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長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地③ 島原の乱の舞台「原城跡」(南島原市)

◯つれづれ日誌(12月15日)-長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産に見る信仰の聖地③-島原の乱の舞台「原城跡」(南島原市)


わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな(ヨブ1.21)。


長崎・天草潜伏キリシタン世界遺産の登録は、禁教時代のキリシタン迫害と殉教が何であったかを、再度私たちに思い起こさせる「天の声」だったのではないかと思われます。


そして潜伏キリシタンの歴史を知る上で欠かせない今一つの遺跡が「原城跡」です。


【島原の乱と原城跡】


原城跡は、禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタン、農民、浪人らが蜂起した「島原・天草一揆」の主戦場となった城跡です。


一揆の中心となった島原と天草は、それぞれキリシタン大名の有馬晴信(肥前)、小西行長(肥後)の領地で、もともとキリシタンが多い地域でした。幕府の禁教令により、長崎・天草のキリシタン農民は信仰を弾圧され、また厳しい年貢の取り立てに苦しんでいました。


そして1614年の禁教令以来、1619年の京都の大殉教、1621年の元和の大殉教などもあり、キリスト教への取り締まりは厳しくなっているという時代背景がありました。


<島原の乱とは>

当時の島原藩主は、有馬晴信が転封となり、代わって入封した松倉勝家であり、4万石の小大名としては、不相応な大きな島原城を作るなど、農民の生活が成り立たないほどの 過度な「年貢の誅求」を行いました。


また厳しいキリシタン弾圧も開始し、改宗を拒んだキリシタンや年貢を納めない農民に対し 、箕の踊りと呼ばれる火刑や、雲仙岳での熱湯漬けなど、苛烈な拷問・処刑を行ったことが記録に残っています。


また天草は小西行長の死後、唐津藩の寺沢広高の領地となり、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われました。


折からの飢饉も重なり、1637年、ついに怒り心頭に達した島原と天草の農民や元武士たち3万7千人が集結して立ち上がったのです。(1537年10月25~38年2月28)


総大将には、当時16歳のキリシタン天草四郎時貞が一揆統合のシンボルとして担がれました。天草四郎は小西行長の家臣の子で、長崎に遊学するなど学問に秀で、宗教的なカリスマ性があったと言われています。


左:天草四郎時貞肖像画  中:島原の乱図屏風  右:原城の位置図


また同地にはキリシタン大名であった晴信、行長の統治時代に入信した元武士の浪人がいて、この浪人とキリシタンが一揆の中核を担いました。


<島原の乱の経緯> 

一揆勢は、先ず島原城を攻撃、同時に天草の富岡城も攻めますが、結局、両城を落とせず、一揆勢3万7千人は、原城に集結します。原城は有馬晴信が築城した城でしたが、当時は廃城になっていました。


これに対し、板倉重昌率いる幕府軍4万人は、原城に総攻撃をかけますが、何と幕府軍が惨敗し、一揆勢の死傷者が僅かだったのに対し、幕府軍の死傷者は、4000名にのぼり、しかも、総司令官の板倉重昌は討ち死にしました。


原城は、石垣が5メートルもある防御に優れた城だったうえに、海に面した天然の要塞だったからです。


そして、一揆勢の強さの最大の秘密は、一揆勢の中心が有馬や小西の残党だったことです。彼らが、百姓を指揮して、戦術的に優れた士気が高い軍団を形成していました。その上、一揆勢の多くがキリシタンであり、宗教的結束がありました。


そこで、ついに幕府側は「知恵伊豆」と呼ばれた、幕府の老中・松平伊豆守が、幕府軍12万人の総司令官となって、原城を包囲して、兵糧攻めを開始します。


結局幕府軍は、原城に最後の総攻撃をかけて、1万2千人もの死傷者を出しながら、原城に立て籠もる一揆勢3万7千人を皆殺しにしました。その時、 天草四郎も打ち取られました。


