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細川ガラシャとキリスト教信仰②


○つれづれ日誌(12月2日)―細川ガラシャとキリスト教信仰(2)


ときは今 あめが下知る 五月かな(明智光秀の句)


[細川ガラシャの洗礼と受難]


細川珠は洗礼名をガラシャ(神の恵み)といいます。ガラシャは洗礼に至るまで如何なる求道の道を辿ってきたのでしょうか。


前回見てきたように、幽閉前の1580年、ガラシャは夫から紹介されてキリシタン大名高山右近に会い、右近からデウスの教えを聞いて影響を受けました。また右近とは盟友関係にあった夫忠興を通じて、右近のキリスト教の話しを聞き、キリシタンへの気持ちが高まっていきました。


また、幽閉時代から侍女として侍っていたクリスチャンの清原マリアから、キリスト教の教えを聞き、大いに感化され、ガラシャもキリシタンに憧れるようになっていきまます。


しかし幽閉から解かれて大阪細川屋敷に移り住みましたが、夫は幽閉時代から何人かの側妻を置き、子供まで生ませていました。


父光秀の謀反に苦しんできたガラシャは、加えて夫にも不信を抱き、キリスト教の永遠不変の教えや、一夫一婦制の教えに強く惹かれていき、遂に教会の門を叩いて洗礼を所望するようになります。


<ガラシャの洗礼>

ガラシャは、1587年3月、変装して屋敷を抜け出し、初めて教会を訪問しました。そこでガラシャは洗礼を希望しましたが、この時は見合わされました。


ガラシャは、夫から外出禁止の命を受けており、教会に自由に行けませんでした。しかし、侍女16人には洗礼を受けさせ、侍女を通してバテレンの話を学んでいました。また回りの多くの家来もキリシタンになっていました。


1587年6月19日に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、イエズス会宣教師たちは長崎の平戸に集結する事となり、ガラシャは宣教師たちが九州に行く前に洗礼を受けたいと強く希望することになります。


大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、遂に自邸で、清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、神の恵みの意)という洗礼名を受けました。この時、3歳の細川興秋も受洗を受けています。後に三男忠利も幼児洗礼を受けています。


忠興は禁教令発布直後にガラシャがキリシタンになったのを知ると激怒し、侍女の鼻や耳

をそぎ、さらに細川ガラシャを脅迫して改宗を迫ったとも言われています。しかし夫から棄教を迫られる中にあっても、頑として信仰を貫き、やがて夫忠興も信仰を黙認するようになりました。


しかし夫との葛藤はつのっていき、ガラシャは離婚を決意し、これを宣教師に告白しています。かっての美男美女の似合いの夫婦にも、いまや夫婦間の亀裂が生じていました。しかし、キリスト教は離婚を禁じており、神の試練として乗り越えるよう諭され、思い止まりました。こうして、ガラシャの信仰は鍛えられ本物になっていきました。


フロイスの「日本史」の中に、「私がキリシタンになりましたのは、人に説得されての事でなく、ただ全能の天主の恩寵により、私自らがそれを見出だしてのことであります」と記され、また「如何なる迫害が、忠興や秀吉からきたとしても、既に覚悟を決め、その機に臨んで天主への愛のために、いくらかの苦難を受けることができることを喜んでいる次第です」とも記され、ガラシャの信仰の強さが伺えます。


<ガラシャの自刃>

やがて秀吉は病を得て没し、そのあと石田光成と徳川家康の戦いが始まっていき、忠興は家康に与して上杉征伐に出陣いたします。石田側は残されたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはこれを拒みます。


翌日、石田側の兵により屋敷が取り囲まれますが、夫の言葉に忠実に従おうと決意したガラシャは、石田光成方の人質になることを拒んで死を選び、自害を禁じるキリスト教の教えを守って家老の小笠原秀清に胸を突かせ、屋敷は燃え落ちていきました。ガラシャ37歳でした。


この壮絶なガラシャの自刃を見た石田三成は、以後無理な人質を控えるようになったと言われています。


ガラシャの死は、信仰を守り抜いた証としても、夫への忠誠を貫いて細川家を守った妻の貞節においても、後世のよき見本になりました。


[本能寺の変とその真相]


