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キリスト教の歴史と政教分離、及び日本への適用(宗教と国家の関係を考える)

創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている (独立宣言前文)


「アメリカ独立宣言」(ジョン・トランブル画、1819年)



令和元年10月28日 Thomas HIROSHI YOSHIDA


キリスト教の歴史と政教分離、及び日本への適用


―宗教と国家の関係を考えるー


<目次>

1、問題提起ー政教分離の論点・・・・・・・・・・・・・・4


2、政教分離原則とは何かー定義・類型・様相・・・・・・・4

ⅰ趣旨・定義 

ⅱ類型・様相―広義と狭義の政教分離

ⅲ各国の型                


3、キリスト教における政教分離の歴史・・・・・・・・・・6

ⅰヨーロッパにおける歴史

ⅱ叙任権闘争

ⅲ宗教改革と信仰の自由

ⅳ多発する宗教戦争


4、アメリカ合衆国の政教分離―その歴史、思想、特徴・・・・9

ⅰアメリカの独立革命―天賦人権の宣言

ⅱ政教分離の前史

ⅲ権利章典(合衆国憲法修正第1条)

ⅳアメリカ政教分離の特色


5、西欧の政教分離―各国の在り方・・・・・・・・・・・・15

ⅰイギリスの公認宗教制度

ⅱフランスの政教分離(ライシテ)

ⅲドイツの政教分離

ⅳロシアの政教分離


6、日本における政教分離―その法的意味・・・・・・・・・・19

ⅰ大日本帝国憲法

ⅱ「宗教」の法律的な定義

ⅲ日本国憲法

ⅳ政教分離の法的意味―津地鎮祭訴訟最高裁判決から

ⅴ判例


ⅵ宗教団体の政治参加について

ⅶ靖国神社参拝問題

ⅷ皇室祭祀について

ⅸその他の論点


7、国家神道とは何かー神道の国教化政策とその挫折・・・・・26

ⅰ定義と意義

ⅱ国家神道の歴史

ⅲ国家神道の性格

ⅳ国家神道への誤解


8、これからの国家と宗教の関係を考える・・・・・・・・・・31

      

                          (以上目次)




キリスト教の歴史と政教分離、及び日本への適用

―宗教と国家の関係を考えるー


1、問題提起―政教分離の論点


ⅰ正教分離思想を生んだキリスト教における信仰の自由とは何か、欧米各国において政教分離は現実の制度としてどこまで存在しているのか。→P7~9、P10~15


宗教は政治に関与できるか、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められているか。→P20、P23~24


ⅲ日本国憲法20条3項で禁止されている「宗教的活動」とは何か、国や公共団体などが宗教に関わることが出来るか、関わることが出来るとすればどの程度まで許されるか。→P21~22、P15


ⅳ国家神道とは何か、「国家神道に国教的地位が付与され、神道的儀式の強  制や他宗教への圧迫が行われ、軍国主義や超国家主義の温床となった」、即ち国家神道が戦前の諸悪の根源となったという戦後の通説は正しいか。→P31



2、政教分離原則とは何かー定義・類型・様相

ⅰ趣旨・定義

・政教分離原則は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。(Separation of Church and State)

ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」「国家」を指す。世界大百事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。


・信教の自由を担保するための制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は手段と目的の関係にある。


ⅱ類型・様相―広義と狭義の政教分離


政教分離は、その分離の質と程度によって、広義の政教分離と狭義の政教  分離に分けられ

広義では、祭政一致は拒否されるものの、宗教的慣習など宗教の公的領域は容認される。→融合型(英)、同盟型(独)

狭義では、宗教の公的領域に対しても厳格な中立性が要求される。更に、狭義の政教分離は友好的分離と敵対的分離に分けられ、それぞれの代表例として米国とフランスがあげられてきた。→分離型(米,日、仏)

・融合型(広義の政教分離)

国教型ともされ、バチカン市国、イスラム諸国のほか、イギリス、イタリア、北欧諸国も含まれる。


・分離型(狭義の政教分離)

a宗教に友好的ないし同調的なタイプ(米)

b宗教に非友好的ないし中立的なタイプ(仏、日)

c宗教に敵対的なタイプ(唯物論に立った旧ソビエト連邦など)


・同盟型(コンコルダート型)

国家と教会は独立しているが一定の協力的制度関係が存在する。同盟型における国家の教会への関与の例としては、司教の任命、司祭の報酬の決定などが挙げられる。ドイツにおいては、教会は憲法上の地位を持って活動するが、政治と競合する領域ではコンコルダート(政教協約)を結んで解決する。


ⅲ各国の型


・融合型(国教制度)

イングランド (イングランド国教会・聖公会)、スコットランド(長老派教会)、アイルランド(アイルランド教会)、ウェールズ(ウェールズ教会)、デンマーク(ルター派教会・1953年憲法 第4条)、ノルウェー(ルター派教会・1814年憲法 第2条)、フィンランド(ルター派教会)、正教会(フィンランド正教会)、ギリシア(ギリシャ正教会)、サウジアラビア(イスラム教ワッハーブ派)、エジプト(イスラム教)、スリランカ(上座部仏教)、ブータン(大乗仏教)


・分離型(厳格な分離)

アメリカ合衆国、フランス(ライシテ)、トルコ(ライクリッキ)、メキシ  

コ、日本(日本国憲法第20条)、オーストラリア( 憲法第116)


・コンコルダート型

オランダ、ドイツ(1949年基本法 第140条)、オーストリア、イタリア(1947年憲法 第7条、第8条)、スペイン(1978年憲法 第16条)、ポルトガル(1976年憲法 第41条4項)


3、キリスト教における政教分離の歴史


ⅰヨーロッパにおける歴史


・キリスト教受容以前の西欧人は、ケルト・ゲルマンの神話、すなわち民俗的な民族宗教を信奉していた。それはギリシャ・ローマ神話と変わらぬ多神教世界であり、精霊が日常至るところに宿る世界だ。日本の原宗教と同様、意識せぬ自然的な生活宗教と言ってよい。


・962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、キリスト教がゲルマン人の間に普及していく。この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、教皇の世俗的権力が強大となった。


・中世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権とが分かちがたく結びついてそれが一体となっていたため、信教の自由は認められず、国教ないし公認の宗教・宗派以外は「異端」として刑罰を受け、迫害されてきた(異端審問


・政教分離の考え方は、中世ヨーロッパにおける叙任権闘争 、近世においては宗教改革に端を発して展開した宗教戦争 、近代におけるアメリカ独立革命の3つの事象が画期をなし、長い歴史の中で形成された。


