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解散請求を受けて④ 櫻井義秀著『統一教会』を切る 信教の自由運動から福音伝道のリバイバルへ

◯つれづれ日誌(令和5年11月1日)-解散請求を受けて④ 櫻井義秀著『統一教会』を切るー信教の自由運動から福音伝道のリバイバルへ


いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。(イザヤ46.9~10)


ここ数回のつれづれ日誌で、岸田政権による解散命令請求問題について、法的、社会的(政治的)、そして信仰的(宗教的)側面から多面的に論じてきました。そして筆者の結論として、この問題は究極的には神の霊妙な救援摂理(計りごと)の一つの通過点として認識すること、そしてこれを「試練」として甘受し、また「恵み」として受け止めるということで決着したいと思います。イザヤ書46章に「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う」とある通り、神の「計りごとは必ず成る」ことを固く信じるものです。


そしてその上で私たちの為すべきことは、「浦上四番崩れ」や「バビロン捕囚」に学びつつ、信仰者としての矜持を示すこと、即ち、神の威信をかけて、私たちの信仰を弁証することであり、具体的には裁判内外においてUCの正当性と適法性、そして摂理性を広く広報し啓蒙することに他なりません。


そこで繰り返しになりますが、先ず全国各地において「解散請求の不当性を訴える集会」(信教の自由を守る集会)を開くこと、そして超宗教的な「信教の自由を守る宗教者の会」(仮称)を結成すること、この二つを改めて提案するものです。もちろん、この前提に自己改革・教団改革が必須であることは言うまでもありません。


【注目されるUCとその教義】


さて筆者は、この解散請求という未曾有の事件に際して、激しい怒りを禁じ得ないものですが、これを単に一宗教団体に対する時の政権の宗教弾圧という矮小化された問題として捉えるのではなく、一つの思想的な社会現象として、あるいは救援摂理上の霊的現象として考えざるを得ないものを感じています。つまり、この一件は、思想的に見れば、一神教的な価値観と多神教的な価値観の相克を背景とした「有神論と無神論との戦い」と見ることができるのではないかと思料するものです。


一神教の顕著な特徴として「分別思想」があり、特にキリスト教には、善と悪、神とサタンというように、白黒をはっきりさせる分別思想があります。この点、日本の多神教には「和」という思想があり、何でもかんでも白黒つけたがる聖書的な分別思想は、日本の和の精神と馴染まないところがあるのは確かです。


つまり、この度のUC問題は、あいまいでぬるま湯的とも言われ、全体の空気感で左右され安い日本の多神教的風潮への「分別の一石」と言えなくもないというのです。それは「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎ(分裂)を投げ込むためにきたのである」(マタイ10.34) と言われたイエスの言葉が象徴しています。


こうして中途半端であいまいな風潮に染まった日本の社会は、「親泣かせの原理運動」、あるいは逆に「子泣かせの二世問題」に象徴されるように、一神教的な分別の思想を理解できず、献金への過度な警戒や、日韓交差結婚を含む合同結婚式を人権侵害だと断ずるような的はずれの批判が生まれて来る土壌ともなっています。


そしてまた、苛烈なマスコミのUC叩きの背景には、UCと無神論的共産主義との戦いがあることは、多くの識者が指摘しているところであります。ジャーナリストの福田ますみ氏は、反UCの急先鋒である全国弁連300名の弁護士は、1987年の発足時、全て共産党・旧社会党系で占められていたこと、そして設立目的が勝共連合が推進していた「スパイ防止法潰し」であったことを指摘した上で、この問題はイデオロギーの戦い、即ち無神論と有神論の戦いであることを指摘されました。実際、かって理論戦で勝共連合に一敗地にまみれたこともある日本共産党は、今回なりふり構わずUC潰しに狂奔しています。


