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アウグスティヌスの世界 その信仰・思想・神学

🔷聖書の知識33-アウグスティヌスの世界―その信仰・思想・神学

そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 13:14あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。(ロマ書13・13~14、アウグスチヌスの回心聖句)

今回は、キリスト教神学の最高峰に立つアウグスティヌスについて論評したいと思います。前記二章異端の項でも言及しましたが、アウグスティヌスは異端との戦いにおいて論陣を張った第一人者であり、キリスト教歴史における最大の護教家と言えるでしょう。創始者も、イエス・キリスト、釈尊、マホメット、孔子に続く聖人の一人としとして評価されています。


【アウグスティヌスの思想遍歴】


アウレリウス・アウグスティヌス(354年11月13日 ~ 430年8月28日)は、古代キリスト教の神学者、ヒッポ司教、正統信仰の確立に貢献したラテン教父であり、各派で聖人とされています。先ずは、アウグスティヌスの略歴についておさらいすることにいたします。


<誕生から回心まで>

アウグスティヌスは354年、キリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アハラス)に生まれました。

若い頃から身を立てるために弁論術の勉強をはじめ、370年からカルタゴにて学びました。372年(18才)には、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(372年~388年)が生まれています。事実上の妻であるこの女性との同棲は15年に及び、当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂いまったくその欲望のままになっていた」と自叙伝『告白』で述べています。


「私はあなたの教会の壁の中で、荘厳な儀式の行われている最中でさえも、欲情を起こし、死の実をもうける業をあえてしました」(山田晶訳『告白』第三巻P106)


このアウグティヌスが、32歳でキリスト教への回心に至るまでの軌跡について、京都大学の川添信介教授は、次のように7つのステップを指摘されています。


第1ステップは、官能的、世俗的欲望に振り回されていた時代(16才~)、第2が、哲学を薦めたキケロ著「ホルテンシウス」に啓発されて哲学に目覚める時代(19才)、第3がマニ教信者になった時代(19才~28才)、第4が懐疑主義的になる時代、第5がミラノ司教のアンブロシウスの説教などにより感化される時代(32才)、第6が新プラトン主義と出会った時代(32才)、そして第7が聖句ロマ書13章13節との出会いによる回心と受洗(33才)であります。


<マニ教からプラトンへ>

アウグスティヌスは一時期(373~382年)、マニ教を信奉していました。「善なる神が創造した世界に、何故悪が存在するのか」という疑問に悩んでいたアウグスティヌスは、マニ教の善悪ニ元論などに惹かれて一時期信仰いたしました。マニ教は、一見合理的に見え、女と同棲しているアウグスティヌスには居心地が良かったのかも知れません。


ちなみにマニ教とは、3世紀にペルシアのマニが創唱した宗教で、ゾロアスター教を母体とし、キリスト教・仏教などの諸要素を取り入れて、光(善)と闇(悪)の二元論的世界観を根本に、禁欲的実践による救済を説く宗教です。4世紀を最盛期として西アジア・ローマ帝国に広まり、6世紀以後はペルシア東部からチベット・中国(唐)など東方に広まりましたが、13〜14世紀に急速に衰えました。


しかし、キケロ晩年の「哲学の薦め」とも言うべき著書『ホルテンシウス』を読んで哲学に目覚め、その後、キリスト教神学にも影響を与えた「新プラトン主義」(ネオプラトニズム)と出会い、マニ教への懐疑から次第にマニ教に幻滅を感じていきました。


新プラトン主義とは、プロティノスによって確立された古代哲学最後の学派で、3世紀にアレクサンドリアで始まりました。プラトンを始祖としながらも,ギリシア哲学の主要思想を総合し,東方の宗教思想をも加えて成立し、神秘主義的傾向が強い思想です。キリスト教に対して異教を弁護する役割を果たすと共に、キリスト教教理の発展にも寄与し,中世の神学・哲学に大きな影響を与えました。


結局アウグスティヌスは、悪の原因は、悪の創造者の存在にあるのではなく、人間側の自由意思の選択の間違いに起因するという思想を形成して、マニ教と訣別していきました。


「そこで私は、異教的な迷信(マニ教)をいだいてよこしまの道を歩んでゆきましたが、この迷信を確信していたわけではなく、敬虔な態度で探求しようともせずに、ただ敵意をもって反対していた別の道(カソリックの教え)にたいし、そのほうを選んだに過ぎなかったのです」(山田晶訳「告白」中央文庫八巻7章P114)


