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久保木修己著『愛天愛国愛人』を読み解く② 劇的回心と宗教家久保木修己の誕生


ときに 主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、なくならなかった。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」といわれた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3.2~6)


第一章で久保木会長の生い立ちから、立正佼成会の信仰を経てUCに入信するまでの「求道者・信仰者久保木修己」を述べて参りました。この章では、これを踏まえ、原理修練会を経てUC初代会長に就任し、初期教会を導かれた「宗教家久保木修己」を論評していきたいと思います。



【庭野日敬会長への報告とその包容力】


1962年8月、久保木会長は初めてUCの聖日礼拝に参加し、新鮮で強いインパクトを受け、その後原理を学んでいくことになりました。立正佼成会は、法華経をベースにし、因果律と現世利益を説いています。現世利益を説くこと自体は問題ないにしても、UCの青年たちは衣食住に無頓着で、目先のことよりも、専ら日本や世界など大局的な利益を追及していたのです。会長は佼成会のご利益的な宗教的体質を認めざるを得なかったのです。


<庭野日敬会長の宗教姿勢>


会長は、今日聞いた原理講義の内容を、逐一庭野会長に報告しました。庭野会長は、いちいち頷いてそのよさを認められ、逆に会長は、その庭野会長の頷かれる姿を見て、この原理の偉大さを再認識したといいます。


本来巨大宗教の教祖が、他宗教の教義やそこの信者の素晴らしさを、側近の口から聞くことなどあまり気分がいいものではありません。しかし、庭野会長にはそういったこだわりはなく、いいものはいいと認める謙虚さと包容力、そして純粋な宗教性がありました。この庭野会長の宗教的寛容性は、UCの基礎作りに大きな役割を果たすことになり、会長はそんな庭野会長を大変尊敬されていました。以下、庭野会長と佼成会についておさらいしておきます。


<庭野会長と立正佼成会>


庭野会長は、1906年(明治39年)11月15日、新潟県十日町市菅沼の農家に生まれ、小学校を卒業後、16歳で上京し米穀店や薪炭店に勤め、漬物店や牛乳店を営む傍ら、「自分の子供の病気をきっかけ」に信仰に目覚めました。易学や修験道など様々な信仰遍歴を重ねた末、霊友会の法華経信仰の道に入りました。


1935年に法華系新宗教教団の「霊友会」に入会しましたが、1938年、長沼政(後の長沼妙佼脇祖)とともに霊友会を脱会し、法華経をよりどころとする「大日本立正交成会」を創立しました。


本部は庭野会長が当時経営していた東京・中野の牛乳販売店の2階に置かれました。会の草創期は早朝に牛乳配達を終えた後、自転車の荷台に長沼女史を乗せ、深夜まで2人3脚で寝る間も惜しんで布教に駆け回ったといいます。1943年庭野会長と長沼女史がそれぞれ「開祖会長」「副会長」に就任し、1960年には「立正佼成会」と改称しました。 長沼女史は、霊視・霊感に秀でたカリスマ性の持ち主だったと言われています。


庭野会長は他宗派との宗教協力にも取り組み、「日本宗教連盟」理事長などを歴任し、1965年異教宗教者として初めて第2バチカン公会議に招聘されました。当時のローマ教皇パウロ6世との会見をきっかけに、「世界宗教者平和会議」、「アジア宗教者平和会議」を創立し、宗教者の対話と宗教協力による平和活動を推進しました。


国内では「新日本宗教団体連合会」(新宗連)創立に参画し、1979年には宗教界のノーベル賞といわれる「テンプルトン賞」を日本人で初めて受賞しています。1999年(平成11年)10月4日午前10時34分、東京都中野区の病院で老衰のため92才で逝去されました。


このように庭野会長は、もともと宗教間対話を推進され、普遍的真理を求める志向性があったのです。この庭野会長率いる佼成会は、UCの洗礼ヨハネ的宗教として、一時期大いに期待されました。


