◯つれづれ日誌(令和5年10月4日) 解散請求は最悪の反キリスト政策 起死回生の法廷外闘争を!
今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る(1ヨハネの手紙2.18)
「反キリスト」とは何でしょうか。聖書には、反キリストとは「イエスのキリストであることを否定する者」(1ヨハネの手紙2.22)と書かれていますが、現代の政治で言えば、反宗教的政策を遂行する者、つまり、反キリストとは「現岸田政権」を指すと言っても過言ではありません。そしてこの風潮は終わりの日、即ち終末時代(再臨時代)に現れる顕著な特徴であります。
【岸田政権の反キリスト政策】
岸田首相の長男・翔太郎氏の首相秘書官更迭を皮切りに、 河野太郎デジタル大臣のスタンドプレーによるマイナンバーカードをめぐるトラブルや河野氏の最側近である秋本真利氏議員が、洋上風力発電を巡る汚職事件で逮捕されるなど由々しき事態が重なりました。
<LGBT法は稀代の悪法>
そして6月16日に強硬可決されたLGBT法は、正に反宗教的政策の象徴であり、岩盤保守層が政府と自民党から離れる決定的な政策となりました。この法律が理解増進を建前に、「LGB」、即ち同性愛にお墨付きを与え、国民道徳の根幹を破壊する法律になることが強く懸念されています。聖書は同性愛を罪であると明記し(レビ18.22)、かの旧約聖書で有名なソドム・ゴモラの滅亡は(創世記19.25)、同性愛の罪であったことが確認されています。
そうして作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香氏が「日本保守党」を設立したのは、まさにLGBT法の成立が引き金になりました。百田氏は、自民党は完全にリベラル化し、もはや内部からの自力改革は不可能と判断し見切り発車したという訳です。即ち、自民党は岩盤保守の百田氏から手痛い「ノー」を突き付けられ、百田氏は、このようなリベラル化した自民党を「絶対に許さない」と明言しました。
<最悪の反キリスト政策>
そして反キリスト政策の最たるものが、昨年から続くUCに対する一連の仕打ちです。「旧統一教会と断絶する」という岸田首相の断絶発言から始まり、その意を受けて河野太郎氏が、こともあろうに昵懇(じっこん)の左翼弁護士紀藤正樹氏(全国弁連)を、消費者庁の旧統一教会問題をめぐる「有識者検討会」のメンバーに引き入れました。更には違法な質問権行使に踏み切り、その際岸田首相は、「民法の不法行為も解散請求の要件に入る」との前代未聞の解釈の変更を一夜にして行いました。
そして9月7日、文科省は質問に十分答えていないとの屁理屈で「過料の申立」を行い(実際は段ボール何十箱分も回答している)、いよいよ本丸の「解散請求の実行」に突き進んでいます。つまり、政府は宗教法人法に基づき、旧統一教会の解散命令を裁判所に請求する方針を固め、従って、10月12日の形だけの「宗教審議会」でお墨付きをもらい、直ちに解散請求を裁判所に出すことでしょう。(実際、令和5年10月13日、文科省は東京地裁に解散命令請求を行った)
筆者は、この岸田首相の判断は一人UCだけでなく、日本にとっても、岸田首相自身にとっても取り返しのつかない由々しき結果をもたらすことになることを警告してきました。即ち、「つれづれ日誌(令和5年9月20日)-反ユダヤ思想とUCバッシング」において、岸田首相はキリスト殺しの汚名を刻印された「現代のピラト」になりかねないこと(マタイ27.26) 、まかり間違えば「神を敵にまわすことになる」(使徒行伝5.39) ことを警告いたしました。
<島田裕己発言の問題と法廷闘争>
さてこの10月1日、UCの現役2世信者らでつくる「信者の人権を守る二世の会」が、東京都内でシンポジウムを開き、筆者も視聴したところ、パネリストの宗教学者島田裕巳氏の発言を聞いて唖然といたしました。彼は「国は威信をかけて、長い時間をかけて膨大な資料を集めてきた」と述べ、裁判は厳しいものとなるので、むしろ「自主解散」して解体的に出直すしか道はないと明言しました。この島田氏の発言の意図は定かではありませんが、筆者には、まるで白旗と赤旗を掲げて自らの非を認めて敵に降伏すべしという「降伏勧告」のようにしか思えず、時と所をわきまえない余計なお世話とはこの事です。それでは島田氏に答えましょう、「百歩譲って自主解散するなら、先ず裁判に勝ってから考えることにいたしましょう」と!