16世紀17世紀の宗教改革・宗教戦争以降、ヨーロッパでは宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいに広まり、現代においては世俗的な立憲国家憲法原則として広く採用されるところとなっている。


ⅱ叙任権闘争


・ヨーロッパ中世ではローマ=カトリック教会の聖職者を任免する聖職叙任権は、神聖ローマ皇帝以下の国王・領主ら世俗の権力が持っていたのに対し、11~12世紀にカトリック教会改革運動の一環として、ローマ教皇がその権利を得ようとして皇帝と争ったのが聖職叙任権闘争である。


・俗権による叙任権行使が聖職者売買や聖職者の堕落の原因であると自覚したローマ教皇のレオ9世やグレゴリウス7世によって、11~12世紀にかけて聖職者叙任権を教皇以下教会の手に奪回する運動が進められた。


・この闘争は1075年、グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝らの聖職者叙任権を否定する決定を出してから本格化し、それに反発した皇帝ハインリヒ4世を破門としたことから起こった1077年の「カノッサの屈辱」事件で頂点に達した。


1122年、ヴォルムス協約が成立し、聖職叙任権は教皇が有するが、教会の土地、財産などの世俗的な権利は王が授封するという妥協が成立し、一応の解決へと至った。→聖と俗の初期的な棲み分け


ⅲ宗教改革と信仰の自由


・第一次宗教改革―領封教会体制


1517年ルターの宗教改革に始まる近世における第一次宗教改革は、1555年のアウグスブルクの宗教和議でルター派(プロテスタント)は容認され、カトリックと並ぶ存在になることで一応の決着を見た。信仰の在り方は宗教改革3原則(信仰義認、聖書主義、万人祭司)によって変革を遂げたが、信仰の自由は個人ではなく、領封君主に宗教選択権が与えられ、「領封教会体制」が確立することになった。個人における信教の自由は保障されるべくもなかったが、それにもかかわらず国制における宗教多元化の第一歩となった


・第2次宗教改革―新プロテスタンティズム

上記のように、ルターの宗教改革は、信者個人ではなく領封君主に宗教選択権が与えられ、「領封教会体制」だった。従って今日見られるような各人の自由な信仰に基づく自由な教会設立ではなく、不徹底な宗教改革であった。これに異議を唱え、国家や諸侯から解放された自由で自発的な結社・教派・教会設立を目指したのが、バプティスト運動、ピューリタン運動、個人主義的神学運動、スピルチヤリズムなどの新プロテスタンティズムである。


この新プロテスタンティズムは、宗教市場の自由化・民営化・自由競争を前提としたので、牧師には聖職禄(俸給)が付与されず、自発的な献金、教勢の拡大が必要になった。これら個人の信仰の自由は、教会設立の自由、宗教市場の自由化・民営化・自由競争の思想を生み、アメリカ型信教の自由・政教分離、自由民主主義へと繋がっていく。


個人として自覚的な信仰―カソリックを批判した者たち「プロテスタント」こそが初めて、個人として自覚的に信仰を選び取った。そしてそれまで「世界教会」すなわち「カトリック」(旧教)と呼ばれた者たちも、これによって改めて自らの信仰を意識して選び取り直した。欧米の歴史では、信仰や宗教を個人が選び取ることのできるような制度を追求していく中で、近代的な人権思想や個人主義が成立してきた。即ち、思想・良心の自由、表現の自由、結社の自由など主要な人権は信教の自由を獲得する中で生まれたのである。


ⅳ多発する宗教戦争


・上述したように、ドイツやスイスでは宗教改革の帰結として宗教戦争が起こり、16世紀のドイツでは騎士戦争(1522年-1523年)、ドイツ農民戦争(1524年-1525年)、ミュンスターの反乱(1534年)、シュマルカルデン戦争(1546年-1547年)、第二次辺境伯戦争(1552年-1555年)など一連の宗教戦争の結果、各領邦で国教制度をとる領邦教会制度が成立した。17世紀の大規模な宗教戦争となった三十年戦争はヨーロッパ各国を巻き込んで長期化し、1648年ウエストファリア条約で終結し主権国家が確立した。


・宗教改革にともなう教会分裂によって神聖ローマ帝国は衰退し、主権的国家 が登場したことによって政治の世俗化が方向づけられた。イギリスでは16世紀にイングランド国教会が成立し、17世紀には清教徒革命(1641年-1649年)が起こった。イスパニアの支配から脱しようとしたオランダでは、カルヴィニズムが社会をリードし、イスパニアとの間で八十年戦争(1568年-1648年)が起こった。又フランスではユグノー戦争(1562年-1598年)が起こり、そのなかからカトリックに対抗するカルヴァン派の抵抗権理論が発展し、一方では主として知識人のなかから宗教的寛容を説く思潮が生まれた。一方、イスパニア対抗宗教改革の拠点となり、そこでは教皇中心主義が採られた。


4、アメリカ合衆国の政教分離―その歴史、思想、特徴


ⅰ政教分離の前史


・人権宣言成立の背景

 イギリスにおける1215年の大憲章(マグナカルタ)、1628年の権利の誓願、1689年の権利章典などによって、人権の礎が築かれた。これらの権利・自由は天賦人権思想によるものではなかったが、近代自然法思想(グロチウス)の環境の下で、やがて人権へと成長する。


・新たな国教国教(公定宗教)

本国において迫害され信教の自由を求めて新大陸に渡ってきたはずの非国教徒達は、今度は自派の宗教をもって国教(公定宗教)とし、クエーカー教徒、国教会派教徒、異教徒への迫害者となった。特にニューイングランドのマサチュセッツでは分離派が国教となり神権政治が行われた。ヴァージニアではイギリス国教会が国教とされた。ただ、ロードアイランドではロジャー・ウイリアムズらの指導で1640年に信教の自由が宣言されている。


 このように、植民地時代のアメリカでは、13植民地のうち、国教会が8、公認教会が4と、ロードアイランドを除く全てで国教制や公認教会制が採用された。


大覚醒運動1730年代頃より起こって1740年代にきわめて活発化した信仰復興運動では、ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホワイトフィールドイングランド国教会牧師)らが大覚醒運動を広めて福音主義を復興させ、既存教会、とくに公定教会制度を批判した。支持者はニューライトと呼ばれ、新しい国家を参集することが神の召命とした。


ⅱバージニア権利章典(人権宣言)


・独立宣言の1か月前の1776年6月12日にバージニア会議で、メーソンが起草しマディソンが修正したバージニア権利章典が採択され、第16条で自由な信仰の権利が定められた。