【回心と召命ー40日原理修練会と神秘体験】


会長は1962年12月10日から1963年1月20日まで、庭野会長の許諾のもと、いわゆる原理の40日修練会に参加されましたが、その直後の大山山頂での「断食祈祷会」にて、劇的な回心体験をすることになります。


<庭野会長と西川宣教師の会談>


久保木会長がUCの原理を聞き始めて間もなく、1958年に文鮮明先生から命を受けて日本の宣教に来ていた西川勝宣教師から、庭野会長との仲介を頼まれました。こうして会長の仲介により、庭野会長と西川宣教師が会談を持ったのは、1962年9月7日でした。


冒頭西川師は庭野会長に対し、「薮から棒で恐縮ですが、将来性のある若者を40日間、私に預けてください。私のところで修行を積ませ、40日後に立派な青年にして、会長先生の所にお返しいたします」と驚くべき申し出をされたというのです。この厚かましい申し出にも仰天しましたが、庭野会長の答えはそれ以上に会長を驚かせました。「それは面白い話だ。では、早速人選をして、あなたの希望通り、あなたに預けますから、よろしく」と。


会長は、「この一瞬は歴史的な瞬間でした。日本における統一教会の基礎が、この時点で形成されることになったと言っても決して言い過ぎではありません」(著書『愛天愛国愛人』P62)と述懐されています。こうして庭野会長の音頭で佼成会青年指導者の40日原理修練会が1963年3月から数回に渡って行われたのです。ちなみに筆者の信仰の親である小山田儀子さんも、その時行われた40修の参加メンバーだと聞いています。


そして最初の修練生が選抜され、その中には宗教嫌いで庭野会長に反発していた庭野会長の息子と、その後見役として会長も入っていたというのです。庭野会長にとって、この不詳の息子は唯一の頭痛の種だったのです。この後見人の任は、正に会長にとって渡りに船でありました。この間の事情が次のように記されています。


「庭野会長は、私に統一教会の修練会に自分の息子を参加させたいと言い出しました。しかし、宗教嫌いで親に反発している息子を修練会に参加するよう説得することはそう簡単ではありません。庭野会長は私に説得の応援を頼み、息子の後見役として一緒に参加してくれるようにお願いしてきたのでした。このことは私にとっては、願ってもないことでした。庭野会長の許可のもと、統一教会の修練会に堂々と参加できるのです。私と私を取り巻く環境を導こうとする見えない無形の神の意思をはっきり感じ始めるようになりました」(著書P64)


<40日修練会>


1962年12月10日から1963年1月20日まで、会長が参加された40日修練会が開かれました。以下はその感想文です。


「嬉しかった! 本当に嬉しかった。創造本然の位置と状態がはっきりと分かり、また現在の自己を深く認識することができ、さらに未来のビジョンがはっきりと明示されたとき、長い間待ち望んでいた命の泉にめぐり合い、乾ける喉を一息に潤すように飲み尽くして私は復活したのです」(感想文)


会長は、原理を理解するに当たって、佼成会で修行し学んだことが無駄では無かったと言われました。法華経を学んでいたお陰で、「原理と対比」することが出来、原理の偉大さを悟ることができたというのです。この対比の効用は、筆者が聖書と原理の対比の中で、原理の真理性を再認識させられたのと相似いたします。筆者は聖書を精読することによって、原理を深く理解しました。原理は法華経が曖昧にしていた点を解明していると共に、聖書の奥義やキリスト教神学が解き明かすことが出来なかった神学論争に決着をつけています。会長において、このことが原理と巡り合った時の歓喜となりました。 そして、一緒に参加していた庭野会長の息子は、見違えるように変わり、「親父の後は継がない、宗教は嫌いだ」と言っていた彼が、「父にすまなかった」と会長に涙で過去を懺悔したというのです。


