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イエス・キリストの受難週に同参して 文鮮明先生の北朝鮮での苦役路程を思う

◯徒然日誌(令和6年4月3日)  イエス・キリストの受難週に同参してー文鮮明先生の北朝鮮での苦役路程を思う 

 

わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。もしわたした

ちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる(ロマ6.6~9)

 

さて本題の「イエス・キリスト受難週に同参して」を論考する前に、3月26日に家庭連合に出された東京地裁による過料(10万円)決定について筆者の見解を述べたいと思う。 

 

【空気に支配される裁判所を嘆く】 

 

宗教法人法に基づく質問権行使に回答を拒んだとして、文部科学省が家庭連合(旧統一教会)に過料を科すよう求めた裁判で、東京地裁(鈴木謙也裁判長)は教団に過料10万円の支払いを命じる決定をした。つまり文科省による質問権行使を「適法だった」と判断したのである。 

 

宗教法人法81条1項は、「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」があった場合、裁判所が宗教法人の解散を命令できると定めている。そして法78条の2で、該当する「疑い」がある法人には質問権の行使が認められており、回答を拒んだり虚偽の報告をしたりすれば行政罰として10万円以下の過料を科せると定めている。 

 

今回の裁判手続きで争点の一つは、同法が規定する「法令違反」の範囲である。 

 

教団側は「宗教法人法81条1項の法令違反とは刑事罰を伴うもので民法の不法行為は含まない」と主張し、この事実は既に東京高裁や最高裁の判例でも明らかであり、政府も一貫してそれを踏襲した見解を示していたと主張した。しかし26日の地裁決定は、法令違反の対象について、刑事事件に限らず「民法上の不法行為も含まれると解するのが相当」との恣意的な判断をしたのである。 

 

また、500件の質問の内、質問に応じなかったのは100件に過ぎず、しかも回答しなかった100件にはそれ相応の不報告理由があり、質問には誠意をもって十分回答していると思われる。しかるに、 裁判所は教団側の理由をほとんど認めず、質問権行使を適法とした。解散請求に関する裁判は、今回の決定を出した同じ鈴木謙也裁判長の下で審理が進んでおり、解散請求の前提となっている質問権の行使を適法とした今回の決定が、解散命令請求の審理に影響を与える可能性がある。 

 

ただ一方で裁判所は今回の決定事由の中で、「法78条2項に基づく質問権行使は、解散命令事由があると認められる場合にされるものではなく、あくまでその『疑い』があると認めたときに行使する権限である」とした上で、「宗教法人法の文言通りに限定的に認定されるべきだ。解散命令を出せば、信者らが教団の財産を使って宗教行為を続けるのに支障が生じる可能性がある」と指摘した。 そしてその上で、「解散命令事由は、憲法が保証する信教の自由の重要性にも鑑みて、当該宗教法人に対して解散命令がされることが、当該宗教法人のした行為に対処するために必要でやむを得ないものであるかという観点からも、慎重かつ厳格に判断されるべきものと言える」(過料決定書)とも判示した。 

 

なお、今回は質問権に対する不報告を処罰しただけであって、解散命令請求が認められるか否かは別問題である。国側は「組織性、悪質性、継続性」の3要件を満たせば、解散命令に当たるとの基準を示し、地裁に約5000点の証拠を提出したが、教団側は霊感商法などの問題を受け、コンプライアンス宣言を出すなどして組織改革を進めた結果、大幅に改善されており、到底解散の要件は満たさないと主張している。 

 

今回の裁判所の決定は、岸田政権の解散命令請求と同様、「先ず、結論ありき」の裁判というほかなく、空気に左右されやすい最近の裁判所のリベラルな傾向を如実に反映している。この3月14日も、札幌高裁は同性婚を認めるという信じがたい判決を行った。当然、教団は高裁に即時抗告するのであり、世論に流されないで毅然と判断する裁判を期待すると共に、担当弁護団の健闘を心から祈念する。 

 

【キリストの受難週に同参して】 

 