すべての人々は良心の命令にしたがって自由に宗教を信仰する平等の権利を持つ。これはキリスト教的寛容、愛、慈善を施す全員相互の義務である。 ( Virginia Declaration of Rights,Section 16,1776)


→当時の独立戦争前のバージニア植民地ではイングランド国教会が公定教会だった。バージニア住民は国教会への礼拝が義務付けられ、十分の一教区税によって教会は維持される一方で、長老派(Presbyterians)、バプティスト、メノ派などの不服従派(dissenters)は厳しく規制されていた。 


ⅲアメリカの独立革命―天賦人権の宣言


・独立戦争(1775~1783)―アメリカ独立戦争も一種の宗教戦争であった。

aイギリスによる一連の課税が不評を買い、「代表なくして課税なし」のスローガンで抵抗運動が起こった。

bボストンで抗議行動を起こすと、イギリスは軍隊を送って封じようとし、アメリカは民兵を結集して1775年に戦いが始まる。

c1778年にはアメリカとフランスの同盟が成立し、1778年のサラトガと1781年

のヨークタウンで2つのイギリス軍大部隊が降伏し、1783年のパリ条約で和平

がなった。


・コモン・センスー1775年にアメリカ独立戦争が勃発し、戦争の進展とともに、アメリカで公定教会とされ、エスタブリッシュメントであったイギリス国教会への批判が高まっていった。翌1776年1月にフィラデルフィアで発行した「コモン・センス」でトマス・ペインは、独立後の大陸憲章または植民地連合憲章では「何よりも、良心が命じるところの自由な宗教活動」が定められるべきであるとし、信教の自由を主張した。


すべての良心的な信仰告白者の保護は、すべての政府の必要不可欠な義務である。全能者である神は、宗教的見解の多様性を意志している。そしてそれは、キリスト教的な優しさのための広大な範囲を我々に与えるのだ。( Thomas Paine,Common Sense.1776)


・独立宣言(1776)

a1776年1月10日、トマス・ペインは「コモン・センス」という題の政治冊子を発行し、イギリスとの問題を解決する唯一の手段は共和制であり、イギリスからの独立であると訴え、信仰の自由を訴えた。

b1776年13植民地の代表が会して全会一致でアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ 合衆国を設立した。

cこの独立宣言は神の存在を前提とし、自然の法、神の法による権利及び天賦人権思想が宣言されている。

→人間は何故固有の尊厳(人権)を持つのか、人権が神に由来するという宗教的信条が失われれば人権観念を維持するのは難しい。法実証主義が台頭する中で、人権の固有自明性を自然権として説明するようになった。

dアメリカという国がキリスト教国家であることを示し、独立宣言の流れを汲む憲法はその修正1条と言えども、このような国家の基本的性格(国体)まで変更するものではない。


◇独立宣言

・1776年6月7日、バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーは大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、ジェファーソン、アダムズ、フランクリン、シャーマン、リビングストンの5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リーの「独立の決議」がまず可決され、「アメリカ独立宣言」は7月4日に採択された。


・独立宣言は、「基本的人権と革命権に関する前文」、「国王、イギリス議会、本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文、そして「独立を宣言する結語」の3部から成る。


中でも、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。その理論は、名誉革命を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを汲む。


「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。いかなる形態であれ政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには、それを改めまたは廃止し、新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利である」(前文)


・世界に及ぼした影響

a日本への影響―日本国憲法はこの流れを汲む


第13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求 に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


bアメリカの共和制の中核的価値観となる自由、個人の諸権利、平等および革命権を広く保証することになった。ヨーロッパの植民地帝国に対する革命が初めて成功したことは、他の多くの植民地人の模範となり、自分達も事態を打開して自治政府を打ち樹てることができると思わせるようになった。


cアメリカの独立は特にイギリス、アイルランド、オランダおよびフランスに直接の強い衝撃をもたらした。アメリカ独立宣言はフランスの権利の宣言に影響を与えた。又、アメリカの独立の影響はラテンアメリカで特に顕著であった。


ⅳ権利章典(合衆国憲法修正第1条)の成立


・バージニア信教自由法

ジェファーソンが起草した第82法案 「バージニア信教自由法」が1785年にマディソンによって提出され、1786年1月19日、バージニア邦議会で可決した。バージニア信教自由法は、アメリカで初めて信教の自由と政教分離を明文化した法律で、アメリカ憲法の基礎となった。


宗教的な礼拝や場所への集合、または、いかなる聖職者への支持も強要されることはない。宗教上の見解や信仰を理由に、強制され、制限され、妨害され、身体や財産を傷つけられたり、その他の方法で苦しめられるべきではない。すべての人には、宗教的事柄への見解を公言したり、話し合いによって支持する自由がある。(Virginia Statute for Religious Freedom(宗教的自由のためのバージニア法令),1786,drafted by Thomas Jefferson)


・合衆国憲法修正第1条(権利章典)の制定

1788年に憲法が制定され、その後1791年に合衆国憲法修正第1条(権利章典)が制定された。この権利章典では国教が禁止され、宗教の自由が明記された。


合衆国議会は、国教を創設したり、宗教の自由の行使を禁止する法律を制定しない。言論や報道の自由を減じたり、市民が平穏に集会しまた不公平の是正のために政府に請願する権利を制限する法律を制定しない。(アメリカ権利章典修正第1条)


→これらの人権宣言は、イギリスの人権思想(コモンロー)、アメリカの宗教的自由獲得への情熱、近代自然法思想(グロチウス、ロック、ヴォルテールモンテスキュー、ルソー)の下に成立し、政教分離を規定した世界初の憲法、アメリカ合衆国憲法に大きな影響力を与えた


政教分離を国制とした史上初の世俗国家―政教分離が選ばれたのは、啓蒙主義思想によるだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたためであった。そして「教会と国家の分離」における「教会」とは、当然「キリスト教会」のことであり、それがまた「宗教」のすべてであった。

もともと州の独立性は強く、ニューヨーク州、メリーランド州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州は監督派教会を、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニューハンプシャー州は会衆派教会を、ヴァージニア州はイギリス国教会を公定教会とした。但し、ロードアイランドは信教の自由が確立していた。その後、修正第1条の精神が徐々に浸透し、各州における公定教会制度は廃止されていき、最も頑強にピューリタンの伝統が保持されたマサチューセッツ州においても1833年に公定教会は廃止された。


