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鷺沼セミナーに思う ホームチャーチの理念

◯つれづれ日誌(令和4年7月27日)-鷺沼セミナーに思うーホームチャーチの理念


ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである(マダイ18.20)


この7月23日、鷺沼で「ギリシャ正教とカトリック」というテーマで、セミナーが行われ、筆者は講師を務めました。このセミナーは、ある夫婦が取り組んでいる家庭教会(ホームチャーチ)の一環として行われているもので、聖書(み言)の内容をそのまま語るというより、地域の人々を対象に、宗教、文化、時局など幅広いテーマで、聖書的世界観を意識しながら広く啓蒙するものです。


以前筆者は、プーチンのウクライナ侵略の背後に、ロシア正教の強い影響があること、即ちプーチンとキリル総主教には、「ルースキーミール」(ロシアの世界)という共通の目標があり、プーチンは政治分野で、キリルは宗教の分野で各々分担して取り組んでいることを説明しました。


筆者は、神が「正教に注目せよ」と言われているような気がして、このようなプーチンのウクライナ侵略にお墨付きを与えるロシア正教とは如何なる宗教で、如何なる教理を持っているのかに関心を深めた次第です。


そこで、今回のセミナーの内容を踏まえ、先ずプーチンが最も信奉するピョートル大帝について述べ、次にギリシャ正教(ロシア正教)とカトリック(西側キリスト教)の歴史と教理の違いについて説明し、最後に家庭教会の在り方や理念について考察したいと思います。


なお、キリスト教には大きくローマカトリックなどの「西方キリスト教」と、 ロシア正教などの「東方正教会」(=ギリシャ正教)に分けられ、教理的には、ギリシャ正教、ロシア正教、ウクライナ正教は、皆同じ正教と考えて間違いではありません。


【プーチンが信奉するピョートル大帝】


プーチンはロマノフ王朝中興の祖といわれる「ピョートル大帝」を最も信奉し、大統領執務室にもその肖像を掲げています。1990年にロシアの主権宣言を記念した日をロシアの日と呼び、プーチンはこの「ロシアの日」(6月12日)に次のように演説しました。


プーチンは演説の中で、「先人たちの偉業や軍功は我々にとって誇りだ」と強調し、とりわけ、1721年にスウェーデンとの北方戦争に勝利して領土を拡大し、大国の礎を築いた帝政ロシアのピョートル1世(大帝)に「特に敬意を表する」と述べ、大北方戦争での獲得領土は奪ったのではなく取り返したのだと主張して、現在のウクライナ侵攻を正当化しました。


では一体、プーチンがこれ程までに信奉するピョートル大帝とはどのような皇帝なのでしょうか。

ピョートル1世(1672年~1725年)は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年~1725年)、初代ロシア皇帝(在位:1721年~1725年)で、中央集権的な国家の在り方を定めました。


西洋化政策を強力に推し進め、スエーデンとの大北方戦争の勝利して、大帝と称されました。ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げ、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取し、また黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標としました。


これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争(1700年~1721年)に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行し、さらに「正教会を国家の管理下」に据えました。こうして帝国における全勢力を皇帝の下に一元化し、国家名称を「ロシア帝国」に昇格させました。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されています。


即ち、西欧化政策、北方大戦争の勝利、ロシア正教を国家機関にしたこと、この3つが顕著な特色であります。


多摩大学学長である寺島実郎氏は、動画「世界を知る力」の中で、プーチンがピョートル大帝を信奉しているとした上で、実はプーチンは、ピョートル大帝と似て非なることをやっていると批判しました。


先ず第一に、プーチンはピョートル大帝の西欧化政策に逆らっていると指摘しました。

ピョートルは、1697年3月から翌1698年8月まで、約250名の使節団をヨーロッパに派遣し、 軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目指しました。その際、自ら身を隠してオランダ、イギリス、フランス、オーストラリアなどに長期間視察に行くなど、西洋に憧れ、西洋化政策を推し進めました。オランダでは船大工とともに働くピョートルの姿があり、2mも上背がある「活動的な筋肉労働者的な職人皇帝」と評されています。


