◯つれづれ日誌(令和5年10月18日)-解散請求を受けて②ー岸田政権に鉄槌をー浦上四番崩れに思う
カルデヤびとは王を捕え、彼をバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。また侍衛の長と共にいたカルデヤびとのすべての軍勢はエルサレムの周囲の城壁を破壊した(2列王記25.6~10)
10月13日、遂に岸田首相は、盛山正仁文科大臣に命じてUCの解散命令請求の申し立てを東京地裁に起こしました。正に憲政史上最悪の汚点であり、政府が左翼に屈した日であります。岸田首相は親中派の河野太郎消費者庁大臣らに引きずられたとは言え、今回請求の最終決済者であり、その責任はひとえに岸田文雄氏その人にあると言っても過言ではありません。歴史は、信教の自由を犯し、宗教を弾圧した歴代最悪の首相として長く記憶することになるでしょう。奇しくも解散請求は13日の金曜日、即ちキリスト.イエスが十字架に架けられた日でした。
【理不尽な解散請求】
さて政府の解散請求を受けて、10月16日、UCは記者会見を開きました。論点は法務局長と顧問弁護士が説明しましたが、「解散請求は宗教を潰す悪しき前例になる」と指摘し、断固たる意思をもって理不尽な解散請求との戦いに入りました。そしてプロテスタントの牧師や保守系の論客も指摘しているように、この解散騒動の問題点は概ね次のようになるでしょう。
即ち、第一に、刑法違反が皆無の教団を、政府による法の恣意的解釈の変更(つまり、民法の不法行為も解散要件に入るとの解釈の変更)で、果たして解散できるかという問題、第二に、今回の解散請求は、れっきとした宗教団体に対する不当な政治目的による介入であるという問題(信教の自由・政教分離に違背)、第三に、岸田政権の無理筋の解散請求は、解散要件の著しい緩和(民法709条の不法行為、715条の使用者責任まで広げた)によるもので、公権力の宗教への介入を容易にし、信教の自由を損なうもので、宗教全般に対する挑戦であるという問題、第四に、テロ自体を問題視せず、UC悪しという日本特有の空気感にすり代わり、テロリスト山上被告の思う壺になって、テロ行為を容認・称賛する結果を招いた問題、第五に、他宗教と比して、UCへの非難が突出しているのは、UCが反共主義であるが故に、UCバッシングの専門集団たる左翼系全国弁連の存在があるからで、文科省は全国弁連からの情報に依存しているという問題、などを指摘できます。
麗澤大学特任教授の西岡力氏も「福音派キリスト教信者として、政府と国会が現在進めている旧統一教会への対応に恐怖を感じている。なぜなら、信教の自由という憲法で保障されている大原則によってこれまでできないとされてきたことが、次々とできることにされているからだ」と述べられています。
そもそもUCが問題にされている献金問題は、本来キリスト教に於ける10分の1献金に見るように、基本的な信仰行為であり、宗教団体によっては一夜で数十億、数日で数百億を集めることもあると言われています。また紙に書いた「戒名」に数十万円を支出しますが、それが洗脳(マインドコントロール)された故であり違法であると言うなら、すべての宗教団体は解散させられることになりかねません。
戦前の「大本教」は、時の政権の政策である「不敬罪」に触れたという政権の恣意に依って大弾圧を受けましたが、しかし、大本教の教えは、生長の家、世界救世教、世界真光文明教団等々によって受け継がれており、宗教や信仰は国家権力や法に依って根絶させられるものではないという証左であります。
実は筆者は、政府によるこの度の解散請求申し立てに際して、自らの信仰人生を全否定されたような気がして、後述する「浦上四番崩れ」や「バビロン捕囚」を想起すると共に、先ず筆者個人として、辿ってきた信仰人生を振り返り、襟を糺さざるを得ませんでした。即ち、自らが選択したこの「み旨の道」は正しかったのか否か、自分自身がその信仰人生を納得し、悔いはないのか否か、そして何よりも、一体自分は救われているのか否か、といった実に本質的、かつ実存的な問いを突き付けられました。そしてこの問いかけに対する筆者の答えは次の通りです。
先ず、UCの教義である原理は、聖書の奥義を完全に解明した、紛れもない究極的な宗教真理であり、この確信に揺るぎはないこと、従ってこの真理の上に立ったみ旨の道は真正であり、この度筆者は内心において、この事実を改めて再確認いたしました。
