○つれづれ日誌(3月3日) 久保木修己著「愛天愛国愛人」を読んで(1)ー信仰者久保木修己
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう(マタイ7.7)
最近、久保木修己会長(1931年2月3日~1998年12月13日)の動画「人類の終末と宗教の使命」が知人から送られてきて、これを視聴する機会があり、また回顧録ともいうべき著書『愛天愛国愛人』(世界日報社)を再読して、改めて会長の存在の大きさを再発見することになりました。
なんといっても 1964年(33歳)にUCの初代会長に就任し、1991年(60才)まで28年にわたって会長職を務められた方であり、私たち信者にとって無関心でいることは出来ません。その後の歴代会長が短期間で何人も交代していった歴史を思えば、UCの初期から28年もの間、変わらず会長職を続けられたことは、教会の基礎づくりにとっても、信者の信仰的安定にとっても、計り知れない幸運でありました。その会長が、どのようにUCに導かれ、どういう信仰と思想を持ち、どのような歩みをされたのかを正しく知ることは、私たちの信仰の良き灯台になることでしょう。
生前筆者自身も大変お世話になり、何度も引き上げて頂いた大恩ある恩師であり、こうして曲がりなりにも信仰者として生き残り、「イスラエルの残れる者」として人生の最終章が歩めるのも、会長に負うところが大といわなければなりません。 この恩義に報いるためにも、浅学の徒ではありますが、この際、追悼・慰霊の意を込めて書評としてまとめることにしました。
前書きにも述べましたように、この論評に際し、久保木会長の著書・説教・講演、そして筆者自身の体験などを参考にしましたが、今回は、特に回顧録ともいうべき著書『愛天愛国愛人』の読み解きという形を取りたいと思います。
とりわけ、会長における宗教的背景と信仰的特質、日本の天職とその担い手、仏教とキリストの視点、などを意識して論じる所存であります。
【久保木修己の略歴】
さて久保木修己の人物像には「求道者・信仰者としての顔」、「宗教家としての顔」、そして「愛国者としての顔」という、大きく3つの側面があると思われます。
以下これらを順次述べることになりますが、この章では主に「求道者・信仰者久保木修己」について述べることにいたします。そして先ず最初に、主だった履歴についてその概観を見ておきたいと思います。

<略歴>
▪1931年2月3日、中華民国(満州国)安東県(現、丹東市)で父仙蔵と母よしの長男として誕生しました。銀行員であった父の転勤とともに、満州各地や北京などで幼少時代、少年時代を過ごすことになります。
▪1945年(14歳)、第二次世界大戦終戦にともない日本に引き揚げました。慶應義塾中等部では野球部に所属し、甲子園にも2回出場しました。また立正佼成会では野球部の監督を務めました。そして高校時代、母親から勧めれて立正佼成会の門を叩くことになりました。
▪1950年、慶應義塾大学に在学中、「立正佼成会に入会」し、その後、全国青年部長、庭野日敬会長の秘書など要職を務めました。
▪1962年8月(31歳)、初めて馬橋にあったUCの聖日礼拝に参加し、「統一教会に入教」することになります。
▪1962年9月7日、西川勝(崔奉春)宣教師と庭野日敬立正佼成会会長が会談を持ち、佼成会の青年指導者を40日原理修練会に送ることが決まりました。
▪1962年12月10日~1963年1月20日、会長はUCの40日修練会に参加しました。その後祈祷会に参加し、1963年2月3日「神秘的な劇的回心」を体験しました。
▪1964年(33歳)、「UCの初代会長」に就任し、1991年まで会長を務めました。
▪1968年(37歳)2月22日、UCの祝福結婚式(430組)に日本人として初めて参加し、哲子夫人と祝福を受けました。
▪1968年4月(37才)、「国際勝共連合の初代会長」に就任しました。名誉総裁を笹川良一が引き受けました。
▪1970年9月2日(39才)、韓国の朴正煕大統領と大統領官邸(青瓦台)で会見しました。
▪1970年9月20日、日本武道館でWACL(世界反共連盟)世界大会を開催し、大会執行委員長(議長)を行いました。
▪1971年5月14日(40才)、 中華民国(台湾)の総統、蔣介石と会談しました。またこの年6月16日、ローマ教皇パウロ6世と会談しました。
▪1973年(42歳)、全国124カ所で「救国の予言」と題して講演しました。
▪1973年11月23日、岸信介元首相と文鮮明、韓鶴子夫妻及び李相軒氏、金栄輝氏らと共に統一教会本部で会談しました。