しかも島田氏は、「オームでさえ破防法の適用に反対する論調があったのに、今回のUCの場合はそれさえなく、世間からの目は厳しい」とも述べ、まるでUCをオーム以下に扱うかのようです。それに宗教学者としての矜持である「信教の自由を守る」という視点からの発言もなく、おまけに、朝日新聞の記者から「島田さんを見直した」と誉められる始末です。
島田氏はかってオームを擁護したことで世論の袋叩きにあったトラウマがあり、岸田首相と同様、世論に忖度した大衆迎合的な人物に変質したのでしょうか。即ち、筆者の見るところ、知識はあっても思想的な深みや、霊的な冴えがない、まさに信仰なき宗教学者でしかなく、これまで島田氏を宗教学者として評価していただけに残念です。はたまたこれが島田氏一流の深謀遠慮なのか、いまだに島田氏の発言の真意を図りかねています。現役二世の懸命な気持ちはよく分かり、応援することにやぶさかではありせんが、何故、こうしたことを発言する学者を選択したのか、という疑問は残ります。異論も自由に述べてもらうという趣旨かも知れませんが、よくよく吟味し、しっかり反論の言葉を準備して事に当たることが肝要であると老婆心ながら助言いたします。
ともあれ、岸田政権の反キリスト政策はここにきて頂点を迎えました。そしてこの岸田首相に対する答えはただ一つ、「徹底抗戦」しかありません。文字通り「正義の聖戦」です。確かに島田氏が指摘されたように、解散請求は、UCを社会的な非適格団体として国が公に認定したことになるので「重い」かも知れません。しかし前述してきたように、これは国というより岸田政権、即ち岸田文雄首相そのものとの戦いと言ってよく、ゆめゆめ愛する国家との戦いではありません。このことをはっきり認識し、国家と岸田政権を明確に峻別して位置付けたいと思います。
これから、法的、かつ広報的な長い戦い、即ち「聖戦」が始まりますが、よしんば全マスコミと世論を敵に回したとしても、「千万人といえども吾往かん」(孟子)の精神を発揮し、うみ疲れずに戦いたいものです。徳永信一弁護士も、「東京地裁、東京高裁から解散命令が発出されることは100%ない」(月間Hanada11月号P94)と明言されており、筆者も法律家のはしくれとして、そのように確信しています。
<日本保守党誕生と木原事件の霊的意味>
それにしても、無理筋の解散請求を体を張って阻止する政治家が一人もいないとは淋しい限りです。自民党は岸田首相の断絶発言を受けて、茂木幹事長も絶縁宣言を出しましたが、しかし、「人道に悖る(もとる)」とはこのことで、世話になったUC信徒を手のひらを返すように裏切りました。蒋介石の「恨みに報いるに徳をもってす」とは真逆の、文字通り「恩に報いるに裏切りをもってす」とはこのことで、まさに人間の風上にも置けません。
奇しくも百田氏と有本氏は、自民党ないしは自民党支持者から激しい批判と罵詈雑言に晒されながら、自民党にキッパリ見切りをつけ「日本保守党」を立ち上げました。公式X(旧ツイッター)によると、登録者が自民党(25万1700)を抜いて30万人に迫り、党員数も2日間で3万6000人を越えたということです。まさにこの日本保守党の誕生は、反宗教的な岸田政権への明確な拒否であり、人道に悖る自民党への鉄槌というしかありません。
また木原誠二元官房副長官は、妻の前夫の不審死の再捜査に政治的な圧力をかけて潰したという疑いや、いわゆるデリヘル嬢(売春婦)を100回に渡って自宅マンションに呼び、違法風俗の性愛にふけっていたことなどのスキャンダルが明るみに出て、激しいバッシングを受けました。結局、木原氏は政権内に留まることがでできず追放されました。この木原氏は岸田首相の最側近で影の総理といわれ、岸田首相のほとんどの政策の立案者であり、前述してきたUCへの解散請求に至るまでの反キリスト政策は、この木原氏と前記河野太郎氏の手によるものであることは明らかです。
