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外海訪問記ー長崎外海(そとめ)潜伏キリシタンを偲んで 遠藤周作著『沈黙』の考察

◯つれづれ日誌(令和5年5月24日)-外海訪問記ー長崎外海(そとめ)潜伏キリシタンを偲んでー遠藤周作著『沈黙』の考察


わが神、わが神、なにゆえにわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか(詩篇22.1)


令和5年5月17日、筆者はユネスコの長崎潜伏キリシタン世界遺産に登録された12の世界遺産の内、「外海(出津・黒崎)地区」を訪問いたしました。以下はその訪問記です。 なお、

沈黙の舞台「外海・出津集落」については、「つれづれ日誌(令和3年12月8日)」にも述べています。


【世界遺産『沈黙』の舞台を訪問して】


外海(そとめ)地区は、長崎市の北西約40キロに位置し、西側は五島列島を望む美しい自然の個性豊かな地域で、遠藤周作著『沈黙』の舞台となった地であります。今回の外海訪問で強く感じたことを端的に要約すれば、次の通りです。


「日本にも見上げたキリスト教信仰と殉教の歴史的伝統があった。神はこの日本に福音の種を蒔かれ、そして育てられた。この宣教と殉教の歴史は、日本の宝であり、再臨摂理に日本が召命される霊的条件になった。問題はこの蒔かれた種を如何に刈り入れ、再臨摂理に繋げるかである」


筆者はかって、原爆で8000名のクリスチャンが一瞬に天に召された長崎の浦上天主堂を訪れた際に、礼拝堂で祈りながら、次のような思いが込み上げてきました。


「日本の歴代総理は、毎年お正月には伊勢神宮に参拝するが、伊勢神宮と共に、ここ浦上天主堂に参拝するべきではないか。神の救済摂理の中心に立つキリスト教の福音の象徴として、日本を代表して殉教の道を行き、日本が生まれ変わるための贖いの供え物になった浦上と浦上天主堂こそ、日本の聖地にふさわしい」


そして、今回外海の出津(しつ)教会を訪れた際にも、「この外海の潜伏キリシタンの信仰は、浦上のキリシタンと劣らない日本の宝であり、聖地である」と感じたものでした。


出津教会で聞いた、潜伏キリシタンの末裔という女性スタッフの話によると、今までこの地域から、なんと枢機卿3名、神父50名、シスター数百名が排出されているということでした。驚くべきことに、この地域には、一番優秀な息子は神父に、娘はシスターにするという伝統があるというのです。


左・沈黙の碑  中央・遠藤周作文学館前にて  右・外海・出津教会          


<12の潜伏キリシタン関連遺産>


1549年に ザビエルがキリスト教を宣教して以来、一時は40万人~50万人(当時の人口は1500万人~2000万人)ものキリシタンがいたことがありますが、1587年の豊臣秀吉によるバテレン追放令、1614年の徳川幕府のキリシタン禁教令によってキリスト教が日本に根付くことはなく、1873年禁教令が撤廃される迄の約260年間に、多くの殉教者を出すことになりました。 即ち、1596年の26聖人の殉教、1619年の京都の大殉教(52名)、1922年の元和の大殉教(55名)、1737年の島原の乱(数万名)といった迫害の中で、なお信仰を貫くキリシタンは潜伏を余儀なくされました。


1865年に浦上地域の潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪れ、自らがキリシタンであることを告白した、いわゆる「信徒発見」は、それまで日本にキリスト教徒はいなくなったと思っていたバチカンを驚かせ、教皇は腰を抜かすほど感激したと言われています。そして遂に、2018年、長崎と天草地方の「12の潜伏シタン関連遺産」が「ユネスコ世界文化遺産」に登録されました。長崎市の外海(出津集落・黒崎集落・大野集落)はその一つです。


かつて外海一帯には5000人以上の信者がいましたが、江戸幕府の禁教政策により、大村藩は厳しく取り締まりました。しかし、外海は大村城下から遠く、また外海の出津や黒崎などは比較的寛容な「佐賀藩の飛び地」も混じり、多くの潜伏キリシタンが残っていました。


<外海の出津集落>


長崎は、かって大村藩の統治下にあり、藩主大村純忠がキリシタンであったこともあり、多くのキリシタンが住んでいましたが、禁教以後、潜伏を余儀なくされ、幕府の迫害を逃れて辿り着いた陸の孤島が外海(そとめ)の出津集落であります。