そして、そう大きくもない一宗教団体が、何故これ程の、正に国を動かすほどの注目を浴びて、喧々諤々の議論を呼んでいるのか、それはUCが、共産党流に言えば「革命の前衛」であること、キリスト教的に言えば、神に身を捧げた核心要員によって神主義革命を「献身的に推進する群れ」、つまり、黙示録7章に記された「主を証しする144000人の群れ」であるからに他なりません。即ち、ここが他のぬるま湯的な宗教団体と違うところであり、現下のマスコミのUC叩きの背景には、上記してきた一神教と多神教の葛藤と相克を背景とした「有神論と無神論の戦い」があるというのです。


今回の事件を通して、UCは良くも悪くも白日の元に晒され、世界中の誰もが知る宗教団体となりましたが、これは考えようによっては大変な宣伝効果と言えなくもありません。そうして、いわゆる「霊感商法」に手を染めてきた教団としての否定的な見方だけでなく、他方では、日本社会により本質的な事柄について、ぶれることなくしっかり問題提起をする教団という見方もできるというのです。


即ち、信仰の自由、宗教と政治の関係(政教分離問題)、献金の問題、宗教二世問題、カルト・マインドコントロールとは何か、といった現代宗教が有する重要論点を問題提起し、また他方では、「統一教会とは何か」、「文鮮明師とは何者で、何を教え、何を為したか」、と言った教団の本質的問題への関心にも社会の目が向かい、とりわけ知識人が少なからず注目することになりました。後述する櫻井義秀著『統一教会』(中公新書)では、「統一教会とは何なのか、どういう宗教なのか、何故人を集められるのか、何故離脱しないのか」(『統一教会』P316)と言ったシンプルだが本質的な問を発しています。


日本共産党の志位和夫委員長は、党創立100年記念集会で、「我が党が常に叩かれ注目されてきたのは、社会を根本的に変える政党であるからだ」と語りましたが、日本UCが常に叩かれ注目されるのは、正に人間と社会を「根源から変える宗教」であるからに他なりません。


そしてこれを機会に、マスコミが垂れ流す浅薄な風評に左右されるのではなく、UCとUCが示す「原理の研究」あるいは「文鮮明研究」が、宗教界、学会、言論界、求道者等において本格的かつ公正になされていくことを祈念いたします。この点、前記した宗教社会学者櫻井義秀氏の著書『統一教会』(中公新書)は、極めて偏った否定的な認識ではありますが、UCについてかなり本格的に論じています。以下、本書の問題点を3点に絞って検証したいと思います。


【櫻井義秀著『統一教会』(中公新書)を切る】


本書の著者櫻井義秀氏は北海道大学教授で宗教社会学を専門とし、特にいわゆる「カルト宗教」に関する多くの論文や著書を書いています。カルト被害者やカルト問題を扱う弁護士などの立場を重視したカルト研究を行い、最近、メディアなどにも出て、UCに批判的なコメントを述べています。


筆者はこの本を読んで、正直、反吐(へど)が出るような気がしました。何故なら、少なくとも宗教学者と称して、長年宗教の研究に携わりながら、あくまでも客観的、歴史的に公正に記述すべきところ、UCをいわゆるカルト宗教と見なして(カルトという言葉自体、まだ学問的にも定説のない極めて曖昧な概念である)、「いかに問題点を探すか」という視点から書いているという事実です。正に解散請求ありきの岸田首相と同じく、「先ず、問題ありき」の悪意の意図を色濃く感じて、嫌悪感を禁じ得ませんでした。


さて本書『統一教会』の構成は、メシアと称する文鮮明とは何者か、霊感商法カルトの形成過程(霊感商法)、日韓祝福問題(祝福と贖罪)、金銭収奪の支配構造(洗脳教育)、今後の対応策(法規制)となっていますが、副題に「性・カネ・恨から実像に迫る」とあり、筆者もこの「性・カネ・恨」の三点から本書を検証し反論することにいたします。