さて、ガラシャの人生に大きな衝撃的出来事となった本能寺の変について書かなければなりません。一体、父明智光秀の謀反は如何なる動機で起こったものでありましょうか。


ときは今 あめが下知る 五月かな


上記の句は、本能寺事件の4日前、天正十年(1582年)5月28日、京都亀岡の愛宕山連歌会で光秀が詠んだ歌です。「とき」とは光秀出身氏族の土岐、「あめ」とは天(天下)、「下知る」とは命令するという意味で、即ち、土岐氏出身の明智光秀が「天下」に向かって命令をくだすという意味だとも言われています。


織田信長の家臣であり宮廷や将軍義昭とも近かった明智光秀が、一体何故謀反に至ったのか、その謀反の動機は何だったのでしょうか。この動機を巡っては57もの説があると言われ、関心の深さが分かろうと言うものですね。


主だったものに、怨恨説、窮鼠猫を噛む説、野望説、朝廷黒幕説(光秀勤王家説)、足利義昭黒幕説(光秀幕臣説)、そして突発的単独犯行説などがあります。


これを大きく分けると、単独説と黒幕陰謀説の二つに分けられるでしょう。


怨恨説.窮鼠説とは、光秀が信長の仕打ちに恨みと危機感を募らせ、千載一遇のチャンスに謀反に及んだというものです。


人前でちょっとした理由で頭を叩かれ叱責されたこと、家康の饗応の役を解かれ秀吉の援軍を命じられたこと、丹波から山陰への国替えを強要されたことなど、つまり、信長に武士の面目を潰されたことや文化観の齟齬が高まり、恨みと危機感を募らせていたという訳です。


また、野望説も有力です。信長を排除して自らが天下人にならんとしたというのです。上記の歌がこれを語っているという訳です。(守部喜雅氏、高柳光寿氏など)


一方、黒幕説の中でも朝廷黒幕説(光秀勤王家説)はかなり説得力があります。信長はその頃、自分を神として祭るよう命じるようになりつつありました。


後半信長は、将軍や天皇はおろかゼウス(キリスト教の神)まで見下すような状況にあったというのです。それが証拠に安土城天守閣に自分を祭る祭壇を造ったり、下を見下ろす城内に天皇を招く御所を建てようとしました。  


イエズス会宣教史のフロイスは著書「フロイス日本史」の中で「信長の尊大さは非常なもので、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼自身が地上で礼拝されることを望み、信長以外に礼拝に値する者はいないというに至った」(守部喜雅著「明智光秀と細川ガラシャ」P90)と語っています。


天皇を見下し、天皇にとって代わろうという信長の態度は、日本の伝統を理解していた教養人光秀にとって看過できることではなく、この日本の伝統文化の危機に際し、天誅に及んだというのです。そうして帝の後押しもあり信長討伐を決断したと言う訳です。


信長非道阻止説(大和田哲男著「明智光秀と本能寺の変更」P198)をとる大和田哲男氏も、正親町天皇から皇位簒奪を図るなど信長の常識を逸した動きを、光秀は警戒しこれを非道と考えたとしています。


確かに上記の朝廷黒幕説ないしは信長非道説は「当たらずとも遠からず」ではないかと思われます。


そして筆者の結論を述べますと、信長への怨恨や不信が潜在的にあり、加えて信長の天をも軽んじる非道さを憂慮していたところ、突発的に千載一遇のチャンス(信長親子が少数の手勢で京都に滞在)が到来し、これを天の声として謀反を決断したしたのではないかと思われます。


そして筆者は、これは日本に対する神のある種の摂理だったと理解いたします。光秀という人物を通して、高慢になり過ぎた信長を、更なるよき時代のために、神が打たれたのです。かってアッシリアやバビロニアを使って、神がイスラエルを打たれたようにです。


しかしこのことは信長の存在価値を否定することでは決してありません。戦国の世を切り開く先頭打者として、信長は時代の要請に応えた卓越した革命家であったことは確かです。また、信長はキリスト教を保護しています。



[キリシタン大名と高山右近]