外海の出津(しつ)・黒崎・大野集落は、禁教期に潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、「聖画」や「教会暦」などを密かに伝承し、オラショ(祈り文)を唱えながら、あるいは寺の檀徒を装いながら信仰を維持しました。神父がいない中、儀式を司る「帳方」や洗礼を施す「水方」と言った独自の組織を作り、また「寺社(曹洞宗天福寺)と共生」しながら自分たち自身で信仰を続けた集落であります。また、サン・ジワン神父や日本人伝道師バスチャン(長崎西坂にて殉教)が作成した暦や「七代経てば救いが来る」との預言を信じてこれを希望としました。吹き荒ぶ海風と急峻な崖が連なる陸の孤島に、当時の暮らしぶりが偲ばれます。 なお、1797年、外海地区から108名の潜伏キリシタンが、五島列島に移住しています。


1882年にはフランス人宣教師ド・ロ神父が集落を望む高台に平屋建ての「出津教会堂」、1893年、石造の「大野教会」を建て、更に、1920年、黒崎にもド・ロ神父が私財を投じてレンガ造りの「黒崎教会」を建てました。他に外海地方には、「長崎市外海歴史民俗資料館」、「潜伏の日本人伝道師バスチャン潜伏跡」、「ド・ロ神父記念館」、そして「遠藤周作文学館」があります。


遠藤周作文学館スタッフの話によると、この地域には全村5000人もの潜伏キリシタンがいたと言われ、解禁後は2500名がカトリックに帰依し、他は隠れキリシタンとして従来の形の信仰を維持しているということでした。遠藤周作の小説『沈黙』に登場する潜伏キリシタンの集落「トモギ村」は外海(出津)をモデルに創作された地であり、原作者の遠藤周作はこの地を取材で何度も訪れ、小説を書きあげました。現地に「遠藤周作文学館」があり、映画化もされ、マーティン・スコセット監督の「沈黙―サイレンス」が有名です。


<ド・ロ神父>


さて、外海地区のキリスト教を語るためにはマルコ・マリ・ ド・ロ神父(1840~1914)を知らなければなりません。1873年、キリシタン禁制の高札が撤廃され禁教令が解かれて、外海の出津集落にペルー神父が藁葺きの聖堂を建て、キリストの復活後、初めてのミサが行われました。 そして、1879年、潜伏キリシタンが多く住んでいた外海地区(出津・ 黒崎・大野)の司祭として赴任してきたのが、フランス貴族出身の若いド・ロであります。


裕福な貴族の家に生まれたド・ロは、「魂の救済だけでなく、生活の救済も必要」とし、外海地域の貧困からの脱出のために、施設建設や事業のために私財(現代価値で約20億円)を惜しみなく投じました。フランスで身につけた農業・印刷・医療・土木・建築・工業・養蚕業などの広範な分野に渡る技術を外海の人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれ、外海地区の住民たちに伝えた製麺技術は「ド・ロ様そうめん」として現在に至るまで愛用されています。


この地域の人々の生活は貧しく、孤児や捨子も多く、海難事故などもある現状にあって、ド・ロ神父は村人の貧困を改善するため、農業や漁業の技術指導をし、薬局、診療所、孤児院、救助院などの福祉事業を手掛けました。また前述の通り、出津教会堂(1882年)、黒崎教会(1920年)、大野教会堂(1893年)を建てました。こうしてド・ロ神父は、一度も祖国フランスに帰国することなく、村人と共に暮らしながら、独身のままその生涯を捧げました。出津教会の近くに葬られています。


左・マルコ・マリ・ド・ロ神父  中央・出津救助院  右・外海海岸      


さて今回のツアーでは、黒崎教会→遠藤周作文学館→出津教会の順で回りましたが、ある信徒の告白によると、レンガで造られた黒崎教会の荘厳な礼拝堂に入った途端、神の霊の注ぎを感じ、潜伏キリシタンの霊が語りかけてくるのを実感したということでした。日本にも、監視・迫害・拷問・殉教の中で、かくも見上げた信仰があったという事実に改めて驚くと共に、「この信仰のお陰で、再臨期に日本が用いられる条件になった」という信徒の言葉は、当たらずとも遠からずと納得いたしました。


筆者は、かって「日本的霊性」について論じた際、日本的霊性は仏教・儒教・神道がその源泉にあり、特に古神道が大きな影響を与えているとした上で、日本的霊性とは「自然を崇め、先祖を敬い、和を尊び、清浄を好む宗教的精神性」と定義しました。しかしもう一つ付け加えるべきは、潜伏キリシタンに象徴される信仰的伝統、唯一の神に帰依する精神性、即ち「一神教への郷愁」であります。日本人の遥かな心の根底には、一神教の神を受け入れる霊性があると信じるものです。