<「性」の問題ー「パクリ」と「血分け」>


櫻井氏は「統一教会は、韓国のキリスト教伝統の形式を維持しながら、神人一体化(メシアとの霊體交換・血分け)の特異な教説・儀礼を持ち込んだ新宗教であり、韓国における神秘主義的なキリスト教受容の系譜に属する」(『統一教会』P24)と記し、更に「統一教会は、文鮮明という再臨のメシアによって血分けされた女性信者たちから男性信者とさらに血分けするという、一連の血分け行為(霊體交換)が合同祝福結婚という形で収束して形成された擬似的な文鮮明による神霊的拡大家族にほかならなかった」(P50)と明記しました。しかし、そもそもUCに「血分け」なる概念も教義も行為もあり得ず、上記の記述はこれだけでも犯罪的言辞として告発に値するものです。


また櫻井氏は、「イエス教や聖主教などの韓国神秘主義的なキリスト教の教理が統一教会の教説に影響を与えていると思われる」(P26)とし、「文鮮明は、統一教会の教説・儀礼・教団運営を異端視されるキリスト教から学んだ」(P28)と述べた上で、「イエス教を作った李龍道派に固有の神との霊的一体化という教えや接神という巫術的な儀礼などを学んだ」(P35)と、かってな憶測に基づく見解を述べています。


そこで先ず最初に、櫻井氏がいうように、果たしてUCの教義が韓国神秘主義的宗教からの模倣(パクリ)なのか否かについて、その真相を明らかにしたいと思います。(なお、これらに対する解説・反論については、拙著『異邦人の体験的神学思想』P483~P488で論じている)


実は、櫻井氏がいう「パクリ」や「血わけ」の風評は、櫻井氏に待つまでもなく、韓国宗教を研究する一部の学者が既に指摘しているところです。特に韓国・朝鮮の宗教を研究する渕上恭子氏は、1930年代のキリスト教神秘主義に始まり、イエス教会の系譜に連なる聖主教や統一教(UC)などの教団、黄国柱などの周辺にみられた神秘主義者をすべからく「血分け教」(混淫派)と呼び、イエス教の李龍道を「血分け教の開祖」と位置付けています。


このように、一部の宗教学者や左翼グループにおいて、UCの教義は20世紀に生まれた韓国の神霊的神秘宗教の教えと瓜二つであり、文鮮明師(以下、「創始者」と呼ぶ)はこれらの宗教、特に金百文の教義を模倣、ないしはパクったのではないかと批判しています。金百文は、自ら悟ったことを本にし、1958年『基督教根本原理』を著しましたが、反対派は、『原理講論』と金百文が書いた『基督教根本原理』を示し、酷似しているときめつけ、パクリだとしています。


しかし、創始者が1945年金百文に会う前に既に堕落論を含む原理の解明は終わっており、(1936年~1945年)、『基督教根本原理』(1958年)が出る前に創始者が書いた『原理原本』(1952年)、及び弟子の劉孝元氏が書いた『原理解説』(1957年)が出ており、櫻井氏ら批判者の言説が間違いであることは明らかです。それに金百文の教理には、歴史観がほとんど欠如しているのに比して、原理講論には神の救済摂理歴史(復帰摂理歴史)が大きな比重を占め(原理講論の半分以上を復帰摂理歴史に紙面を割いている)、また姦淫原罪説の堕落論についても、金聖道のお告げどころか、聖書に依拠して精緻に体系的に解かれています。


そして何よりもUC教義は、創始者が16才の時、神とイエス様から直接的な啓示を受けた後、熱心に聖書を研究し、神との一問一答に基づいて真理を見出した啓示的で100%オリジナルなものであり、聖書に霊的源泉を持つ宗教教義であります。むしろ創始者は金百文とは半年で決別し、天命により1946年6月(26才)、ソ連占領下の平壌に単身で向かい、そこで独自の教義に基づく教会を設立しています。


従って、櫻井氏やUC批判者が主張するように、神霊宗教で行ったとされる混淫の秘儀や金百文の言う「男女間の性的交際において肉体の情欲性を聖化する」といったいわゆる「血分け」の教理は、後述するように、そもそもUC教義とは完全に無関係であるということであります。


