○つれづれ日誌(令和3年6月23日)-40日追慕礼拝に思う
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である(1コリント13.13)
さて筆者は、去る6月15日、配偶者の40日追慕礼拝を終えることができました。コロナの問題もあり、自宅に近親者だけを招いての追慕儀式でしたが、大変明るい雰囲気で、故人と残された者双方にとって、よい「霊的区切り」になったのではないかと思います。
そこで今回、この度の追慕礼拝に際して、そこで行われた内容を記すと共に、追慕礼拝の宗教的意義や死者を弔う儀礼の意味について考えて見たいと思いますます。ルターは「(個人の)信仰体験は神学を伴う」と語りましたが、これを、単に故人への私的な記録に留めず、むしろ「観察の材料」にして書き記すことで、今後の参考になればと思う次第であります。
【追慕礼拝の順序と意義】
40日追慕礼拝は概ね次のような順序で運ばれ、あまり形式にこだわらず、比較的にシンプルに行われました。
<式の流れ>
先ず、司会者の開会の言葉と祈祷 から始まり、賛美歌320番「主よみもとに近づかん 」が唱和されました。
次に司会者による「み言拝読」があり、その後、主礼により「追慕によせて」とのスピーチがありました。
最後に全体で献花が行われ、参加者代表による祝祷で終わりました。
<聖歌とみ言葉>
今回は、「主よみもとに近づかん」(讃美歌320番) が唱和され「天聖経第七篇地上生活と霊界」より次のみ言が読まれました。
「死は、胎児が子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち、死というものです」(P710)
「霊界とは、神様の理想の園です。その園がどれほど素晴らしいでしょうか。それは形容することができません。この世の一生はほんのまばたきするような一瞬です。ところが、霊界は永遠です」(P721)
<追慕礼拝の意義>
UCの追慕礼拝は、仏教で言えば「49日法要」に当たるでしょうか。仏教では、故人の霊は亡くなって49日後に仏のもとへ向かうとされ、その49日までの間、生前の裁きを受け、49日に極楽浄土に行けるかどうかの最後の審判を受ける、と考えられています。
故人が極楽浄土に行けるように、遺族は7日ごとに祈り、故人の審判が下る49日が一番重要だと考えられているため、その日に法要を行い、供養するというわけです。 また、49日は「忌明け」、つまり喪に服していた遺族が日常生活に戻る日でもあるとされています。
一方、キリスト教は仏教と違い「供養」と言う考え方がありませんので、仏教のような法事・法要はありません。法事・法要に相当する追悼的な儀式である「追悼礼拝」を行います。カトリックでは、死んで肉体が滅んでも、霊魂は神の御許に召されて永遠の生命が始まる「誕生日」と考えられ、プロテスタントではも、死後は天に召され神につかえる「祝福の旅立ち」と考えられています。
こうしてキリスト教では、「天に召される」という観念がありますので、お悔やみではなく、むしろ「安らかに」と伝えるがの一般的とされています。 キリスト教における 追悼儀式の意味合いは、故人を思い起こし、故人の安らかなることを祈り、自分自身にけじめをつけるために行います。
また、個人が亡くなってから1年後の昇天日(命日)には、「死者記念礼拝」を行います。これは仏教でいう一周忌にあたる追悼儀礼です。 プロテスタントでは法事・法要に当たる儀式(礼拝)のことを「記念集会(記念式)」と言い、その後の記念集会は、1ヶ月後、1年後、3年後、7年後の記念日(昇天記念日・命日)に教会や家庭で行われます。
UCにおいては、40日追慕礼拝を行い、故人を思い起こすすと共に、文字通り地上から天上への昇天を祈ります。また、遺族の一つの区切りの儀式でもあります。即ち、40日追慕礼拝とは、「想起・追悼・区切り」ということになるでしょう。
【主礼の講話】
そして主礼の講話です。今回は遺族代表兼主礼ということで、筆者が主礼を兼任いたしました。以下、僭越ながら、その時話したスピーチの内容を述べることにいたします。
<ベンテコステ>
配偶者が聖和したのが4月26日でしたので、40日追慕礼拝の6月15日は、実際は丁度50日目だったことになります。つまり図らずも聖書が語る「ペンテコステ」の日だったことになりました。