次に今年初め、筆者は拙著『異邦人の体験的神学思想』を出版しましたが、これを書き終わった時、信仰人生におけるある種の「納得感」を得ることができ、様々な課題はなお残るものの、いまわ(臨終)の時に「人生悔いなし」と言えるのではないかとの思いに至ることができました。これ実に「幸いなり」であります。
そして、「自分は救われているのか」という最後の問いですが、これは一方では「諒」(りょう)であり、他方では「否」というのが正直な答えでしょう。つまり筆者は、「もっと良い、天にあるふるさと、天が用意されている都を目指す『旅人であり寄留者』である」(ヘブル人11.13~16)ことは否めません。しかし、罪と自我からの解放、即ち魂の解放という、この完全な救いに与れるという確信は、信仰と希望と恵みにより、揺ぐことはありません。なお、「救いとは何か」についての救済論は、別途、聖書の知識で詳しく述べています。
こうして筆者は、政府の解散請求をもって突き付けられた問に、自分なりの回答を得た次第です。
【浦上四番崩れと私たち】
さてこの度の未曾有の大艱難に際して、筆者は明治政府が行ったあの「浦上四番崩れ」を想起いたしました。心なしかあの浦上の潜伏キリシタンの運命は、今の私たちの立場とだぶって見えるからに他なりません。
ところで日本のキリシタンの歴史をざっと振り返ると、1549年にザビエルが日本に来てから1614年の徳川幕府の禁教までを「伝道時代」、1614年から潜伏していた最後の神父が殉教した1643年までを「禁教と殉教の時代」、1643年からプチジャン神父による信徒発見の1865年までを「潜伏の時代」、1865年以降を「教会再建の時代」と、4つの時代に区分することができるでしょう(片岡弥吉著『浦上四番崩れ』ちくま文庫P42)。
そして浦上四番崩れとは、第4期の教会再建時代の初期に、長崎市の浦上地区で起きた大規模な潜伏キリシタン弾圧事件であります。
<潜伏キリシタンと浦上信徒>
もともと長崎はザビエル以来キリシタンが多く、特に浦上地域はキリシタン大名ゆかりの地であり、当時から浦上キリシタンの人口密度は日本で最も多い地域でした。日本初のキリシタン大名である大村純忠は長崎と茂木をイエズス会に寄進し、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上村を寄進しました。
1614年の江戸幕府の禁教令で、信徒たちは幕府の厳しい監視の中、潜伏キリシタンとしてひそかに信仰を守り、代々受け継いでいました。そんな長崎の潜伏キリシタンたちの間には、江戸時代初期に幕府に捕らえられて殉教したバスチャン伝道士の「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」という予言が伝えられていた。そうして遂に予言通り、約7代後にあたる250年後、来日した神父と長崎の信徒の出会いが実現することになります。
1865年4月12日、パリ外国宣教会のプティジャン神父が主任司祭を務める長崎大浦天主堂に、浦上村の住民十数名が訪れました。その中の中年女性(杉本ユリ)がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやき、聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげました。 プティジャン神父は驚愕し、これが世にいう「信徒発見」であります。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされ、教皇は感激して、「東洋の奇蹟」と呼んだといいます。
以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後などに住む信徒たちが続々と神父の元を訪れて指導を乞い、神父はひそかに彼らを導きました。しかし、2年後の1867年、浦上村の信徒たちが檀那寺(だんなでら)である聖徳寺の僧によらない自葬を敢行し、仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出て、信徒ら68人が一斉に捕縛されました。これが浦上四番崩れの発端であります。
<浦上四番崩れ>
さて、世に「浦上四番崩れ」という宗教迫害があります。この宗教迫害は、その規模において、また近代国家における迫害という点において、今回の岸田政権によるUCへの宗教弾圧と極めて類似しています。
浦上四番崩れ150年記念祭 片岡弥吉書 浦上四番崩れ 津和野・乙女峠マリア聖堂