さて、この3月24日から30日までは、ガルバリの丘を十字架を担いでいかれたイエス・キリストの受難を想起し同参する「受難週」であり、31日はイエスの復活を記念する復活祭(イースター)であった。特にキリストの受難と復活を記念する聖なる「過越の3日間」(木曜日の主の晩餐・金曜日の十字架・土曜日の復活前の晩)は受難と十字架を通して、死から生命へ移られるキリストの過越の神秘を祝う3日間である。キリスト教では年間を通して、この期間が最も聖なる時として、以下の通り祈りの中で過ごす。 

 

①日曜日:エルサレム入場、棕櫚(しゅろ)の日曜日(マタイ21.1~11)

②月曜日:エルサレム神殿入場、宮きよめ (マタイ21.12~17 )

③火曜日:様々な譬え、説教、最も大切な戒め、終末と再臨の話し(マタイ21.18~26.5 )

④水曜日:ベタニアで葬りの香油を注がれる(マタイ26.6~13 )

⑤木曜日:主の晩餐、ゲッセマネでの祈り、逮捕(マタイ26.17~75 )

⑥金曜日:十字架の受難日(マタイ27.1~61 )

⑦土曜日:墓の中、復活前の晩(マタイ27.62~66)

⑧日曜日:復活祭(イースター)(マタイ28章)

    

今回筆者は導かれ、計らずもこの受難週を、とりわけ「過越の3日間」を教会の祈りの中で過ごす機会を得て、2000年前に起こった人類史最大の事件に初めて同参することができた。そしてまた、このイエスの受難と、文鮮明先生(以下、「創始者」と呼ぶ)の北朝鮮での苦難の路程を重ね合わせて思いを馳せたのである。 

 

<過越しの3日間> 

 

筆者は3月28日(木)の「主の晩餐」の夕刻、所属する青葉台家庭教会の礼拝堂で一人祈り、いわゆる最後の晩餐をイエスと共に過ごした。そして、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」(マルコ14.34)と悲痛な祈りをされたゲッセマネの祈りと同参すると共に、創始者の北の獄中での深刻な祈りを想起した。 

 

そして3月29日(金)は、文字通り、イエスが十字架に架けられて亡くなられた受難日である。この日筆者は、東京都文京区関口にある「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(カトリック関口教会)の儀典に参加した。この大聖堂は建築家の丹下健三の設計によるもので、近代的な建築であるが、礼拝堂は荘厳な赴きがあり、思わず神にひれ伏したくなる雰囲気があった。 



この日の典礼は、救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美するものである。最初にイザヤ書53章「彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53.5)が朗読され、ヘブル書「彼はさまざまの苦しみによって従順を学び、そして、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となったのである」(ヘブル5.8~10)が読み上げられた。 

 

その後、イエスの磔刑像が掲げられ、会衆は皆その前に進み出て敬拝を捧げて痛みを分かち、十字架の礼拝が、菊地功大司教が司式して厳かに執り行われた。礼拝後、筆者は導かれて、菊池大司教と立ち話する機会があり、一つの質問をした。曰く「ヨハネ書によれば、生母マリアは十字架のもとにいたことが記されているが、マタイ、マルコ、ルカの福音書には生母マリアの姿はない。事実はどうなんでしょうか」と。65才の菊池大司教は人なつこく微笑んで、「実は私もよく分からない」と正直に答えられ、その率直さに兄弟のような親近感を抱いたものである。 

 

さて「過越しの3日間」の最終日(3月30日)、筆者は再度東京カテドラル大聖堂を訪問し、復活前日の「光の祭儀」、即ち復活の聖なる前夜祭礼拝に参加した。この日は、一年のうち最も盛大にキリストの過越を記念する日であり、大聖堂は約400人くらいの信徒で満杯だった。皆がローソクを手に持って火をともす「光の祭儀」から始まり、創世記、出エジプト記が詠まれ、詩篇51篇「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51.16~17)が朗読された。 

 

そしてロマ書6章「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」(ロマ6.6~9)が詠まれた。 

 

<洗礼式>

 

更にこの礼拝に引き続き、30名くらいの洗礼志願者が洗礼を受ける「洗礼式」が菊池司教によって厳かに執り行われた。 入信の秘蹟緒言には、「キリストと共に死んで葬られ、キリストと共に復活して神の子となる霊を受けるのである」とある。

 

