◯つれづれ日誌(令和3年12月8日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地②-『沈黙』の舞台外海(そとめ)の出津(しつ)集落(長崎市)
ザビエルが、1549年に鹿児島の地を踏んで始まったキリスト教の宣教は、1612年の徳川幕府の天領禁教令、1614年の全面的禁教令によって、名実共に約65年の幕を閉じることになりました。 そして1637年の島原の乱以降は、徹底的な禁教令によって日本におけるキリスト教は壊滅的打撃を受け、神父(宣教師)も海外追放か殉教によっていなくなり、表上、日本からキリスト教は喪失することになったのです。
しかしその間、60名ものキリシタン大名を生み出し、約40万人(人口比3%)にのぼる信者を獲得しました。この宣教の成果は、多神教の国日本にしては、画期的な成功だったと言えなくもありません。そして驚くべきことに、1865年の大浦天主堂における「信徒発見」は、日本に厳しい禁教の目をかいくぐって、密かにキリスト教信仰を守り続けてきた「潜伏キリシタン」がいたことが明らかになったのです。
前回も述べましたが、1865年3月17日、浦上村の潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪れ、プティジャン神父に信仰を告白し、約2世紀半にわたる禁教、弾圧下の中で、代々信仰を受け継いでいたキリシタンがいたことが発覚しました。この時プティジャン神父に信仰を告白した信徒らは、あのヒット曲「長崎の鐘」で有名な浦上天主堂のある村のキリシタンでした。
今私たちは、禁教までの65年の宣教の意味、禁教下における殉教、潜伏キリシタンの信仰を振り返ることにより、今後の福音宣教に多くの示唆と教訓を得ることができるでしょう。
【外海の出津集落 】
外海の出津集落は、潜伏キリシタンが「何を拝む」ことによって信仰を維持したのかを示す4つの集落のうちの一つであり、遠藤周作の『沈黙』の舞台「トモギ村」は外海の出津集落のことであります。
<聖画像を拠り所に>
長崎は、当時大村藩の統治下にあり、藩主の大村純忠が敬虔なキリシタンであったこともあり、かっては多くのキリシタンが住んでいましたが、禁教以後、潜伏を余儀なくされたキリシタンが、幕府の迫害を逃れて辿り着いた陸の孤島が外海地方であります。
そしてこの地は、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となった地であり、江戸時代のキリシタンに対する厳しい弾圧を経て、潜伏しながら信仰を守り続けた人々がいました。『沈黙』に登場する潜伏キリシタンの集落「トモギ村」は外海をモデルに創作された地名であり、原作者の遠藤周作はこの地を取材で何度も訪れ、小説を書きあげました。
外海の出津集落は、禁教期に小規模な潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、「聖画・教義書・教会暦」などを密かに伝承し、また寺(曹洞宗天福寺)の檀信徒を装い、神父がいない中、自分たち自身で独特の信仰共同体を作り、信仰を続けた集落です。 即ち禁教期の出津集落の潜伏キリシタンは、キリスト教由来の「聖画像」をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとすることによって信仰を維持しました。 吹き荒ぶ海風と急峻な崖が連なる陸の孤島に、当時の暮らしぶりが偲ばれます。
信徒発見後、出津集落の信徒の代表が大浦天主堂を訪れ信仰を告白し信徒がいることを告げました。プチジャン神父は外海集落を密かに訪れ、多くの信徒と面会し(約30人)、待ち焦がれていた神父との出会いに感激しました。解禁後は、段階的にカトリックへ復帰する者と、禁教期の混合信仰形態を継続するもの(隠れキリシタン)に分かれました。外海地域には5000名くらいの信徒がいましたが、2500名はカトリックに復帰し、2500名くらいは潜伏時代の信仰形態をそのまま維持する「隠れキリシタン」として留まりました。1882年にはフランス宣教師ド・ロ神父が私財を投じて集落を望む高台に「出津教会堂」を建て、それは、出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しました。
他に外海地方には、長崎市外海歴史民俗資料館、潜伏の日本人伝道師バスチャン潜伏跡、黒崎教会堂、大野教会堂などの遺産があります。なお、1797年、外海地区から108名の潜伏キリシタンが、五島列島に移住し、五島に再度キリスト教信仰が根付くきっかけになりました
<ド・ロ神父>
外海地区のキリスト教を語るためにはマルコ・マリ・ ド・ロ神父(1840~1914年)を知らなければなりません。1873年、キリシタン禁制の高札が撤廃され禁教令が解かれて、外海の出津集落にペルー神父が藁葺きの聖堂を建て、キリストの復活後、初めてのミサが行われました。そして、1879年、隠れキリシタンが多く住んでいた外海地区の司祭として赴任してきたのが、フランス貴族出身のド・ロでした。