筆者は、上記の感想文を読みながら、筆者とあまりにも違う原理との出会いの在り様に、一瞬言葉を失わざるを得ませんでした。会長と同様、多くの信徒がそうであるように、本来原理との出会いは、真理を得し者が体感する喜びと感謝に満ちたものであるはずであります。しかし、会長のように宗教を学んでいたわけでもなかった筆者にとって、むしろ「背負い切れない規範を背負ってしまった」という重圧と後悔以外の何ものでもなかったのです。筆者にとって原理との出会いは喜びでも感謝でもなく、むしろ恩讐であったというのです。以来、学問への情熱は冷め、人生への夢は閉ざされ、筆者は神と世俗の狭間で葛藤の坩堝に投げ出されました。今さらに会長との霊的素質の落差に、自らが背負った罪の深さを痛感するしかなく、正に筆者は、正真正銘の異邦人でした。


<断食談判祈祷と劇的回心>


さて会長は、40日修練会を終了したあと、厚木の大山で断食祈祷会を持つことになりました。ちなみに大山は伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1252米の名山です。修練会を終えて知的には神を知った会長でしたが、真理面だけでなく、神霊の深いところで一対一の神体験をしたいという強い欲求がありました。「統一原理の教えが本物であるかどうかを神に問うてみたい。生きた神との出会いを実感し、私に対して願われる神の意志を知りたい」(著書P80)とある通り、頭だけでなく、実体験の中で原理の解く親なる神と出会いたいという熱望です。


原理講論に、「我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある」(P191)とある通りです。


著書の中に、1963年1月末(32才)、はじめての40日原理修練会の後、凍てつく厚木の大山に登り、「神の回答を得るまで祈り続ける」との決死の覚悟で、神の存在と原理の正しさについて断食談判祈祷した下りがあります。あげく、断食5日目の最後の祈りで遂に「神と一対一の出会いという神秘体験」をしたというのです。(『愛天愛国愛人』P80~85)


これを読んだ瞬間、筆者は「これは、かのモーセが断食をしてシナイ山に登って、二枚の石板をもらったあの時の光景と瓜二つではないか」と思ったものでした。すなわち「神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた」(出エジプト31.18)という、あの光景です。


シナイ山でモーセはイスラエルの解放者として、神から律法を授与されましたが、会長は、断食5日目になっても神から何の返事もなく、共に祈っていた5人の兄弟も寒さと疲れで下山していきました。文字通りたった一人、一対一で神に対面するすることになったというのです。そして絶叫して祈っていたその時、「こっちへ来い」との心の奥底から、そして宇宙の果から響き渡るような声です。その不思議な声に誘われて更に頂上へと向かいました。山頂で腰掛けて座ろうとすると、「ここでは靴を脱げ」との更なる声です。出エジプト記3章5節に「足から靴を脱ぎなさい。その場所は聖なる地だからである」とありますが、正に同じ光景です。


そうして靴を脱いで2時間近く祈りました。「断食して真剣に祈れば分からないことはない」との文先生の言葉を信じて祈りましたが、なお神からの回答はありません。「やはり自分には宗教家の素地はないのか」と諦めて山を下ろうかと思いかけたその瞬間でした。目の前の空が急に赤焼けしたと思うと、それはやがて渦巻いた紅蓮(ぐれん)の雲のようなもの(霊のかたまり)が金色となって、ぐるぐると口から吹き込まれたというのです。ワッと叫んで大地に叩きつけられた会長に、神は覚悟のほどを問われました。「汝、この信仰を全うする気持がありや。ならば立って山を下り福音を宣べ伝えよ」との前と同じ神の威厳のある大きな声です。


躊躇する久保木会長に「私が共にある」と釘を刺さされたというのです。会長はその場で暫く意識を失ったようになり、その後宙を舞うような足取りで「別人となって」山を降りたと証言されました。奇しくも1963年2月3日、会長32才の誕生日のことでした。