【遠藤周作と沈黙の世界】


さて前述の通り、外海地区は遠藤周作著『沈黙』の舞台となった地であり、「遠藤周作文学館」が建っています。


遠藤周作(1923~1996)は、12才で叔母の影響で形だけとは言えカトリックの洗礼を受けました(洗礼名パウロ)。後年遠藤は、自ら受洗したキリスト教を「身の丈に合わぬ洋服」と述べ、それを「身の丈に合う和服に仕立て上げた」と語りました。 即ち、西洋のキリスト教を日本的キリスト教に仕上げたというのです。これは内村鑑三が目指したものでもあります。


慶応大学仏文科卒業後、フランスに留学し、帰国後、キリスト教を題材とする作家として活動を始め、『白い人』で芥川賞を受賞し、一躍注目を集めるようになりました。その後、日本の精神風土とキリスト教をテーマに、『海と毒薬』『イエスの生涯』『侍』『深い川』などを発表し、1966年、遠藤の代表作である『沈黙』を世に出し、1996年には文化勲章を受賞しています。


戦後日本文学の最高峰と言われる『沈黙』(新潮文庫)は、遠藤周作が17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいて創作した歴史小説で、江戸時代初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭を通じ、「信仰者の受難と同伴者イエス」をテーマに描いた書であり、第2回谷崎潤一郎賞を受賞しました。


「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」とのセリフは有名で、日本の宗教的土壌とキリスト教との乖離に向き合った者たちを描くと共に、受難に遭遇する司祭の内面的な激しい葛藤を通じて、真の信仰とは何かを鋭く問うています。そしてこの小説で遠藤が到達した「弱者の神」「同伴者イエス」という思想は、その後の『死海のほとり』『侍』『深い河』といった小説で繰り返し描かれる主題となりました。


左・遠藤周作「沈黙」 中央・映画化・沈黙(サイレンス) 右・映画のワンシーン


<『沈黙』のあらすじとその検証>


島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭である「クリストヴァン・フェレイラ」が、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという驚くべき報せがローマにもたらされました。 フェレイラはポルトガル人の高名な神学者にしてイエズス会の司祭で、日本で布教中に捕縛され、「穴吊り」の拷問に屈して棄教したと伝えられた歴史上実在した人物であります。


あの敬虔で高徳なフェレイラがまさか拷問に屈して棄教するなどとは到底信じがたい報に、ポルトガル人の若きイエズス会司祭である「セバスチャン・ロドリゴ」は、同僚の フランシス・ガルペと共に、恩師であるフェレイラの棄教の真偽を確かめるため、同時に、日本にキリスト教の灯を絶やさないようにするため、当時ポルトガルとの国交が断絶していた日本に、決死の覚悟で向かいました。ポルトガルからアフリカ南端、インドのゴア、マカオを経る長い旅は、死と隣り合わせの過酷な船旅でした。

なお、ロドリゴのモデルとなったのはイタリア出身の実在の神父「ジュゼッペ・キアラ」で、キアラは棄教後、岡本三右衛門の名を与えられ、江戸小石川の切支丹屋敷で生涯を終えています。


マカオでキリシタンの日本人キチジローと出会い、キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは、当初潜伏キリシタンたちに歓迎されますが、やがて長崎奉行所に追われる身となりました。同僚ガルベは 、海に立てられた杭にくくりつけられ、処刑されて殉教するトモギ村の信者たちに同情し、思わず彼らの元に駆け寄ったため命を落としてしまいました。ロドリゴはひたすら神の奇跡と救いを祈りますが、神はこの悲惨な迫害に「沈黙」を通すのみでした。聖書に「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」(詩篇22.1)とある通りです。そして逃亡するロドリゴはやがて信仰の未熟なキチジローの裏切りで密告され、捕らえられます。ロドリゴは次のように神に問いかけます。


「なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片目の百姓が、あなたのために死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静けさを続ける。愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、おなたはそっぽを向く。それが、耐えられない」(『沈黙』新潮文庫P187)


長崎奉行所でロドリゴは師のフェレイラと出会うことになりました。当時フェレイラは棄教して、日本人女性と結婚させられていたのです。かつては自身もキリシタンであった狡知な長崎奉行の井上筑後守から、「日本にキリスト教は根付かない、すべてのものを腐らせていく沼だ」と説得され、また「おまえら宣教師の身勝手な夢で、どれだけ農民らの血が流れたか」と詰問されます。こうしてロドリゴは、日本人にとって「果たしてキリスト教宣教は意味を持つのか」という深刻な命題を突きつけられたというのです。