裕福な貴族の家に生まれたド・ロは、外海地域の貧困からの脱出のために、施設建設や事業のために私財(現代価値で約20億円)を惜しみなく投じました。フランスで身につけた農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕業などの広範な分野に渡る技術を外海の人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれ、外海地区の住民たちに伝えた製麺技術は「ド・ロ様そうめん」として現在に至るまで愛用されています。
この地域の人々の生活は貧しく、孤児や捨子も多く、海難事故などもある現状にあって、ド・ロ神父は信仰の教えだけでなく、村人の貧困を改善するため、農業や漁業の技術指導をし、薬局、診療所、孤児院、救助院などの福祉事業を手掛けました。また1893年には大野教会堂を建てました。 現在、この一帯には、出津教会堂を中心に、出津救助院、ド・ロ神父記念館、外海歴史民族資料館などが点在し、宣教と貧困救済のため築かれた「出津文化村」となっています。今や出津は、長い迫害が終わり、穏やかな祈りの里になりました。この町は、枢機卿(二人)、そして多くの司祭やシスターを輩出しています。
こうしてド・ロ神父は、一度も祖国に帰国することなく、村人と共に暮らしながら、生涯を捧げました。UCの日本宣教師の中にも、ド・ロ神父のように、現地で骨を埋める信徒が多々いることは、まさに日本の誇りです。
【遠藤周作と沈黙の世界】
前記しましたように、外海地区は遠藤周作著『沈黙』の舞台となった地であり、遠藤周作文学館が建っています。 遠藤周作(1923~1996)は、11才で母の影響でカトリックの洗礼を受けました。慶応大学仏文科卒業後、フランスに留学し、帰国後作家として活動を始め、『白い人』で芥川賞を受賞し、一躍注目を集めるようになりました。
その後、日本の精神風土とキリスト教をテーマに、『海と毒薬』『イエスの生涯』『侍』『深い川』などを発表し、1966年、遠藤の代表作である『沈黙』を世に出しました。1996年に文化勲章を受賞しています。
左:出津教会堂、 中:長崎・外海地区の位置、 右:遠藤周作・沈黙の碑
<『沈黙』の世界>
『沈黙』は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説で、江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じて、神と信仰の意義、そして葛藤を命題に描いた本であります(第2回谷崎潤一郎賞受賞作)。「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」とのセリフは有名で、日本の「多神教的な宗教的土壌とキリスト教との乖離」に向き合った者たちを描きました。そしてこの小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という考えは、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となりました。
遠藤は、「華々しく殉教した強者のことではなく、卑怯さ、肉体の弱さ、死への恐怖、家族を助けたい一心で、信念を捨て、踏絵に足をかけてしまった弱者たちに私の関心は向かった。踏絵に足をかけた時、転びの者の多くは自分の弱さを嘆くと同時に、このような時代に生きたことを悲しんだことであろう。彼らの足はキリストの顔を見ながら、痛んだに違いない」(遠藤周作著『切支丹時代』小学館P36)と言っているように、弱者に寄り添う母性的なイエス、「弱者への許し」を描こうとしたのでした。それは自分自身が決してクリスチャンとして優等生でなかった遠藤自身の信仰人生が投影されているからかもしれません。自らのキリスト教信仰を、「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と告白し、日本人でありながらキリスト教徒であることの矛盾を感じつつ、これを克服しようしたのです。
以下は、新潮文庫本『沈黙』からの骨子です。
<『沈黙』要旨>
ロドリゴ日本へ
島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭である「クリストヴァン・フェレイラ」(1580~1650)が、想像を絶する苦難の航海を経て布教に赴いた日本で、禁教下の苛酷な弾圧・拷問に屈して、棄教したという驚くべき報せがローマにもたらされました。フェレイラはポルトガル人の高名な神学者にしてイエズス会の司祭で、日本で布教中に捕縛され、1633年、「穴吊り」の拷問に屈して棄教したと伝えられた歴史上実在した人物です。
あの敬虔で高徳な師匠フェレイラが、まさか拷問に屈して棄教するなどとは信じがたい報に、ポルトガル人の若きイエズス会司祭である「セバスチャン・ロドリゴ」は、同僚の フランシス・ガルペと共に、恩師であるフェレイラの棄教の真偽を確かめるため、同時に、日本にキリスト教の灯を絶やさないようにするため、決死の覚悟で日本へ向かうのでした。 ロドリゴのモデルとなったのはイタリア出身の実在の神父「ジュゼッペ・キアラ」で、キアラは棄教後、岡本三右衛門の名を与えられ、江戸小石川の切支丹屋敷で生涯を終えています。