このように因果は巡るではありませんが、反キリスト政策に手を染めた岸田首相、自民党、木原氏、河野氏らは皆、それぞれ手痛い制裁を受けることになりました。これぞまさに神の鉄槌というしかなく、聖書に「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」(ロマ書12.19)とある通りです。
【断固たる法廷外闘争を!】
前述してきましたように、今後は、一方では「法廷闘争」(裁判闘争)、他方では広報宣伝活動などの「法廷外闘争」という両輪の車の如くの戦いが始まります。法廷闘争は主に代理人弁護士の仕事になりますが、幸い優れた弁護士を擁していますので、この弁護団を信頼し健闘を祈りたいと思います。そして同様に重要なのは、徹底した広報活動を通して、今回の解散請求の不当性、政治的恣意性、違憲性を広く訴える啓蒙活動であります。
<信教の自由を守る宗教者の会>
先日筆者は、知人と一緒にキリスト教保守派の牧師で、信教の自由を守る立場でUC擁護の論陣を張っている主の羊クリスチャン教会の中川晴久牧師と会って色々意見を交換しました。その際、UCへの解散請求は「信教の自由への挑戦」であり、宗教者全体が団結して戦うことの必要性を訴えると共に、「信教の自由を守る宗教者の会」(仮称)の設立を提案しました。また、ある旧知の信徒は、「解散請求阻止日本人信徒大会」を提案し、その趣意書案には解散請求の背後に左翼・マスコミ・全国弁連の存在とそれに忖度する岸田首相の醜態が指摘されていました。筆者は、解散請求は既定の路線なので、「解散請求の不当性を訴える(糾弾する)国民大会」(仮)の方がいいのではないかと助言いたしました。
こういった草の根的な啓蒙活動を通じて解散請求の危険性と不当性を知らしめ、信教の自由を守ることを周知させることが肝要であり、またその延長には左傾化した「岸田政権打倒」が旗印になるでしょう。いみじくも百田氏が新党立ち上げに際して、「LGBT法を強硬決議した自民党を絶対に許さない」とその心情を吐露されましたが、筆者もまた、「理不尽な解散請求を断行する岸田政権だけは絶対に許さない」と宣言しておきます。そして信教の自由の元祖たるアメリカを動かし、世界と連帯して、この自由の輪を広げることであります。
思えば文鮮明先生は、無実の罪でダンベリーに収監されましたが、その獄中から「ACLC」(米国聖職者指導者会議)の基盤を作られ、「ワシントンタイムズ」を創刊・拡充されました。いわば捕囚の民・収監の身とも言える私たちは、このどん底の中から、「新生UC」による復活の戦いをしていきたいと思います。正に「攻撃は最大の防御なり」です。
WCLC世界聖職者指導者会議 ワシントンタイムズ社
最近、令和ラインメンバーの信徒から、次のような示唆に富むメールを頂きました。日本の大本教系の終末予言『日月神示』(ひつきしんじ)の中で繰り返される次のようなフレーズが有ります。
「悪神が九分九厘支配したところで、グレンとひっくり返して弥勒の世といたすぞよ」
これは悪神が九分九厘支配して、もうダメだというところから神側のどんでん返しが始まる、と解釈されています。筆者は今月予定されている政府の家庭連合への解散請求こそ、この『悪神による九分九厘支配』に当たると考えています。
<エズラの改革に学ぶ>
「聖書の知識88-エズラ記注解 神殿の再建とエズラのリバイバル 」でも論評しましたが、バビロン捕囚の大艱難とエルサレムへの帰還の混乱の中で、律法の再構築を通してイスラエルのアイデンティティーを立て、ユダヤ教を確立した祭司エズラほど、イスラエルの歴史で特筆に値する人物はいません。
キリスト教徒が、旧約聖書に登場する偉人を挙げるとすれば、たいていアブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤといった名前が挙がるのですが、しかし、ユダヤ人が聖書の偉人と言う時、ほとんどの場合、「エズラ」の名前が真っ先に挙げられるといいます。ユダヤ人の歴史の中で、エズラ以上に重要な人物はダビデ王だけだと言われているほどです。このエズラの信仰と業績、即ち、「エズラ改革」は、今日のUCと信徒の在り方に大いに参考になる教訓であります。