形式を嫌い、実質を過度に重視する傾向がある筆者であるが、このカトリックの荘厳な光の祭儀に参加して、アウグスティヌスの客観的恩寵論、即ち、教会は「神の恩寵の施設」であり、神の恩寵は形式(儀式)を通して働かれるという真実を実感した。心の中にある「我が内なる祭壇」に捧げる祈りこそ最たる祈りであると思ってきた筆者であるが、教会で祈る祈りには、更なる恩寵があるというのである。 

 

こうして初めて体験した受難週への同参は、筆者に多くの恵みとインスピレーションを与えてくれた。そしてこのイエスの受難と、創始者の北朝鮮での受難の路程を重ね合わせて思いを馳せたのである。『真の御父母様の生涯路程(2)』に、「先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません」とある通りである。 

 

【生涯6回の牢獄】 

 

では、真の御父母様の「生涯6回の牢獄」とは何だろうか。 

 

創始者は、生涯6度、無実の罪で投獄され監獄生活を余儀なくされた。メシアたる者は王として現れるのではなく、最低の所から、最も惨めな僕の僕の立場で現れるというのである。その獄中での祈りは、イエスが最後のゲッセマネで、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、みこころのままに」(マタイ26.40)と祈られたその祈りであり、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23.46)と最後の言葉を発せられたイエスの思いと同じであった。以下は6回の牢獄である。 

 

①京畿道警察部での受難 (1944年10月~45年2月) → 4ヶ月間、24才。 

 

1944年10月、結婚間もなく突然ソウルの自宅に日本の警察がやってきて、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、創始者を京畿道警察部に連行した。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、創始者の名前が出て、共産主義者として疑われたからである。(自叙伝『平和を愛する世界人として』P92) 

 

日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれ、水を飲まされ、血を吐いて、生死の境を通過したという。創始者は「怨讐を愛せ」という精神で堪え忍んだのである。 

 

②平壌大同保安署の受難 (1946年8月11日~11月21日) → 3ヶ月間、26才。 

 

神の命により38度線を超え、1946年6月6日に平壌に着いた2ヶ月後の8月11日、創始者は北朝鮮の共産党により、米軍のスパイとして告発され、また宗教と称して詐欺をしたという理由で、大同保安署に投獄された。共産党は北朝鮮全域において宗教団体に対する弾圧を始めており、信者から金品を詐取したとして許孝彬(ほほびん)の腹中教が摘発されていた。腹中教の幹部は、「獄中で再臨主を迎える」と許孝彬に啓示されていたという内容を信じていた。また、逮捕の背景には既成キリスト教会の創始者への反発があった。有力なクリスチャンが創始者の教会に来たからである。結局、無罪だということが判明し、11月21日に門の外に放り出されて釈放されたのである。 

 

獄中で許孝彬へ届けた「許孝彬が受けた啓示の内容を否定して保安署から出なさい。私が何者なのか、祈ってみなさい」といった内容の手紙が、共産党の監視員に見つかってしまい、創始者はひどい拷問を受けた。キリスト教を代表する立場にあった許孝彬が不信した結果、摂理が再び失敗した。それが1946年9月18日であった。


創始者が釈放された時は、全身を殴られたため動けず、口も利けず、血を吐き、生きた人間の姿ではなかったという。弟子たちは教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしたが、ついに意識を失ってしまい、弟子たちは死んでしまうと叫びながら泣いたという。10日以上して、奇跡的に意識を回復し生き返ったのである。また許孝彬集団は、許孝彬以下、すべての監獄にいた人々は、後日殺害されてしまった。 

 

③「平壌内務署」拘束の受難(1948年2月22日~4月7日)、及び「平壌刑務所」の受難   (1948年4月7日~6月21日)  → 計4ヶ月間、28才。 

 

創始者による伝道活動により、既成キリスト教会の多くの信徒が創始者の教会に来た。そのため、既成教会の牧師たちは嫉妬心で創始者を告発した。また北朝鮮政府の政策は、すべての宗教を抹殺することであり、スパイ容疑で1948年2月22日に拘束された。この間創始者は、丸刈りにされ、厳しい取り調べと血を吐くような拷問を受けたのである。 

 