<アウグスチヌスの回心と洗礼>

こうして彼は、当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、さらに384年(29才)には、その北に位置する宮廷所在地の「ミラノ大学」で弁論術の教師(教授)をするようになります。その中で聖書を学び、修辞学者ウィクトリヌスの回心や、マタイ伝「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(19.21)で回心した修道者アントニウスの生涯を聞かされ、又天国のために自分自身を断ち切った独身者の生き様などに感化を受け、キリスト者になることの決心を次第に固めていきました。  


そうして、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに33歳で洗礼を受け、キリスト教徒となることになります。


アウグスティヌスと母モニカ(シェフェール画) アウグスティヌス(ボッティチェリ画)



受洗前の386年、ミラノの自宅の庭で隣家の子どもから「取れ、読め、取れ、読め」という声が聞こえ、近くにあった聖書を開きました。遂に彼は、最初に目にふれたロマ書の聖句「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」(13.13~14)と出会ってを回心することになったのでした。


 「この節を読み終わった瞬間、いわば安心の光とでもいったものが、心の中に注ぎこまれてきて、全ての疑いは消え失せてしまいました。そこで私はもう、妻を求めず、、この世のいかなるのぞみをも求めずに、信仰のあの定規の上にたつことになりました」(「告白」八巻12章P114)


アウグスティヌスにとって回心とは、単に洗礼を受け、単なるキリスト教徒になることではありませんでした。それは、自己の全身全霊を神に奉献することに他ならず、それ故に大きな決断を要したのです。まさに、回心とは決断であり信仰告白であります。


「なぜなら、肉の欲するところは霊に反し、また霊の欲するところは肉に反するからである」(ガラテヤ5.17)とある通り、名誉や利得、とりわけ断ちがたい情欲のくびきに縛られて苦悶し、その葛藤の中にさらされて、「ちょっと待って」(「告白」八巻7章P102)と決断を先送りにしていアウグスティヌスです。彼を最後まで阻んだのは、まさしく肉の欲との戦いでした。かって若きころ、神から貞操の徳を求められた時、「われに貞操とつつしみの徳を与えたまえ、されどもいますぎにではなく」と答えています。(「告白」八巻7章114)


<ヒッポ司教になる>

387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送りましたが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなりました。

391年(37才)、北アフリカの都市ヒッポの教会の司祭に、さらに396年(42才)には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けました。


しかし彼は著書「告白」第10巻の中で、人生の巡り合わせで自分は司教となったが、決して完璧な聖人になったのではなく、「目の欲、肉の欲、世俗的野心を身に帯びた一人の小さな人間」であることをさらけ出しています。又、「夜の眠りの中で夢に現れた性的イメージに、はからずも身体が反応し、そのしるしに目覚めてから気づく」といったことさえも書き留め、「睡眠において感覚的な心象によって、あの汚れた醜いことをなし肉を流出させる」(P304)と夢精を告白しています。


<巨星、落つ>

アウグスティヌスは、410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対して、天地創造以来の「神の国」と「地の国」の二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えました。


そしてヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人は430年8月28日にこの世を去りました。


【著書とその影響】


アウグスティヌスの思想は、その著書の中で明らかにされました。アウグスティヌスの生み出した著作は、哲学、護教論、教理、道徳、修道思想、聖書解釈、異端反駁の各分野に及び、書簡と説教を含めて1000以上の著作に登り、深い神学と哲学に基づくたぐい稀なものとなりました。


著書には、ドナトゥス派・ペラギウス主義・マニ教への反駁の他、魂、時間、自由意志、神の国、来世についての論考、聖書の注解、音楽論など多々ありますが、主要著書として、『告白』、『三位一体論』、『ヨハネ福音書注解』、『神の国』などがあります。なおアウグスティヌスに取っては、大きな神学書を書くよりも、すべての人にわかる形で信仰を伝えることのほうが有益だったと言われています。


ヒッポの司教として、マニ教、ドナティスト派、ベラギウス派などの異教や異端との論争を通じて、次第にカトリック教会としてのキリスト教理をうち立てていきました。アウグスティヌスの思想は、ローマ帝国の国教となったキリスト教を、国家に奉仕する宗教としてではなく、この世に「神の国」を出現させるものとして教会を位置づけました。


