたところ、髭はサムソンに見られるように力の象徴であり、立ったまま礼拝を行うのは復活の力と関係があるということでした。


正教会の礼拝は、徹頭徹尾、神・キリスト・聖神(聖霊)の三位神を崇め賛美し、生神女マリア、諸聖人を尊び、神の恩寵をもって「主あわれめよ」(イエススの祈り)と請い願うことと見受けました。そして驚いいたことは、祈祷文に「わが国の天皇及び国を司る者の為に主に祈らん」という一文があることでした。


【復活大祭と日テレの深層ニュースの衝撃】


さてこの4月24日、ロシア正教最大の祝祭である「復活大祭」 がモスクワにある「救世主ハリストス大聖堂」で、キリル総主教が主礼となり、プーチンも参加して行われました。


ギリシャ正教では、十字架よりも復活を重視し、正教会における復活大祭は、「祭の祭、祝の祝」と呼ばれ、イイスス・ハリストス(=イエス・キリスト)の死への勝利、それによって人に及んだ救いの記憶であり、かつまたイイスス・ハリストスの再臨の象徴でもあります。


また復活祭は単に「復活」という一つの出来事を記憶するにとどまらず、死から生命への「門」であり「過ぎ越し」であります。復活を祝うとは、罪から赦しへ、死から生命への移り行きが、ハリストスによって与えられていることを祝い、また己がそのような移り行きを日々想起し、信仰へと己を鼓舞することでもあると言われています。


この復活期間の40日は、「ハリストス、復活」の呼び掛けに「実に、復活」と挨拶するのが慣習になっています。


<日テレの深層ニュースの証言>

先般、日テレの深層ニュースで、上記「復活大祭」 の様子が放映され、プーチン・ロシアのウクライナ進攻にロシア正教が色濃く関与していることが、専門家の解説を含め、詳しく報じられました。


先ず衝撃だったのは、キリル総主教(75才)が25才の時からKGBの工作員として働き、その後もジュネーブに本部がある超教派の世界教会協議会に出入りし、反カトリックの工作を行っていたことが証言されました。(日本大学教授松本佐保氏の証言)


また、松本氏は、キリルが3万ドルもする高級腕時計を着けていたことに関連して、2007年から、それまで共産政権によって没収されていた教会の財産(土地)が、教会に返還されることになり、その過程で、地位を利用して金銭を私物化したと指摘しました。その上、タバコ輸入関税を取り仕切り、年間150万ドルもの収入を得ていたことを暴露しました。


そのキリルはスピーチで、ウクライナ問題について、「ロシアをあからさまに敵視する勢力がロシア国境に迫っている。NATOは年々軍事力を強化している。私たちは強くあり、軍隊、国民全体が結束しなければならない」などと語り、宗教的に士気を高め、まるで軍の兵士に訓示しているかのようです。


また4月23日には、「早く内戦が終わり、平和がくるように」と語りました。キリルがあえて「内戦」と表現したのは、ルースキーミール(ロシアの世界)の概念のもとに、ウクライナはロシアの一部と考えており、ウクライナをロシアの世界に引き戻す意図があるからだというのです。こうしてキリルは、プーチンのウクライナ侵略に、宗教レベルからお墨付きを与えました。


<キリルとプーチンの共通目的>

慶応大学教授の廣瀬陽子氏は、プーチンとキリルは同じサンクトペテルブルク出身であり、「同郷」、「ロシア正教」、「ルースキーミール」という共通項があり、ウクライナを取り戻すという両者の政治的野心と宗教的欲求が合致し、正に一蓮托生となって侵略を正当化していると指摘しました。


前の回でも述べましたが、プーチンとキリルには、「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)という共通の夢(妄想)があります。ロシア正教会にとって、ルースキー・ミールは、988年にウラジミル大公が正教会の洗礼を受けた「ルーシの洗礼」を通して、神が聖なるルーシ(ロシア)を築く目的のために、ルーシ人を捧げたことを思い出させる、「霊的な概念」でもあると言われています。


