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墓所とは何かを考える

○つれづれ日誌(5月26日)-墓所とは何かを考える


このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(1コリント13.13)


筆者は、昨年6月12日、晴れた暑い日射しの午後、多磨霊園に眠る内村鑑三の墓所に念願の墓参を果たしました。また、ここ3年、毎年8月15日には鎌倉霊園に眠る親しい知人の墓所に墓参を続けて参りました。


内村の墓碑銘には、「I for Japan,Japan for the World,The World for Christ,And All for God」(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、全ては神にため)とあり、知人の墓碑銘には、「心かよう友と共に」とありました。それぞれ故人の信念や人柄を表す言葉であり、心に残るものがありました。


筆者にとって霊園への墓参は、いわば死者全体への慰霊を象徴する場でもあり、一年に一回の墓参は、霊界の死者、とりわけ先祖の霊に、深く思いを馳せる良い機会になりました。


さて筆者はこの5月21日、息子夫婦と三人で、富士宮市の市営朝霧霊園に下見に行ってまいりました。配偶者の逝去に際し墓所を探すためであります。富士朝霧高原の中にあって富士山に隣接し、緑豊かな霊園でありましたので、すっかり気に入り、また値段も手頃でありましので、息子と折半で購入することに即決し、早速その日富士宮市役所で購入の手続きを済ませました。


そこでこの機会に、一体墓所、即ち「お墓」とは何か、そして「墓参」の意味とは何か、について考察したいと思います。


【改めて、死とは何かを問う】


それぞれの宗教は、それぞれの死生観を持ち、その死生観に基づいて死者を葬ります。以下において、特にキリスト教の死生観を中心に、これらを考えていくことにいたします。


<死生観念>

そもそも人間と動物の違いとは何でしょうか。言葉、宗教、埋葬は、人間だけが持つ特性であり、動物にはこれがありません。その中でも最もよく知られた特性が「埋葬」であり、埋葬、即ち死に際して「葬り」をするのは、人間だけにある崇高な行為であります。そしてこれは人間に死生観念があるからに他なりません。


前回述べましたように、死とは「第二の出生」であり、永遠の愛の霊界への旅立ちであります。キリスト教的に言えば「天国への凱旋」であり、スウェーデンボルグ流に言えば、霊的身体の「霊界への移住」に他なりません。


<内村鑑三の霊界認識>

内村鑑三は1912年、最愛の娘ルツ子(18才)を病気で亡くしました。妻加寿子の死の時もそうでしたが、愛するものの死は、地上と霊界との距離を縮めます。生者は死者を感じようとする熱情によって天国(霊界)からの風を感じることになるのです。


内村は、ルツ子の最後の言葉「もう(天国へ)行きます」という息絶える中での一言で、霊魂の不滅、天国(霊界)の存在を確信したと語りました。むしろルツ子は天にあって、内村の働きを見守り支える存在、即ち、協助霊となったと告白しました。 


内村は、最愛の妻と娘の死を通して、その愛に由来する永遠の生命を確信し、復活と再生を確信したのです。これが内村の再臨思想に繋がっていきました。


「真の愛によって永生が可能になる」(天聖経-地上生活と霊界)と言われた文先生の言葉が身に染みます。また、「霊界は復活させるべき所であり、地上は復活すべき所です。先ず地上で復活したと言わねばなりません」と語られ「我々は、幾百代の善の先祖たちが再臨する基盤にならなければなりません」(同)とも言われました。本当に身に染みる言葉です。


<キリスト教の死生観について>

キリスト教では、死とは肉体と魂が分離することであるとし、この点はUCとの違いはありません。


そしてその魂の行き先ですが、イエスの贖罪で罪が赦された人が行くところが「天国」であり、罪を赦される機会が無かった人は基本的に「黄泉」(ハデス)に行くとい言われています。


黄泉は一般的な死者の世界であり、一方、地獄(ゲバナ)は最終的な刑罰を宣告された人々が行く所であるとされています。


なお、キリスト教では、天国と楽園を同視する傾向がありますが、原理では天国と楽園を区別しています。楽園は、地上でイエスを信じて霊的救いを受けた霊人(生命体級の霊人体)が行くところで、肉身を脱いで行った霊人たちが、天国に入る手前で留まっている霊界をいうのであり、天国と楽園は異なる概念です。


また、カソリックには「煉獄」という教理があります。煉獄は、クリスチャンで天国には行けなかったが地獄にも墜ちなかった人の行く中間的なところであり、ここで火によって罪を清められた後、天国に入るとされています。