さて、エズラ(エズラ記の著者)は、バビロン帰還後(前458年)、イスラエルの規範の乱れを、神のみ言(律法)の再構築によって糺し、民族的な悔い改めと再生に導きました。イスラエルの歴史には、神の働きの足跡が刻まれ、エズラ記(及びネヘミヤ記)は、み言の力、悔い改めの力、そしてリバイバル(霊的復興)を生き生きと語っています。エズラが読む律法を聞いたイスラエルの民は、それを理解し、悔い改めに導かれました。
「彼が書を開くと、すべての民は起立した。 エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、『アァメン、アァメン』と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した」(ネヘミヤ8.5~6)
このように6時間にわたってエズラはトーラーを声に出して読み、何千人もの人々がそれに聞き入りました。そしてその結果、民は変えられたのです。歴史を見ると、この瞬間こそ、ユダヤの民が個人として、また民族として悔い改めに導かれ回心した時と言えるでしょう。民はついに自分たちの神とそのみ言に、再び結び合わされました。 み言の再発見、ヤハウェとの再結合です。こうしてエズラは、ユダヤ人社会の宗教と法の掟を整理し、後にユダヤ民族の信仰や生活の基準となるユダヤ教の土台を築きました。エズラ記は霊的覚醒の書と言われ、正にエズラは、悔い改めとみ言の力による宗教改革者であり、リバイバリストでした。
【戦いと改革は車の両輪―新生UCへ】
かくして私たちの行く道は定まりました。つまり、「戦いながら改革し、改革しながら戦う」ということであります。先ず、裁判への万全の準備であり、更に前記したように、世に解散請求の不当性、不法性(違法性)、恣意性を断固明らかにし、啓蒙することであります。それは結局、岸田政権打倒に帰結いたします。
他方では、エズラが示したような徹底的な内外の「自己改革」です。個人においては悔い改めとみ言による復興、教団においては抜本的な組織改革です。それは世論に歩調を合わせるということでは決してなく、「世直し教団」にふさわしい自律性と自己完結性、そしてしっかりした規範性を身に付けた成熟した「新生日本UC」へと脱皮することに他なりません。この組織改革については、UC本部で改革推進の部署が設けられており、また筆者も今までそれらしきことを述べてきましたが、今後、信徒有識者懇談会(仮)をもうけて率直に議論するのもいいかも知れません。
さて、現代は宗教迫害と言っても、かってのユダヤ人やクリスチャンのように、あるいは長崎に代表される「潜伏キリシタン」のように、殺されたり、追い出されたりすることはありません。また、教団を潰すことはできても真理を奪うことはできません。聖書の奥義を完全に解明したUCと信徒が有する原理のみ言は、朽ちることなく永遠に不滅です。正に神のみ言は、唯一最大の財産であり、一体私たちは、この他に何を望むというのでしょうか。文字通り、「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」(論語/里仁)であります。 そうして心を込めて蒔く福音の種は、如何なる風雪の中にあっても、必ず芽を出し世に満ちることでしょう。もはや失うものなど何もない私たちに、恐れるものはありません。
先だって岸田自民党に愛想をつかして日本保守党を立ち上げた有本香氏が、「日本を取り戻すためなら捨て石になっても構わない」と覚悟のほどを吐露されました。しかしそれは悲壮感ではなく、高杉晋作の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」の楽天的精神でいくと述べられていました(月間Hanada11月号P29)。 筆者もこれにあやかって、最悪の岸田政権の宗教弾圧に際して、悲壮感ではなく、楽天的に遊び心を忘れずに戦いたいと思います。筆者には心なしか、時がきて、全国民が懺悔して慟哭する日が目に見えるような気がいたします。アーメン、アージュ!(了) 牧師・宣教師 吉田宏