ⅴアメリカ政教分離の特色


・そもそも、建国の父たちは英国における宗教弾圧を逃れ、信教の自由を求めて新天地へと渡ったのであった。しかし上記したように、後に形成された植民地では、それぞれに国教会制度や公認教会制度がしかれた。たとえば、マサチューセッツでは会衆派教会、バージニアでは英国国教会という具合に、ヨーロッパの教派が新大陸にも持ち込まれ、時として、公認教会以外の教派に対し、激しい差別と弾圧とが行われたのであった。したがって、多様な教派的背景を持った植民地を束ねて一つの連邦国家を建設するためには、政教分離を導入せざるを得なかったという事情があった。


・憲法修正第1条で示されるアメリカ合衆国での政教分離原則の目的は、市民の宗教的自由の保護であるため、宗教の自由な活動は私的・公的領域において保障されるそのため、特定の宗教が政治に関わっても政教分離違反にならず、フランスに比べて、宗教が機能する場がかなり広い。そもそも、アメリカという国自体がキリスト教的性格を有し、キリスト教はコモン・ローの一部と解されている。


・フランスでは政治と宗教が厳格に分離される(Separation of Religion and Politics)のに対して、アメリカでは政府と特定の宗教団体との分離(Separation of Church and State)である。アメリカにおいては、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれ、アメリカの公的領域において一定の役割を果たすことは伝統的に是認されている。欧米では、宗教そのものは政治に密着しているのが常態であり、英国女王は今でもれっきとした英国教会の首長であり、重要祭事はその会派の教会・ウェストミンスター寺院で執り行なう。ドイツでは「キリスト教民主同盟」のようにキリスト教をはっきりと党是とした政党がある。


目的・効果基準―司法では、1971年のレモン対カーツマン事件では、国家にゆるされる宗教的行為の条件として、「政府の行為が適法で世俗的な目的をもつこと、宗教を助長または抑制しないこと、政府と宗教の過度の関係をもたらさないこと」の3要件を判示した。(レモンテスト)


・アメリカにおける国家と宗教の密接な係わり(事例)

a米大統領は神に職務精励を誓い、聖書に手を置いて宣誓する。大統領就任式や国葬など主要な国家儀式がすべてキリスト教式で行われ、また最高裁判所にはモーセの十戒が掲げられている。

bアメリカ合衆国議会、裁判所、軍隊、警察、刑務所、公立病院には専属牧師が置かれている。議会開会は牧師による祈祷から始まる。

c軍隊で従軍牧師のような聖職者を雇用し、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。

d大統領などの国葬はそれぞれの宗教儀式によって行われ、戦没者の追悼式はキリスト教の宗教儀式による。

eアメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには"IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)"の文言が刻まれ印刷されている。又「星条旗に対する宣誓」の中に「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉がある。

f宗教団体への寄付金は所得控除の対象となっている。


見えざる国教「市民宗教」―アメリカの宗教社会学者ロバート・N・ベラーは多民族国家アメリカを統合している価値の体系を「市民宗教」(civil religion)と名づけた(『社会変革と宗教倫理』未来社)。森孝一氏(同志社大学教授)がそれを「見えざる国教」と言い換え、巡礼父祖のキリスト教と、建国父祖の啓蒙思想とが結合したものをアメリカの「見えざる国教」と呼んだ。


選民的使命感―ベラーの「市民宗教」では、アメリカは神がイスラエルの民に与えると約束した「約束の地(イスラエル)」、アメリカ人は「選ばれた人々(選民)」、独立革命は「出エジプト」、独立宣言と憲法は「聖典」、ワシントンは「モーセ」、南北戦争とリンカーンの死は「キリストの死と復活」に結び付けられており、「世界の光明」であるアメリカを世界規模に拡大することが目指される。

5、西欧における政教分離―各国の在り方


イギリスの公認宗教制度


テューダー朝第2代のヘンリー8世は1509年にイングランド王となり、1530年には離婚の問題に端を発してカソリックと決別し、1534年には国王至上法(首長令)によってイギリス国教会が成立した。


・その後エドワード6世のプロテスタント傾斜、メアリー1世のカトリック復帰と変遷するが、エリザベス1世は、1559年に再び国王至上法を復活させてイングランド国教会を再建し、カソリックと決別した。イングランド国教会はカトリックとプロテスタントの折衷的ないし中間的な性格を有する。


・名誉革命(1688年)と呼ばれた政治革命が起こり、それは「権利の章典」に結実し、諸権利を確認した。


イギリスの場合は国家と宗教は緊密に結びついて今日に至るが、ヨーロッパ全体でみた場合、16世紀の初頭には普遍的なカトリック教会しかなかった西ヨーロッパの教会が、この世紀の中葉にはローマ教会、ルター派教会、カルヴァン派(改革派教会)、イギリス国教会の4つに分裂し、後にはそれがほぼ固定したといえる。


・イギリスにはイングランド国教会があり、広義での公認宗教制度をとる。イングランド教会は、 国教会制定法を通じて議会によってコントロールされている。また、女王は国教会の主教任命権を有しており、国王はイングランド教会の「至上の支配者」であり、国教会を信仰し、国王の戴冠式は国教会で執り行われる。


・イギリスには憲法が存在せず、信教の自由について憲法上の保障はないが、イギリスの実質的な憲法と言えるマグナ・カルタ(1215年)、権利の請願(1628年)、権利の章典(1689年)に人権規定がある

又、イギリスは、ヨーロッパ人権規約(1953年)の調印国であり、1998年の人権法によって、同規約を国内法の一部とし、人権規約9条の信教の自由に依拠して裁判所で適合か不適合かが判断される。


1988年教育改革法では、宗教教育は基本カリキュラムの一部と位置づけら れ、イギリスの宗教的な伝統が主としてキリスト教であるという事実を反映 しなければならないと明確に定められた。公立学校での礼拝はキリスト教的なものでなければならないと定められている。


ⅱフランスの政教分離(ライシテ)


・1789年のフランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した。


・フランスの政教分離はライシテ (laïcité) の原則に基づく。「ライシテ」とは、教会と国家の分離の原則、即ち国家の宗教的中立性・無宗教性の原則で、これにより個人の信仰の自由を担保するものである。公的領域(政治・教育)を脱宗教化することで私的領域における宗教の自由を保障しようとする公私二元論である。仏革命でカソリック派と共和派との葛藤と妥協の中で確立した。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である。


