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江戸の大殉教 江戸、東北、濃尾キリシタンの迫害

◯徒然日誌(令和6年5月15日)   江戸の大殉教ー江戸、東北、濃尾キリシタンの迫害 

 

江戸の殉教者よ

あなたがたは、信仰を守るために、長い間の過酷な責苦に耐え、 従容(しょうよう)として壮烈な殉教を遂げられました。 わたしたちは、あなたがたを崇敬し、あかしびととしてのいさおしが、 いつの世にまでも賛美されますように、祈ります。 

 

そして、あなたがたの揺るぎない信仰にあやかり、 わたしたちの信仰がますます堅固となりますように、また、あなたがたが 生命にかえて守られた尊いみおしえが、この国にもますますひろまりますように、 心を尽くして祈ります。(殉教者への祈り-高輪教会モニュメント)

 

さて、キリシタンの迫害・殉教といえば、真っ先にユネスコ世界遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』で有名になった九州・長崎地方を思い浮かべる。また、つれづれ日誌でも度々取り上げてきた。しかし、キリシタンの迫害・殉教は、江戸を始め、 旧仙台藩(一関市藤沢町大籠)、 濃尾(美濃・尾張)など全国でもあったのである。筆者は、「(長崎だけでなく)私たちのことも覚えて欲しい」というこれら全国の殉教者の声に寄り添い、その切なる思いに応えなければならない。 

 

実は筆者はこの5月10日、旧知の信徒からガイド役を仰せつかり、50名のキリシタンが火刑に処せられた「江戸の大殉教」の処刑場(札の辻)と殉教者を慰霊しているカトリックの高輪教会を訪れた。刑執行後は空地となり、後に智福寺が建てられたが(のち1966年、智福寺は練馬区に移転している)、現在、刑場があった石垣の一部が残され、「元和のキリシタン殉教碑」石碑が設置されている。また1956年に建てられた「元和大殉教記念碑」の石柱は、カトリック高輪教会に移転されており、高輪教会は、殉教地に近い教会であることから、毎年11月下旬に、「江戸の殉教者記念祭」が執り行われ、「殉教者への祈り」が唱えられている。 

 

【江戸の大殉教】 

 

徳川3代将軍になったばかりの家光は、自らの新将軍としての実績を示すためにも、キリシタン迫害政策を強化した。1623年(元和9年)12月4日、宣教師を含む信者50名は小伝馬町の牢から 江戸市中を引き回され、東海道沿いの「札の辻」(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で、火刑に処せられたのである。 

 

この「江戸の大殉教」は、1619年10月6日に六条河原において52名が殉教した「京都(みやこ)の大殉教」と、1622年9月10日に長崎西坂において55名が殉教した「長崎の大殉教」とともに、日本の三大殉教として「元和の大殉教」と呼ばれている。 

 

処刑されたのは、ジロラモ・デ・アンゼリス神父、シモン遠甫(えんぽ)、ガルベス神父、原主水(はらもんど)らである。 うち、アンゼリス神父、ガルベス神父、シモン遠甫の3人は、1896年ローマ教皇ピオ9世より福者と認定され、ジョアン原主水は2008年に列福された。 

 

中でも、下総(千葉)6万石の臼井城々主の長男、原主水がキリシタンの 中心的人物であった。原主水は駿河城で家康に仕えていたが、キリシタンと判り、棄教を迫られるもこれを拒否し、手足の腱と指を切られて追放された。その後江戸に潜んで宣教師と協力し宣教を続けたが、 遂に密告により捕らえられ、炎の中で神に命を捧げたのである。 

 

また1638年には70名のキリシタンがここ札の辻で処刑され、数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々もまきこんで 、この地で100名近くの人々が処刑された。江戸全体では、2000名近くの人が殉教したという。江戸にも多くのキリシタンがいたのであり、これが江戸の大殉教である。それに当時日本全国には、イエズス会士が109人もいて活躍していたときでもあった。 

 

<処刑の詳細>

 