そうして1948年4月7日、社会秩序紊乱罪で5年実刑(強制労働)の判決後、劣悪な環境の平壌刑務所に移監され、そこで2ヵ月半収監された。 判決文には、「無知な人たちを甘い言葉で誘惑して虚偽を捏造し、多くの金品を搾取し、キリスト教徒の家庭や社会を破綻させた」と記されていた。

 

④興南監獄での強制労働の受難 (1948年6月21日~50年10月14日) 

 → 2年4ヶ月、28才~30才。 

 

創始者は1948年6月21日、平壌内務署の尋問により5年の刑を受け平壌刑務所に移監されたあと、興南徳里特別労務者収容所に移監され、肥料工場で強制労働を強いられた。 

 

金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を激しい労働に動員し、死ぬまで働かせたのである。そこは1年以内にほとんどが死ぬという緩慢な屠殺場であり、想像を絶する環境下にあった。この収容所での状況は自叙伝『平和を愛する世界人として』(P104~116)に詳述されている。筆者は自叙伝を読みながら、「これはナチスのアウシュヴィッツよりひどい」と絶句した。創始者は、ここで2年4ヶ月、地獄の責苦を余儀なくされたのである。 

 

それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエスが十字架の道を行かれたのと同じ背景があり、人類史をかけた戦いであった。しかし、獄中にあって、12名の弟子を伝道され、イエスが越えられなかった峠を蕩減復帰されたのである。 

 

そうして、韓国動乱(1950年6月25日 ~53年7月27日)が勃発し、国連軍の興南爆撃と上陸により、1650年10月14日、創始者は劇的に解放された。解放前の10月12日には、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどが山中で殺されたという。神は絶望の果てに姿を現すと言われるが、この時創始者は、イエスが目の前に現れて涙を流して去っていかれる姿を目撃されたのである。 

 

次が創始者の処刑の番だったところ、奇しくも14日未明2時頃、マッカーサー元帥の国連軍により解放されたのである。これはまさに神の恩寵による奇跡の復活というしかなく、この日はUCの解放記念日として、永遠に記憶しなければならないと創始者は言われた。こうして神は北朝鮮での全路程を、その御手をもって手厚く保護されたのである。 

 

⑤西大門刑務所の受難(1955年7月4日~10月4日) → 3ヶ月、35才。 

 

1955年3月から7月にかけて、梨花女子大と延世大退職・退学事件が勃発した。そして宣教師らが背後で操り、梨花女子大総長の金活蘭(キムファルラン)と副総長の朴マリヤらが主導して偽りの証言をし、大統領官邸を動かして告発し、創始者は、1955年7月4日「兵役法違反」と「不法監禁」の罪で逮捕収監された。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の5大長官が、創始者と統一教会を潰すために挙国的に動員されたのである。 

 

結局公判廷で無罪釈放となり、1955年10月4日、創始者は西大門刑務所を出監した。こうして創始者は、共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験されたのである。 

 

⑥ダンベリーの受難(1984年7月20日~85年8月20日) →1年1ヶ月、65才。 

 

アメリカコネチカット州ダンベリーの受難は、1973年から75年の3年間、宗教代表者である創始者名義の銀行預金の利息の所得申告を怠っていたという 「脱税容疑」である。これは明らかに冤罪であった。しかるに1982年7月には第一審で懲役18か月、罰金2万5000ドルの有罪判決が下され、そして84年5月、連邦最高裁判所で上告棄却となり判決が確定した。その結果を受けて、1984年7月20日午後11時、創始者は、ダンベリー連邦刑務所に収監され、13月間拘束されたのである。 

 

この収監の背景には、創始者のイエスの十字架解釈を巡る批判があり、一部ユダヤ人や既成キリスト教会からの攻撃があった。また共産主義者からの反対もあったのである。 

 

ダンベリーでは、創始者は「黙って働く人」「本を詠む人」「瞑想する人」と呼ばれ、囚人や看守とも親しくなったという。そして宗教の自由を侵害したアメリカ政府に対して、著名なジェリー・ファウエル牧師やジョセフ・ローリー牧師ら聖職者7000人以上が創始者の救出に立ち上がったのである。 

 