教会の客観的恩寵を説き、その典礼を定めた「世俗の国家に超越する教会」(ローマ教皇を中心とした聖職者の組織)という中世ヨーロッパのもっとも根幹となる思想の原型を造ったと言えます。又、カトリックの中心思想である三位一体説は、アウグスティヌスによってさらに理論づけられました。更に、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができない重要な業績と言われています。


主著の「神の国」「告白」などは、中世の神学の基礎とされ、フランク国王カール大帝やスコラ学のトマス=アクィナスなどに大きな影響を与えました。また、宗教改革のルターやカルヴァンも彼の著作から多くを学んでおり、近代ヨーロッパの思想家にもたびたび取り上げられています。


【アウグスティヌスの教会論ー客観的恩寵論について】


アウグスチヌスにおいても、異端と戦いの中で自らの神学を確立していきました。ドナトゥス派との論争を通じて、アウグスチヌスの教会論・客観的恩寵論が確立したと言われています。


<ナトゥス派との論争>

ドナトゥス派は、聖徒の教会は常に聖でなければならないと主張し、一度棄教したり、背教した者の行うサクラメント(秘蹟)は無効であり、ドナトゥス派に改宗する者は洗礼を再び受けなければならないとしました。


しかしアウグスティヌスは、罪の無い人間はいないこと、神の恩寵は人の道徳面の是非からは影響を受けないこと、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効であること、を主張しました。聖職者と言えども罪が無い訳では無いし、そしてそうした罪が「悔い改めによって赦されることこそ福音の恩寵」であることを強調しました。  


これが、「客観的秘蹟論」(事効論)です。対してドナトゥス派は「主観的秘蹟論」(人効論)と言われています。善人も悪人も入り交じった教会であるが故に、過去に過ちのある者が授けた洗礼であっても、そこで授けられた洗礼が正しい仕方で授けられた洗礼ならば、その事実自体は神の秘蹟として有効だというのです。


<客観的恩寵論>

アウグスティヌスは、サクラメントについて、行為と効果を区別し、「神は恩寵による秘蹟を、悪人を介してさえ与える。だがしかし、恩寵そのものは、神みずからによる」としました。 


そして、このアウグスティヌスの教会論が、カソリックの客観的恩寵論として結実していきます。客観的恩寵のシステムである教会とその秘蹟は、受領者が信仰において受領する限り、秘蹟執行者の人格とは全く独立に、その効果をあらわすというものです。


カソリック教会の本質が、教会に神が宿るという客観的制度としての性格を有し、教会は摂理に基づく恩寵の施設であるという訳です。もちろん、教会の礼拝や儀式は形式に過ぎず、内心の神への祈りや悔い改めこそ重要であるとする考え方もありますが、しかしその形式に神が働くというのです。つまり、実質と形式は相互補完関係にあり、儀式・儀典には実質を可視化する、即ち心を形にするという意味があります。


アウグスチヌスは、これらを客観的恩寵論(客観的秘蹟論)として体系化しました。そして、このアウグスティヌスの客観的恩寵論が、カソリックの教会論として結実していきます。教会の本質が、教会に神が宿るという「客観的制度」としての性格を有し、トレルチの指摘の通り、教会は摂理に基づく恩寵の施設であるということになります。神の恩寵という内的なものが、教会という形式に働くというのです


これに対し、異端(ドナトゥス派)の教会は自覚した信者の自由意思による共同体であり、それは成員を離れて客観的な価値を持たないと主張します。従って、ドナトゥス派は信仰の自覚なき幼児洗礼を認めていません。

アウグスティヌスは、ドナトゥス派と30年に渡って激しく戦いました。結局、皇帝ホノリウスにより統一令が発布され、ドナトゥス派は単なる分派ではなく「異端と宣告」され、414年全ての市民権を剥奪されました。しかし、ドナトゥス派の起こした問題提起は、アウグスティヌスの教会論(客観的恩寵論)の確立に一役かったことは間違いありません。