1623年(元和9年)8月24日、 第3代将軍に就任した徳川家光は、父秀忠の助言や老中らの意見を容れ、牢内のキリシタン50人を火焙りにすることを命じた。そして刑場を江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所として最も賑わいのある東海道入り口 の「札の辻 」(港区三田三丁目) の山の斜面に決定 したのである。 

 

原主水らは後手に縛られ首に縄をかけられて馬に乗せられ、 他の者たちも縛られたまま歩いて江戸を引き回された。 札の辻に着くと、 そこには柱が47本と少し離れて3本が立てられ、 側には多くの薪や萱(かや)が積み上げられていた。 そこで町奉行は一人の囮(おとり)を使い、一同に棄教を迫ったが誰一人として応じる者もなく、却って見物人の中から男女2人が同じく処刑されることを申し出たという。 

 

初めに47人のキリシタンが柱に縛られ、一齊に火が放たれた。これをアンデリス神父 (55才)、 ガルベス神父 (47才)、 原主水(36才) が見せつけられ、次にこの3人が 処刑された。江戸市中からは多くの人々が集まり、周りの丘は群衆 で一杯であり、また江戸参府の諸大名も見ていたという。また、この二週間後には、家族の妻や子供14人が処刑されたのである。(以上、高輪教会ホームページ)

 

この日私たちは、札の辻の刑場跡でひととき祈りの時間を過ごしたあと、近くのカトリック高輪教会の礼拝堂で祈りを捧げた。この聖堂前には「元和大殉教記念碑」があり、江戸の殉教者をたたえるモニュメントには冒頭の「祈りの譜」が書かれていた。 

 

殉教に詳しい高輪教会の婦人スタッフが親切に殉教の様子を説明して下さり、地下に陳列された遺品や納骨堂などを案内して下さった。筆者が、「これらの庶民が、何故、形だけでも踏み絵を踏まず、殉教を選んだのでしょうか」と問いかけたところ、「当時のカテキズムに、キリストために死ぬことの尊さが明記されていた」ということだった。殉教は栄光であり天国への門だったのである。そして聖霊の協助があった。ちなみにカテキズム とは、カトリックの教理をわかりやすく要約し説明した解説の事で、洗礼や堅信礼といったサクラメントの前に行われる入門教育で用いられ、文体は問答形式をとることが多い。 

 

<原主水>

 

原主水胤信(はらもんど たねのぶ、1587~1623年12月4日)は、1587年、下総国印旛郡臼井城主 (6万石) 原刑部少輔 胤義(はらぎょうぶのしょうつぐよし) の嫡男として生まれ幼名を吉丸と言った。1600年当時、大坂城西の丸にいた原主水は大坂のキリシタン寺でイエズス会ペトロ・モレホン神父から洗礼を受けている。 洗礼名はジョアン。 

 

好男子でもあり、徳川家康に好まれ、小姓として召し出された。1603年、走衆の頭となり、1607年から駿府で家康のそばに仕え、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢されている。ところが、1612年の岡本大八事件を機に江戸幕府は本格的なキリシタン弾圧を開始し、キリスト教を信じる旗本に対しても棄教が命じられた。 

 

1612年、駿府城本丸において、徳川家康はキリシタンの弾圧に乗り出し、転ばない14人のキリシタンを追放した。その中に、ディエゴ小笠原権之丞、ジュリアおたあの名とともに原主水の名もあった。しかし、主水は棄教を拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。1614年、藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、これを拒んだため、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指を切断、足の筋を切られた上で1615年に追放された。 

 

主水はその後も布教活動を続け、江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、銀三百枚の賞金に目がくらんだ原家の元家臣が、1623年、町奉行にデ・アンジェリス神父、原主水などの隠れ家を密告した。こうして、アンジェリス神父、ガルベス神父、イルマン・エンポ、原主水は密告によって捕らえられ、1623年に農民ら47名とともに江戸市中引回しの上、高輪の札の辻(高札場)にて火刑に処されたのである。 

 

死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べたと伝えられている。なお、彼らの処刑は、徳川家光が将軍職を徳川秀忠から世襲しても、禁教の方針が不変であることを示すための示威行為でもあった。 

 

