われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため(内村鑑三墓碑銘)
久保木会長の日本観、日本への情念は、上記内村鑑三の墓碑銘に全て言い表されているでしょう。正に愛国者であり、またそれ以上にキリスト者でありました。日本というこの国を、いかに神にお還しするか、即ち神への大政奉還に心血を注がれた人生でした。「神に還れ、神の言葉に耳を傾けよ」、これこそアルファでありオメガでした。
会長は、31年間に渡り、数千回もの講演を行われましたが、その内容は大きく次の3点に集約されるでしょう。即ち、日本の特性・進路・役割を論じた「日本論」、環太平洋・東アジア時代の到来に関する「東アジア論」、そして共産主義とどう向き合うかを論じた「共産主義論」であります。
その内本章では、思想家久保木修己の日本論、即ち「母性国家論」について考察したいと思います。
著書『愛天愛国愛人』において、「日本文化の特質は女性的性格にある。その女性的特質を生かして母性国家となるべきである」(P206)と明記されました。従って、キーワードである「母性国家とは何か」に焦点を合わせて日本論を解き明かしたいと思います。
【美しい国、日本】
先ず、日本という「美しい国」について語られると共に、日本の使命について語られました。(著書『美しい国日本の使命』世界日報P14)
<日本の自然>
日本は、縦に長く、南北3000キロの列島と、6852の島々によってなり、全体的に女人が横たわっているような形をしています。温暖ではっきりした春夏秋冬の四季を持ち、自然災害はあるものの、豊かな緑の山河、きれいな水、清浄な空気に恵まれています。回りは峻険な海に囲まれ、古来、この海が天然の要塞の役割を果たして、周りからの敵を寄せ付けませんでした。
こうした自然を背景に、神は日本を「神の国の雛型」にするべく、日本人を、信義、和の精神、優しい穏やかな民族に育成されたというのです。かって文鮮明先生は「日本は嫁入り前の乙女のようだ」と言われ、女性国家日本について語られたことがあります。そして神が日本を必要としているように、サタンも狙うというのです。 その意味において、エデンの園において「善と悪の実」として象徴されるエバのようです。
正に神は、創造の始めから日本を摂理され、紆余曲折はあったものの、人類歴史の終局的な局面で歴史の表舞台に立たせ、果たすべき使命を託されるというのです。
<日本の四季>
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
上記の短歌は、かの道元禅師の句であります。道元禅師が永平寺の夜空を眺めて日本の四季を詠ったもので、四季の姿をあるがままに詠んだとも、坐禅の姿、深い悟りの境地を意味するとも言われています。
それにしても、日本ほど四季の移り変わりがはっきりして美しい国はありません。筆者はかってフィリピンのマニラで2年間暮らしたことがありますが、なんと年中同じ景色なので、びっくりしたことがあります。これでは、刺激も情緒も生まれて来ません。
日本人は、縄文時代から自然を友とし、自然を糧として、共生して生きて来ました。「自然を崇め、先祖を祭り、和を重んじる」のは、古来日本の伝統文化です。日本文化は、「自然と先祖と和」が核となっています。
【日本の特質】
著書や講演の中で、会長は日本の特質についてよく語っておられますが、いくつかをまとめると、次のようになるでしょう。
<女性的な精神性ー集団主義的傾向>
会長は、集団主義的な傾向が、日本の特質の一つだと語られました。それは、縄文・弥生時代以来の農耕型社会の定住性と集合性、そして島国という地理的な環境が影響しており、一つにまとまり安い環境にあるというのです。
そして、この集団志向、共同体意識自体は悪いものではありませんが、その結果「個の自覚の喪失」につながると指摘されました。集団への忠誠や公への志向性は、私心を嫌う心性を醸成すると共に、個を否定する文化、即ち、個性の自覚なき性格を形成していきました。この没個性・没主体性こそ、ある意味で女性的性格と言えるのではないかと言うのです。
「女性的とは、動的より静的、意思的より受身的、論理的・抽象的より情緒的・感覚的、な性質を言います。それゆえ、他人志向的、没個性的、没主体的な日本文化は女性的と言っても差し支えない」(著書P207)