・ライシテが憲法に規定されたのは、1946年の第四共和制憲法である。そして1958年成立のフランス第五共和国憲法に引き継がれた。


フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法の前の平等が保障される。


ⅲドイツの政教分離


・ドイツでは宗教改革による対立を経てアウクスブルクの和議において、ルター派はカトリックと同等の権利を持ったが、同時に領邦教会制が成立した。


・1918年にドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和政となり、ヴァイマル憲法137条では「国の教会は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と宗教の自由も保障された。しかし、教会は引き続き公法上の社団とされ、教会税徴収権も有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされる(149条)など、ヴァイマル憲法においていわゆる「政教分離」制度が採用されたわけではない。


・ヴァイマル憲法の規定は1949年のドイツ基本法140条でも取り込まれ、ドイツ基本法4条では個人の信教の自由を保障する。しかし現在でも、宗教団体は「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収も認められている。

又、ドイツ基本法第7条第3項には「宗教教育は、公立学校においては、宗教に関係のない学校をのぞいて、正規の教科目である。宗教教育は、国の監督権をさまたげることなく、宗教団体の教義にしたがって行われる」と記されており、通常、宗教教育は、カトリック教会およびプロテスタント教会の指導のもとでなされている。


そのため、H.P.マルチュケは「ドイツ連邦共和国では国家と教会(カトリック教会とプロテスタント教会)の分離の原則が行われているが、それは宗教的に無色の国家が教会の公共活動に無関心な態度をとるというのではなく、国家が特定の教会と一体化して他の教会ないし宗教団体を排除することなしに教会の活動を支援することを許容するものである」と解説する。

また、公立学校における宗教の授業は、憲法上の正規科目とされている(基本法第7条3項)。他面において、国家は、教会内の立法・裁判などに介入できない。


ⅳロシアの政教分離


・ロシア革命後のソビエト連邦は無神論国家として「反宗教」を国是とし、国家の宗教統制が徹底的に行われ、宗教信仰の自由はまったく認められなかった。革命後1930年代までに7万2千人〜7万7千人のロシア正教会司祭が処刑・投獄された。


・1988年、ゴルバチョフはピーメン総主教に対してソヴィエトの教会弾圧について謝罪し、政教和解を申し入れ、1990年の信教の自由に関するロシア連邦共和国法においてロシア史上初めて信教の自由が認められた。同法は信教の自由を保障し(第3条)、宗教団体または無神論団体の国家からの分離、教育制度の世俗的性格など政教分離原則が明文化された(第5条)。ゴルバチョフはローマ法王とも会見し、バチカン外交部が開設され、1991年には暫定的な布教区が復活された。


・1991年12月にソ連は崩壊した。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった。


・1993年12月12日制定のロシア連邦憲法

aロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)。


b1997年9月26日、エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、「ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める」と謳われた。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした。


c一方で、国家登録を済ませ15年以上の存続を条件を満たさない宗教団体には法人格を与えないとし(第11条)、外国の宗教組織はロシアで宗教活動はできないとされた(第13条)


この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派正教とし、イスラム教、 仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが伝統宗教であるとされ、その他の宗教セクトとして古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが位置づけられた。このように1997年の宗教法は信教の自由よりも、宗教のヒエラルキーを強化しているため、ロシアは「正教国家」に向かっているとも指摘されている。


ウラジーミル・プーチン大統領―「大国ロシアの復活」は、ロシア正教会にとっても歓迎すべき国家目標となった。2013年7月、プーチン大統領はクレムリンにキリル総主教を受け入れ、ルーシがキリスト教を受け入れた988年を記念して「ルーシ受洗1025年」を祝った。


2014年のクリミア併合は、「第二のローマ」であるコンスタンティノープル(現イスタンブール)を睥睨する位置にあり、ロシア正教の歴史的復権に連なるもので、「クリミアは新しいエルサレムである」とプーチンは力説した


6、日本における政教分離―その法的意味


大日本帝国憲法

 第28条 日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す


・この条項は天賦人権説を否定する立場から起草されていることが草案作成者である井上毅とヘルマン・ロエスレルとの間の往還書類で判明している。


・この第28条は「信教の自由」、および「安寧秩序」「臣民の義務」という定義自体が不完全なもので、のちに神道は「神社は宗教にあらず」として実質的に国教化された(国家神道)。


・神社への崇敬を臣民の義務として、神宮遙拝は日常化され、家庭や公共機関などに神札を祀ることが奨励された。これに反する宗教は弾圧を加えられることもあった(大本教、ひとのみち教団、創価教育学会、横浜ホーリネス教会など)。


ⅱ「宗教」の法律的な定義


宗教法人法2条1項

「(宗教団体は)宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体」

→宗教の要素として、教義、儀式、教育、布教の4点が指摘されている。                                        


・最高裁判所の裁判例(最大判昭和52年7月13日 津地鎮祭判決)

「(宗教とは)超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為


ⅲ日本国憲法

第20条 

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。


信教の自由は、「内心の自由」「宗教的行為の自由」「宗教的結社・宣伝の自

由」からなる。内心の自由は「思想・良心の自由:(第19条)、宗教的行為の自 由は「表現の自由」(第21条)、宗教団体の自由は「結社の自由」(第21条)に繋がっている。


政教分離の骨子

a国が宗教団体に特権を与えることの禁止 - 特定の宗教団体に特権を付与すること、宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与えると。

b宗教団体が政治上の権力を行使することの禁止

c国およびその機関が宗教的活動をすることの禁止 - 宗教の布教、教化、宣伝の活動、宗教上の祝典、儀式、行事など→宗教的活動とは何かが問題になる。(後述―目的効果基準)


・上記の憲法規定は、宗教の政治への関与を否定するものではなく、宗教団体が政治家や政治団体を支持したり、政治運動を行うことは憲法上認められている。(内閣法制局長官大森政輔の国会答弁)

政治上の権力」とは「統治的権力」を意味する。政治活動そのものではなく、法律を作ったり、人を裁いたり、税金を徴収したり、公務員を任免する「公権力」を意味している。「統治的権力」はすべて国や公共団体に独占されている。

・政教分離とは「国家と宗教」の分離であって、「政治と宗教」の分離ではない。日本国憲法の精神が求める政教分離は、国家の宗教的中立性を要求しているのであって、宗教者の政治的中立を要求しているわけではない。

・国家と分離される「宗教」の定義の両説

a目的効果説―宗教は個人の内心にとどまらず外部的な社会現象(教育・福祉・文化・民族風習など)をともなうのが通常なので、「国家と宗教の完全な分離は、実際上不可能に近い」として、「当該の行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進、又は圧迫、干渉になるような行為」とする説である。(上記津地鎮祭最高裁判例)


b厳格説―「祈祷、礼拝、儀式、祝典、行事等およそ宗教的信仰の表現である一切の行為を包括する概念」であるとする。この厳格説に対しては、死者に対する哀悼、慰霊等などの行事のすべてが含まれるのは非常識であるとする批判があり、宗教だと考えられるものすべてを指すと考えることはできないとする立場が一般的である。