プーチンの母は、密かにプーチンに幼児洗礼を受けさせたと言われ、またプーチン自身も24日の復活大祭で聖母子イコンに口づけするなど、熱心な正教の信者であります。日テレ政治部官邸キャップの飯塚恵子氏は、プーチンのロシア正教への傾倒は半端でないと述べています。そしてキリルも、2012年のプーチンの大統領就任を「神の奇跡」だと語りました。


またプーチンは、2019年7月に「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文を書き、繰り返しロシア、ウクライナ、ベラルーシは一体であるとの認識を示して、ウクライナに対する執着を強調しました。


<宗教・政治・軍の三位一体>

更に2020年、プーチン・ロシアは、ナチス戦勝75年記念として、巨大な「ロシア軍大聖堂」を建立しました。この聖堂は、正に宗教、政治、軍の三位一体を象徴する建築物であります。


この聖堂には、なんと大虐殺を行ったスターリンのモザイク絵画が飾られていると言われ、プーチンとショイグ国防相のモザイク画像もあるそうで、今は非公開になっていますが、戦争に勝利すれば公開され偉人に列せられる可能性があります。


そもそも西のキリスト教が聖と俗を区別し、政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は聖俗一致、政教一致の傾向があり、ロシアの皇帝ツアーリ には神の代理人という権威があります。正にプーチンは、現代ロシアのツアーリ のような立場に立っていると言えるでしょう。


本来ロシアのものであるウクライナを、西欧は反ロシアに駆り立てて、その精神的一体性を壊したとプーチンは主張しました。正にウクライナ侵略には、政治的動機と共に、理屈を越えた宗教的、信仰的動機があり、宗教と政治と軍が三位一体となった確信的な軍事行動と言えるでしょう。 それに加え、もしキリルとプーチンに「聖戦」という契機があるとすれば、文字通り十字軍であり、このように考えると、何故プーチンが、世界を敵に回しても、この大義なき無謀な侵略に踏み切ったのかという理由が分かるというものです。


そしてその背景には、西側キリス教文化とギリシャ正教文化の相克が見え隠れし、両者相互の和解には、むしろイスラム文化のトルコやユダヤ文化のイスラエルなどが仲介することが望ましいといった見解がニュースキャスターの口から述べられました。


上記日テレの報道は、筆者がウクライナ問題の根本には、ロシア正教の問題があり、また「西方キリスト教(カトリック+プロテスタント)と東方正教の葛藤がある」と考えていた問題意識と符合し、またこれを裏付けるものであり、目から鱗でした。


【ギリシャ正教の教理】


では、キリルやプーチンが帰依するロシア正教(ギリシャ正教)とは、如何なる教義を持ち、カトリックとどこが違い、これらは、西側キリスト教に対して、いわゆる「カイン型キリスト教」なのでしょうか。

ギリシャ正教は、1054年、カトリックとギリシャ正教の東西教会の分裂、即ち「相互破門」から始まりました。ギリシャ正教は、古代使徒以来の伝統を受け継ぐ宗教と規定し、古い伝統と儀式を守ってきたキリスト教ですが、旧態依然の殻を破れず時代遅れの宗教に滞まっているという印象は否めません。


何故なら、カトリックは、16世紀に宗教改革を経験し、自己の内からプロテスタントという批判的教派を生むことによって、これを反面教師にして自己改革を成し遂げました。しかし、ギリシャ正教には、そういった批判的教派が生まれることなく、自らを自己改革出来ず、その意味で進歩がなかったと言えなくもないからであります。


以下、今回は特に両宗教の「原罪観」の違いに焦点を当てて考察することにいたします。


<ギリシャ正教の原罪観と救いの教理>

宗教学者の田口貞夫氏は、東西教会の大きな違いについて、「東方正教は西のキリスト教に比べて、罪よりも救い、十字架よりも復活を重視する」と指摘しました。


そこで以下、正教の罪観、原罪観について考えていきたいと思います。


正教では、罪とは神の意思に背く不従順の道を自由意思によって選択して、あるべき姿を失ったことであり、西方キリスト教の「アダム以来、人の性質に本来ある罪」という原罪の観念を否定しています。つまり、アダムは堕落に依って神に似る性質を自ら棄てたが、神の像である事実は不変であるというのです。