但し、これには反論もあります。日本には武士道、大和魂、愛国心、と言った主体的な思想があり、特に武士道は没個性的、没主体的どころか、自らの意思と責任において、時には命を賭して行動するという男性的気質であるというのです。しかしこれも、主君を絶対とし、主君のために己をなくして忠誠を誓うという「没個性的忠誠」であり、滅私奉公的色彩が強いというのです。儒教の教えに「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」という言葉がありますが、主君のあり方より、先ず臣下のあり方を問うといった忠誠の極致があります。
心理学者の河合隼雄(はやお)氏は、「武士道にしても軍国主義にしても、社会システムとしては男性的・父権的だが、心理的には女性的・母性的で、お家のため、国のためという集団主義的没個性がメンタリティーとなっている」と指摘しました。
このように、主体的に自己を主張するより、従順に従うことで、むしろ「良さを発揮」したのであり、これが日本的な美意識であるというのです。日本によき指導者はいても、ヒットラーやスターリンのような個性的で強烈なリーダーが出てこない理由がここにあるというわけです。 つまり東洋人は全体の中に個があると発想し、西洋人は個によって全体が成り立つと考えきました。従って西洋では個人主義が発展し、ここから自由や人権の発想が生まれましたが、東洋に根付いて来たのは個人主義よりむしろ家族主義でした。古来、全体と個を如何に調和させるかは重要論点であり、個人主義の行き過ぎは放縦や高慢をもたらし、東洋的思考は独裁や人権侵害を生む土壌になりかねません。
以上見てきたように、日本の精神風土が、全体としては調和的で相対的な女性的精神性にあることは確かで、これこそはむしろ「かけがえのない日本のよき個性」であると言えなくもありません。会長は、この特質故に対立する世界の「橋渡し」ができると言われました。
<多神教の日本>
日本は「八百万の神」で象徴されるように、多神教の国であると言われています。本居宣長は、「カミ(神)」について、『古事記伝』三之巻の中で次のように定義しています。
「さて凡て迦微(カミ)とは、古の文どもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣、木草のたぐひ海山など、其の他何にまれ、世の常ならずすぐれたる徳のありて、畏き物を迦微(カミ)とは云なり」
つまり古来日本では、「古事記などに出てくる神々」「地域の神社に祀られている神」、そして「人」や「自然」など、世の中に秀でて「かしこきもの」を、皆神と呼ぶというのです。 例えば太宰府天満宮の祭神は菅原道真であり、道真は神として祀られています。内村鑑三もクリスチャンになる前は、各神社の前を通る度に、各神社ごとの神様に欠かさず参拝したと告白しました。
そして、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教が、規範的・原理的で、「父なる神」という男性的イメージがあり父性的であるのに対して、日本の多神教は、天照大神に象徴されるように、裁き・怒り・罰すると言った神ではなく、許しと包容の母性的なイメージがあると会長は指摘されました。
それぞれ一長一短はあり、一神教は、善悪を厳しく分別し、白黒をはっきりさせる傾向があるのに対し、多神教はより融和や協調を重視するというのです。そもそも古事記に見る高天原では二者択一を好まず、集団合議がなされ、男性神より女性神が優位を占めています。宗教学者の松本滋氏が「多神教は母性的」だと指摘されていますように、確かに多神教は曖昧だと批判されることがありますが、総じて寛容で包容力がある母性原理が働いています。
そしてこれら一神教と多神教との違いは、自然環境の違いからも説明されます。 和辻哲郎の風土論には、風土(気候・気象・地形・地質・景観などの総称)が人間を作るとする考え方があり、確かに日本の多神教は、繊細で優しい母性的な自然の中で生まれました。時には、地震、台風、豪雨、干魃、噴火などの災いもありますが、総じて日本の緑豊かな自然は、人々に恵みや癒しをもたらしてきました。日本人は、これらを神々の恩寵と考えて来たのです。ここに穏やかで慈愛に満ちた多神教の原点があります。