一揆の後、 松平伊豆守は、分不相応な島原城を築城するために、過酷な年貢の取り立てを行い「島原の乱の原因」を作った島原藩主・松倉勝家を斬首の刑に処します。同様に唐津藩主寺沢堅高は天草の領地を没収されて、その後自害しています。


<島原の乱の真相> 

島原の乱は、圧政に抵抗して領主権奪取を目指す農民一揆なのか、信仰に目覚めた立ち返りキリシタンによる宗教一揆だったのか、議論のあるところです。


松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張しました。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着したというのです。


確かに、厳しい収奪に反発し、更に飢饉の被害まで加わり、改革を求めて両藩に対して起こした農民一揆であるという一面がありますが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、やはり「立ち返り」キリシタンの「宗教一揆」という側面を否定することはできません。


立ち返りキリシタンとは、1614年の禁教令以来、沈滞していた信仰を、圧政や飢饉を契機に復活させた信徒であります。彼らは、このような災難は信仰を曖昧にしてきた自分たちへの神の警告だと考えたのかもしれません。


いずれにせよ、殉教精神を持ったキリシタンが一揆側の結束の要だったことは確かであり、実際多くのキリシタンが殺害され犠牲になりました。 但し、バチカンは、この島原の乱を殉教とは認めていません。


この島原の乱以降、幕府は鎖国体制を強化して、ボルトガルとも断交し、キリシタンの取り締まりも、踏み絵や寺請精度を設けるなど一段と厳しくなっていきました。


【キリシタン大名と高山右近】


当時キリスト教が、広がった理由にキリシタン大名の存在があります。上記した島原の乱も有馬晴信や小西行長というキリシタン大名のもとで、キリシタンが多い地でありました。その中でも高山右近はキリシタン大名として最も信仰深いクリスチャンでした。


<初期の宣教とキリシタン大名>

1549年ザビエルら8人一行の初期の宣教は、薩摩の島津貴久、大内義隆らの保護を受け、また府内(大分)では大友宗麟にも受け入れられました。ザビエルは先ず平戸から布教の第一歩を始め、日本での布教の基礎を築きました。大名は、独自に南蛮人との交易の道を 模索しており、その南蛮との窓口になりうるザビエルたちは、来日当初、歓迎されたのです。


この過程の中で洗礼を受ける大名も出てきました。彼らはキリシタン大名と呼ばれており、特に有名な大名として大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子(高槻城城主)、小西行長、蒲生氏郷などで、ザビエル宣教後、60年の間に60人に昇るキリシタン大名が出現したと言われています。(守部喜雅著『宣教史フロイスが記した明智光秀と細川ガラシャ』いのちのことば社P24)


日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を要請しました。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られ、優れた宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノや織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を著した ルイス・フロイスなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたりました。


日本における宣教方針は、指導者トップからの「上からの伝道」と、日本の伝統文化と生活様式を尊重する「適応主義」の二つで、日本人司祭や司教を養成することを重視しました。この指針によって日本での宣教は順調に進み、ヴァリニャーノは日本人司祭の養成を急務とし、安土城下にセミナリオ(初等神学校)をはじめ、各地にセミナリオ、ノビシャド(修練院)、コレジオ(大神学校)を設置しました。


特に織田信長が1568年に京都に入ると事情は一変し、信長はルイス・フロイスらに京都での布教を認め、教会学校(セミナリオ)が作られるようになりました。


これらキリシタン大名の影響もあり、キリシタンの数は1600年ごろには40万人にも達し「キリシタンの世紀」と言われています。当時の日本の人口は約1500万人~2000万人くらいだったので、キリスト者の割合は3%を超えていました。


前述しましたように、キリシタン大名の中には鉄砲や貿易による利益への関心からキリシタンになった者もいましたが、高山右近のようにこの世での不利益を受けながらも信仰を貫いた大名もいました。