しかし、逆にプーチンはロシア、スラブの世界に固執し、西側と敵対して大ロシア主義を目指しています。


第二に、ピョートル大帝は、スエーデンとの大北方戦争(1700年~1721年)に勝利しましたが、その際、ポーランドやデンマーク、トルコなど、周辺国と協約を結び、回りからの憂いをなくしてからスエーデンと戦いましたが、プーチンはそう言った根回しをせず、世界を敵に回してしまいました。


そしてロシア正教を語る上で、最も重要な出来事として強調すべきは、ピョートルはロシア正教を国家機関に組み入れ、皇帝に従属する宗教として国家の管理下においたことです。ここからロシア正教は民族宗教の色彩が強い宗教になっていきました。この点はピョートルとプーチンの類似点であり、以後、西側の政教分離に対して、ロシアでは基本的に政教一致が原則になっていきます。


ピョートルは、1720年には総主教座の廃止に踏み切り、教会を聖務会院という国家の世俗機関の管轄下に置きました。しかし、こうした国家による教会の統制という考え方は、正教会における伝統的な国家と教会のあるべき関係である「ビザンティン・ハーモニー」とは相容れないものであり、後に総主教座は復活したものの、正教会からのピョートルに対する評価は低いものとなっています。


ちなみに、ビザンティン・ハーモニーとは、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)における国家と教会の関係のあり方を指す、本来の正教会における神学・政治学上の基本的概念で、国家と教会の両者を、いずれかが上位であるかといった対立関係にあるものとしてではなく、互いに立場を尊重・理解して支え合い、この世を来世の写しとするために共に歩むものとして位置づけるものです。


【ギリシャ正教の歴史と現況】


それでは、ギリシャ正教、及びウクライナ正教の歴史を簡単におさらい致します。


<東西教会の分裂>


395年にローマ帝国が東西に分割され、西ローマ帝国は、476年、ゲルマンの侵攻によって滅亡します。以後東西の教会は、数百年の間に教義の解釈の違い、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違いなどが増大しました。


そして遂に東西教会は分裂(大シスマ)し、1054年、ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教は「相互破門」をすることになります。この分裂により文字通りギリシャ正教が誕生します。


分裂の原因の一例を挙げれば、聖霊発出を巡る「フィリオクェ」問題があります。正教会では「聖霊は父より発する」とされますが、カトリック教会では「聖霊は父より、子からも発する」とされる点の相違であります。


しかし、1965年12月、カトリック教会と正教会による「共同宣言」が発表され、これによって1054年以降続いていた「相互破門」状態は解消され、東西教会の対話が始められるようになりました。


<ロシア正教について>

ロシア正教(及びウクライナ正教)は、988年、キエフ公国のウラジーミル1世が洗礼を受け、正教を国教としたことに起源があります。即ち、このルーシ人の集団洗礼が、ロシア正教会の起点てあり、当初のキエフ時代、ロシア正教会はコンスタンティノープル総主教の管轄下にありました。


その後1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に滅ぼされ、東方正教会は、約350年間、トルコの支配下に置かれました。従って、以後ロシアが代わって正教の大保護国になり、モスクワは第三のローマと称するようになりました。


共産政権時代には大弾圧を受けましたが、ゴルバチョフ、エリチィン、プーチンの時代には、ロシアの準国教的地位に復活しました。


ロシア正教会は約9000万人の信徒数を擁する世界最大の独立正教会組織であり、管轄地域はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとしたソ連邦を構成していた諸国や、海外のロシア正教会系の教区に及んでいます。