一方、イスラエル一神教は、石と岩の荒野、不毛の砂漠の中で生まれました。モーセが十戒を授かったのも、シナイの荒野の只中でありました。荒野にあっては唯一の神に向かう以外に道がありません。厳格な義の父性的な神です。そこでは自然と共存するというより、自然にどう打ち勝つか、どう主管するかが問われます。そして荒野とは、言い換えれば試練であり、試練は「唯一神」を見出だす源泉になりました。
勿論、このような風土論には異論もありますが、風土が民族の精神形成に影響しているという論議は、一面の真理であると思われます。
<和の精神>
前述してきた日本の母性的特性は、和の精神性を生み出しました。母性原理は「調和や共感」と親和性があり、和の本質もまた調和であり共感であるとし、それは相手に対する敬意が前提にあるというのです。
聖徳太子は17条憲法の第1条に「和」を掲げました。和は 、人間は皆凡夫(罪深い存在)であるとの人間観から来ていると会長は語られました。自らを低め、相手に敬意を払うことで真の対話が成り立ち、合議と一致がもたらされるというのです。しかし決して安易で曖昧な妥協や中途半端な融和であってはならないというのは言うまでもありません。
こうして、日本人が長い歴史の中で育んで来た母性的な和の精神は、今や対立と混乱を呈する国際社会に生かされるべきであり、和の精神を持つ日本こそその「世界の橋渡し」の役割を果たすことができるというのです。
<ヒューマニズムの弊害>
第三章でも述べましたように、会長は、日本の課題として、近代世俗的ヒューマニズムとその弊害、そしてその背後にある共産主義の脅威を指摘されました。近代ヒューマニズムは、人間の目線でしか考えない「神なき人間主義」に陥っており、その先にあるのは人権尊重という名のエゴイズムであり、また一国主義の弊害であるとし、これは必然的に唯物論、共産主義の温床になると警告されました。
そして近代世俗的ヒューマニズムの深層心理にある情念は、「怨念と復讐」であると指摘され、視覚障害者であるオウムの麻原彰晃や、疎外感から資本論を書いたマルクスは、当に怨念の権化だったと語られました。共産主義が神を否定する恩怨と復讐の思想である所以です。そしてこれらの思想は日本を汚染しており、こうした近代ヒューマニズムの超克こそ急務の課題であり、これは人生と人間の本質を扱う宗教の復権、即ち「神の復権」によってしかもたらされないと結ばれました。
【日本教と超越的存在】
日本教の名付け親は『日本人とユダヤ人』を書いたイザヤベンダサンこと山本七平であり、日本的霊性という言葉は、鈴木大拙が著書『日本的霊性』で初めて使いました。どちらも同じ意味だと理解していいでしょう。久保木会長は、遺稿集『美しい国日本の使命』の「日本教と超越的存在」の章(P51~57)で、日本教について考察されています。
曰く、日本教とは「公のコンプレックス(劣等的複合意識)を動機とする人間神教」であると定義されました。 山本七平も「日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である」と言っています。地域共同体(村落)や血縁的共同体に帰属し、この全体の公の中に、私心をいかに償却するかに最高の価値が置かれたと言うのです。
日本人は上古以来、「清き明るき直き心」をもって公を奉る人間神教を有し、これが一種の受動的な信仰心情として働き、ここから情緒的、感覚的、相対的な女性的性格を派生したというのです。ここでは、超越性(唯一神)なき「途中神」が尊ばれ、天つ神→天照大神→天皇→国民という縦の流れの中で、公に対して私心なきことが、純、不純の物差しとされ、他人志向の「恥の文化」が形成されました。
会長によれば、仏教も日本化したといいます。法然には原罪観念がなく、親鸞は根本悪を自覚しましたが、阿弥陀如来は超越神ではなく人間神教にとどまっていると指摘されました。蓮如は無原罪的な肯定的人間観を有し、日蓮に至っては自己否定を介することなく、その帰結として原罪観念は皆無です。道元は、楽観的人間観を基調とする「超越者なき超越者」を観じる禅を唱えました。
