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長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地① 大浦天主堂と信徒発見 、九州・長崎地方のキリシタンと潜伏キリシタン

◯つれづれ日誌(令和3年12月1日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地① 大浦天主堂と信徒発見 、九州・長崎地方のキリシタンと潜伏キリシタン


筆者はかねてより、禁教時代の長崎を中心としたキリスト教の迫害、特に「潜伏キリシタン」について、強い関心があり、加えて遠藤周作の著書『沈黙』の舞台が、この長崎地域であったことを知り、これを機会に、「宗教迫害と潜伏キリシタン」をテーマに日本のキリスト教の歴史を振り返って見ることにしました。


潜伏キリシタンの迫害は、キリシタンが多かった伊達藩の宮城県水沢市(見分村)、織田の領地美濃、高山右近の大槻・茨木など全国各地にもありましたが、特に、2018年(平成30年)6月30日、ユネスコ世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が有名であり、この長崎と天草地方の潜伏キリシタンを中心に、禁教下のキリシタンの歩みを辿りたいと思います。 なお、禁教下の中で信仰を守ってきたキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼び、明治期に解禁された後にも、カトリックに復帰せず、従来の形態の信仰を維持する人々を「隠れキリシタン」と呼んでいます。


【12の潜伏キリシタン関連遺産】


徳川幕府により、キリスト教の禁教令(1614年)が出され、この禁教下の中で、長崎と天草地方において、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた「潜伏キリシタン」がいました。特に島原の乱(1637年~1638年) 以降、徹底した禁教下(檀家制度・寺受制度)の中で、ある者は棄教し、ある者は棄教を装いながら、ある者は寺社と共生しながら、代々信仰を守ってきました。この世界遺産は、長崎と天草地方の潜伏キリシタンが、信仰を守ってきたあかしとなる遺産群であり、潜伏キリシタンの伝統の歴史を語る上で必要不可欠な12の資産で構成されています。


これらの遺産は、ザビエルから始まった日本におけるキリスト教宣教の歴史、とりわけ禁教下の迫害の歴史を辿る上で、大変貴重な資料であります。12の構成資産はそれぞれ潜伏キリシタンの信仰継続の歴史・伝統に沿って4段階に分類され、8市町に点在しています。これら12の遺産は以下の通りです。(旅ネットより)


①大浦天主堂ー世界の宗教史上に残る劇的な信徒発見の舞台


ゴシック調の国内現存最古の教会堂で、1865年に献堂され、日本二十六聖人に捧げられました。 献堂直後に浦上の潜伏キリシタンが訪れ、自分たちの信仰を告白した「信徒発見」の舞台です。


②外海(そとめ)の出津(いず)集落(長崎市)ー聖画像をひそかに拝み、寺と共生して信仰を続けた


禁教期に聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承し、また長崎市東樫山(かしやま)に建立された曹洞宗天福寺と共生して信仰を続けた集落です。また遠藤周作の著書『沈黙』の舞台になった地であります。1882年にはド・ロ神父が集落を望む高台に「出津教会堂」を建てました。


③外海の大野集落(長崎市)ー神道の信仰を装いながら続けた信仰


禁教期に潜伏キリシタンが「氏子」となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落であります。禁教期の信仰の場であった神社近くに、解禁後、「大野教会堂」が建てられました。


④原城跡(南島原市)ー自らのかたちで信仰をひそかに続けるきっかけとなった地


禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の主戦場となった城跡です。この出来事は、2世紀を超える禁教体制が確立されるきっかけとなり、残された潜伏キリシタンが、密かに自分たち自身で信仰を続けていく契機となりました。


⑤黒島の集落(佐世保市)ー仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた


禁教期に外海などから移住した潜伏キリシタンが、仏教寺院から信仰を黙認されつつ、自分たち自身で組織的に信仰を続けました。解禁後はカトリックへ復帰し、島の中心に自分たちの教会「黒島天主堂」を建てました。


⑥平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)(平戸市)ー禁教時代の潜伏キリシタンの集落の様相をとどめる歴史的遺産


安満岳から伸びる尾根に挟まれた谷状の地形と海に囲まれた集落で、指導者の家には「納戸」と呼ばれる部屋の中に、密かに潜伏キリシタンの信心具が伝承されました。


⑦平戸の聖地と集落(中江ノ島)(平戸市)ー潜伏キリシタンから崇敬


中江ノ島は平戸島北西岸の沖合2キロに位置する長さ400m、幅50mの無人島であり、この島では、禁教時代初期に平戸藩による潜伏キリシタンの処刑が行われた記録があります。殉教地として潜伏キリシタンが密かに崇敬し、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」が行われた聖地でもあります。