人々のために死のうとして日本に来たのに、事実は「農民らが自分のために犠牲になっている」という現実に直面させられ、「自分たちがキリスト教を伝えさえしなければ、農民らは平穏な生活を享受できたはずなのに」と煩悶しました。この点、文鮮明先生も同じ煩悶を吐露されています。1973年、共産主義政権下のチェコスロバキアで、宣教師をはじめ信徒30名以上が検挙され、マリ・チブアが獄中で殉教した時、文鮮明先生は「彼らが私に出会っていなければ、私が伝えるみ言を聞いていなければ、そのような寒くて孤独な監獄に行くこともなく、そこで死ぬこともなかったはずなのに」と泣かれました(文鮮明著『平和を愛する世界人として』創芸社P179)。


そして、「島原で生きたまま火であぶられたナバロ師、雲仙の煮えたぎる熱湯の中に幾度も五体をつけられたカルブァリオ神父やガブリエル神父、大村の牢で飢え死にするまで抛擲されたあまたの宣教師たち」(『沈黙』P196)の情景がロドリゴの胸中を過ぎていきます。


こうした中、神の栄光に満ちた殉教を期して牢につながれたロドリゴのもとに、夜半、フェレイラが訪ねて語りかけます。当時フェレイラは棄教させられ、切支丹の誤りと不正を暴いた『顕偽録』という本を書かされていました。かって生涯かけて信じてきた基督教を不正だと書いているのです。最初フェレイラの説得を拒絶していたロドリゴは、以前からずっと彼を悩ませていた「鼾(いびき)のような音」を止めてくれと叫びます。その言葉を聞いたフェレイラは、その声は鼾などではなく、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教の「うめき声」であること、そしてその信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告知します。


自分の信仰を守るのか、それとも自らの棄教という犠牲によって、拷問に苦しむ信者を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、はじめてフェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知ることになりました。 フェレイラは「あの拷問のうめき声に、神は何もなさらなかった。さあ、今まで誰もしなかった(棄教という)一番辛い愛の行為をするのだ」(『沈黙』P266)と語りかけます。 こうしてロドリゴは、ついに踏絵を踏むことを受け入れたのでした。


ロドリゴは、これまでの人生でもっとも大切にしてきたキリストへの信仰を(表面上)捨て、民を救うことを選んだというのです。 人々を救うことが司祭の仕事なのに、自分の信仰心を守るために農民の生命を犠牲にしてはならないとの思いでした。 そして夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになります。


すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛みが走りました。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」(『沈黙』P268)と語りかけます。そしてロドリゴは、「お前たちと共に苦しんでいたのだ」とのイエスの声を聞き、初めて神が沈黙されていたのではないことを悟るのでした。 踏絵を踏むことで初めて「同伴者キリスト」(ヘブル4.15)、即ち「共に苦しみ悩む神」(イザヤ63.9)の意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自認しました。


それにしても、キリスト教が如何に受難の道を辿ったか、その中で如何に多くの血が必要だったか、そして宣教師たちが如何に難しい道を余儀なくされたのか、伝える者も伝えられる者も如何に苦難を共有せざるを得なかったか、小説とは言え、この本ほどこれらの究極的な苦悩と、それに直面した人間の選択の難しさを語る物語はありません。


ただカトリックは、遠藤が小説の中で、踏み絵(棄教)を正当化したと批判しています。そのカトリックの立場は理解できるとしても、誰もフェレイラやロドリゴを責めることは出来ないと筆者は思料します。それにしても、世に「戦略的偽装棄教」という道はなかったのでしょうか。


<小説家遠藤周作の告白>

遠藤周作は、著書『人生の踏絵』の中で、次のように告白しました。


「我々小説家は、皆さんと同じように人生が分からないでいて、人生に対して結論を出すことができないから、小説を書いているのです。人生に対して結論が出てしまって迷いが去ってしまっているならば、我々は小説を書く必要がない。小説家は迷いに迷っている人間なんです。暗闇の中で迷いながら手探りで少しずつでも人生の謎に迫っていきたいと小説を書いているのです」


また著書『異邦人の立場から』の中で、「『沈黙』を書いたあと、私が次に自分に課したテーマは、それでは日本人の信じられるような、また日本人の実感に分かるような、イエスというのはどういうものか、ということであった」と述べ、新たなイエス像の著書『イエスの生涯』(新潮文庫)を世に出しています。 『イエスの生涯』には、「『沈黙』を書き終えて以後、私は日本人につかめるイエス像を具体的に書くという課題を自分に課した」(P256)と述べています。


そして、論文『宗教の根底にあるもの』において、「各宗教は別々かというと、私はキリスト教が説いていることも、仏教が説いていることも、ヒンズー教が説いていることも、根底においては共通したものがあると思う」とも語りました。(以上、「遠藤周作文学館陳列文書」より)


以上が、外海地区潜伏キリシタンの旅の顛末です。筆者を含め、ツアーに参加された方々は大いに刺激を受け、一様に復活しました。時間とチャンスがあれば、一度訪問されることをお薦めいたします。(了)

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