また代表的なキリシタン大名である大村純忠・有馬春信・大友宗麟の三大名は、巡察使ヴァリニャーノの勧めにより、1582年に天正少年使節をローマ教皇の元に派遣しています。


<高山右近>

さて高山右近(1552年~1615年)ですが、彼は代表的なキリシタン大名として知られています。


高山右近は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主であり、父友照の嫡男として生まれました。


1563年に10歳でキリスト教の洗礼を受けています。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであります。


友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとして生きました。この時代、友照が教会建築や布教に熱心のあまり、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けたといいます。


父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えました。そして、右近は細川忠興とガラシャにも影響を与えました。


フロイスは著書『日本史』の中で次のように書いています。


「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立され、五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス『日本史』)


1576年には、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4000人の領民が洗礼を受けました。また1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれたといいます。同年、高槻の領民25000人のうち、18000人(72%)がキリシタンだったと言われています。(カソリック高槻教会レポート)


1582年本能寺の変で信長が倒れ、信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続し、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めました。1585年、右近は明石6万石に転封され、明石教会を建設しました。


しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫ります。しかし右近は「現世の栄華より、永遠の霊魂の救いを求む」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となります。


1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。


1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布し、1614年には右近の国外追放令が出されます。右近一家は雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着き、そして長崎から船でマニラへ向かい、43日後に到着しました。ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。


しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために、到着後40日ほどで熱病にかかり、1615年2月3日、63歳の生涯を閉じました。マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られました。


以上、高山右近の見上げた信仰は、キリスト教復興のよいモデルと教訓になると信じるものです。


【浦上天主堂と長崎の鐘】


さて長崎世界遺産の最後に、永井隆著『長崎の鐘』の世界を考察して締めくくりにしたいと思います。但し、長崎の鐘の舞台となった現在の浦上天主堂自体は世界遺産には入っていません。


<永井隆と長崎の鐘>

永井隆(1908~1951)は長崎医科大学(長崎大学医学部)の教授で、夫婦共に浦上教会の敬虔なカソリック教徒でした。大学で放射線研究の最中、1945年8月9日午前11時2分、 浦上天主堂がある長崎市浦上の真上に原子爆弾が炸裂しました。


自らも被爆し、右側頭動脈切断というひどい傷を受けましたが、被爆者の世話をして医師としての務めを果たし、4日後自宅に帰宅すると、最愛の妻は焼け死んでおり、ロザリオだけが残されていたといいます。


「長崎の鐘」とは、浦上天主堂にかかげられていた、祈りの時刻を告げるアンゼラスの鐘のことです。原爆投下後、天主堂が炎上した際も、ひび一つ入らずに無事に掘り出され、その年のクリスマスの日から、再び平和の鐘として鳴らされています。


永井は、後日この原爆体験を著書『長崎の鐘』に書き記しました。この『長崎の鐘』を歌にした「長崎の鐘」は大ヒットし、国民の涙を誘い、人々に勇気と希望を与えました。


サトウハチローは、『長崎の鐘』を読んで霊感を受け、全身全霊を捧げて作詞したそうで、古関 裕而が作曲しました。この歌には、原爆犠牲者への鎮魂、平和への祈り、神への感謝が込められています。


<原子爆弾投下>

さてここで広島と長崎に落とされた原爆についてまとめておきましょう。


広島市への原子爆弾は、1945年8月6日(月)午前8時15分47秒、 に投下されました。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃でありました。


この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約15

万人が死亡したとされています。


また長崎市への原子爆弾は、1945年(昭和20年)8月9日(木)午前11時02分に投下されました。


この核攻撃により、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊しました。


広島原爆(ウラン燃料)と長崎原爆(プルトニウム燃料)を比較すると、爆発時の破壊力、被害状況などが異なり、むしろ破壊力の大きい原爆を使われたのが長崎原爆であり、被害が大きかったのが広島原爆でありました。