前述したように、浦上四番崩れは長崎浦上地区で明治時代初期に起きた大規模な潜伏キリシタン摘発事件であり、浦上で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件(1790年1番崩れ、1842年2番崩れ、1856年3番崩れ)である「浦上崩れ」の4番目の、そして最大の迫害であります。 ちなみに、「崩れ」とは一つの地域(村)で多くの潜伏キリシタンの存在が発覚し、大量検挙によって組織が崩壊に瀕することであります。
即ち、1867年(慶応3年)、潜伏キリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けました。そして幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって、浦上のキリシタン達は一村総配流の処分を下され、信徒の中心人物114名が津和野、萩、福山へ移送された他、約3414名もの村民が西国の藩へ配流されました。このキリスト教徒弾圧を決定した明治政府の中心人物は浄土真宗の根強い長州の木戸孝允や井上馨でした。
以降、彼らは流刑先で棄教を迫られ、数多くの拷問・私刑を加えられ、それは水責め、雪責め、火責め、飢餓責め、磔、親の前でその子供を拷問するなど、その過酷さと残虐さは旧幕時代以上であったと言われます。特に長州藩ではその苦しみに耐えかねて千余名が棄教し、562人が亡くなりました。 浦上の人々は、その流罪配流を「旅」と呼びました。
キリシタン研究家の片岡弥吉氏は「旅」に出る村人の心境を次のように描写しました。
「一村総流罪という、その旅は近代日本の歴史に特筆さるべき残酷物語ではあった。しかし『旅』に出る人々の心は明るかった。神と信仰に背くことを人倫の極悪と観じ、おのが信念と神への忠実さを貫くために殉教の旅に出ることは、彼らに残された真の幸福への活路であった」(片岡弥吉著『浦上四番崩れ』ちくま文庫P142)
しかしこのキリシタン迫害は、キリスト教諸国から激しい非難と抗議を受け、これにより1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年の全面禁教以来259年振りに、日本でキリスト教信仰が解禁されることになりました。そうして1873年、遂に長い苦難に耐えた浦上キリシタンたちは、「旅」から帰ってきたのです。
そして苦しい「旅」に耐え、帰還した浦上キリシタンたちが真っ先に求めたのは、なんと魂の拠りどころである神の家、「教会堂」でした。そうして、1879年、故地・浦上にささやかな聖堂(浦上天主堂)を建てるに至りました。そして正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘がつけられた石と煉瓦造の堂々たるロマネスク様式の大聖堂が完成したのは1914年のことです。
<原爆投下と贖罪の羊>
しかし、ロマネスク様式では東洋一を誇ったこの教会堂も、1945年8月9日、浦上天主堂の真上に落ちた原爆によって倒壊していまい、同時に浦上8000人のクリスチャンは一瞬の内に天に召されました。これが有名な永井隆著『長崎の鐘』の舞台です。永井隆は原爆犠牲者の追悼の辞で、原爆によって犠牲になった浦上と浦上天主堂は、神への「贖いの供え物」であり、8000人のクリスチャンの犠牲は、戦争が終結し、日本が生まれ変わるための「贖罪の羊」であったと述べました。
「主与え給い、主取り給う(ヨブ記1.21)。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。アーメン」
被爆前の浦上天主堂 被爆後の浦上天主堂 現在の浦上天主堂
それでも信徒たちは原爆から立ち上がり、再び新しい教会堂建築を決意し、新たな浦上教会を甦らせました。現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年にレンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元された司教座があるカテドラル(司教座聖堂)です。筆者は昨年3月7日、この浦上天主堂を訪問し、礼拝堂にてしばし祈りを捧げて参りました。
それにしても、この浦上の地のキリシタンほど、数奇な運命に晒された人々はありません、長い期間、潜伏してキリシタン信仰が伝承され、迫害の苦難に耐え、原爆の受難に遭遇しながら、キリシタン復活を果たしたこれらの証は、正に信仰の見本です。こうして浦上四番崩れは、いわば日本における最後のキリシタン弾圧になりましたが、文字通り信教の自由を得るための供え物でした。