そしてカソリックでは、煉獄の死者への祈祷や代償を認めています。地上のクリスチャンがこの煉獄の霊に祈りや代償をすることにより、煉獄の霊は解放されて天国に導かれ、地上人もまたその恩恵を受けるというのです。


即ち、生者が死者の救いのために祈祷や代償などの宗教行為をするというもので、この考え方は、大和カルバリチャペルの大川従道牧師の「黄泉の霊人への祈祷」と類似性があります。


しかし、プロテスタントは基本的に先祖供養には否定的です。それは偶像崇拝になりかねないという理由からであり、また死者の救いは神の主権に委ねるというものです。


いずれにせよ、先祖供養や死者への過度な畏敬は、キリスト教ではあまりよしとされていません。死後の世界は専ら神が主管し、神が図られる領域であるとの考え方があるからです。 従ってこの点は、先祖を祭ること(先祖解怨・祝福)を積極的に認めているUCとは異なっています。


また、キリスト教内で地獄に対する捉え方が教派・神学傾向などによって異なり、地獄と訳されるゲハナと、黄泉と訳されるハデスの間には厳然とした区別があるとする見解と、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解など、両概念について様々な捉え方があるというのです。


更に、キリストの再臨によって「死者が肉体を持って墓から甦り、復活の体を得る」という考え方があり、これにはキリスト教内にも異論があって、総じて、キリスト教における死生観には、原理ほどの明快さがありません。


<神道の死生観>

神道の宇宙観は、「天上の高天原」、「地上の葦原中国」、「地下の黄泉国」(根の国)の三層になっており、この垂直構造に、海の彼方の「常世国」の水平的な広がりを加えたものであります。黄泉国は死者の世界で、罪や穢れの世界であり、地上の罪や穢れをすべて黄泉国に祓い去る儀式が、神道の重要な儀式としてあります。


死んだ祖先をカミ(神)として祀るのは、日本特有の思想であります。また「死の穢れ(けがれ)」の観念があり、死者はどこか遠くで「穢れ」を浄められたのち、カミのようなものになりうると考えられています。


死者の霊魂が丁重に祀られるにつれて、次第にその穢れや荒々しさが薄れて昇華され、やがて個性・個別性を失って、祖霊としての祖先神(守り神)と融合して一体になるとされています。


なお仏教では、人間を輪廻しつつ成仏をめざす修行の主体と考え、死んだ人間は別の生命に転生して、この世界をまた生きるという「輪廻転生思想」を持ち、死者の世界や霊魂の観念は明確ではありません。従って仏教は、人間の死について、神道やキリスト教とは異なる考え方をもっています。


【墓所とは何か】


さて次に、本稿のテーマである墓所、即ち「お墓」の意味について考えていきたいと思います。


墓地等について定めた「墓埋法」という法律では「墓地」は都道府県から認可を受けた敷地のことを指し、「墓所」とは墓地の中にお墓を建てられるよう整備をしているエリア、というように定義付けられています。その墓所に墓石を建てるといわゆる「お墓」ということになります。


<墓所は死者と生者のメモリアル>

一般的に、日本の仏教や神道では先祖を「仏」または「カミ」(神)として崇拝し、お墓は「肉体の魂が眠る場所」で、自宅の仏壇の位牌は「精神の魂が眠る場所」だといった考え方があります。


このため、彼岸やお盆など決められた日にお墓参りや法要を行い、先祖代々のお墓を継承して守ってゆく慣習が根付いています。


神仏習合の思想によって、死ぬとは極楽浄土へ往生し成仏(仏となる)するという考え方から、人間は死ねば仏になる、という観念が広まり、こうして日本人の平均的な死生観がかたちづくられ、今日に至っています。


一方、キリスト教では、死は新たな生の始まりであり、肉体から分離した死後の魂は地上に留まることはなく、従って埋葬されたとしても、実際には墓には死者の霊魂はいないということになります。


確かに、墓に納骨された死者のお骨は、死者の人格の象徴と言えますが、あくまで死者の霊魂とは別なものであります。ですから、お墓は故人の魂が眠る場所ではなく、故人に思いを馳せるための「記念碑」ということになります。


つまり、お墓は霊魂が宿る場所ではなく、故人を偲ぶための「記念碑的な象徴」、ないしはその人の「生きた証」という意味合いになります。即ち、墓所は、「メモリアル」(記念碑)であり、いわば地上での象徴的な戸籍のようなものです。


<お墓の在り方と意義>

そして、日本式墓所は「何々家の墓」というように、先祖代々の家単位になっていますが、キリスト教では基本的に「個人の墓」が単位になっています。


それにキリスト教では、死者は最後の審判の日に肉体に戻り復活するという思想があり、「土葬」を行うのが本来の在り方ですが、日本では多くの自治体で土葬が禁じられているため実際には火葬が行われています。