またウクライナ正教も、上記988年のウラジーミル1世の改宗に起源を有しています。しかし、2018年10月16日、ウクライナ正教会・ウクライナ独立教会・キエフ総主教庁は、コンスタンティノーブル全地総主教庁により正統性を承認され、2018年12月15日には、三者は統合し、新生「ウクライナ正教会 」が発足し、ロシア正教会から独立しました。このロシア正教からの独立は、キリル総主教にとって到底看過できないことであり、今回のプーチン擁護の大きな要因だと思われます。


【ギリシャ正教の教理―カトリックとの違い】


ここで、正教の教理の特徴3点について、カトリックと対比して論及しておきます。


第一に、東方正教は西のキリスト教に比べて、罪よりも救い、十字架よりも「復活」を重んずると言われ、その救済観は、カトリックと若干違いがあります。


正教には、「アダム以来、遺伝的に受け継がれてきた罪」、即ち、原罪という観念がなく、正教では、罪とは神への背きによって、あるべき姿(神の像)を破損したことであるとします。


罪があるべき姿を失うことであるなら、救いとは信仰に基づき、キリストの「写し」になって神の類似の性質に成ること、即ち「神成」(テオーシス)していくことであるとします。即ち、罪が神の像の破損であるなら、救いとは神との一致であり、神の像の回復であります。罪が、悪魔、苦難、死と一つのものなら、救いとは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。そしてこれらの完成こそ、ハリストス(イエス)の復活であるいうのです。


ハリストスの「受肉・十字架・復活」は一体となった救いの業であり、復活によって救いは完結し、信徒は、罪と死から解放されるというのです。


こうして完全な神の像であるハリストスによって、私たちの破損した神の像は回復されるとし、復活祭では、「ハリストス、死より復活し、死をもって死を滅ぼし」と賛美します。


第二の教理的な特質は、カトリック神学が思弁的、論理的で、神について体系的に学ぶ傾向があるのに対し、正教では「信仰体験即神学」であり、「神秘主義的傾向」があると言われています。従って正教では、神学は論文としてよりも、聖歌、イコン、主教たちの書簡や説教の 形で表面されるというのです。


正教は、神人一体の神秘的結合(神成)を強調しますので、西のキリスト教が聖と俗を区別し、政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は聖俗一 致、「政教一致」の傾向があります。


第三は、国家とロシア正教の合体、政教一致の思想であります。ピョートル大帝がロシア正教会を国家の管理下に置き、一時総主教を廃止したことに見られるように、もともとロシアには「ツアーリ(皇帝)を「神成した神の代理人」と考える伝統があり、この「神の代理人たるツアーリ」というロシアの統治者観は、正にプーチンに神の代理人たる姿を見るというのです。これが、「権威主義的独裁国家」を生み出してきた原因になりました。


しかし、前述しましたように、本来ギリシャ正教における国家と教会の関係は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マダイ22:21)とあるように、「ビザンティン・ハーモニー」と呼ばれ、互いに立場を尊重・理解して支え合い、この世を来世の写しとするために共に協力するものとして位置づけるものでした。従って、ロシアにおける国家とロシア正教の関係は、歴史的にいびつなものがあると言えるでしょう。


【家庭教会とはーその在り方と理念】


さて、おしまいにこの夫婦が取り組んでいる「家庭教会」(ホームチャーチ)の聖書的な在り方や理念について考えておきたいと思います。


<無教会主義とは何か>


先ず、家庭教会を考える上で、ヒントになると思われる内村鑑三が唱えた無教会主義について論考いたします。

内村鑑三が無教会主義を唱えるに至るまでには、いくつかの思想形成の過程がありました。洗礼後、聖公会でもメソジストでもない、教派を越えて信徒有志で設立・運営した「札幌独立基督教会」の経験もその一つです。更に不敬事件での代拝を謗られ、植村正久ら基督教主流から批判を浴びたり、教会から異端視され捨てられた経験も大きかったことでしょう。