広島の約1.5倍の威力を持つ原爆が使われた長崎の方が被害が少なかったのは、長崎市は山で囲まれた地形で、山によって熱線や爆風が遮断されたためといわれています。


また広島と長崎の反核運動や核廃絶運動などに対する姿勢の違いを、「怒りの広島」、「祈りの長崎」と形容されることがあります。


これは、広島原爆の代表文学、峠三吉の原爆詩集「にんげんをかえせ」が被爆者の怒りを表しており、長崎原爆の代表文学、永井隆の『長崎の鐘』は日本の生まれ変わりと平和を訴える作品であり、しかも長 崎はキリスト教徒が多く、世界平和をひたすら祈る印象があるためであると言われています。無論、 広島市民が平和を祈らないわけでも、長崎市民に怒りがないわけでもありませんが....。


<浦上キリシタンの数奇な運命>

それにしても、歴史的に浦上のキリシタンほど数奇で過酷な運命を辿った人々はいないでしょう。


16世紀、大村純忠は、日本で初めて洗礼を受けたキリシタン大名であり、大村領民にキリスト教を勧めたので、領内では多くのキリシタンが生まれました。また大村純忠は1579年、長崎と茂木を、有馬晴信は浦上村をイエズス会に寄進し、浦上の村民はほとんどがキリシタンになりました。


しかし1614年の徳川の禁教令以来、取り締まりが厳しくなり、1644年に最後のスペイン宣教師が殉教して、日本に宣教師はいなくなりました。


禁教下の中では、たびたびキリシタンが摘発され、1667年に、尾張・美濃国で隠れキリシタンが検挙され数百人が殺された「濃尾崩れ」のように、信者の大量処刑により、ほぼ根絶されて幕を閉じた事件もあれば、「天草崩れ」のように、混乱を恐れて江戸幕府が信者を赦免した事例もあります。また豊後(大分)、大籠(岩手一関)、高槻(大阪)などでも、多くの篤実なキリシタンが殉教しました。


長崎浦上では1790年の一番崩れ、1842年の二番崩れ、1859年の三番崩れといわれる検挙が発生しました。崩れとは、信仰が発覚し摘発されて共同体が崩壊することです。


前回でも触れましたが、特に、1867年の「四番崩れ」では、禁教を継続した明治政府により浦上のキリシタン全村民が流罪となり、3414名が長州、薩摩、津和野、福山、徳島などの各藩に配流され、旅先で激しい迫害を受け、千余名が背教し、562人が亡くなりました。永井は、浦上のキリシタンが島根県津和野に流刑され、そこで殉教した38人のキリシタンを描いた『乙女峠』を書いています。


<浦上天主堂>

そして1874年禁教が解かれ、流刑の地から浦上に帰ったキリシタンたちは、1879年に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であります。


そうして1914年(大正3年)、煉瓦造瓦葺の浦上天主堂が完成し、献堂式を挙行しました。


しかし1945年、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂は破壊することになります。


原爆投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に集まっており、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・ラファエル西田三郎、助任司祭・シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡しました。


1945年11月23日、浦上のカトリック信徒約300名が、空虚と化した浦上天主堂わきの広場で、浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行し、これが原爆犠牲者慰霊の始まりとなりました。


そうして1959年11月1日、浦上天主堂が再建され、1962年には、長崎大司教区の司教座聖堂に指定されています。


<長崎の鐘の世界ー永井隆の追悼文より>

一体、何故長崎に、しかも長い禁教下の中で信仰を守り、幾多の迫害と殉教を経て、当時なお日本で最も多くのキリスト教徒を擁していた浦上が、よりにもよって何故爆心地にならなければならなかったのでしょうか。神は何故、かくも清められた聖地浦上を選ばれたのでしょうか。


ここに永井隆著『長崎の鐘』の中に、合同葬での弔辞がありますので、この弔辞を手掛かりに、この問いを探っていきましょう。


冒頭に次のようにあります。


「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂が一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります」