・アメリカの政教分離は、信仰の自由に根差すものであったが、日本の政教分離は、国家が人間の内面を抑圧し、結果的に戦争に至った過去の歴史を反省するために生み出された概念でもある。 日本は事実上の国教体制から政教分離へと一夜にして移行したわけであるが、そのプロセスを欧米の多くの国家は何百年という月日をかけて行ってきた。 


ⅳ政教分離の法的意味―津地鎮祭訴訟最高裁判決から(昭和52年7月13日)


・本件の争点

津市体育館の起工式が津市の主催により、神式に則り挙行され、その挙式費用金7,663円を市の公金から支出したことにつき、その適法性が争われたもの。


・最高裁の判断

a憲法における政教分離原則とは、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。そして日本国憲法は、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。


b元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であつて、信教の自由そのものを直接保障するものではなく、国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである


c現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。(私立学校への助成、神社・寺院の建築物や仏像等の文化財維持保存の補助金、刑務所等における教誨活動) 従って政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではない。


d目的効果基準―国家と宗教とのかかわり合い

憲法20条3項により禁止される宗教的活動とは、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。


e 判決結論-本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法20条3項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当であるとした。


ⅴ判例

a箕面忠魂碑訴訟では、目的効果基準にしたがって、忠魂碑の移転に関わる費用等を市が負担した行為が合憲とされた。

b愛媛県靖国神社玉串料訴訟では、同基準に従い、県知事が公費から靖国神社に玉串料を奉納した行為が違憲とされた。

c砂川政教分離訴訟では北海道砂川市が市有地を神社に無償提供していた件が違憲と判断された。

d宗教的要素をもった文化財に対する補助金や、宗教系私立学校への助成金支出などは問題ないとされている。


ⅵ宗教団体の政治参加について


・宗教団体の政治への関わり方の類型

a単独の宗教団体が独自の政党を作る場合―創価学会など

b新日本宗教団体連合会系の団体が自民党や民社党のリベラルな部分と結びついたタイプ

c天皇復権などを謳う右派グループ

d政治参加を否定する団体


・「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」の規定に関し、日本政府の見解によれば宗教団体が政治的活動をすることに問題はないとする。公明党は創価学会の政治団体であるが、公明党が第一党となり政権を握っても問題はない。創価学会にだけ特権や援助を与えたとき、初めて政分離違反となる。


・学界の議論

学界の通説ー国家が宗教団体に政治上の権力を行使させてはならない、ということは、宗教団体を政治参加させてはならないという意味ではない」とする。すなわち「政治上の権力」とは、国が独占すべき「統治権力(立法権、課税権、裁判権等)」のことを指すとするものである。


→芦部信喜や橋本公亘は、宗教団体の政治活動の自由を制限したり禁止したりするのは宗教を理由に差別することになる、と主張している。なお、佐藤功などの反対説もある。


・宗教団体・宗教団体構成員の政治活動・政党結成を制限することは、以下の複数の規定に抵触することになる。

a信条による差別全般を禁止した憲法第14条1項

b公務員の選定を「国民固有の権利」(=全ての国民に保障された権利)とした憲法第15条1項

c思想・良心の自由を保障した憲法第19条

d結社・言論の自由を保障した憲法第21条1項

e国政選挙における信条による差別を禁止した憲法第44条

f地方選挙権を「住民」に保障した憲法第93条2項


・内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨

「憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。」→宗教団体及び宗教の政治参加を妨げるものではない


ⅶ靖国神社参拝問題


・1985年8月14日に、政府は従来の政府統一見解を変更して、「正式な神式ではなく省略した拝礼によるものならば閣僚の公式参拝は政教分離には反しない」という見解を打ち出した。


中曽根康弘首相が靖国神社を公式参拝し供花代金として3万円の公費を支出した。この参拝について、仏教、キリスト教信者が中心となって、信教の自由、宗教的人格権、宗教的プライバシー権等の侵害を理由に損害賠償・慰謝料を求める訴訟を行った。


a福岡高裁(平成4年2月28日)判決―靖国信仰を公認し押しつけたものと

は言えず、信教の自由の侵害はない、としたが、傍論において公式参拝が制度的に継続的に行われれば違憲の疑いがあるとした。

b大阪高裁(平成4年7月30日)判決もー今回は具体的な権利侵害はないが、公式参拝自体は違憲の疑いが強いとした。


小泉純一郎首相の靖国神社参拝―「私的参拝」であるとして公費の支出をしなかった。

a千葉地裁(平成16年11月25日)判決、東京高裁(平成17年9月29日)判決は憲法判断を避け、原告の請求を棄却した。

b福岡地裁(平成16年4月7日)判決と大阪高裁(平成17年9月30日)判決は原告の控訴を棄却したが、傍論で違憲に言及している。


・政治家の靖国神社参拝

政治家の参拝が違反であるという意見と合憲であるという意見の両論がある。しかし、政治家への適用は不可能である→「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」


皇室祭祀について


・天皇の代替わり儀式(剣璽等承継の儀、即位礼正殿の儀、大嘗祭)

 憲法は世襲の君主制を採用しており、世襲に伴う伝統的な儀式・典礼の存在を容認している。従って天皇の代替わり儀式を公事(国事)として行うことは政教分離原則に違反するものではない。(大原康夫著「国家と宗教の間」P98)


・皇室祭祀は公事である(四方拝、新嘗祭、春秋の儀式)

現在、天皇の私事(内廷費として拠出)として行われている宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)などでの皇室祭事は、宗教法人法でいう宗教の概念に当たらず、皇室祭儀に公的要素を導入したとしても、何人の信教の自由を損なうことにならないので、憲法89条の「宗教上の組織若しくは団体」には当たらないのではないか。


・そもそも、日本の天皇は、「国民への祈り」と「大祭司としての祭祀の主宰(神祇祭祀と皇霊祭祀)」が主たる任務であり、敬神・崇祖の精神を祭祀によって実践する祭司的儀式である。そもそも象徴天皇自体が公の存在であり、公事、私事を分けることは困難であり、ある意味で国家の政治的統治の枠外に存し、皇室祭祀に政教分離の適用はないと考える。