会長にとって、この山頂での劇的な神秘体験こそ、神への帰依と、その後の宗教活動の原点、即ち、信仰者としての「一丁目一番地」となるものでした。あのシナイ山での神との出会い無くして、その後のモーセが無かったように、おそらく、この霊的体験無くして、その後の久保木修己は無かったし、その後のUCはもっと苦難の行軍を強いられたことでしょう。無論、筆者も原理と出会うことはなかったはずです。実に会長とUCにとって、それほど大きな意味を持つ回心体験であり劇的な召命でありました。もはや会長には一切の迷いはなくなりました。筆者は、この会長の神体験のくだりを読みながら、かの空海やパウロの神秘体験を想起しました。


讃岐生まれの空海は、若き頃一沙門(修行僧)に、「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)の真言を百万回唱えると、一切の教典に通じることができると教えられ、この真言を唱えながら伊予の石鎚山、阿波の大滝岳、土佐の室戸岬を歩いて真理探求の山岳修行に身を投じました。そして室戸崎の海食洞窟の中で、一日一万遍、百日かけて真言を百万遍唱える苦行に入りました。虚空蔵求聞持法の唱題中、ついに久保木会長と同じく、「明けの明星が飛来し口から体中に入り、宇宙と一体となった神秘体験」をすることになります。正に神人合一の世界です。洞窟から見る大自然の室戸岬の光景は空と海のみであったため、その後自らを「空海」と名付けました。空海の24才の時の著書『三教指帰』(さんごうしいき)には、「阿波の大滝岳に登りよじ、土佐の室戸岬に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す」 と記しており、正に空海の真言密教探求の「一丁目一番地」になりました。


また、キリスト教に大きな影響を与えたパウロもダマスコへの途上で衝撃的なイエスとの出会いを体験し(使徒9.3~7)、ユダヤ教からキリスト教への劇的な回心と召命を受け、その後のキリスト教の礎を築きました。こうして偉大な宗教指導者は「鮮明な神体験と明確な召命」を経ているというのです。 「私より、むしろ君の方が宗教的資質があるよ」と庭野会長をして言わしめたように、確かに会長は、豊かな宗教的天稟の持ち主でした。


<神の召命ー私はあなたと共にある>


神はモーセを召され、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト3.12)と言われました。またモーセの後継者ヨシュアに対しても、「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない」(ヨシュア記1.5)と明言されました。マタイ1章23節にも「その名はインマヌエル、『神われらと共にいます』という意味である」とある通り、「神が共におられる」ということこそ、聖書全体を貫く中心的なメッセージであり、聖書は様々な場面で「神様は私達と共におられる」ことを語っています。


特に兄エソウの怒りを避けてハランの地に向かうヤコブが、途上石を枕に仮寝した時見た「ベテルの夢」(神の家)は有名です。


「 わたしはあなたと共にいて、あなたを守り、わたしは決してあなたを捨てない」(創世記28.15)


真っ暗な夜、凍える野原にただ一人、不安と後悔の中で身を丸めるヤコブにとって、神が傍に立って、「見よ、私はあなたと共にいる」と告げられる神様の声はどんなにか励みになり救いになったでしょうか。この夢は、後世「ヤコブのはしご」として知られています。


そして前述の会長も、「案ずるな、私が共にある」との神からのメッセージで、最後の決断を促されたというのです。懇意にしていたかの「哲学青年」に導かれ、原理の扉を叩かれた久保木会長は、「私が共にある」との言葉に励まされ、神への道の第一歩をしかと印しました。


こうして会長に臨んだ「神共にあり」は、当に聖書を貫くテーマであり、また成約時代における私たちの信仰の旅路において、固く心に刻んでおきたい言葉です。著書『愛天愛国愛人』には、「山を下りたその日は、奇しくも私の誕生日でした。私はその日を私自身が神の懐で生まれた日として、決して忘れまいぞと決意しました」(P85)と記されています。