なお上記の通り、ドナトゥス派を巡る論争は、一度廃教した者のサクラメントの有効性についてのものでありますが、ドナトゥス派は、サクラメントの概念自体に疑問符を付けるものではありません。カトリック教会の秘跡の概念そのものに疑問符をつけるプロテスタントの登場は、16世紀の宗教改革以降の事であります。


【ペラギウス主義との論争と自由意思の問題】


またペラギウス主義とは、5世紀に現われた教説で、ローマの禁欲的修道士ペラギウス(350~425年頃)が提唱しましたが、正統のキリスト教から異端とされました。


ペラギウスの説とは、神は人間を善なるものとして創造したのであり、人間の原罪は神が善のものとして創りたもうた人間の本質を汚すものではないとします。人間は善も悪もなすことができる自由意思を持っているが、恩恵は、本来意思でなし得ることを、一層容易にできるよう助けるもの、としました。故に神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意思によって功徳を積むことで救いに至ることが可能であると考えました。即ち、原罪を否定し、自由意思という人間の能力を働かせて道徳的完成者になれると主張したのです。


このように「人間の意思は神の救いを必要としない」というペラギウス主義は、「人間は選択の自由はあるが究極的には救いは神の恩寵から来る」というアウグスティヌスの主張とは対立しました。更にアウグスティヌスは、人間の選択の自由の中にも実は神意の采配が宿っているとしており、人間単身の選択では救いの道は開けず、「神の恩寵と結びついた選択」により道が開けるとしました。これが、後述するアウグスティヌスの「自由意思論」です。

この点でアウグスティヌスやヒエロニムスはペラギウス主義と対決し、結局ペラギウス主義はカルタゴ会議などで異端として排斥され、431年のエフェソス公会議で異端である事が再確認されました。


こうしてアウグスティヌスは、5世紀に「異端論」を書き、あらゆる異端について論じました。この中に異端のほとんどの類型が明らかにされていると言われています。


【アウグスティヌスの恩寵救済論と自由意思論】


アウグスティヌスは、上記ペラギウス主義との論争でも論じたように、人間の自由意思についても論じました。キリストの救いは人間的な功績によるのではなく、神の一方的な恵み・恩寵によるものとし(恩寵救済論)、人間の意思を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えました。

アウグスティヌスは、「人間本性はアダム以来受け継がれた原罪によって損なわれ、それゆえ神と掟の遵守へと向かうためには、「先行する無償の恩寵が必要」である」と考えました。


このようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌス自身の悔悟と、原罪を否定し人間の意思の力を強調したペラギウスとの論争にありました。


アウグスティヌスは、人間には自由意思があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、「救いの根拠は人間の自由意思ではなく、神の自由な選びと予定である」としました。しかし神の恩寵により、人間が神への愛に貫かれて生き、恩寵により完成されるならば、もはや「罪を犯すことのない自由を得る」ことが出来るとしました。


即ち、アウグスティヌスは自由意思を否定したのではなく、その価値を認めて自由意思を許容しましたが、人間は原罪のゆえに自由意思を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができないと説いたというのです。


原理講論には、「人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。すなわち人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである」(P126)とあり、「しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである」(P127)とあります。


この原理観は、原罪故に自由意思が制限されているが、信仰の光により残された本心の自由によって神の恵みを受け取り、救いに至ることができるとするアウグスティヌスの自由意思論と符号しています。


アウグスティヌスはカトリック教会において重要視されましたが、一方では、原罪と人間性の脆さ・弱さに関する教理、および恩寵の強調は、しばしば極端に走ったとも言われることがあります。そして、ルター、ツヴィングリ、カルヴァンなどの全的堕落論の基礎となり、これらの極端が誤って利用されたとカトリックでは理解されることもありました。


【アウグスティヌスにおける三位一体論】


アウグスティヌス著「三位一体論」(399年~420年)は、キリスト教信仰の核心である、三位一体の神への信仰に関する15巻の書物です。


アウグスティヌスは神の「み顔」について考察し、この神の神秘を理解しようとしました。神は唯一であり、唯一の造り主ですが、しかし、この同じ唯一の神は、父・子・聖霊の位格を有し、これらが文字通り三位一体になっているという教説を、アウグスティヌスはこのはかりしれない神秘を理解しようとしました。