天皇の代替わり儀式(即位礼正殿の儀、大嘗祭)に関するキリスト教の態度


a日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題員会(星出卓也委員長)は4月30日、天皇の代替わりに先立ち、カトリック、NCC、日本福音同盟(JEA)、日本バプテスト連盟からそれぞれ関係者が登壇し、「違憲状態の天皇の代替わり儀式」に抗議する記者会見を日本基督教団信濃町教会(東京都新宿区)で開いた。


 登壇したのは上中栄(JEA社会委員長、日本ホーリネス教団旗の台キリスト教会牧師)、金性済(NCC総幹事)、光延一郎(イエズス会司祭、上智大学神学部教授、日本カトリック正義と平和協議会秘書)、加藤誠(日本バプテスト連盟理事長、同連盟大井バプテスト教会主任牧師)の4氏で、信教の自由を守るため天皇の退位、即位に際して行われる「即位礼正殿の儀」「大嘗祭」など一連の神道儀式を、公的な国事行為として行わず、公費も支出しないことなどを求めた。また、昨年から今年にかけて公にされた13のキリスト教諸教派、諸団体による23の声明も紹介された。


一方で4月27日には、日本民族総福音化運動協議会の会員ら有志が皇居周辺で「天皇に感謝するマーチ」を主催するなど、キリスト教界内の意識の差が浮き彫りになる形となった。

b日本カトリック司教協議会はいち早く昨年2月、「天皇の退位と即位に関する一連の行事にあたって、日本国憲法が定める政教分離原則を遵守し、国事行為と皇室の私的宗教行事である皇室祭祀の区別を明確にすること」を求める要望書を安倍晋三首相宛に送付した。


ⅸその他の論点


・憲法改正の動きと批判

キリスト教会の批判―憲法改正論議では自民党などによって政教分離の緩和が検討されている。2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。成澤孝人は憲法調査会の議論にナショナリズムが現れていると批判した。恵泉バプテスト教会は「憲法改悪に反対する声明」を出した。


・祭祀・お祭り・民俗宗教

皇室の執り行う大嘗祭について。平成14年(2002年)7月に最高裁判示によると大分県の平松知事らが大嘗祭関連儀式に公人として参列し、日当などが公費から支出された件について、目的・効果基準から合憲判断を示し(7月9日)、同7月11日には鹿児島県の土屋知事らについての同様の訴えについても合憲判断を示した。


・公教育と政教分離

旧教育基本法第9条は宗教的情操をはぐくむ教育を禁止していると解すべきだとの立場があり、一方で文部省教育局長通達などでは「宗教的感情の芽生えを伸ばす教材」を盛り込むことを指示しており、1977年以降では「超自然的な存在」「人間の力を超えたものへの畏敬」の観念を示しそれにもとづく道徳教育を実施している。


この点は法改正のさい議論の対象となり平成18年12月22日施行の新法では、宗教に関する一般的な教養は教育上尊重されるべきことを新たに規定された。


宗教法人に対する非課税措置について

宗教法人に対する非課税措置が「特権付与」に当たるかどうか議論がある。しかし、宗教法人は公益法人に属するが、他の公益法人も免税されているので、特に宗教法人だけが特権を付与されていることにはならないとし合憲としている。


宗教法人は、収益事業を行っている場合、公益事業へ組み込むための儲けが出せるので課税される。ただし、儲けは出せるが、その総ては法律で公益事業へ使わなければならず、一般企業のように個人へ配当することは出来ないので、その点で税率が軽減されている。公益事業は非課税になっている。

又、欧米では、教会への献金が控除の対象になったり、教会税が施行されている国がある。なお、非課税措置については批判もある。


7、国家神道とは何かー神道の国教化政策とその挫折


ⅰ定義と意義


・国家神道とは、神道的な道徳的実践を国民統合の支柱とするもので、「神社非宗教論の立場に立った一種の国教的制度(準国教)」である。即ち、「国家によって管理され、教派神道とは区別された非宗教としての神社神道」(GHQ神道指令の定義)である。皇室の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮を総本山とする。


 GHQの神道指令によれば「日本政府ノ法令ニヨッテ宗派神道、教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派」と定義された。


・国民統合のアイデンティティー、身分制度・檀家制度の打破、キリスト教への防波堤などの機能を果たした。


ⅱ国家神道の歴史


・江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入統制し支配に利用する方針が徹底され、仏教は民衆の教化の役割を担わされ宗論は厳しく制限された。儒教と神道の習慣は尊重され、またキリスト教は厳しく弾圧された。


慶応4年3月:太政官布告で神祇官再興が宣言され「祭政一致の制に復し天下の諸神社を神祇官に属す」とした。

・1968(明治1):神仏分離令が発布される→廃仏毀釈運動が行われた

aこれまでの神仏習合を否定するもので、居宣宣長らの思想、つまり唐心で

なく大和心で行くという思想であった。

bしかし知的エリートは仏教界に多く抵抗があった。

国教化への試みと失敗

・1869(2):神祇官設置―教導局、宣教使を置く→挫折

a王政復古・祭政一致政策で天皇親政を目指した。西欧列強への対抗という意味があり、神道国教化政策をとるも3年間くらいで挫折する。

b1871年神祇官を廃し神祇省とする。1872年神祇省を廃し内務省社寺局に移 管される。

・1870(3):大教宣布の詔が発布される

a天皇神格化、神道の国教化、王政復古・祭政一致政策を目指す

b神社制度(官幣社、国弊社)が整備され、一方ではキリスト教を排撃した。

・1872(5):教部省設置―神・仏・儒による教導職設置し政策の軌道修正を図る。

a大教院設置し尊王愛国思想の教化を目指した。造化3神とアマテラスを祀る(祭神論争あり)→ 1875年、大教院廃止される

b三条教則を定め、敬神愛国、天理人道、皇上を奉戴する。

島地黙雷の三条教則批判建白書が出る。

1873(6):キリスト教禁教を廃止する。

a文明とキリスト教を区別する政策を行う→「文明国になりたいならキリスト教を受け入れるべき」「キリスト教無しに文明化は可能か」と言った問いが宣教師などから呈された→しかし明治5年には蒸気機関車が走り、キリスト教無しに文明化は可能であることを証明した。


非宗教宣言

・1882(15):内務省通達により、神社は宗教ではないとする(宗教を超えたものとする→神道非宗教論)→日本型政教分離

a国家神道とは、国教ではないが、準国教である。神社は公的な法人であり、神職には官吏の地位が与えられていた。

b公的領域では道徳としての国家神道・教育勅語を国民精神とし、私的領域ではそれぞれ宗教としての仏教、キリスト教などを認めた。

c教派神道(黒住、金光、天理)は神道から分離独立する。教派神道は宗教、神社は非宗教と位置付ける(神道は道徳的基盤を与えるもの)