そしてこの浦上四番崩れは、正に岸田政権によるUCへの弾圧と瓜二つです。浦上3000人余のクリスチャンが、時の明治政権によって迫害され苦難の旅を余儀なくされたように、今やUCとその信徒50万人は、時の政権から追われ、厳しい旅に出ていくかのようです。
しかし現代は、いくら迫害といっても、浦上信徒のように拷問されたり、殺されたり、追放されたりすることはなく、この浦上信徒の旅を思えば、私たちは格段に守られています。そうして浦上信徒がやがて旅から帰り、浦上天主堂を建てて復活したように、私たちの信仰は不滅であり、やがて旅から帰還し、見違える劇的な復活を遂げることでしょう。
【令和のバビロン捕囚】
ところで、先だって宗教審議会のキリスト教団代表者が、いみじくも、解散請求は教団への死刑宣告だと述べましたが、この13日の金曜日は、まさしくUCと信徒が十字架に架けられた日でありました。筆者も皆さんと同様、岸田政権への激しい怒りと共に、いく年月の過ぎし日の情景が想起され、これは正に「令和のバビロン捕囚」で はないかとの心情を抱いて「眠れない夜」を過ごしました。
しかし、一夜があけて筆者には別の思いが沸き起こってきました。即ち、これは、ぬるま湯的な日本社会へ本質的な問題提起する一石となるのではないか、ここにおいてUCは、善悪の分岐点として、よくも悪くも、むしろ注目を浴びるのではないか、そして個人も教団も大きく生まれ変わるチャンスではないかと、やや肯定的な思いが沸いてきました。この問題は悲観的要素ばかりではなく、まさに神が予定した救援摂理上の通過点だとの認識です。
そして更に進んで、これは、無神論的共産主義や左傾化した岸田政権と正義を賭けて戦った証であり、冤罪を背負ったキリストのように、あるいは日本の贖罪の羊として捧げられた浦上のキリシタンのように、解散請求はむしろ「キリスト者の勲章」ではなかろうかとの思いに至った次第です。
そこで、以下の論述をもって、筆者の上記のような認識の変遷が、決して机上の空論ではないことを、かのバビロン捕囚と対比しながら明らかにしたいと思う次第です。
<バビロン捕囚の霊的意味>
さて、イスラエル民族ほど受難に満ち、数奇な運命を辿ってきた民はありません。最近のハマスによる大量虐殺の悲劇を見ても明らかです。そしてその受難の数々を挙げればきりがありませんが、特にバビロニアの攻撃によって国と神殿を失ったバビロン捕囚は典型的な受難と言えるでしょう。
いうまでもなくバビロン捕囚は、新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国が滅ぼされ、国・国王・命・財産、そして神殿を失い、ユダヤ人指導者たちがバビロンへ連行され、移住させられた事件であります。バビロン捕囚は前597年、前586年、前578年の三回に渡って行われました。2列王記25章には次のように記されています。
「カルデヤびとは王を捕え、彼をバビロンの王のもとへ引いていって彼の罪を定め、ゼデキヤの子たちをゼデキヤの目の前で殺し、ゼデキヤの目をえぐり、足かせをかけてバビロンへ連れて行った。侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた」(2列王記25.6~10)
そうして約60年後の前538年、ユダヤ人はペルシャ王クロス2世の勅命によって解放され、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許されました。そしてこの国の崩壊・捕囚という未曾有の試練は、民族に決定的な信仰と思想の転換をもたらしました。即ち、この受難をどう捉え、ヤハウェへの信頼性をどう取り戻せばいいのか、神殿崩壊による信仰の柱を何に求めるのか、という問題に関する転換です。
第一は、ヤハウェの神への信頼性と正統性をいかに回復するかの問題です。 イスラエルは、ヤハウェはイスラエルを救えなかった弱い神、駄目な神、捨てられるべき神なのか、それともなお民族を導く神として崇める神であるのかという、ヤハウェの神への信頼性の問題であります。この未曾有の受難に際し、多くはヤハウェを呪い、見限って神から離れて行きました。しかし一方では、ヤハウェを擁護し弁護する群れ、申命記改革の流れを汲む、いわゆる「イスラエルの残れる者」の存在がありました。彼らは、この未曾有の受難を、神の弱さや無力さに帰するのではなく、この受難の原因は専ら民族の不信仰、即ちヤハウェへの契約違反にあると考えました。偶像崇拝や雑婚など神への背信こそ受難の原因だと考えたのです。