原罪について、日本ハリスト正教会の高橋保行司祭は、「ギリシャ正教の思想では、人が自分の意思で神の似姿を脱いでしまうことを堕落といい、堕落の罪は人の行為により生じる」と言っています。従って、「アダム以来、人の性質に本来あるという西の原罪の考え方はギリシャ正教の思想にはない」と述べました。(『ギリシャ正教』講談社学術文庫P260)


正教では、本来神は、言葉を以て 、神の「像」と「肖」に従って人を造ったとします。(創世記1.26~27)  神の「像」とは人間の創られた「本然のかたち」を指し、「肖」とは、創られた人間が神の力と働きにあずかり、「神との交わりの中に生きる過程」を言うと説明されています。


神の像は堕罪によって破損し、神の肖は堕罪によって失われましたが、神の像は破損しつつも消滅せずに残っているとされ、そのため、どんな人間でも神の像(イコン)であり続けるというのです。


また正教会では、原罪についての理解が西方教会とは異なるのに止まらず、そもそも原罪という言葉自体が避けられる傾向があり、正教会では原罪につき厳密な定義をためらい、定理(教義化)とすることを避けて今日に至っています。


正教会は、堕罪によって人間からは自由意思が失われているとするアウグスティヌスによる理解や、ルターおよびカルバンらが主張したような全的堕落といった理解を採らず、西方教会が贖罪を強調する事は悲観主義だと断じています。


つまり、カルバンらが主張する「全的堕落説」によれば、人間の本性は根本から堕落して全面的な腐敗を被っているとされますが、正教会では「神の像は昏昧(こんまい)したのであって絶滅したのではない」「肖は失われたが像は失われていない」と主張します。


高橋保行司祭は、西方教会の人間観を指して「西の原罪説」、正教会の人間観を指して「東の性善説」として対比して言及しています。


従って、救いとはキリスト信仰に依って、キリストの「写し」になって神の類似の性質に成ること、即ち「神成」していくことであります。


正教には「神成」(テオーシス)という概念があり、これは、クリスチャンが徐々に神に似ていき、「神の性(神の本性)に与る事」を言い、「神の性質にあずかる者となる」(2ペテロ1:4) という聖句が、聖書的根拠とされています。即ち、人間は神の像として、終わりなく成長し発展し、限りなく神に似ていくというのです。


即ち、正教会においては、「罪」は神との分離、神の像の破損であると捉えられ、「救い」は神との一致、神の像の回復であるとされ、イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)による「十字架と復活」によって救いが成し遂げられたと理解されています。


西方教会では人間全てが完全に堕落し、十字架にかけられ罰を受けるべきだったがキリストが代わりに十字架にかかったと強調し、東方教会では人間は完全に堕落したわけではないが、アダムが罪を犯して神の像が破損したため、完全な神の像であるハリストス(キリスト)が十字架にかかり罪を贖い、復活によって罪、悪、死から解放され、救いが成就したとしました。


このように、正教では罪よりも救い、十字架よりも復活を重視しますので、祭りでは西側のキリスト教のように降誕祭(クリスマス)ではなく、復活祭(イースター)がもっとも重要とされています。信徒はこの復活祭に参加することで、この世の終わりから来世の命へと「過ぎ越してゆく」人間の過程が、キリストの復活によって可能となったことを記憶します。


<西方キリスト教の原罪観と救いの教理>

では西方キリスト教(カトリック+プロテスタント)の原罪観、及び救済観とは何でしょうか。以下、簡潔に述べておきたいと思います。


2世紀の教父であり、『異端反駁』を著した「.エイレナイオス」 は、人類始祖であるアダムにおいてすべての人類が文字通り罪を犯したとしたとし、同じく2世紀のラテン教父の「テルトゥリアヌス」は、アダムとエバから人類全てが受け継ぐものとして原罪を理解しました。


即ち、原罪は、西方教会において最も一般的な理解では、「アダムとイヴから受け継がれた罪」のことであります。 そしてアウグスティヌスは、受け継がれるものとしての原罪について、「アダムから遺伝された罪」とし、両親の「性交を遺伝の機会」と解釈しました。カトリック教会(西方教会)は、529年のいわゆる「オランジュ公会議」で、このアウグスティヌスの教えを承認しました。 アウグスティヌスはアダムとエバが恥ずかしく思って陰部を隠したのは、「性行為」を行ったからであると解釈し、それを原罪としました。