⑧奈留島(五島市)の江上集落(江上天主堂とその周辺、五島市奈留島)ー人里離れた海の近い谷間に移住


禁教期に外海の潜伏キリシタンが、海に近い谷間に開けたわずかな平地に移住して固有の信仰形態を続けました。解禁後はカトリックへ復帰し、木造の教会「江上天主堂」が建てられました。


⑨久賀島の集落(五島市)ー未開の地で仏教徒との相互関係


五島列島南部にある島で、禁教期に外海から移住した潜伏キリシタンが、仏教集落と互助関係を築きながら信仰を続け、信徒発見後カトリックに復帰し、海辺に教会「旧五輪教会堂」 を建てるに至りました。


⑩野崎島の集落跡(五島小値賀町)ー神道の聖地で信仰を続ける


禁教期に移住した潜伏キリシタンが、表向き海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装うことで在来宗教と並存しながら自分たち自身で組織的に信仰を続けました。 解禁後はカトリックへ復帰し、舟森集落には1881年、野首集落には1882年にそれぞれ木造教会堂「旧野首教会」が建てられました。


⑪頭ヶ島の集落(五島新上五島町)ー仏教徒の開拓地の指導によりできた集落


禁教期に外海の潜伏キリシタンが、仏教徒の開拓指導者のもと、無人島に移住・開拓し、自分たちで組織的に信仰を続けました。解禁後、カトリックへ復帰し、自分たちの「中ノ浦教会」を建てました。


⑫天草の﨑津集落(天草市)ー漁村特有の形態で信仰を続けた集落


禁教期にアワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村独特の信仰を育み、在来宗教と信仰空間を共有した集落であり、キリスト教解禁後は﨑津諏訪神社の隣に教会堂 「﨑津天主堂」を建築しました。


以上が12の遺産でありますが、その中で、①日本最古の教会堂である「大浦天主堂」、②遠藤周作の『沈黙』の舞台となった「外海(そとめ)の出津(いず)集落 」、③島原・天草一揆の主戦場となった「原城跡」の三遺跡について、背後のキリスト教歴史と関連付けつつ辿ることにいたします。


【大浦天主堂と信徒発見】


長崎世界遺産を代表するのは、なんと言っても大浦天主堂です。この項では大浦天主堂の歴史と共に、長崎を中心としたザビエル以来のキリシタンの歴史を振り返ることにいたします。


<大浦天主堂>


大浦天主堂は、長崎のユネスコの世界遺産を構成する文化財の1つであります。大浦天主堂の立つ長崎は日本初のキリシタン大名大村純忠(1568年洗礼)の領地であり、長崎港は国際貿易港として発展し、禁教前は日本のキリスト教の拠点として多くの教会が建設されました。


もともと大浦天主堂は、日仏修好通商条約(1858年締結)に基づき、フランス人など外国人居留民のための礼拝堂として建設されたもので、長崎市の南部、長崎港に面した高台にあり、ゴシック調の国内「現存最古の教会堂」であり、1864年、パリ外国宣教会のフランス人司祭らによって創建されました。1865年、フェーレ神父のあとを引き継いだプティジャン神父が中心となって献堂式が挙行され、「二十六聖殉教者堂」と命名されました。なお、1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人でした。




1868年には、フランス人神父ド・ロが天主堂に入り、「教会暦」、「聖教日課」を石版印刷しました。これは日本初の石版印刷であります。また1891年(明治24年)には、カトリック長崎司教区(現・カトリック長崎大司教区)の司教座聖堂と認定されました。


1945年(昭和20年)8月9日 、 長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れました。1953年(昭和28年)3月31日、文化財保護法に基づき国宝に指定され、洋風建築としては初の国宝指定です。1975年(昭和50年)11月3日 には、大浦天主堂に隣接する土地に新築のカトリック「大浦教会」が完成しました。大浦天主堂を訪れる観光客数が増加したため、ミサの最中に観光客が見物に入るなど、天主堂内での典礼の進行に支障をきたすようになってきていましたので、新たに「大浦教会」を建設したものです。


<信徒発見>


1866年3月17日、 浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かにキリシタンであることを名乗りました。この事実は、世に「信徒発見」と言われています。


大浦天主堂から5キロほど北にある浦上の住民十数名が天主堂を訪れ、そのうちの40才代の女性が、ひとり祈っていたプティジャンに近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ね、自分たちがカトリック教徒であることを告げました。 250年間の厳しい禁教下にもかかわらず、浦上の潜伏キリシタンが親から子へ、子から孫へと守り抜いた信仰を告白した瞬間です。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる「隠れキリシタン」である事実を告白したのです。