▪その後、日本共産党と理論戦を行い、また、自主憲法制定・北方領土返還・スパイ防止法制定などの国民運動を推進し、各界有識者から高い評価を得ました。また日韓安保セミナーを通して韓国との交流を深め、日韓トンネル構想の実現に力を尽くしました。
▪その他、国際文化財団理事長、アジアサファリクラブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長、世界日報社会長、世界平和連合会長等などを歴任し、中華民国中華学術院名誉哲学博士を受賞しました。
▪1998年5月(67才)、脳梗塞で倒れ、同年12月13日 午前1時59分に死去しました。文鮮明師より、「母奉仕」 との揮毫を贈られました。
<著書>
『久保木修己講演・論文集』(救国連盟事務総局 1976年12月)
『愛こそすべて』(光言社.1986年5月)
『愛天 愛国 愛人 』(世界日報社.1996年2月)
『文鮮明師と新ソ連革命』(光言社・久保木修巳監修)
『美しい国 日本の使命』 (世界日報社 2004年12月)
【原理に出会うまでの道のりー求道者久保木修己】
UCの基礎作りに決定的な役割を果たされ「UCのモーセ」とも言われる会長ですが、では会長は如何なる道筋をたどって原理と出会われたのでしょうか。これを知ることは、会長を理解する上で欠かすことは出来ません。それには、先ず生い立ちを知ることが肝要です。
<生い立ち>
著書によれば、1931年3月4日、中国東市(丹東市)で、銀行員の父仙蔵と肝っ玉の母よしの長男として生まれました。
その後、詩や文学や自然を愛する多感な少年時代を中国大陸で過ごしました。父の仕事の関係で、極寒のチチハル、国民学校に通った西安、中学校に通った北京などを転々としました。
その間、13才の時、毒ガスを運ぶ貨車が爆破され死ぬはずだったのに、間一髪運搬の責任から降ろされ、九死に一生を得ました。また、引き揚げの船が台風に逢って沈みそうになったりして、生死をさ迷うことが一度や二度ではなかったと述懐されています。神が会長を記憶し、守ったというのです。
著書には、「思い起こせば、私は何度も死に直面してきました。そんな体験から、自分でない何者かに生かされている自分を感じてきました」(著書P254)と記されています。
ここで特筆すべきは、会長の中国人、朝鮮人との濃厚にして友好的な関係です。父仙蔵は若くして朝鮮に渡り、朝鮮人両班の世話を受け助けられました。家に置いてもらって、善隣商業高校に行かせてもらい、朝鮮銀行への就職の世話までして頂いたといいます。また会長も幼少期から中国人、朝鮮人と分け隔てなく親しく交わり、彼らと何の違和感もなかったと述懐され、親子二代に渡って朝鮮人らとの良好な関係があったのです。また、天津からの通行許可書発行の件では蒋介石総統からも助けられ、このような中国大陸での原体験は、その後のアジア政策、とりわけ会長の韓国観に大きな影響を与えることになり、「韓国人文鮮明師」との民族的違和感は皆無だったと思われます。
<日本への引き揚げ>
1945年、終戦となり、1年間待機した後、引き揚げ船での多難な航海の末、山口県仙崎港に到着しました。父母からいつも「美しい祖国」のことを聞かされていた会長は、万感の思いをもって美しい国日本の地を踏んだのであります。そうして父の郷里の千葉県香取群津の宮に落ち着くことになりました。
しかし、美しくよき国であるはずの日本に、やがて失望していきます。大陸帰りの者への冷たさや、すさんだ日本人のエゴイズムに接するにつけ、絶望感が沸き起こり、厭世的になっていきました。佐倉中学から慶応中等部、慶応高校に進んでいきましたが、心は荒れていき、ふとしたことからヤクザの世界の深みに入っていきました。また母親にも反抗し、手に余るようになっていったというのです。
こうして自殺を考えたり、ヤクザと付き合ったりという退廃的な生活でしたが、唯一打ち込んだのは野球でした。野球部に所属していた慶応中学は東京大会で優勝し、2度甲子園に出場しています。
<立正佼成会への入信>
ヤクザと付き合って不良のようになる会長を見て、誰よりも母親が心を痛め、精神的に衰弱していきました。そういったおり、たまたま、自宅が中野の立正佼成会(以下、「佼正会」と呼ぶ)本部の近くであり、バス停の前を佼成会本部に向かってぞろぞろ歩く信者婦人たちの姿を見ていた母親は、ある日、意を決して一緒に佼成会に向かうことになりました。
「この教会は親孝行を教えるところです」との説法を聞き、日頃息子の素行に悩んでいた母親は、ここに賭けようと思い佼成会に入信しました。なんと、入信の動機が会長の悪い素行にあったというのです。
その後、母親は会長にしつこく入信を勧めましたが、最初は頑なに閉ざし耳を傾けることはありませんでした。しかし、毎朝の母親の読経の声に心が開くようになり、遂に佼成会の門をくぐることになりました。