創始者は模範囚として6ヶ月減刑され、1985年8月20日に釈放された。そしてその日の夜、「神と自由のバンケット・出監歓迎晩餐会」が開催され、全米からユダヤ教ラビを含む60以上の教派から1700名もの聖職者が参加した。創始者は「神は宗派主義者でも教派主義者でもなく、教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです」と語られ、超宗教・超宗派を訴えられたのである。 

 

またこの間、キリスト教とアメリカを中心とする民主世界の失敗を蕩減復帰するため、全米30万人の牧師たちに原理のビデオテープと説教集などを配布し、原理の研修ゼミに参加するよう呼びかけた。その結果、4万名の人々がゼミに参加し、7000名以上の牧師たちが日本と韓国の統一教会を訪問するに至ったのである。 

 

以上がUC創始者が生涯において実体験された、6回に渡る牢獄生活である。復帰摂理歴史は人間堕落の所産であり、堕落のゆえに救援摂理が必要となった。従って復帰の道は、地獄の最低の立場から出発して、あらゆる人間の立場を全て体験しながら上がっていかなければならないというのである。まさに創始者はイエス様と同様、罪(原罪)なきメシアとして誕生されながら受難の道を歩まれ、真理を理論的に解明し発表されただけでなく、真理に生きた人であった。そしてだだ万能の栄光の神だけではなく、何よりも悲しい涙の神を理解されたキリストであった。 


創始者は、1996年4月16日、ワシントンDCのヒルトンホテルで行われた「ワシントンタイムズ財団」創設記念会で「救援摂理史 の原理観」と題して講演され、政界・宗教界・言論界のVIPを前に、再臨の主は「創造理想を完成する、サタンの讒訴条件のない真の本然の赤ん坊の種として来る」と語られ、無原罪誕生の真実を繰り返し明言されたのである(「救援摂理史の原理観」平和経P125) 。

 

【北朝鮮での苦役路程】 

 

創始者の道は、それ自体が全て牢獄の人生であったが、特にここで、4年5ヶ月に渡る北朝鮮での受難にフォーカスしてその路程を振り返りたい。

 

創始者は、1946年5月27日、「38度線を超えて平壌に行け」との神の命により北に行かれ、1950年10月14日に解放されるまで、約4年5ヶ月の間、北朝鮮での受難路程(蕩減路程)を歩まれた。そして筆者は、この期間はまさにイエス・キリストの受難週に相当するのではないかと強く感じたのである。そこで北での受難期間を筆者流に5期に分け、それぞれの期間を、イエスの受難週とダブらせて辿って見た。 

 

①第一期 (1946年5月27日~1946年8月11日)

 

1946年5月27日、創始者は黄海道の白川に買っておいた米を取りに行く途中、車の中で「三十八度線を越えろ!」という天の命令を突如受け、そのまま妻と乳飲み子をおき、線を引いてぼろぼろになった聖書一冊だけを携えて、38 度線を越え、6月6日平壌に到着した。まさにサタンの本拠地である共産圏に死を覚悟して入っていったのである。韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すためであった。 

 

創始者が天命により結婚し家庭をもつようになったのは、教会を連結させ、国を連結させるべき神のみ旨があったためである。ところが、教会とも、国とも連結されなかったが故、分立して再び初めに戻らなければならなかったのである。公的な分立の7年路程を歩まなければならないことは、妻に婚約段階でよくよく話していたことであった。 

 

当時平壌は、「東洋のエルサレム」と言われるほどキリスト教徒が集中した所であり、それゆえに、平壌で新しい福音運動が展開され、キリスト教界では、教会の再建と信仰の革新運動が起こっていた。一方では金日成の北朝鮮臨時人民委員会はキリスト教を警戒し弾圧を強めていった。 

 

そのような環境の中で西門に近い景昌里(キョンチャンニ)の知人の家で伝道を始めた。小さな部屋で讃美歌を歌い祈り、「泣く教会」と言われるほど泣き声の絶えない教会となり、噂になった。聖書のロマ書や黙示録などを解説すると、感銘して既成教会の有力な信徒らが、所属していた教会から創始者のもとに集まってきた。金仁珠女史、金元弼氏らもその時の信徒であり、入神・予言・異言・聖霊役事・癒し等が頻繁に起こり霊通者が現れた。そのため、既成教会から問題視され始めたのである。昔、「早天祈祷会」と「通声祈祷」を考案した吉善宙(キル・ソンジュ)牧師が復興会をしたという由緒ある教会からも有力な人を引き抜くと、長老たちが大騒ぎし、悪口を言われて論難の対象になったのである。そのような中で腹中教の幹部が拘束される事件が起きた。 