ペンテコステとは、ギリシア語で「50番目」を意味する言葉で、キリスト教では聖霊降臨と呼ばれています。イエス・キリストが40日復活して昇天され、 それから10日後、ユダヤ教の7週の祭りの日に、集まって祈っていた使徒とイエスの母や信徒ら120人の上に、神から聖霊が下ったという出来事のことで(使徒行伝1.1~4)、この日が事実上のキリスト教会誕生の日と考えられています。
この日はキリスト教の祝祭日で、教派により呼び方は異なり、聖霊降臨祭、五旬節、またユダヤでは7週の祭りともいわれています。
ユダヤ教の7週の祭り(シャブオット)は、大麦の初穂の祭りから50日後の日曜日に祝われる祭日で、過越しの祭、仮庵の祭とともにユダヤ三大祭の一つであります。またユダヤ教では、イスラエルの民が出エジプトしてから、50日目にシナイ山で神に出会ったことを記念したものと言われています。
<介護生活について>
さて故人は、聖和までの約3年間、自宅でいわゆる「寝た切り生活」を過ごしました。そしてこの期間は、文字通り「夫婦の絆を回復するための時間だった」と述懐しました。
つまり、故人にとっては「人生を清算する期間」であり、筆者にとっては「贖罪の時間」だったというのです。3年という短くもなく、また長くもない、正に時計で測ったような期間は、実に神に導かれた時間でした。
筆者は、夫を突然亡くしたある婦人の、意外な反応を聞いたことがあります。70才の夫は、死ぬ前日まで元気だったのに、朝起きて見ると死んでいたというのです。筆者は、失礼ながら思わず「いい死に方でしたね」と言ったところ、「夫の介護の世話をしたかったのに悔いが残る」という意外な言葉が返ってきました。
こうして、決して褒められた夫婦仲ではなかった私たちですが、人生の最終章でやっと夫婦になれたというのです。
<二つの追慕>
今日は40日の追慕でありますので、天上への門出を記念すると共に、彼女に敬意を表して、二つのささやかな証しをすることにいたします。それは、「伝道所の開設」と「ボーランド宣教」であります。
伝道所の開設
3番目の子が生まれて、田園調布線のタマプラザ近郊に住んでいた頃のことです。当時、UC献身者の家庭は夫がみ旨に専念して収入がなく、家計は専ら女性が担っていたのです。いわゆる「個団摂理」が始まる少し前のことでした。
我が家もそれを当然のこととして受け入れ、彼女は訪問販売をして家計を支えていました。いわゆる人参や印鑑の訪問販売であります。当時は3人の子供も幼く、その養育もあり、そのような中での販売活動でしたので、今から思えば大変な歩みだったと思われます。
確かに訪問販売は骨の折れる仕事でありますが、我々福音伝道に携わるものにとって、人との因縁が生まれるという利点があるのです。家庭を持ってから彼女は、この訪問販売を欠かしませんでした。そのお陰で、物の販売を媒介にして、人とのつながりが出来、そこから伝道に結び付ける道が生まれるというのです。
こうして、訪問販売で因縁を持った人たちの教育の場として、彼女はタマプラザ駅近くに小さな伝道用マンションを借りました。文字通り「家庭伝道所」の誕生です。この伝道所は長続きはしませんでしたが、ここから優秀な二人の青年が献身していきました。今でも祝福家庭として立派に歩んでいます。
ポーランド宣教
そしてなんと言っても、彼女が最も輝いたのは、足掛け9年に渡るポーランドの宣教でした。彼女は、50才から60才までの10年間、ポーランドに9年、ラスベガスに1年、世界宣教に携わり、その間、ヨーロッパ大陸全域、南北アメリカ大陸にも足を伸ばしました。
50才にして、2人の子供を連れての海外宣教です。彼女は、日本で多忙な仕事を抱えている筆者のために、子供を連れて行きました。異国の地にての歩みには、口では言えない数々の労苦があったにせよ、海外での宣教の歩みは、彼女にとって有意義な仕事であったと思われます。
聖和式に際して、ナショナルリーダーのマルタさんを始め、ボーランドから多くの弔文が寄せられ、 彼女がポーランドの地で尽くしたことの数々が、感謝と共にしたためられていました。筆者も知らないエピソードも書かれていました。
スタッフセミナーの後で(ポーランド・ワルシャワ教会に於て)
ところで、名古屋に住む彼女の実のお姉さんは、生涯一度も海外に出たことがないとのことでした。それを考えれば、彼女の豊富な海外体験は、実に奇跡というしかなく、その意味で彼女は幸せだったと言えるかも知れません。しかし翻って、一人の女性として果たして彼女は幸せだったのでしょうか。女性の幸せは、なんと言っても夫婦の愛にこそあります。その点で彼女は幸せだったのか、このことは、筆者の大いなる反省と共に、聖和に際して真摯に問わなければない問題であります。
<振り返り見れば>