そして最初にそこで見た光景、即ち庭を素足で清掃している青年たちの滅私奉公の姿に心を打たれました。日本にもこのような人たちがいるのかと....。
会長はUCに入信する時も、説教の話しもさることながら、「こんなどん底の生活をしながら、汗水流して宣教活動に携わっている青年がいるのか」(著書P56)と、この青年らの姿に感動したというのです。会長には、物事の本質を直感的にキャッチする宗教的感性が備わっていたのです。
著書に「佼成会との出会いは、私の人生に新たな力を与えてくれました。闇の底から私を救い出してくれたのです。私は佼成会の教えに殉じようと決意するようになっていきました。誰よりも熱心に佼成会の勉強をし、そして実践するようになっていきました」(著書P34)とある通りです。この時、会長はまだ高校生でした。
筆者はこのくだりを読みながら、アウグスチヌスを導いた母モニカの祈りを想起いたしました。息子のアウグスティヌスの放蕩生活に悩み、息子の回心のために祈る涙の日々が続きました。この祈りが届いたのか、遂にアウグスティヌスはミラノ司教アンブロジウスから洗礼を受けたという話しです。
<佼成会での活動>
佼成会はいわゆる「おばさん宗教」だったといいます。その佼成会が飛躍的に発展したのは1952年から1960年くらいの間でした。会長が佼成会に入信したのが1950年でしたので、その頃から高成長の時代に入ったことになり、毎日1000名もの信者が増えたと述懐されました。
そして熱心に門番の仕事をする会長の姿が、遂に副会長の長沼妙佼女史の目にとまり、じきじきにご馳走をして下さり、小遣いまで貰い、佼成会で一躍有名になりました。
そうして学校に行く前、佼正会本部で毎朝お参りするのが日課になりました。そしてやはりそのことが、今度は庭野日敬会長の目に止まりました。こうしてまだ高校生の会長でしたが、実に佼成会を代表する二人の人物に覚えられたというのです。
慶応大学に入り、 渋谷から日吉までの通勤の行き帰り「南無妙法蓮華経」のたすきを掛けて通ったといいます。そして沿線の人々をどんどん佼成会に導いたというのです。その結果、東横線沿線から、多くの人が佼成会に入会しました。また親戚縁者も導き、当時会長は「布教の王者」と言われていました。(著書P40)
筆者はこのくだりを読んだ時、「これは逆立ちしても私には叶わないことだ」と、完全に脱帽せざるを得なかったことを告白いたします。会長はもともと、パウロのような宣教の賜物が与えられていたというのです。
こうして会長は大学を4年で中退し、佼成会に献身することになりました。「宗教の道でしか生きられない」という覚悟、いわば背水の陣というわけです。そしてその後、青年部長や庭野会長の秘書を仰せつかることになりました。
<佼成会での曲がり角>
しかし、やがて佼成会は一時の勢いがなくなり、行き詰まっていきました。同じ法華経の創価学会に、布教の面でも、教学の面でも、遅れを取っていたのです。
創価学会に負けじと法華経の法論などを中心に教学を研鑽しました。しかし逆に会長は、学べば学ぶほど疑問が沸き起こり、特に「罪の根本原因」は最大の課題だったというのです。
「罪とは何か、罪からの解放はあるのか、罪からの救いとは何か」、そして「法華経にその回答はあるのか」といった本質的な問題であります。会長が原理に導かれたのは、こういった教学上の罪に関する問題意識があったからだと告白されました。(著書P45)
一見、朗らかで明るく見える会長ですが、こういう人間の最も本質的な問題を深く考えられていた側面を改めて知り、当に「目から鱗」でした。
そして、病気をどうするか、家族のゴタゴタをどうするか、事業を成功したい、などといった個人的な現世利益、いわゆる「貧・病・争」といったものに比重をおいた佼成会の在り方にも、物足りなさを感じていました。もっと「日本、世界をどうするか」といったことを何故論じないのかと。それに加え、当時の佼成会は、創価学会問題の他に労働争議も抱えていたというのです。
なお会長は、1955年(24才)、当時庭野会長の第一応接接待係をされていた哲子夫人を見初め、結婚されています。その頃、哲子夫人の接客の立ち居振舞いは群を抜き、また親や兄妹を大事にする心根は、願ってもない伴侶だったのです。
夫亡きあと22年の歳月が流れましたが、その間、哲子夫人は世界平和女性連合の会長をされ、キリスト教に代わる新婦圏形成に尽力され、また神氏族メシア活動を勝利に導くなど、夫がやり残した、あるいは夫が為し得なかったものまで果たしてこられました。また国家メシア摂理にあっては、なんと会長の生まれた中国を任地国としてくじで引き当てられ、神の導きの確かさをまざまざと見せられました。
【原理との出会いと統一教会への入信】