【全国での迫害と殉教】 

 

2018年の世界文化遺産登録や遠藤周作の小説「沈黙」など、潜伏キリシタンの歴史は九州でのイメージが強い。だが、江戸と並んで東北でもかつて多くのキリシタンが潜伏を余儀なくされ、悲惨な殉教があったのである。 

 

<一関大籠>

 

岩手県一関市藤沢町大籠(おおかご)は旧仙台藩の領地で、大籠では、1639年から数年間に300人以上のキリシタンが処刑されたという。当初、伊達藩の伊達政宗はキリスト教に寛容だったが、徳川幕府の禁教令で、やむなくキリシタン弾圧を余儀なくされたのである。 

 

江戸時代、大籠の一帯は仙台藩の領内であり、製鉄が盛んであり、製鉄の技術指導のために備中国(岡山県)から千松大八郎・小八郎という兄弟を大籠に招いた。この千松大八郎・小八郎兄弟が熱心なキリシタンであり、この地で布教を始めたのである。また、フランシスコ・バラヤス神父がこの地を訪れ布教にあたり、大籠のキリシタンはさらに増加した。 

 

いかなる迫害にも屈せず、信仰の道を守り抜いた大籠の先人たちの崇高な歴史は、殉教の歴史を子々孫々に伝えるため、現在、「殉教公園」として整備されている。 

 

また、 隣接する米川(宮城県登米市)でも約120人が処刑され、馬籠(まごめ)(同県気仙沼市)では信者の大規模な検挙があったという。一帯は藩の製鉄地帯で、各地に多くのキリシタンがいたのである。 

 

<濃尾崩れ> 

 

濃尾崩れ(のうびくずれ)とは、江戸時代前期に、尾張国と美濃国で潜伏キリシタンが検挙された事件である。ちなみに「崩れ」とは、1つの地域で大勢のキリシタンの存在が発覚し、その信仰組織が崩壊することである。 

 

1566年からキリスト教の布教が始まった濃尾地方では、織田信長や織田信忠らの保護を受け、ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラル、ガスパル・ヴィレラ、ニェッキ・ソルディ・オルガンティノといった宣教師によって布教が進められた。 

 

1594年、岐阜の織田秀信が3人の家臣とともにオルガンティノから受洗を受け、城下に教会堂、病院、孤児院を建てて教化を進めたため、領内に多くのキリシタンが生まれた。 

 

しかし、禁教令により元和年間(1615年~1624年)から弾圧が始まり、1631年に、57人のキリシタンが検挙され、4人が火刑、53人が入牢となった。1637年には尾張国下野村で300余人のキリシタンが斬首され、大きな穴に入れられて塚が築かれたという。1667年までに処分されたキリシタンは1300余人となり、濃尾地域のキリシタンは根絶されたと言われる。 

 

以上見てきたように、徳川幕府の厳しい弾圧により、長崎、江戸をはじめ全国各地区で多くのキリシタンの殉教者が生まれたのである。高輪教会の祈りに、「あかしびととしてのいさおしが、 いつの世にまでも賛美されますように」とあり、「あなたがたが 生命にかえて守られた尊いみおしえが、この国にもますますひろまりますように」とあるように、神のために流した血の犠牲を無駄にしてはならないとの思いが改めて込み上げてきた。 

 

多神教の国日本で、かくも敬虔で見上げたキリスト教(一神教)の信仰があったことを感慨深く想起すると共に、正にこれは日本の「隠れた宝」であると実感した。そしてこの清き血と信仰の種は、400年の歴史を経て、再臨期に連結され甦ることを固く信じるものである。そしてこれらキリシタンの苛烈な迫害を思えば、昨今のUCバッシングの艱難(かんなん)など、心なしか些細な出来事のように思えるのである。民主主義国日本において、どんな厳しい仕打ちといっても、かのキリシタンのように殺されたり、海外に追放されたりすることはないからである。現代に日本人として生まれた私たちは幸いである。(了)  宣教師  吉田宏



上記図、江戸の大殉教刑場  下写真、岩手県一関市藤沢町大籠(おおかご)の殉教公園

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