最後に当時のキリスト教事情、とりわけガラシャにも影響を与えたキリシタン大名についておさらいをしておきたいと思います。


キリシタン大名とは、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信し、洗礼を受けた大名のことであり、計80人にも昇ると言われています。


イエズス会の布教方針は、土着の伝統文化によりそう「適応化」と共に、天皇から始まる「トップからの布教」という巧みな方針で、各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに大名自身に対する布教も行いました。


その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産できない硝石は羨望の的であった)の援助などを提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいました、


その後、キリスト教の教義やキリシタン大名の人徳や、特に高山右近に感化され、自ら入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていきました。黒田官兵衛も右近の影響を受け38才で洗礼を受けています。


キリシタン大名の、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信は、少年使節をローマ教皇のもとに送っています。


一方で、仏教や神道を奉ずる大名の中には、僧たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を邪教として弾圧する者もおり、カトリック教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくこともありました。


また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていきました。


江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令が出されたため、秀吉に改易されながらも最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラ(フィリピン)に追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しないようになりました。


彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、劇的な例では旧有馬領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、歴史の表舞台から消えていきました。


キリシタン大名としては、九州の大友宗麟.有馬晴信.大村純忠、関西の高山右近.結城忠正.小西行長.蒲生氏郷.内藤如安.黒田孝高.筒井定次、東海の織田秀信などが著名です。


<高山 右近について>

高山右近(1552年~1615年2月3日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名で、代表的なキリシタン大名として知られ、カトリック教会の福者になりました。洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト。千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。


高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主であり、父友照の嫡男として生まれました。永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受けています。


それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであります。


友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになりました。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けたといいます。父の生き方は息子の右近に大きな影響を与えました。


なんと言っても特筆すべきは、右近のキリスト教は忠興とガラシャに影響を与えました。ガラシャの信仰において、右近との出会いは大きな意味を持ったのです。


「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立され、五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれました。同年、高槻の領民25000人のうち、18000人(72%)がキリシタンでした。(カソリック高槻教会レポート)


1582年本能寺の変で信長が倒れ、安土城は焼失、右近は安土のセミナリオを高槻に移し、また大坂築城に合わせ大坂に教会を建てるのに尽力しました。信長の死後秀吉もしばらくはキリシタン保護を継続、右近の影響で牧村政治・蒲生氏郷・黒田孝高など秀吉の側近の多くが入信し、幼児洗礼の小西行長が信仰に目覚めました。1585年、右近は明石6万石に転封、明石教会を建設しました。


しかし、1587年、秀吉は突如バテレン追放令を出し、右近にも棄教を迫りました。しかし右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」と答えたため、明石の領土を剥奪され、追放され、流浪の身となりました。


淡路島・小豆島などを経て1588年、加賀藩前田利家の招きにより金沢に至り、ここでは「南坊」と名乗って、茶道と宣教に没頭しました。


1612年、徳川幕府はキリシタン禁教令を発布、1614年には右近の国外追放令が出されます。右近一家は2月15日雪の中を徒歩で京都に向い、坂本を経て大坂から船で長崎に着きました。長崎から小さな船でマニラへ向かい、43日後に到着、ルソン総督を始め全マニラは偉大な信仰の勇者を大歓迎しました。


しかし、苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、到着後40日ほどで熱病にかかり、1615年2月3日、63歳の生涯を閉じました。マニラ市により葬儀が行われ、イエズス会聖堂に葬られました。いま、マニラの日比友好公園には、高槻城跡公園と同じ高山右近像が立っています。


以上、細川ガラシャの信仰、ガラシャの父明智光秀の謀反の真相、キリシタン大名及び高山右近の人生と信仰について見て参りました。上述しましたように、ザビエル以来、徳川による禁教令まで、細川ガラシャと高山右近に象徴される如く、かなりキリスト教の信仰が日本に定着していました。


これは筆者に取っても驚くべき再発見であり、キリスト教の衰退が憂慮される現代日本において、キリスト教復興のよいモデルと教訓になると信じるものです。(了)



上記肖像画:左から(細川ガラシャ、明智光秀、高山右近)