さて筆者は、生涯彼女の口から、遂ぞ聞かなかった言葉が一つあります。それは、「不平不満」という単語であります。
人には、教会や中心者に対する不満、夫や生活に関する不満、果ては神に対するつぶやきに至るまで、不平不満はつきものであります。出エジプトのイスラエルが、たびたびモーセに不満を吐いたことは、よく知られている事実です。しかし、振り返って見れば、彼女の口から、一度たりとも不平不満の言葉を聞いた覚えはありません。
このことは、批判精神が旺盛で、世俗的傾向が強かった筆者にとって、大変プラスに作用したと思われます。お陰で筆者は、「イスラエルの残れる者」として、今なお信仰的主流を維持しており、彼女はその影の立役者なのかも知れません。
以上が、当日主礼として語った筆者の講話内容であり、こうして追慕礼拝は終わりました。彼女の死去から50日目に行われたこの礼拝は、双方にとって、一つの霊的な区切りになったことは確かです。そして次は富士宮朝霧霊園への納骨が待っています。
【富士宮朝霧霊園】
富士宮朝霧霊園の納骨は、墓石の準備の関係で、どうやら秋頃になりそうです。
<墓所の顛末>
筆者は、配偶者の死去に際して、「死とは何か、霊界は存在するか、永遠の生命とは何か」といった根本問題について、改めて考察する機会を得ることになりました。これらは、5月4日、12日、19日の各「つれづれ日誌」に書き記したところです。
その中にあって、今まで準備がなく戸惑ったことが一つありました。それは、墓所、即ち故人をどこに葬るかという問題であります。
筆者は、あらかじめ墓所の準備がなかったため、当初、尾瀬霊園しか頭になく、また他に選択の余地がありませんでした。しかし、だんだん分かってきたのですが、尾瀬霊園は満杯になりつつあるということ、それに距離的に遠く、今後の管理が難しいということでした。
そのような折り、長男夫婦から、「居住地の富士宮市に市営霊園があるので見に行かないか」という連絡がありました。そこで早速3人で下見にいったところ、富士山を背に緑豊かな霊園であり、またほどよい値段でしたので、筆者はすっかり気に入り、即決してその日に市と購入手続きを結んだ次第です。これが「富士宮朝霧霊園」で、こうして故人の地上での永住の地が定まりました。
<納骨に向けて-その意味を問う>
墓所の次は墓石一式の準備です。これも嫁の尽力で、手頃な業者と契約を終え、墓名「吉田家メモリアル」、墓碑銘「信仰希望愛」ということになりました。そしてこの秋までには納骨する運びになっています。
さて墓所とは何であり、納骨には如何なる意味があるのでしょうか。前に「つれづれ日誌5月26日号」でも述べましたが、端的に言えば、墓所は死者と生者のメモリアル(記念碑)であります。
一般的に、日本の仏教や神道では先祖を「仏」または「カミ」(神)として崇め、お墓は「肉体の魂が眠る場所」といった考え方があります。このため、彼岸・お盆・命日など、決められた日にお墓参りや法要を行い、死者を供養する慣習が根付いています。
一方、キリスト教の教理では、死は霊界での新たな人生の始まり、いわば「第二の誕生日」であるとし、死後の魂は地上に留まることはありません。従って埋葬されたとしても、実際には墓には死者の霊魂はいないということになります。
ですから、お墓は故人の魂が眠る場所ではなく、故人に思いを馳せるための「記念碑」という位置付けになるというのです。また、墓に納骨された死者の骨は、死者の人格の象徴と言えますが、あくまで死者の霊魂とは別なものであり、これも「死者の存在の象徴」ということになります。
つまり、お墓ないしは納骨は、霊魂が宿る場所ではなく、故人を偲ぶための「記念碑」、あるいは故人の「生きた証の象徴」という意味合いになります。即ち、墓所・納骨は、いわば地上での象徴的な戸籍のようなもので、真の墓は天にあって地にはありません。
しかし、たとえ死者がそこにいなくても、地上での戸籍たる墓所という記念碑があることは、死者の存在の証としても、また地上人が死者に思いを馳せる場としても、やはり重要な施設であると言えるでしょう。そして、墓所を大切にするということは、死者(先祖)を丁重に扱うという心の表れでもあります。
そして墓参は、それを契機に行う死者への想起・追悼であり、双方の精神的な区切りであると言えるでしょう。ともあれ、年一、二回の墓参は、死者を想起し追慕するよい機会であり、その霊的恩恵を通じて、死者と生者のよき対話の機会になることは間違いありません。
以上の通り、私たちは、聖和式、追慕礼拝、納骨といった一例の聖和儀式の意味を考察して参りました。皆様の意見をお聞かせ下さい。(了)