カトリック教会において原罪とは、人類始祖アダムの罪であり、それが代々受け継がれたとし、 その罪とは神に対する不従順(傲慢)であるとしています。しかし他方、人祖の罪が具体的に何であるかは不明であり、「原罪は神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない」(カトリック教会カテキズム)と告白し、原罪は完全に「理解され得ない神秘」であるとしました。


また原罪の教理は、「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」(ロマ書5.12)とある通りでありますが、「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである」(5.19) とある通り、イエス・キリストによる救いと切り離して理解することは出来ないとされ、キリストによる贖罪の恵みが重要であることが強調されました。


救い主キリストを信じ、悔い改めの洗礼によって、原罪も含めた凡ての罪が赦されるとされますが、原罪の影響はなお人間の内に存在するため、人は霊的な戦いをし、その影響に勝つことが求められるとされています。


一方、プロテスタントにおいては、概ね、アウグスティヌスの説を受け入れ、ルターは原罪を、行為ではなく性質・状況・生来の状態と捉え、洗礼と聖霊による新生により、原罪から逃れることが出来るとしました。 即ち、宗教改革以降、アウグスティヌスの教え、およびオランジュ公会議の影響を受け、改革派教会は原罪にかかる教理として、救いに必要な意思能力を一切失ったとする「全的堕落説」を展開しました。


<正教はカイン型キリスト教か>

以上の通り、ギリシャ正教と西方キリスト教の原罪観と救済観を見てきました。かって文鮮明先生は、アメリカ南北米摂理に関連して、南米のカトリックは、北米のプロテスタントに比してカイン型キリスト教であると語られましたが、正教の教理は西方キリスト教に対して、いわゆるカイン型キリスト教なのでしょうか。


ある正教に詳しい信徒は、東方正教会はカトリック教会に対し激しい嫉妬心を持ち、些細な違いの優越点にこだわって共通項を求めず、カトリックを悪し様に貶しめるとした上、 ロシア正教はそれにプラスして、軍事力行使を正当化して教勢を拡張する典型的なカイン型宗教であると断じました。


この信徒の評価が妥当なものであるか否かは別として、少なくとも、正教の罪観、即ち原罪に関する認識は、西方キリスト教の原罪観を否定し、原罪の厳密な定義付け自体をためらっており、極めて曖昧であると言わざるを得ません。罪に対する明確な理解なくして、また罪に対する根本的な認識なくして、深く罪を悔い改めることは出来ないからです。正教の中途半端な罪認識では、真の悔い改めに至らず、傲慢の霊の温床になりかねません。


ただ西方キリスト教も、アダムの罪が具体的に何であるかは不明であり、「原罪は神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない」としていますので、この点は正教と同様であります。


こうして、正教もカトリックも、原罪の真相について明確な認識がなく、問題を棚上げにしてきたというのです。


ただ一人、アウグスティヌスが、原罪を「アダムから遺伝された罪」とし、両親の性交を遺伝の機会として認識して、アダムとエバが陰部を隠したのは「性行為を行ったからである」と解釈したのは、UCの原罪観とかなり近いものがあります。このアウグスティヌスの原罪観は、情欲を制することが出来なかった自らの実体験から出てきたものと言えるでしょう。


こうしてギリシャ正教はそもそも原罪観念を認めず、また西方キリストも原罪を認めるものの、その実相については不明であり、いずれにせよ、両キリスト教は、大きな教義上の課題を残しました。


この原罪の真相、即ち、創世記3章の失楽園の解釈こそ、聖書における最大の奥義であり、この奥義を明確に解いているのは、筆者の知る限り、原理以外に見当たりません。この原理は、ギリシャ正教とカトリックを和解と一致に導けるかけがえのない真理であると思料いたします。


次回は、引き続きギリシャ正教とは何か、西方キリスト教との一致は可能か、について考察いたします。(了)