従って、悔い改めて神に還ること、即ち民族的な回心こそ神との関係を回復する道であり、受難から解放される道であることに回帰しました。そしてこれらの人々によって律法の書(モーセ五書)がまとめられ、新たな民族のアイデンティティーの確立、即ち「ユダヤ教の確立」がなされていきました。
第二は、神殿に代わる信仰生活の柱の問題です。イスラエル民族にとって、神殿こそ民族の魂であり、信仰の拠り所であり、イスラエルの存在意味でしたが、神殿の喪失と民族のディアスポラによって、神との繋がりを保証する宗教的な中心を失いました。しかし前記の通り、イスラエルは、失った神殿の代わりに律法を心の拠り所とするようになり、神殿宗教から律法を重んじる宗教としての「ユダヤ教を確立」することになりました。そして捕囚中のユダヤ人は、儀礼的な神殿礼拝に代わる簡素な「シナゴーグ」(集会所)という会堂礼拝を案出したのです。
正にシナゴーグ は、バビロン捕囚の時期に生まれた神殿に代わる礼拝の場、律法(トーラー)を学ぶ場、そしてコミュニティーの場となりました。バビロン捕囚帰還後、ユダヤ教団を発展させた制度のなかで、後代に最も大きな影響をおよぼしたものはシナゴーグだったと言われています。(高橋正男著『物語イスラエルの歴史』中公新書 P124)
バビロン捕囚(ジェームズ・テソ画) ユダヤのシナゴーグ跡 ユダヤのトーラー
以上の通り、イスラエル民族の新たなアイデンティティーは、こうしてバビロン捕囚をきっかけとして確立されました。ヤハウェとの結びつきはいや増し、神の言葉への信頼は更に深められました。これが、バビロン捕囚の霊的意味であります。
【私たちへの教訓】
上記した2つの事例、「浦上四番崩れ」と「バビロン捕囚」は、これからの私たちに重要な知恵と教訓を与えてくれます。
万々が一、最高裁で解散命令が決定されたとして、私たちはどこにアイデンティティーを求めればいいのでしょうか。バビロン捕囚後、神殿を失ったイスラエルが示した「み言(律法)の確立」と「シナゴーグの設立」は、宗教法人としての教団を失ったUC信徒にとって、大きな道しるべになるでしょう。法人格を失うということは、まさにイスラエルが神殿を失ったことと同じことだと考えられるからです。
エルサレムの神殿はイスラエルにとって魂の拠り所であり、神殿を失ったことは国を失ったこと以上の衝撃でしたが、神殿に代わるシナゴーグを各地に設立し、ここで神を礼拝し、み言を学び、そして信徒の交わりを行いました。こうしてイスラエルは、甦ったというのです。
かくして私たちにはよい模範があり、イスラエルがラビ(律法の教師)を中心に各地に神殿に代わるシナゴーグを作ったと同様、自覚した信徒が神の言葉を拠り所に、各地域に自律的な「地域聖会」(地域家庭教会)を設立し、その地域聖会を調整・連携・統括する連絡協議体(天の父母様聖会)を形成していけばよいと思われます。そしてそれぞれの地域聖会毎に、宗教法人化を目指していくことです。ちなみに、日本の寺社や教会は、それぞれ単体で宗教法人化されているところが結構あるようです。
但し、以上の論議は、解散という最悪を見据えた筆者の個人的なUC再建案に過ぎません。筆者の言わんとするところは、揺るぎない絶対的な神の言葉を擁する私たちには、「あらゆる道が開けている」と言うことであります。もちろん解散請求は胸が痛む受難には違いありませんが、しかし、むしろこれを一石として、曖昧な多神教的日本の社会に本質的議論を巻き起こすよい機会になるのではないか、正にこの問題から善悪が分立され、よくも悪くもUCが注目を浴びる摂理と言えなくもありません。無論、裁判の勝利を堅く信じる確信に揺るぎはありませんが、解散請求はキリスト者の勲章かも知れないというのです。
先だって筆者は、横浜在住のプロテスタントの牧師さんと意見を交換し、その際、この問題は一人UCだけの問題ではなく、信教の自由を守る宗教界全体の問題であり、「信教の自由を守る宗教者の会」(仮)の設立を提案いたしました。ちなみに朝日新聞によると、幸福の科学、曹洞宗は解散命令に反対、臨済宗(妙心寺)はやむを得ない、創価学会は回答はひかえる、基督教団は是々非々というという態度を取っています。かくして全ての信徒は、神と神の言葉を高く掲げ、裁判内外において、正義の行程を走りぬこうではありませんか。(了)
牧師・宣教師 吉田宏
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