それにしても、モーセと会長は時代や次元の違いはあるにせよ、多くの共通点があります。モーセがパロ宮中で帝王学を学んだように、会長は庭野日敬会長の元で、あらゆる指導者としての訓練を受けました。モーセがシナイ山で神から律法を受けてイスラエルを導いたように、会長は山頂にて神と出会ってUCを導かれました。そして、モーセがカナンを目前に倒れたように、会長も道半ばで病魔に倒れました。


会長は、60才そこそこで糖尿病が悪化し、6年間の人口透析を余儀なくされるなど、後半、公私に渡り課題も抱えられましたが、試練多きUCの基礎を築き、歴代総理大臣に文先生のメッセージを伝達し、多くの世界的指導者との信頼と支持を得られたことなど、余人をもって代えがたい業績を残されました。当に「み旨を託す器」として神に召され、その召しに応えた人生と言わねばなりません。


【統一教会の会長としてー宗教家久保木修己】


久保木会長は、1964年(昭和同39年)、初代統一教会会長に就任され、1991年(平成3年)年まで28年間にわたって会長職を務められました。


<試練を越えてUCへ献身>


庭野会長の鶴の一声で始まった原理修練会への佼成会青年の動員でしたが、やがて内部の反発を招くことになりました。修練会参加者が、佼成会の教えより原理を優先するようになり、組織が混乱したのです。やがてその怨嗟の声は庭野会長にも届くようになり、板挟みになった庭野会長は組織を守るために、やむなく修練生を送ることを中止する決断をせざるを得ませんでした。


しかし会長は「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の精神で原理を受け入れて欲しいと庭野会長に必死で嘆願されました。しかしやはり庭野会長には「佼成会会長という壁」を越えることが出来なかったのです。結局、この洗礼ヨハネ的教団は、今一歩のところで摂理から離れていきました。


こうして会長は1963年、庭野会長に辞表を出し、13年歩んできた佼成会を後にしてUCに献身されたのです。参議院議員にも押され、佼成会での栄光ある立場を捨て、いまだ海のものとも山のものともつかない弱小宗教に身を投げることが、どれ程の冒険だったかは察してあまりあるものがあります。


<家庭的な試練>


厚木大山での霊的体験で会長の行くべき道に迷いはなくなり、佼成会内部からの非難にも関わらず、妻も両親もそんな会長を信じてくれました。しかし当時会長には大きな家庭問題がありました。二人の子供の養育に加えて、長男の強度の喘息です。


久保木哲子著『愛あればこそ』(光言社)には、「佼成会の支部長の初孫が、どうしておできだらけの小児ぜんそくで大変なことになるのか、と(因果応報を重んじる佼成会では)噂になるのです。病気そのものとの闘いも大変ですが、そうした宗教団体の中の、辱しめでも受けているような筆舌に尽くしがたいつらさがありました」(P110)とありますように、長男は生まれた時から病弱(滲出性体質)で、アトピーと喘息に苦しみました。


こうした愛する妻や子、そして同居している両親をおいての献身です。もちろん経済的にもあてがあるわけではありません。しかし、これらを振り切るように献身していきました。背後に目に見えない神と聖霊の導きがあり、押し出されるように新たな道を出発されたのです。


また上記『愛あればこそ』には、死にかけている長男をおいて、1967年、宮崎への40日開拓伝道に赴いた哲子夫人の証があります。


「40日の半ば頃に、義父と子供からの葉書が届きました。長男の文面には、『母さんが開拓伝道に行ってから、僕の発作は一度も起こらなくなりました』と書かれていました」とあり、この瞬間、「神様が私の祈りを聞いて下さった」(P133)と確信したというのです。「それまで『この子の病気を治してくれたら、統一教会の神を信じましょう。治してご覧なさい』と傲慢不遜な祈りをしていました」(P134)とも述懐されました。


ちなみに『愛あればこそ』には、会長が22才の哲子夫人に、便箋16枚の熱烈なラブレターを送ったことが記されています。筆者は流石にこの時ばかりは、こんなに愛する女性に巡り会えた会長に、いささか嫉妬を感ぜざるを得なかったことを告白いたします。