上記したように、原理は創始者が16才でイエス様から召命を受け、9年の歳月をかけ、文字通り血と汗と涙を以て聖書の奥義を解明した正にオリジナルなものであり、従って、櫻井氏がいうように「文鮮明は平壌で遍歴した神霊集団の亜流に留まり、この教説の原型部分は、イエス教会時代やイスラエル修道院時代に学んだ」(P46)というのは虚偽であり、原理講論がイエスの召命に基づき、聖書的伝統の上にしっかり立った「聖書の奥義を明らかにした神学書」であることは明らかです。


次に櫻井氏は、「神霊と救いを分け与えると称して、神霊集団の一部で実施されたというメシアから(六マリアなど)信徒への血分けを自らも実践した」(P46)と明記しています。しかし、そもそも性交によって清めるといった「血分け」なる言葉そのものが、悪意を持ったブロパガンダのための造語であり、何の科学的な根拠もエビデンスもないものであり、 これは明らかに名誉毀損であります。


確かに北朝鮮において、李龍道、白南柱らが、接神女(霊媒師・いたこ)の劉明花らと交わり、神託にかこつけた降神劇を行った事が、混淫事件として問題となり、混淫派と呼ばれました。その後、白南柱は、平安北道鉄山で「聖主」を自称する金聖道を立てて「聖主教」を設立し、彼らは平安道粛川七里で聖主教総会を開き、そこに集まった男女40余名の会員に聖職者の按手を与えました。そして、これがいわゆる「混淫事件」と言われているものであります。


ただ、これらの事件の真相は藪の中にあり、一体どういう中身だったのか、推測の域を越えるものではありません。また、当時、韓鶴子女史の母洪順愛女史は聖主教に通っていましたが、彼女の口からそれらしき証言はありません。


さて、1955年7月4日、梨花女子大学事件で創始者が逮捕収監され、その容疑は「兵役法違反」と「不法監禁」でしたが、結果的には、1955年10月4日無罪判決が言い渡されました。しかし、当局が狙っていたのは、特にメソジスト派と連携して、「姦淫問題」(血分け問題)で立件し、創始者を陥れてUCを邪教として叩き潰すことにありました。結局、姦淫とされた当事者で、嫌疑をかけられた関係者らの告訴が無く、姦淫関係の事実は立件されませんでした(武田吉郎著『受難の源流』P189) 。即ち、櫻井氏がいうように、いわゆる六マリアなど初期に創始者が複数の女性と血分けしたなどという悪質な風聞にも関わらず、今日までただ一人の女性も(妻である韓鶴子女史を含め)、創始者との関係を問題視したり、告発するなど不満を訴えたケースは皆無です。


このように、櫻井氏や渕上恭子氏ら一部の学者や反対派が喧伝するように、神霊宗教や金百文の神秘主義が「血分け教」(混淫派)だとし、UCがその系譜を引いているとするなどとの主張は、如何なるエビデンスもない悪質なプロパガンダに過ぎません。


韓国の「新興宗教問題研究所」所長であり、いわゆる「血分け」という陰湿な響きを持つ言葉を広めた卓明煥氏は、UCのみならず多くの宗教団体についてスキャンダルや虚偽を撒き散らしてきました。しかしUCとの裁判において彼の言動が嘘であることが判明し、彼は1978年にUCに対して次のような謝罪文を公表しました。


「私は、出版物『統一教その実相』、スライド『これが統一教である』などで、一部の統一教会離脱者たちが提供した資料に基づき統一教会を『非倫理的邪教集団』『淫乱集団』と批判してきました。しかし、いずれもその根拠のないことがわかりましたので、ここに訂正し謝罪いたします」