そして日本教は、神道にあらず、儒教にあらず、仏教にあらず、「儒仏神三道融合の観念」であり、日本文化は、あらゆる文化の「日本教化の歴史」であると語られました。日本教は、「肯定的楽観的人間観・非超越神(途中神)」が特徴であるというのです。貞明皇后(大正天皇の皇后)の次の短歌がこれらを象徴しています。
キリストも釈迦も孔子も敬ひて拝む神の道ぞたふとき
そしてここにもたらされたのが、唯一神と原罪思想を持つカトリックであり、この天主教は、君主に対する家臣の忠節を媒介に、神に対する滅私奉公的信仰とつながり、一時かなりの信者を獲得しました。しかし会長は、海老名弾正の神道的キリスト教、巖本義治の仏教的キリスト教、横井時雄の儒教的キリスト教に象徴されるように、キリスト教も日本化の例外ではなかったと指摘されました。ただ一人内村鑑三だけは、初めて日本教から超越神教へ改宗した人物だと言うのです。
こうして超越神なき日本教は、絶対神との縦の関係が欠如しているため、個の確立が難しかったというのです。そしてこの限界を打破するのが近代化であります。近代化による合理化や都市化を通して、個人を共同体から解放し、キリスト教を通して超越神的根拠を与える挑戦が始まりました。
【日本的霊性について】
さてここで、日本的霊性(=日本教)について筆者の見解を述べておきたいと思います。前述しましたように、「日本教」の名付け親は山本七平であり、「日本的霊性」は鈴木大拙が最初に使った言葉です。
アメリカには市民宗教(=アメリカ教)と呼ばれるアメリカ的霊性があると言われ、ワシントンもリンカーンも市民宗教の信奉者でした。市民宗教とは、「ビューリタニズム、聖書的選民観、愛国的心情が融合した見えざる国教とも言うべきアメリカ的霊性」であります。そして日本にもこれと対比される精神性があり、これを「日本的霊性」と呼ぶことにいたします。
<日本的霊性の特質>
日本的霊性とは日本人の基層にある精神性を言い、鈴木大拙は、これを「禅と浄土教の他力思想が核となった超倫理的、超精神的宗教意識」と定義し、宗教意識の覚醒は即ち霊性の覚醒だとしました。
これはやや難しい説明ですが、つまり、霊性は精神と物質の相克を止揚した概念であり、精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している、即ち精神は分別意識を基礎としているが、霊性は「無分別智」であるというのです。精神の意思力は霊性に裏付けられて始めて自我を超越したものになり、霊性の直覚力は精神よりも高次であると大拙は語りました。(鈴木大拙著『日本的霊性』P30~31)
前記大拙が指摘したように、日本的霊性が禅と浄土教の他力思想が核になったものか否かは別としても、霊性が「超精神的宗教意識」と言うべきものであるという指摘は、共感できるものがあります。また、山本七平はこれを「日本教」と呼んで、日本人の内に「無意識的に染み込んでいる宗教」と定義しました。即ち、日本人の行動様式や精神を支える価値観の目に見えない礎と言えるでしょう。
つまり、日本人には、儒教や仏教やキリスト教などの外来思想や宗教が来て、それなりの影響を受けましたが、取捨選択して、基本的なところでは決して染まらない「基底をなす霊性」があるというのです。
年末年始の宗教風景でお馴染みのように、クリスマスには教会に、除夜の鐘ではお寺に思いを馳せ、新年には神社に参拝します。また7・5・3を神社で祝い、結婚式を教会で挙げ、葬儀はお寺で行いますが、日本人には、これらは決して矛盾した行動ではないというのです。山本七平は、これらは「日本教仏教派、日本教キリスト教派」であって、帰属しているのはあくまで「日本教」だというのです。現住所は仏教でありキリスト教であっても、本籍は日本教だということでしょうか。これこそ、日本的霊性です。
<日本的霊性の源泉>
日本的霊性には3つの源泉があると思われます。会長がいみじくも、「日本教は儒仏神三道融合の観念」であると指摘されましたように、日本的霊性は、仏教の死生観、武士道の儒教的規範性、そして神道の自然観を源泉に持ち、その内、縄文・弥生時代以来の「古神道」の影響を最も強く受け、これが日本的霊性の基底をなしていると言えるでしょう。