その場合キリスト教では、亡くなった人は天に召されると考えるため、かならずしもお墓は必要ではなく、納骨堂に遺骨を納めるスタイルも普及していると言われています。そう言えば、キリスト教の聖人らが、よく教会聖堂の地下室に安置されています。


また、先祖を仏や神として崇拝する思想もありませんので、お墓で供養を行うという感覚はありません。もちろんキリスト教でも故人を偲ぶ追悼式や集会は行いますが、それらの催しは教会などお墓以外の場所でよく行われています。


しかし、たとえ死者がそこにいなくても、地上での戸籍たる墓所という記念碑があることは、死者の存在の証としても、また地上人が死者に思いを馳せる場としても、やはり重要な施設であると言えるでしょう。そして、墓所を大切にするということは、死者(先祖)を丁重に扱うという心の表れでもあります。


ある霊的な食口によると、「墓には先祖の霊はいない。ただ親族がお花を持ってお参りに行った時には急いで霊界から墓の方に行く」といったエピソードもあります。


【墓参とは何か】


こうしてお墓は、死者と生者のメモリアル(記念碑)であることを述べて参りましたが、では墓参、即ち「お墓参り」とは何でしょうか。


墓参とは、死者への回顧・慰霊であり、生者の精神的な区切りであると言えるでしょう。 またお墓参りは、日本の風俗であり、また一種の宗教儀礼であるとも言えます。


アウグスチヌスの客観的恩寵論によれば、儀礼にも神が働くということなので、それなりの意味があると言えます。 内的なものは、外的なものに優ると言えますが、内的なものは外的な形式(儀式儀典)を通じて獲得できるいうこともまた真理です。カソリックの秘蹟に代表されるキリスト教の儀式・儀典はこれを象徴しています。


前述しましたように、筆者は多摩霊園の内村鑑三や新渡戸稲造の墓に詣で、鎌倉霊園の知人の墓に詣でました。そして、それなりの時間と犠牲を払っての墓参りは、筆者に一つの安堵感や精神的な区切りをもたらしてくれたことは確かです。


かの霊的な食口が言うように、死者がそこに降りて来るか否かはともかく、生者にとっては道徳的な安心感、精神衛生上の糧になることは間違いありません。そしてまた、自分への関心が示されたことで、先祖の霊の喜びにつながることは確かです。


かの小泉純一郎元首相は、毎年ある女性の命日に墓参を欠かしたことがありません。内村も前妻加寿子の命日に毎年墓参しています。


小泉氏は、離婚後、新橋の若い芸者と恋に陥りましたが、小泉家は代々政治家を家業としており、ハードルは高いものがありました。結局その女性は、叶わね恋と知り自殺することになります。墓参を続ける小泉氏の心境は果たして如何なるものがあるでしょうか。


小泉氏にとって、墓参は彼女への罪滅ぼしであり、また一つの気休め、ないしは区切りになるのかもしれません。


ただ、墓でなくても、教会や家庭でも、死者を慰霊、回想することはできるでしょう。実際、霊園ではなく、会館など一般の施設で、死者を慰霊し鎮魂し回顧することはよく行われているところです。


それに、最近は、海での「散骨」、墓石のない「樹木葬」、個人の「永代供養」もあるようです。形も大切だが、心のあり方はもっと大切だということでしょうか。天照皇大神宮教という宗教では、死者の魂は天照皇大神と共にあるので、地上での墓を持たないという教えがあり、またヒンズー教では、魂の抜けた亡骸には未練を持たず、墓を作らず、遺骨は荼毘に付し砕いて、天国に通じるという聖なるガンジス川に流すと言われています。(森本達雄著『ヒンズー教』P16)


UCは、天照皇大神宮教やヒンズー教のような極端な考え方は取らず、よしんば霊魂がそこにいなくても、墓を重要な宗教施設と考えております。ともあれ、年一、二回の墓参は、死者を想起してその霊的恩恵を得る機会になり、死者と生者の架け橋になることは間違いありません。


【墓碑銘】


最後に墓碑銘について記しておきたいと思います。内村もかの知人も、それぞれの信念と信条に基づいて、墓碑銘を残しました。


筆者も今回、墓を確保することにし、墓石の大きさから、墓碑銘をコンパクトにする必要があり、次の如く刻むことにしました。


「信仰 希望 愛」(1コリント13.13より)


以上、今回は配偶者の聖和に際して、墓所、墓参について考え、整理してみました。何かの参考になれば幸いです。(了)