また、1992年に朴正華氏が『六マリアの悲劇』という、喜劇のような嘘の本を書き、また櫻井氏もこれを引用し血分けを行ったことの証拠としていますが、朴氏は利益目的でこの本を書いたと自ら証言し、1995年11月に『私は裏切り者』という本を執筆し、『六マリアの悲劇』が虚偽に満ちたものであることを自ら証言し謝罪しました。このように、これまで「血分け」淫乱説でUCを誹膀中傷したものは、裁判で有罪判決を受けたり、また発言内容の訂正や謝罪に追い込まれています。


確かに、UCの聖酒式、祝福儀式、3日儀式などの儀礼が混淫派の教えに似通っていると誤解され、初期のUCでは混淫派と同じように、「血分け」 の秘儀が行なわれたのではないかと喧伝されました。しかし、原理から導かれる「血統転換」の教理は反対派が言う「血分け」などとは似て非なるもので、あくまでも聖書的な救済摂理による救済観に基づくものであります。現にUCは純潔の徳を最高の規範とし、「木はそれぞれ、その実でわかる」(ルカ6.44)とある通り、UC信徒における男女間の関係は実に清純にして潔癖であります。


それにしても、著名な人物を陥れるのに、女性問題ほど威力のあるものはありません。2020年7月、ソウルの著名な現職市長朴元淳(パク・ウォンスン)氏がセクハラ疑惑告訴を苦に自殺しました。日本でも宇野宗佑首相が女性スキャンダルで辞任を余儀なくされています。


創始者も「血分け教」教祖のレッテルを貼られ、自らも男女関係で様々な嫌疑をかけられてきました。百歩譲って、仮に噂されているようなあっことがとしても、前述の通り、女性から只の一件の訴えもトラブルも不満もありません。摂理的なものとして理解していたか、女性として納得していたか、これは上記したソウル市長らとの大きな違いであります。しかし、今では、流石にこの血分け論争は終息に向かっているようで、ほぼ過去の遺物になりました。根も葉もないことなので、当然と言えば当然の話しでありますが、ここにきて、曲がりなりにも学者と称する櫻井義秀氏が、今さらに朴正華氏らと同様のことを主張するとは、驚きであります。


<「恨」と「カネ」の問題ー捏造された訴訟>


櫻井氏は、「文鮮明は、日本信者に植民地支配の懺悔を徹底して迫る」と述べ、そして「日本人はかって韓国を侵略し、植民地にし、強制労働や従軍慰安婦として働かせて虐待した。堕落したエバ国家として韓国に財政支援をして(韓国の恨を)解なければならない」(P170)と言った贖罪意識を植え付け、日本を財布のように考えているというのです。つまり、日本人に自虐史観を植え付け、その結果、多額の献金を強いるという構造が出来ているというのです。


これら櫻井氏の言辞は、今まで全国弁連ら左翼が撒き散らしてきたUC批判の常套句で、韓国恨論、堕落エバ日本論、自虐史観反日論の三点セットで喧伝され、専らUCを貶める手段として使われてきました。筆者は、「つれづれ日誌(令和5年8月9日)-UC教義に反日思想はない」において、いわゆるアダム国家・エバ国家論はあくまでも相対概念で、上下主従の関係ではないこと、献金はあくまでも「世界宣教」への支援であって韓国自体に行われたものではないこと、UCも創始者も完全な世界主義・神主義に立っていること、創始者は知日家・親日家、そして愛日家であること、UCは国際勝共連合を設立して共産主義と戦ってきた愛国団体であること、などを述べ、反対派の批判に反論(弁証)しました。


さて、櫻井氏は、UCは様々な方法と手段を以て、違法なカネ集めをし、また違法な正体隠しの伝道を行い、裁判でその違法性が断罪されていると、数々の例を挙げながら暴露しています。しかし、その主だった訴訟が、拉致監禁によって強制改宗させられた元信者によるものであることが明らかにされています。