こういった中で、1962年(31才)、会長は原理に導かれることになります。既に子供が二人生まれており、もう一人は妊娠中のことでした。
<哲学青年の失踪と原理との出会い>
ある日のこと、佼成会で大変懇意にしていた同じ青年部のある哲学青年が、忽然と会長のもとから姿を消してしまいました。そしてその青年が失踪して数ヶ月が過ぎたある夏の日、新宿小田急駅で、いわゆる「辻説法」をしているその青年に出くわすことになりました。「統一原理による理想世界の実現」と書かれた旗を掲げて辻説法をしていたのです。 小宮山嘉一さんです。
それから一月後、突然その青年が会長を訪れ、「今まで悩み続けできた問題が全て解決した。東西の全ての哲学を乗り越えてあまりある真理を発見した」と自信ありげに語ったというわけです。この青年とはかって夜を徹して真理について語りあった仲であり、公私に渡り真理を探求しようとする強い紐帯で結ばれていました。(著書P50)
青年曰く、「罪の問題は、罪の発生の原因を解くことにより解決できる」と主張しました。確かに仏教は、問題発生の原因に対する追及が弱いのです。苦の原因が煩悩にあることは指摘しても、その煩悩がいかにして生まれたかは説明できていません。
その青年は、聖書を駆使してまくし立てました。これまでキリスト教や聖書について触れる機会が皆無だった会長にとって、これらを理解することは決して容易ではありませんでした。
しかし、青年が解く「神の存在」については、いたく共感できるものでした。法華経には「久遠の本仏」というキリスト教の神概念に近い考え方があるからです。もともと釈尊は神や霊界の存在については語りませんでしたので、本来仏教には神概念はありません。しかし、大乗仏教の系譜に属する法華経には「久遠仏」即ち永遠の本体という神観念があるのです。
ちなみに会長を原理に導いたこの哲学青年は、筆者の恩師でもあります。「真理を探求するということはどういうことなのか」を、文字通り京都で1年間寝食を共にし、身を持って教えて下さった恩師です。若くして他界されたこの哲学青年の冥福を、心からお祈りするものです。
<はじめての礼拝参加>
そしてこの青年の熱心な誘いがあり、また庭野会長の承諾もあって、1962年8月、会長は初めて原理が語られる馬橋の伝道所を訪れ、礼拝に参加することになりました。著書53ページには、次のように書かれ、目に見えない神の霊が働いていたことを感じさせます。
「友人が、真理に出会ったと叫び、理想世界は実現できると断言する背景にあるものに無性に出会いたくなりました。友人をあれほど熱くするものは一体何か。佼成会を捨てさせるほどの魅力。私は統一教会に対する期待を勝手に膨らませながら、あれこれ想像をたくましくしていたのです」
それにしても、当時東洋一と言われた佼成会の聖堂に比し、六畳一間のその礼拝所のなんと惨めなものでしょうか。しかし会長は、ここで二つの驚きを体験します。
一つは、社会、国家、世界の諸問題に言及して大声で絶叫する説教者(西川勝宣教師)の情熱です。これほどの確信が、一体どこから出て来るのかと思わざるを得ませんでした。そしてもう一つが、どん底の貧しい生活をしながらも、大きな夢を抱いて真摯に生きている少数の青年たちの姿でした。それは、佼成会をはじめて訪れた時、清掃に奉仕する青年らの姿に感動したあの感動以上のものでありました。こうして会長は原理への第一歩を踏み出したというのです。
筆者は、ここまで見てきて、次の三点について再認識することになりました。第一は、あの哲学青年との宗教論議こそ、会長が原理に目覚める最大のきっかけであったこと、第二が、原理への動機が、深い教学的な真理の追及自体に根差していたこと、第三が、目に見えない背後にある神の予定と選びです。神が会長を予定されて豊かな宗教的天稟を与えられ、神が選んで摂理されたことに疑いの余地はありません。確かに会長は、神の経綸の只中にあったのです。
ただ、異邦人たる筆者に取って、「自分にはキリスト教や聖書の知識が皆無だった」と述懐されたことについては、何か内心ホッとするものがありました。何しろ筆者は、聖書どころか、会長のような信仰者、求道者ですらなかったからです。
以上、この章では久保木会長の生い立ちから佼成会を経て原理に出会うまでの「求道者・信仰者久保木修己」を解説いたしました。当に「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7.7) であり、「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(論語里仁編)であります。
そして、次章では、原理修練会から統一教会第一代会長就任とその歩み、即ち「宗教家久保木修己の誕生」を解説していきます。(了)