そして、3つの位格から成る、三位一体の存在そのものが、唯一の神のもっとも現実的で、もっとも深い一性にほかならないという理解に至ります。アウグスティヌスは「告白」の第13巻で、キリスト教の原理としての三位一体説をたとえで説明し、三位一体教説を擁護しました。


しかしこの説明は、神が三位一体であることを論証しようとしたものではありません。むしろ、神が三位一体であるという信仰が先に在り、その信仰を持った上で、神の三位一体との類比によって、精神の三一的構造を説明したものです。それがアウグスティヌスの三位一体論でありました。<山田晶『アウグスティヌス講和』新地書館>


以上のように、知性と神学への熱情に燃えたアウグスティヌスにおいても、結局三位一体論は、真理の対象と言うより、「理性の外にある信仰の対象」であったと言うのです。トマスアキナスも「三位一体の神秘」(神学大全)と言っている通りです。


【大著 『神の国』について】


大著『神の国』(413年~426年)著作のきっかけとなったのは、410年のゴート族によるローマ略奪でした。「ローマは陥落した。キリスト教徒の神はローマの町を守ることができなかった。それゆえ、キリスト教徒の神は信頼できる神ではない」との批判に対して、アウグスティヌスは大著「神の国」でこたえました。

彼は、神から期待すべきものと、期待すべきでないものを弁別し、信仰の領域と政治の領域を分け、教会の領域を明らかにしたのです。『神の国』は、ゲルマン人の侵攻というキリスト教会にとっての危機にあって、キリスト教教団を守るための「護教の書」でありました。 


これは、かってユダヤがバビロンに攻められて滅んだ時、それまで信仰していたヤハウェの神は、「国を守れなかった弱い神」として批判されたことがありましたが、これと類似性があります。この時、ヤハウェを弁護したのが、エレミヤ、エゼキエルらの預言者であり、モーセ5書を編集した神学者たちでした。



キリスト教の教会はこの世(地の国)において「神の国」を実現させるために存在するものであり、世俗的な国家のように滅亡することはないこと、キリスト教信者は「教会」という信仰の領域で永遠の安らぎを得られ、それがローマ教皇を頂点とした教会の存在であると教えました。


そうしてキリスト教は、ローマ帝国の国教としての宗教という枠を越え、真の普遍的な世界宗教へと脱皮し、国家権力に依存しない精神世界にその存在の基礎を置いたのでした。この理念の転換が、西ローマ帝国が滅亡したにもかかわらず、その国教であったキリスト教は滅びず、ゲルマン人の諸国家でも生きながらえることのできた最大の理由と考えられています。


アウグスティヌス著『神の国』には、「神の国」と「地の国」という二国観の観念があり、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことであります。「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであり、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎないとします。

ただ、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているといいます。しかし、「地の国」において神の国と信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は世俗国家に優越していると主張します。


即ち、アウグスティヌスの思想は、地の国における「精神的なキリスト教共同体」と「世俗国家」を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となりました。だからこそ基本的に「神の国」とは異質な「地の国」の現実の教会は、それでもなお魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表するのであるとしました。


ここに倫理目標の実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができます。アウグスティヌスは、国家は堕落した人間の支配欲に基づくもので、その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られるとしました。


【自伝 『告白』の世界ーアウグスティヌスと女性】


著書『告白』(Confessiones、397年から400年)は、自叙伝ともいえますが、本当の自分を尋ね求める哲学の書であり、罪人を救われる神の恩寵への讚美を描く神学書であります。即ち、懺悔録というより、讚美録です。「告白」という言葉は、自分の弱さ、すなわち罪の惨めさを告白することと共に、神を讚美し感謝することをも意味します。


その中で赤裸々に女性問題を綴りました。アウグスティヌスは、16才から15年間(370~385年)、ある女性と同棲しています。その女性の身分はコンクビーナ(妾)であったとされていますが、アウグスティヌスは回心にいたるまで15年間、この「不義の女性を囲い」、不義の子アデオダートスをもうけました。当時のローマの法律では身分が違うため合法的な結婚と認められなかったのです。

しかし、アウグスティヌスには本妻がいたわけではないので妾とは言えず、実際は本妻でした。彼自身も、「彼女一人をまもり、彼女に対して閨(ねや)の信実をつくしました」(『告白』第四巻P148)と語っています。