即ち、「自然を崇め、先祖を尊び、和と共生を重んじ、清浄を好む」というもので、この思想が日本的霊性の核をなし、仏教の無常観や武士道的な忠孝の規範性が取り込まれて、日本的霊性を形成しているというのです。つまり、神道的な情操が基にあり、その上に重層的に外来思想が付加されて来たということです。アメリカ市民宗教の根本にビューリタン的なキリスト教精神が有り、それにヨーロッパの人権思想などが付加されていったように、日本的霊性には、その根本に古来の神道的情操があると思われます、
この日本的霊性は、一神教の神がいない日本において、キリスト教倫理に匹敵する高い倫理観の源泉になって来ました。外国人旅行者は、日本人が持つ高い倫理性、即ち、礼儀正しさ、親切さ、勤勉さ、そしてきれい好きなどの徳性に驚嘆すると言われています。ヤハウェの神もアラーの神も知らない日本人が、「何故、こんなに高い文明と高潔な倫理観を持っているのか」というわけです。曖昧で一貫性がない、ぬるま湯的で節操がない、と揶揄されることもありますが、一方では、「見えざる国教」として、外来文化を柔軟に取り入れ、高い倫理性を保ち、国民の見えざるアイデンティティーとして大きな力を発揮してきたのです。
内村鑑三も、著書『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の中で、日本の倫理的、道徳的規範性は、贖罪観念を除けば決してキリスト教に引けを取らないと言っています。
<画竜点睛を欠く>
しかし、「画竜点睛を欠く」という言葉が有りますように、日本的霊性には、他の全てのものが揃っているけれども、肝心の眼が入っていないというのです。眼とは何でしょうか。眼とは「唯一神」という神観念と、内村がいう「贖罪思想」です。日本的霊性には、神らしきものはあっても、「真の神」が存在せず、原罪を贖う贖罪観念がありません。日本は多神教文化、雑教文化だと指摘される所以です。
日本的霊性に、「神・贖罪という眼を入れる運動」を提唱致します。イスラエル幕屋の至聖所にある契約の箱には、十戒の石板が安置されていました。同様に、神社の本殿に安置される「ご神体」として、唯一神と原罪思想を有する「聖書(原理講論)」が置かれるよう訴えます。全国9万神社に聖書を安置するというのです。日本人は、古来、目に見えぬ何かに対して、畏敬の念を抱く心、良心作用を発揮してきた霊的感受性が強い民族であります。こうして眼が入ることによって、日本的霊性は完成し、日本の精神性はまさに、「鬼に金棒」ということになるでしょう。
ここで、摂理観から見た日本のキリスト教について、文鮮明先生の興味深い言葉を記しておきたいと思います。
「神が日本にキリスト教を根付かせないようにしたのです。日本と韓国が対立しないため、相対国(母国)としての日本にするためです。神は調和する宗教(多神教)を日本に根付かせました。これからは、日本に一神教を根付かせるために神が摂理されることでしょう」
ガラテヤ書3章24節で、バウロが「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」と語りました。同様に、日本の多神の神々(日本的霊性)は、日本人を「真の神に導く養育係」であると捉えることができます。この「途中神」を真の神に接ぎ木すれば良いのです。かくして文先生のみ言にありますように、早晩神は、「日本に一神教を根付かせる摂理」をされると確信いたします。
【日本の天職】
締めくくりに「日本の天職」、即ち日本の国家としての使命について述べることにいたします。
<東西の橋渡し>
会長は、著書『愛天愛国愛人』の「内村鑑三に見る日本の天職」(P184)という項で、内村の著作『地人論』を引用して日本の使命について語られています。内村は地理的に日本を分析し、アメリカとアジアの間に横たわる「日本の天職」は、両大陸を太平洋上で連結する媒介者になることにあると指摘しました。
文先生は当初から、「アジアの時代が来るということは、神の経綸の中にあった」と言われていました。本来、ユダヤ人がイエス・キリストを受け入れていれば、福音は東廻りに伝えられる筈だったと言われ、十字架によって逆に西廻りになったというのです。 内村鑑三は「日本の天職」という考えを持ち、文明が西へ西へと進んでいくという、次のような「文明西進説」という考えを説いています。