カトリック教会は、この信徒発見により、厳しい禁教によって日本にキリシタンは絶えていたと思っていたのでしたが、潜伏して信仰を守り続けていた信徒がいたことに喜びと衝撃を受けたのでした。信徒発見のニュースが広まると、長崎の潜伏キリシタンの指導者たちが多数大浦天主堂を訪れ、宣教師との接触を図りました。まさに日本カトリック教会の復活です。プティジャン神父らは密かに浦上、平戸、外海、五島などに布教を兼ねて訪れ、隠れた信者の発見に努め、浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかりました。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされました。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだといい、この日は現在カトリック教会では任意の記念日(祝日)となっています。


【九州・長崎地方のキリシタンと潜伏キリシタン】


ザビエルが1549年、日本に上陸したのが薩摩半島の坊津でした。その後薩摩国の守護大名・島津貴久に宣教の許可を得、その後平戸で布教しました。京都、山口を経て、1550年8月、ザビエル一行は再度平戸に戻り、平戸や大分で宣教活動を行いました。従って、九州は日本宣教の発端の地であり、特に長崎地域は最もキリシタンが多く、またいち早く大村純忠(肥前長崎)、有馬晴信(肥前佐賀)、大友宗麟(豊後大分)などのキリシタン大名が誕生しました。他にも高山右近の摂津高槻や織田の濃尾など、キリシタン大名の領内には多くのキリシタンがいました。


ザビエルは日本の宣教に当たって、先ず大名や天皇といった上層部の啓蒙に力を注ぎました。そのお陰で、織田信長、豊臣秀吉を始め、かなりの大名の支持を得ることができたのです。キリシタン大名は江戸時代に禁教令が敷かれるまでに、約60人もいたと言われ、日本初の洗礼を受けたキリシタン大名は大村純忠と言われています。


大村純忠は、1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされています。敬虔なキリシタンであった純忠は、洗礼を受けた後、正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、この時以来、側室を持つことはありませんでした。


また大村純忠は1579年、長崎と茂木をイエズス会に寄進し、甥の有馬晴信は浦上村を同じく寄進しました。大村・有馬・大友の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣し、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しています。なお、キリシタン大名のキリスト教入信の動機には、宣教師の口利きで南蛮貿易を有利にしようとする実利があったとも言われています。


しかし、1587年の豊臣秀吉のバテレン追放令、特に1614年の江戸幕府の禁教令以来、キリシタンは地下にもぐり、以後250年に渡って隠れキリシタンとして信仰を守っていくことを余儀なくされました。 特に島原の乱以降は徹底した禁教令がしかれました。


この長く厳しい禁教の中でも、長崎とその周辺には多くの「潜伏キリシタン」が信仰を守っていました。 彼らの大きな特徴は、日本の伝統宗教とキリスト教を「共生させながら信仰を維持」していたことです。潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒として寺に所属し、あるいは神社の氏子となり、年1回の絵踏を踏んで棄教を装い、キリシタンではないように振る舞いました。


神社の儀式にも自らの信仰をうまく擦り合わせ、仏壇の裏にイエスやマリア像(マリア観音)を隠し、密かに祈っていました。彼らは、帳方(惣頭)や水方(洗礼)といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていったのです。しかし、秘匿された信仰も時には露見し、一つの地域で大勢のキリシタンが一斉に迫害を受け、信仰共同体が崩壊する、いわゆる「崩れ」がたびたび起こりました。


1667年に濃尾地方で739人が殺された「濃尾崩れ」のように、信者の大量処刑により、キリシタンがほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、「浦上一番崩れ」「浦上二番崩れ」「浦上三番崩れ」、「天草崩れ」のように、混乱を恐れて江戸幕府が信者を赦免した事例もあります。特に浦上四番崩れは有名です。1867年浦上キリシタンは檀那寺(だんなでら)である聖徳寺僧によらない自葬を敢行し、村民らの寺請拒否へと発展し、6月14日奉行所は浦上キリシタンの検挙、投獄に踏み切りました。この事件は、外国公使らの抗議によって外交問題化しましたが、解決をみないまま幕府は瓦解(がかい)し、明治政府に引き継がれました。


このように、豊臣、徳川の禁教令から1973年に禁教令が解かれるまでの約260年間に、多くの宣教師、信者が殉教・迫害の道を歩み、隠れキリシタンとして潜伏を余儀なくされました。一体、キリストの故に何故迫害されるのか、キリストに導いたために迫害され殺される人々を見て、「これならいっそ人々をキリストに導かなかったほうが良かったではないか」との思いが宣教師の胸中をよぎったことでありましょう。 これらの事実は重く記憶に留めたいものです。


以上、「長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰と殉教の聖地」と題して、特に長崎地域の潜伏キリシタンの歴史と実像を「大浦天主堂」を中心に見て参りました。併せて禁教下の主だった九州の潜伏キリシタンについて概観いたしました。


次回は、遠藤周作の著書『沈黙』の舞台になった地域である「外海の出津集落」(長崎市)の隠れキリシタンと日本の殉教の歴史について見ていきたいと思います。(了)

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