こうしてフェレイラの弟子であるロドリゴとガルペは、日本に潜入すべくマカオに立寄り、マカオ駐在のヴァリニャーノの許可を求めると共に、そこでひ弱な日本人キチジローと出会います。マカオに駐在するイエズス会司祭のヴァリニャーノは、日本での布教経験があり、ロドリゴとガルペに日本における苛烈なキリスト教弾圧を伝え、日本への渡航を踏みとどまるよう説得しますが、二人の熱意に押されて渡航の許可をあたえます。
ロドリゴの捕縛、そして神の沈黙
キチジローの案内でトモギ村に潜入したロドリゴは潜伏キリシタンたちに歓迎されますが、やがて長崎奉行所に追われる身となりました。その後同僚ガルベは 、幕府に処刑されて殉教する信者たちを前に、思わず彼らの元に駆け寄って命を落としてしまいました。ロドリゴは、迫害され殉教していくトモギ村の信徒を憐み、ひたすら神の奇跡と勝利を祈りますが、神はこの悲惨な迫害に「沈黙」を通すのみでした。遠藤は次にように語ります。
「主はなんのために、これらのみじめな百姓たちに迫害や拷問という試練をお与えになるのか。迫害が起こって今日まで20年、この日本の黒い土地に多くの信徒の呻きがみち、司祭の赤い血が流れ、教会の塔が崩れていくのに、神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる」(『沈黙』新潮社P83)
役人の目を逃れて身を隠すロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられました。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにありました。
フェレイラと出会いといびきの真相
長崎奉行所でロドリゴは師のフェレイラと出会うことになります。当時フェレイラは棄教して、日本人女性と結婚させられていました。
かつては自身もキリシタンであった狡知な長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、「日本にキリスト教は根付かない、すべてのものを腐らせていく沼だ」と説得されます。こうしてロドリゴは、日本人にとって果たしてキリスト教宣教は意味を持つのかという命題を突きつけらるのでした。さらにロドリゴは、「おまえら宣教師の身勝手な夢で、どれだけ農民らの血が流れたか」と詰問され、人々のために死のうとして日本に来たのに、事実は「農民らが自分のために犠牲になっている」という厳しい現実に直面します。自分らがキリスト教を伝えさえしなければ、農民らは平穏な生活を享受できたはずなのに....。
更には、「島原で生きたまま火であぶられたナバロ師、雲仙の煮えたぎる熱湯の中に幾度も五体をつけられたカルブァリオ神父やガブリエル神父、大村の牢で飢え死にするまで抛擲されたあまたの宣教師たち」(『沈黙』P196)の情景がロドリゴの胸中をよぎります。そして、神の栄光に満ちた殉教を期して牢につながれたロドリゴのもとに、夜半、フェレイラが訪ねて語りかけます。フェレイラの説得を拒絶するロドリゴは、以前から彼を悩ませていた遠くから響く「鼾(いびき)のような音」を止めてくれと叫びます。
その言葉を聞いたフェレイラは、その声は鼾などではなく、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教の「うめき声」であること、そしてその信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを知らされます。(但し、このあたりの事情は遠藤周作の創作である)
苦渋の棄教、キリストとの出会い
自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ信徒を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知ることになります。
フェレイラは「あの拷問のうめき声に、神は何もなさらなかった。さあ、今まで誰もしなかった(棄教という)一番辛い愛の行為をするのだ」と語りかけます。こうしてロドリゴは、ついに踏絵を踏むことを受け入れました。ロドリゴは、これまでの人生でもっとも大切にしてきたキリストへの信仰を(表面上)捨て、民を救うことを選びました。人々を救うことが司祭の仕事なのに、自分の信仰心を守るためにその生命を犠牲にしてはならないとの思いでしょうか。 夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになります。
すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み、そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語りかけます。(『沈黙』P268)
こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねます。 そしてイエスは再び、ロドリゴに語りかけます。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか」(『沈黙』P294)と。踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味、母性的な神を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚します。
『沈黙』が教えるもの
それにしても、キリスト教が如何に受難の道を辿ったか、その中で如何に多くの血が必要だったか、そして宣教師たちが如何に難しい道を余儀なくされたのか、伝える者も伝えられる者も如何に苦難を共有せざるを得なかったか、この本ほど、これらの究極的な苦悩と、それに直面した人間の選択の難しさを語る物語はありません。
カトリック側は、遠藤が小説の中で、踏み絵(棄教)を正当化したと批判しましたが、そのカトリックの立場は理解できるとしても、誰もフェレイラやロドリゴを責めることは出来ないと筆者は思料いたします。(それにしても、世に戦略的偽装棄教という選択はなかったのでしょうか) なお、主人公のロドリゴ司祭のモデルとなったイタリア出身のカトリックイエズス会宣教師「ジュゼッペ・キアラ」は、岡本三右衛門(おかもと さんえもん)という日本名を名乗って生き、その墓碑は現在、サレジオ会の神学校である調布サレジオ神学院(東京都調布市)内の「チマッティ資料館」に保管されています。
<クリストヴァン・フェレイラについて>
ポルトガル出身のカトリック宣教師でイエズス会士であったクリストヴァン・フェレイラ(1580年~1650年11月4日)は、日本管区の管区長代理を務めていた1633年に長崎で捕縛され、中浦ジュリアン神父(殉教)らとともに穴吊りの刑に処せられました。他の者は皆殉教しましたが、5時間後にフェレイラは耐え切れず棄教することになります。宣教師の大多数は、1614年11月に国外追放されましたが、日本に残留して潜伏活動をしていた者もかなりいました。イエズス会士26名(補助者を含め約100人)、フランシスコ会士6名、ドミニコ会士7名、アウグスチノ会士1名、及び長崎の日本人司祭5名などです。特に三代将軍家光の親政が始まった1632年からキリシタン取り締まりは一段と厳しくなり、30名以上もの宣教師たちが命を落としました。フェレイラはその時の宣教師です。
とりわけ島原の乱以後、全国に渡る徹底的なキリシタン撲滅が命じられた時、日本のキリシタンは殉教するか、棄教するか、棄教を装うかの一つを選ばねばならなかったのでした。生きのびた潜伏キリシタンにとって、捕らえられたイエス、裁かれたイエス、辱めを受けたイエス、十字架を背負いゴルゴダの刑場に赴いていくイエス、即ち「十字架の道ゆき」は大きな励ましと慰めでした。ちなみにキリスト教会伝統の「受難週」の7日間は、イエスの十字架へのすべての苦痛とその意味を瞑想する期間であります。
棄教したフェレイラは沢野忠庵(さわのちゅうあん)を名乗り、日本人妻を娶り、以後は他の棄教した聖職者、いわゆる「転びバテレン」とともに、尋問通訳をさせられるなどキリシタン取締りに当たったと言われ、1644年にはキリスト教批判の『顕偽録』を書かされています。フェレイラの『顕偽録』は、元イエズス会会員の背教者ハビアンが出した『破提宇子』(はだいうす)と共に、従来の教理面の弱点が補強され、両書はその後に現れた「排耶書」に理論的根拠を与えたと言われています。 排耶書は1637年に起こった島原の乱を契機にして民衆教化のために利用され、幕府の鎖国政策を擁護して民衆の間に反キリシタン思想を鼓吹しました。フェレイラの墓所は東京都台東区谷中の瑞輪寺で、ここにある娘婿の杉本家の墓に合葬されています。
なお、日本のキリシタンの信仰のあり方について、遠藤周作は四時期に分けて論じています。第一期は迫害以前のキリシタン時代で、仏教や神道への対抗意識もあり、キリスト教の神の存在とその正当性に力点おかれました。第二期は豊臣秀吉の禁制や迫害の時期で、自らの迫害をイエス・キリストの受難と重ね合わせる歩みをし、第三期は徳川家康以降、迫害と弾圧が更に強くなった時代で、棄教か殉教かを迫られ、殉教による永遠の命のために試練を超える意思の信仰が求められました。そして第四期が島原の乱以降の徹底した禁教の時代で、棄教を装い隠れキリシタンとしての歩みが始まったというのです。(遠藤周作著『切支丹時代』小学館P190)
以上、『沈黙』の舞台外海の出津集落を中心に、潜伏キリシタンの実像、『沈黙』の世界、禁制下の迫害・殉教とその意味について見て参りました。次回は潜伏キリシタン最終回として、島原の乱の原城跡とその背景、そしてキリシタン大名などを見ていきたいと思います。(了)
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