原爆のその日の真夜半、浦上天主堂は炎上しましたが、これとまったく同じ時刻に、大本営に於て天皇陛下が終戦の聖断を下されたというのです。


永井はこれを単なる偶然ではなく、天主の妙なる摂理であると考えます。


当初原爆は小倉に予定されていたのが、小倉の上空が雲にとざされいたため、突然予定を変更して予備目標であった長崎に落すこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍需工場を狙ったのが少し北方に偏って浦上天主堂の正面に流れ落ちたのだというのです。


永井は、終戦と浦上潰滅との間には深い関係があるのではないか、つまり戦争という罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ清き子羊として選ばれたのではないか、と問いかけます。


永井は、「これまで幾度も終戦の機会はあり、全滅した日本の都市も少なくなかったが、それは犠牲としてふさわしくなく、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう」と語ります。


然るに浦上が屠られた瞬間、初めて神はこれを受け入れられ、天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたというのです。

 

「信仰の自由なき日本に於て 、迫害の400年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかった浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き子羊ではなかったのでしょうか」


永井は、この犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたとし、次のように語ります。


「汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。潔き羔として神の御胸にやすらう霊魂の幸よ」と。


そして永井は、「生き残ったものは、償いを果たしていなかったから残された」と告白し、残されたものは、この賠償の道を歩みゆかねばならないと語り、そして最後にこう結びました。


「主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。ねがわくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。アーメン」


以上のように、カトリック信者である永井隆は、浦上天主堂は、神への「贖いの供え物」であり、その尊い犠牲によって戦争が終結し、日本が生まれ変わり、世界の平和が再来する機会となったと認識しました。


生き残った人々は、長崎の復興に努めることを呼び掛け、それがキリスト教の信仰の証だと、原爆の意味をそのように解釈したのでした。これが、長崎の原爆平和運動には「恨」がなく「怒りの広島、祈りの長崎」と言われた理由でありましょう。


実際、永井は自ら被爆していたにもかかわらず、医師として、多くの被爆者達の手当を行っています。そのため妻緑さんの安否を確かめる暇もなく、ようやく家に帰ってみると、黒く焼けて塊と化した緑さんの亡骸を発見しました。


永井が晩年を過ごした如己堂(にょこどう)は、長崎市にある、白血病の療養をしていた建物です。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれました。


如己堂の名前の由来は、マルコ12章31節「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられました。


如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地です。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭で、浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、7代目の吉蔵で途絶えることになりましたが、この吉蔵は永井隆の夫人・みどりの曾祖父にあたります。


永井は1951年5月1日、白血病悪化により43歳の若さで亡くなりました。市営坂本国際墓地に妻の緑さんと一緒に埋葬されています。その墓石には、「われらは無益なしもべなり。なすべきことをなしたるのみ」(ルカ17.10)と刻まれています。



以上が、島原の乱の舞台「原城跡」を中心とし、キリシタン大名、長崎原爆についての解説であります。これで三回に渡る世界遺産の旅を終わりたいと思います。


それにしても潜伏キリシタンは、宣教師も神父もいない中で、しかも危険な中、どうやって2世紀以上も信仰を保ち、親から子へ、子から孫へ伝えられたのでしょうか。


当に信仰が殉教を生み、殉教はまた信仰を生んでいきました。ローマ教皇も信徒発見は、現代の奇跡だと驚愕されたとか....


今回、進展、禁教、殉教、そしての潜伏というキリシタンの歴史を振り返りましたが、感じることは、迫害・拷問・受難という地獄を見てきた信仰者の凄まじい生命力です。


これ以上ないどん底を通過してきたこれらキリシタンの生き様は、私たちに如何なる試練や苦難も乗り越えていけるという教訓と希望を与えてくれます。


殉教の血は「宣教の種子」という言葉がありますが、日本にも信仰のために流された多くの血があったことを想起し、これらをよき種として、日本総福音化を目指して精進したいと決意を新たにさせられました。(了)



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