そして最後の章には「女として女性として、本当に幸せな人生でした」とあり「パパありがとう。幸せでした」と結ばれています(P211)。 時には内部から厳しいことも言われた夫人でしたが、人生の最終章で「幸せだった」と率直に語れるとは、女冥利に尽きるというものです。


<統一教会初代会長として>


こうして1964年(昭和同39年)、文鮮明先生の命により初代統一教会会長に就任され、1991年(平成3年)年まで28年間にわたって会長職を務められました。


特に会長が入教された1962年から最初の十数年間は、まだ教団としての基礎が固まらず、内外様々な問題が山積する不安定の時期でした。このような時期に際して、唯一の大人としての常識と英知を持ち、佼成会で指揮を取られた経験がフルに生かされ、初期教団としては最小の犠牲で乗り越えることが出来ました。文字通り蘇生期にしては、かなりの安定感をもって教団運営がなされたのではないかと思われます。


これらは、多くの信徒の懸命な支えがあってのことでありますが、やはり、時に叶ったリーダーの存在あってのことであり、神が会長というこれ以上ない宗教リーダーを準備されたという他ありません。 実際筆者自身も、会議の度に語られる会長のバランスのとれたユーモアある話に、どれだけ励まされ、安心し、解放されたか図り知れません。


前章でも述べましたが、幼少期から、父子共に韓国人と親しい縁があり、このことが、韓国人文先生との関係において、極めて大きな役割を果たしました。何の民族的な違和感もなく自然な関係が築かれ、当初から呼吸の合った二人の姿を目撃することは珍しくなく、微笑ましく安堵するものがありました。なお、家系図専門家の話によると、久保木家は、もともと大久保という一族で、南北朝時代に南朝方の新田義貞公の家臣として活躍した武士で、千葉県香取市津の宮に来たのは戦国時代であり、初代を久保木六郎左衛門といい、そうそうたる武士であったようです。


<宗教家久保木修己の役割>


さて会長と哲子夫人は、1968年(37歳)2月22日、統一教会の祝福結婚式(430組)に日本人として初めて参加し祝福を受けられました。文先生ご夫妻の聖婚式がそうであったように、内外の信じられないような数々の試練を乗り越えての祝福結婚でありました。そしてこの祝福は、一久保木家庭に与えられたものというより、日本全体を代表する意味があり、以後文先生は日本を「エバ国家」(母親国家)として認定し、正式にアナウンスされるようになりました。


この祝福直後、文先生は会長に次のことを命じられたと言われています。 即ち、宗教界では、佼成会の庭野日敬、生長の家の谷口雅春、創価学会の池田大作、政治家では、岸信介、佐藤栄作、福田赳夫に会うこと、そして共産主義との戦いを宗教界を中心に団結して行うことの必要性を伝えること、でありました。当に共産主義の本質が「神を否定すること」にあることを見抜かれていた文先生の慧眼です。次回第三章で述べますが、1968年4月1日、「国際勝共連合」が設立され、その初代会長(名誉会長笹川良一)に就任されました。


2011年12年14日、会長の聖和13周年追慕礼拝が教会本部で持たれ、その時の主礼のメッセージで、久保木会長の3つの実績として、救国連盟の総裁になったこと、蒋介石総統と会談したこと、 そしてスパイ防止法制定を推進したこと、を挙げられました。しかし、会長の真の業績はそういった外面的なことではありません。初代会長として、揺るぎないUCの宗教的基礎固めをされたことこそ、会長の最大の業績であり、神に託された役割でありました。従って、宗教家久保木修己の誕生により、もはや会長の使命は、ほぼ果たされたと言っても過言ではありません。後は、ヨシュアのように、次世代の者たちが引き継げばいいのです。


以上、「宗教家久保木修己」を論じて参りました。次章はこれを踏まえ、「愛国者久保木修己の思想と行動」を見ていくことに致します。(了)




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