母モニカは、アウグスティヌスの非合法の結婚を認めませんでした。大学教授となるためには社会的に認められない結婚を解消し、合法的な結婚をしなさいという母心であったでしょう。アウグスティヌスも若い頃はそんな母に反発してましたが、いよいよ大学教授への出世が近づくと、彼女と別れ、母の勧める若い女と婚約することになります。「名誉と利得と結婚」への欲求です。一体彼女はどうなったのでしょうか。


 「これまで閨を共にしてきたその女性は、婚姻の妨げとして、私のかたわらから引き離されたので、彼女にしっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられて、だらだらと血を流しました。その時彼女はあなた(神)に向かって、今後他の男を知るまいと誓い、私のかたわらに彼女から生まれた私の息子(12才)を遺して、アフリカに帰っていきました」(「告白」第六巻P312)


その後のこの女性がどうなったかはわかりません。伝説によればアフリカに帰った後、修道院に入り、一生を終えたといわれています。


ところがアウグスティヌスは、婚約した女性が若すぎ、あと二年たたないと一緒になれないからか(結婚年齢13才)、別の女を引き入れています。これはさすがにアウグスティヌスの汚点といわなければならないでしょう。彼自身もさすがに「この女性と別れた後、この世のことは、すべて空しくなってしまった、ただ一つのあやまちは、その空しさを埋めようとする空しい努力であった」 と弁解しています。


この女性と別れた後、虚しさが彼を容赦なく襲います。世俗的な冥利も、引き込んだ第3の女も、彼の虚しさを癒すことは出来ませんでした。アウグスティヌスはこの女性と分かれて、改めてこの女性の価値を知ったというのです。15年連れ添い、生活を共にした女性を犠牲にし、冥利のために女性の愛を捨てた自分を責めたに違いありません。自己の都合で彼女の愛を裏切った行為は、当に「万死の罪」であり、それ故、彼女にした仕打ちについて、ずっと心の痛みとして苦しみ、自らが罪深い人間であることを思い知らされました。ついには宮廷での高い地位を辞し、神の許しと救いを求めてキリストに帰依していきました。アウグスティヌスは彼女との愛と離別を通して、罪の自覚と共に、エロースの愛からアガペーへの愛へ、即ち神の愛に到達して救われたのです。


 「しかしその空しい努力は、いっそうの空しさとなってはねかえってきました。ただ一つ肉の欲だけが、すべてを空しいと感じているアウグスティヌスの肉体のうちに重苦しく沈んでいます。その欲から解放されることは、結局アウグスティヌスにはできませんでした。ただ神の恩寵だけが、彼をこの肉欲の泥沼から救いました。こうしてアウグスティヌスの絶対恩寵主義は、この女性との関わりのうちに根源を持っていると思われます」(山田晶アウグスティヌス講話)


このようにアウグスティヌスは、事実上の妻であるこの女性との関係の中で、自らの罪も愛も清さも知ることになります。そうして原罪(情欲)に直面し、この内なる闇の深淵からの解放は自らの力ではいかんともしがたいこと、従って神の恩寵に身を委ねるしかないという究極の境地に導かれました。以後彼は、『信仰・希望・愛』という本を書き、愛なしには信仰は無益であり、尊いのは愛によって働く信仰であると説き、愛の探求者、体験者、実践者として愛の使徒となったというのです。


以上の通り、アウグスティヌスの信仰と思想を見てまいりました。振り返って強く感じることは、1500年以上前の4世紀~5世紀に、現代にも通じるこれだけの霊性と知性がよくも存在していたのか、という驚きです。科学の進展は比べようもありませんが、人間の霊性は変わらないのだということを認識せざるを得ませんでした。


神の貧者として、遺言も、残すものも何も持たなかった彼が、唯一残したものこそ、ヒッポの図書館にある著作、書簡、説教集でした。このキリスト教最大の神学者は、人生の3つの大きな出会い、即ち、母モニカとの出会い、同棲の女性(妻)との出会い、そして聖書(聖句)との出会いによって導かれ、キリスト教神学の基礎を作りました。そして現代の私たちの信仰にも、大きな霊的インスピレーションを与え続けてくれています。


以上、これで異端をテーマとした項を終わり、次回はキリスト教3大テーマ「殉教、異端、リバイバル」の最後のテーマである「リバイバル」をまとめることにいたします。(了)