 

②第2期 (1946年8月11日~11月21日)

 

前述の通り、第2期は平壌大同保安署収監の受難である。釈放された時は、口も利けず、血を吐き、生きた人間の姿ではなかったという。 

 

③第3期 (1946年11月21日~1948年2月22日)

 

第3期は大同保安署から釈放され、再び平壌内務署に拘束されるまでの約1年3ヶ月の伝道期間である。 

 

当時北朝鮮の共産治下では、キリスト教と共産党とが一つになって反対するという環境にあった。しかし創始者がキリスト教を凌駕する内容を備えていたことで、信仰の篤く賢い人が創始者のもとに来て、大同保安署保釈後1年を経たころ教勢は大きく拡大した。玉世賢(オクセヒョン)女史、池承道(チスンド)女史らもその時の信者である。しかしキリスト教は反対し、内務署に告発したのである。 その訴えの数は83通にも及んだという。

 

そしてこの間、「主なる神の夫人」たる朴老婆を中心とした40日間の摂理があった。即ち「私は神様の夫人である」と言う婦人が出てきたのである。その婦人が、朴氏ハルモニ(朴ウルリョン)であり、そのハルモニに創始者は僕として無条件に服従して仕えるという摂理があったのである。 

 

「僕の僕」「僕」の段階から、その次には「養子」「息子」の位置まで上がっていき、遂に創始者が「天の国の王」であると霊界が証するようになった。そうして神は「彼はあなたの王であるから、彼を王として仕えよ」と朴ハルモニに命じられたのである。結局朴ハルモニは神に裏切られたと感じ、創始者に不信して気が狂ったようになって失敗した。 

 

これらのことは、外的な教会が創立されるまでの内的な経過として、外的な教会史の始まる背後に隠されていた「内的教会史」の象徴であり、肉身世界に現れるまでに霊界を通じてなされたものであった。 

 

また失った娘、姉妹、母、この三代の心情を復帰するために、20代の年齢の女性からお婆さんに至るまで、愛において復帰しなければならない摂理的事情があり、創始者は3時代の女性を復帰する基準を立てるために、心情の十字架を背負う道を行かなければならなかったと言われた。なお、この間の事情は、『御旨と世界』の「創立以前の内的教会史」(P577)に詳述されている。 

 

④第4期(1948年2月22日~6月21日) 

 

第4期は「平壌内務署」拘束の受難(1948年2月22日~4月7日)、及び「平壌刑務所」の受難  (1948年4月7日~6月21日)   であり、既成キリスト教会の嫉妬心とスパイ容疑で拘束され、厳しい尋問を受けた。 

 

⑤第5期  (1948年6月21日~50年10月14日)

 

第5期は、前述の通り平壌刑務所から移監して、スパイ容疑で興南監獄に5年の刑期で投獄され、文字通り地獄の受難を受けられたのである。 

 

以上の通り、北朝鮮での創始者の路程は5期(4年5ヶ月)に渡り、それぞれの期間において生死の境をさ迷い、イエスと同様、呪われ、嘲られ、飢え、打たれ、迫害され、裏切られた想像を絶する悲惨な立場を通過しながら、なすべきことをなしてこられた。イエス・キリストは文字通り十字架で亡くなられ、霊的復活を遂げてキリスト教の起源になられたが、創始者は十字架に架かりながら、生きて越えられ、霊肉に渡る完全な重生の贖いを全うされたのである。


私たちは、イエス・キリストの受難週を辿りながら、一度はその痛みと悲しみを共有すると共に、それにもまして創始者の北での受難を同苦し、共有したいものである。こうして神のみ業は、常に最も衝撃的革命的な逆転の業であり、まさにこれら二人の聖人の歩みが如実に物語っている。(了)  牧師   吉田 宏

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