「文明はアジアにおいて始まり、東と西の両方に向かって流れて行った。西に向かった流れはバビロン、フェニキア、ギリシア、ローマ、ドイツ、イギリスと進み、アメリカの太平洋側で最高点に達し、そして今日本に到達した」
そして著書『地人論』で、日本の天職は「西洋と東洋の媒介者」であると述べています。そして日本が世界の仲介者としての「天職」を自覚し、これを全うするように促す預言者的とも言われる発言を繰り返しました。
「日本は東洋ならびに西洋の中間に立つものにして、両洋の間に横たはる飛石の位地に居れり。日本その一方を西洋文明の粋を受けつつある所の米国に向け、右手を以て欧米の文明を取り、左手を以て支那ならびに朝鮮にこれを受け渡すの位地に居るが如し、日本国は実に共和的の西洋と君主的の支那との中間に立ち、基督教的の米国と仏教的の亜細亜との媒酌人の地位に居れり」(『内村鑑三選集』第2巻P8)
久保木会長はこれを受けて、日本の天職(使命)は、東西大陸の橋渡しになると共に、西洋文明を吸収し、韓半島を通じてアジア大陸に連結することであり、そして逆に、韓半島・アジア大陸から東洋文明を相続して西洋につなぐことにあると語られました。即ち、西洋からキリスト教文明を吸収すると同時に、東洋の代弁者となり、西洋と東洋を連結させ、世界文明の2大潮流を統合することに日本の使命があると説かれました。 つまり、アジア・太平洋地域は、西廻りで来た西洋文明が東洋と出会うところであり、アジアに温存されていたアジア的な価値が西洋と出会うところであるというのです(著書P188)。
<日本人の美的価値で世界に貢献>
著書224ページに、「日本人の美的価値で世界に貢献」という項があります。韓国忠北大学教授の金泰昌氏の言葉「日本の世界への貢献は、政治的価値でも、経済的価値でもなく、それは美的価値である」に共感し、母性国家日本が持つ美的価値を発揮して、世界に寄与すべきであると語られました。
美とは「主体の愛に応える対象の価値」と定義され、それは「忠・孝・烈」の価値となって表れると指摘されました。即ち、主君に対する美が「忠」であり、父母にたいする美が「孝」であり、夫に対する美が「烈」であり、これが主要な美的価値であるというのです。
また、日本人が持つ、桜、切腹、武士道精神に象徴される「いさぎよさ」「気前よさ」「水に流す」と言った無常感、また、「おもてなし」「侘び」「さび」「陰徳」と言った感覚的で繊細な心情、正にこれらは日本の美的価値であるというのです。そして日本文化の本質は、動的、攻撃的価値ではなく、静的、平和的価値であるとも語られました。
<母性国家日本の責務>
「清浄」(清く明き心)、「和」(調和・共生)、「母性」(慈愛)、は日本の3大霊性と言っていいでしょう。特に日本の母性的性質は特筆されます。地理的には、日本は島国、海洋国家であり、 島嶼は女性を象徴するといわれ、大陸は男性を象徴すると言われています。海洋は母性を象徴し、大陸は父性を象徴するというのです。
また日本の最高神である天照大神は女性神であり、前述の繊細な心性は女性的な特性と言えるでしょう。しかし一方、日本には、武士道という男性的な思想もあり、自ずと「陰は陽を備え、陽は陰を内包する」というのです。会長は「救国の予言」の中で、「西洋はキリスト教文化を世界に与えたが、日本はソロバンだけなのか」と自問され、「日本には忠孝の美があり、犠牲的美があるではないか」と自答されました。
そしてこの歴史的終末期に際し「世界のために犠牲になる国が、一つくらい現れなければならない」と強調され、戦後日本の繁栄には意味があり、「それは犠牲的な美的価値を既に有する日本が世界に果たす責務(天命)であり、それが日本の天職ではないか」と情熱的に問題提起をされました。神はこのような精神の上に立つ日本をこよなく愛し摂理されると信じるものです。そして会長は内村の言葉をよく引用され、内村を高く評価されました。特に内村が生涯愛しつづけることになる「二つのJ」(Jesus、Japan)は、正に会長の信条でもありました。
以上が、久保木会長の「母性国家論」の論評であります。正に思想家久保木修巳の真骨頂であります。次章は久保木論シリーズの最終章として、会長のもう一つの講演テーマである「環太平洋・東アジアの時代」を解説することにいたします。(了)