大日本帝国憲法

・1889(22):大日本帝国憲法28条信教の自由

a条件付き信教の自由―「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りに於いて」

b不平等条約を解消すること、そのためには文明国の条件であった信教の自

由・宣教の自由を規定した憲法が外交上必要だった

・1890(23):教育勅語の発布、神社局設置

a教育勅語の機能―非宗教的な国民道徳、国体思想を昂揚した

b1891(24)内村鑑三の不敬事件―教育勅語に最敬礼義務を怠る

c井上鉄次郎と内村の教育と宗教の論争(教育と宗教の衝突)において、井上は、キリスト教は国策に不適合とし、国家を主とせず、忠孝を重んぜず、世間を軽んじ(霊界中心)、無差別の愛を説く、として退けた。


戦後

・1945(20年)神道指令

aGKQにより、1945年(昭和20年)12月15日に日本国政府に対して神道を国家から分離するように命じた神道指令

b1946年1月1日の昭和天皇のいわゆる人間宣言に始まる一連の国家神道解体へとすすんでいった。


◇祭神論争とは

a1879(明治12)年、神道事務局の神宮遥拝所(日比谷)の祭神のことで出雲大社の関係者たちから、造化の三神と天照大神に大国主命(出雲大社の祭神)も加えて五神とするようにとの要求があり、大論争が起こった。幽冥界の神である大国主命を入れ、来世観を加えてこそ宗教の形態が整い真の安心立命もある、という主張であり、来世観のない宗教では、いかにも粗末であるというのは確かである。

b結局、明治天皇の裁定により、神社神道においては、大国主命、造化の三神は省くことになった。そうして神社神道とは、皇室の先祖である天照大神を主神として祭るものである、ということになった。造化の三神を祭る、ということは宇宙的な神を認めることであり、それには浄土真宗からの反発も大きかった。

c「神道とは皇室の先祖を祭り、これに敬愛の念を表す」ものにすぎないのなら、真宗にも納得がいった。こうして来世観はなし、宇宙論もなし、葬儀もなしという内容で神社神道は成立した。


ⅲ国家神道の性格


・国家的アイデンティティーの要請―西欧的一神教との対決を意識し、本来多神教的な伝統的神道の中に、至高の万世一系の天皇を中核に据えた強力な一神教的システムを導入し国教化を目指した。後に非宗教とされ国民道徳の基盤となった。


・皇室神道、神社神道、国体思想が混在し、形成期(1868~1890) 確立期(1890~1910) 浸透期(1910~1931)、ファシズム期(1931~1945)に区分される。


日本型政教分離の思想

井上鉄次郎の倫理と宗教の考え方は、キリスト教、仏教の上位に進歩や道徳的徳目に価値を置く理想教と言ったものを唱えた。神道の非宗教化により、むしろ宗教に上位する道徳観念、メタリリジョン(超宗教)とすることによって、他宗教との共存が可能になった


・神道の非宗教化とヒンズーナショナリズムとの類似性

→インドのヒンズー教において、公的領域はヒンズーで全国民を対象とするも、私的領域では仏教、モスレム、クリスチャンなどを自由に信仰した。又、一神教的な神ブラーフマンの再生やヴェーダの聖典化も行い、一と多を統合するヒンズー教の一神教化が図られる。


・各宗教団体において戦時教学への変更が行われた→ 浄土真宗―真俗二諦論(仏法・王法、ロマ書13章)、天理教も変更、キリスト教の皇居遥拝是認、1935大本教弾圧。古典の再聖典化→本居宣長の古事記伝、清沢満之の歎異抄、田中智学の法華経の再生


ⅳ国家神道への誤解


村上重良の著書「国家神道」と葦津珍彦氏の著書「国家神道とは何だったのか」→村上氏は、国家神道は神社神道と皇室神道(皇室祭儀)が結合したもので、天皇制が存続する限り国家主義的な国家神道は復活する危険があると主張する。一方、葦津氏は、高々近代になって官僚によって創作された空疎で世俗的な神道が、国民精神を支配する宗教などにはなり得ないと主張し、明治政府による神道信仰の強制はほとんどなかったというのが真相であるとした。


・国家神道には、超国家主義(ファシズム)、天皇絶対主義、軍国主義の源泉といったマイナスイメージが何故付きまとうのか。そもそも戦前、国家神道という言葉はほとんど使われていない語であり、米軍の指令で使われたものであった。これらのマイナスイメージは、戦後GHQによる対日方針、神道指令の神道観、左翼の思想宣伝、及び国家神道への正しい知識の欠如に負うとことが大きいというのが筆者の見方で、政治イデオロギーと宗教思想は峻別されるべきである。


開戦前夜の日本の神国思想、超国家思想、軍国主義は、国家神道というより政治イデオロギーであり、特に開戦前夜において国家神道は国民動員に利用されたと言える。

・降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針(1945年9月6日)は「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」とした。

上記の方針のもと、GHQは、軍隊の解散、公職追放、戦争裁判、憲法改正、財閥解体、農地解放、労働立法などの外的側面の改革だけでなく、行き過ぎた精神的武装解除を行った。そしてその標的が軍国主義、国家主義の担い手と見做された国家神道であり、国家と宗教の厳格分離を要求した。又GHQは穏健なナショナリズムまでも否定し、約230本の映画上映を禁止した。(太閤記、赤穂浪士、水戸黄門など)


・「八紘一宇」とは、優越した日本民族が、天皇統治の下に世界を一つにするといった膨張主義の代名詞ではなく、「天の下では、民族を超えて皆平等であり一つの家の同朋である」という古来日本の人道的、普遍的な原理を意味したものである。


8、これからの国家と宗教の関係を考える 

古来日本の伝統思想である、敬神・崇祖・愛人の宗教的情操は教育の中に生かされるべきである。→P26


国家の完全な非宗教性は現実的ではない。一定の歯止めの中で、伝統的皇室祭儀、習俗的宗教祭儀は認められるべきである。→P22、P24


アメリカにおける政教分離の在り方は、今後の日本のモデルになる。    →P14  


見えざる国教(民族宗教)としての「日本的霊性」への理解―古神道(縄文神道)を基層として、仏教的霊性と武士道精神が加味された精神性と定義できる。→P14~15(了)



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​牧師 吉田 宏

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