2003年の札幌「青春を返せ」訴訟で、櫻井氏は札幌高裁での勝訴を鬼の首を取ったように述べていますが(P241)、その原告の大半は拉致監禁され強制改宗させられた脱会者が、踏み絵と称して被害者として強制的に提訴させられたものであります。即ち、青春を返せ裁判の180名の原告のうち、数名を除いた殆どの原告が拉致監禁され脱会した元信者であり、逆洗脳された元信者は「意に反して信仰させられ、献金させられた」と主張して家庭連合に激しい憎悪を抱き訴訟に至るというのです。(徳永信一・鴨野守・近藤徳茂編著『家庭連合信者に人権はないのか』グッドタイム出版P97~99)


また文科省がUCの解散命令請求に当たって、民法の不法行為として挙げた30余の裁判事例も、半数以上が拉致監禁・強制改宗されて背教者となった元信者が原告となったものであることが明らかになっています。このように、全国弁連が家庭連合を貶める手法は、強制改宗に手を貸したり、実際には被害者など殆ど存在しないにもかかわらずメディアを動員して反UCキャンペーンを行い、人々を不安に陥れて被害者を殊更に掘り起こすというものであるというのです。


『家庭連合信者に人権はないのか』の中で近藤氏は、「メディアがUCを反社会的団体であるとする根拠は、民事裁判で敗訴しているからだと言うが、しかし、多くの原告が拉致監禁・脱会強要といった人権侵害によって人為的に作出された被害者であり、裁判で虚偽主張や虚偽供述が散見される場合、果たして、家庭連合は裁判で敗訴しているから反社会的団体である、との論調は成り立つのであろうか」(『家庭連合信者に人権はないのか』P128)と、メディアの行き過ぎに強い疑義を呈しています。


以上見てきたように、櫻井義秀著『統一教会』は、先ず「統一教会悪し」が前提となった、学術書とはほど遠い一種の暴露本であり、客観性を欠くお粗末なものと言うほかありません。


【啓蒙活動から福音伝道のリバイバルへ】


さて筆者は冒頭、「この問題は究極的には神の霊妙な救援摂理(計りごと)の一つの通過点として認識する」と記しましたが、この認識は昨年来、変わらざる思いとして深く筆者の心に刻まれています。今、解散請求というかってない出来事に遭遇している私たちは、確かに未曾有の試練ではありますが、これはまた大きな飛躍のチャンスでもあるというのです。


「捨てる神あれば拾う神あり 」との格言がありますように、UC悪しとのマスコミに煽られた異様な空気感の中にあって 、各分野で正論、ないしはUC擁護を述べる論客もかなり散見され、UC問題を巡って世論が二分される趨勢にあることは確かです。これは正に神の「分別の一石」というしかありません。


月刊正論12月号 特集解散命令請求への疑義  (右は対談する西岡力氏と中川晴久氏)

福田ますみ氏(花田編集長の右向け右) 若狭勝氏(弁護士 若狭勝のニュース塾)


いみじくも櫻井義秀氏が「一体、文鮮明とは何者か、その教えとは何か」と問題提起したように、良くも悪くもこの問いは大きくクローズアップされていくことでしょう。私たちは、解散請求の不当性と信教の自由を訴えていくその暁に、この櫻井氏の問いに大胆に答えていきたいものです。つまり、信教の自由運動から福音伝道への昇華であり、正にみ言を証すよい機会であります。


パウロは愛弟子テモテに「み言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(1テモテ4.2)と語りましたが、これはパウロが生涯にわたって、自分自身に語りかけてきた言葉でもあります。そしてそのパウロの信仰や伝道者としての生き方は、あのステパノの凄まじい殉教の姿(使徒行伝7.54~60)を目撃したことが原点にあると言われています。神の言葉は唯一にして永遠不変の宝(財産)であり、ルターやカルヴァンが情熱的に神の言葉(聖書)を愛したように、私たちも彼らに見習いたいと思います。そしてパウロやステパノが、時が良くても悪くても命がけの福音伝道に賭けたように、この未曾有の試練と岸田政権の宗教弾圧を、「み言のリバイバル」を以て応えようではありませんか。(了)


                ポーランド宣教師 吉田宏

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