そうして、聖書研究会を主宰しました。これが事実上の無教会教会(信徒の集まり)になっていきました。無教会について以下の如く内村は語っています。


「世に無教会信者の多いのは無宿童子の多いのと同じであります。ここに於いてか私共無教会信者にも教会の必要が出て来るのであります。此の世に於ける私共の教会とは何であって何処にあるのでありましょうか。神の造られた宇宙であります。天然であります。是が私共無教会信者の此の世に於ける教会であります。其の説教師は神様御自身であります。是が私共無教会信者の教会であります」(雑誌「無教会」1901年3月14日付)


内村の無教会主義は、ルターの聖書主義と万人祭司主義を更に徹底させたものであると言えましょう。しかし、無教会といった誤解を与える名称より、「聖書を研究する信徒の集まり」或いは「聖書聖会」と呼んだほうが良いかも知れません。あるいは教会を持たないもの、即ち無教会の者のための教会と言えるでしょう。


当にイエスがマタイ18章20節で言われた「二人または三人がその名によって集まるところには、私もその中にいる」そのものであります。従って、無教会の「無」とは文字通り「無い」という意味ではなく、自由な信仰者の集まり、即ち「家の教会」という意味に解釈できるでしょう。


内村の教会には洗礼や聖餐の儀式はありませんでした。また、牧師、長老、執事も置かず、信徒と聖職者との境はなく、説教は信徒が持ち回りで行い、従って、聖書の講義や研究が主体となっていきました。これらはかって札幌独立基督教会でやっていたことでありました。


札幌農学校のクラーク博士は牧師ではありませんでしたが、教え子を自宅に招き、家庭で礼拝を行いました。 正に「家の教会」であります。また後述するように、初代教会はすべてが家の教会であり、毎週家で集まるのを原則にしていました。


しかし無教会主義は、教会主義からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではありません。


無教会礼拝で中心を占めるものは聖書講義、聖書講話であり、前後に讃美歌を歌い、祈りや黙祷をするなど、プロテスタントの礼拝形式を簡素化した形をとっています。また、洗礼、聖餐式等の儀式は通常行われませんが、かならずしも洗礼反対、聖餐反対という意味ではありません。現に内村も十数人の洗礼を自ら授けており、自分の子供にも洗礼を施しています。その意味では、無教会主義は「反教会主義」ではありません。


<家の教会>


前述したように、マタイ18章20節に「私の名によって、二人、または三人が集まる所には、私もその中にいるのである」とありますが、これがキリストが建てて下さる真の教会であるといいます。神によって呼び出された二人以上の信徒がキリストの名によって霊的、人格的共同体として交わるところに真の教会(エクレシア)があるというのです。そして初代教会は全てこのようなものでした。


プリスカとアキラの家は教会でした(ロマ書16.3~5)。また「ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく」(コロサイ4.15)とあるように一般信徒の家が即教会でした。フィレモンの家もまた教会でありました(フィレモン2節)。 UC流に言えばホームチャーチ(家庭教会)、個団教会ということになります。


二人以上の信徒が交わる所には、教会堂の中であれ、家の中であれ、そこにはキリストの体としての教会があり得るのだ、主を仰ぐ信徒の交わる場所こそが教会であり神殿であるというのです。次の聖句の通りです。


「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」(使徒2.46~47)


更に進んで、私の中にも内なる教会 (ワン・パーソンチャーチ)があり、内なる祭壇があります。そしてこの内にある祭壇の前で祈るのも立派な礼拝であります。


即ち、内なる教会、家の教会(家庭教会)、所属する地域の教会は一本の糸で結ばれた三位一体の教会であるというのです。地域の教会から発し、家の教会、内なる教会で結実すると共に、内なる教会、家の教会から発し、地域の教会で結実する、いわば双方向の福音運動と言ってもいいでしょう。


以上、今回のセミナーで語り、また感じたことを述べてまいりました。今、家庭教会の重要性が叫ばれている中にあって、試行錯誤しながらも、新しい家庭教会の在り方を見出だそうと精進されているこの信徒夫婦に、神の導きがあらんことを!(了)